エピソード0 ‐いつか誉れと呼ばれる日‐
その日、選ばれた少年少女たちに一通の手紙が届いた。
王国章の蝋印が押された手紙。
その手紙を受け取った少年少女のある者は驚き、ある者は畏れ、ある者は疑い、ある者は眉根を潜めた。
文字が読めない者は近くの識字者に。読める者は即座に内容を読み始める。
一様、全ての者がここで息を呑む。
書かれた内容を平たく述べれば「国民に教育を義務づける法律をちょーっとやってみたいんだけど、ちょっと実験台になってくれね? 一年間だけなら、金の心配はしなくても暮らせるようにするからさ」というもの。
教育と聞いて少年少女たちは首を傾げる。
このような方法は見たことも聞いたこともないからだ。
教育に携わった者、そうでない者も『同じ世代の少年少女を集め、同じ質の教育を受けさせる。それも身分問わず』となれば目を剥いて当然だ。
平民の位にある少年少女は尊い身の貴族と共に席に座るということに畏れた。
身分のある貴族の少年少女は何故、このような真似をするのかと首を傾げた。
しかし、全ての者が最後に記された名の下に納得の色を見せた。
賢王ランスバール。
然と記されたその文字に、これが真実であると共に大真面目な話だと知らしめた。
彼の王の評判を子供心ながら良く聞くせいだ。
彼の統治は斬新で、民をよくまとめ、横暴に罰で答え、深慮には慈悲で応えていたからだ。
わずか四年、しかし、四年の間にランスバールは内紛で傷ついたリスリア王国に救いを与えた。
少年少女の中にはランスバールという王に対して、汲みきれぬほどの感謝を込める者も居るだろう。
多くは彼の統治に救われた者だった。救いきれない地獄から陽の光を仰ぎ見ることができたのだ。
その王が自分たちを必要としている。
何はなしとも馳せ参じる決意をするには充分だった。
一方、元より地獄など知らぬ者は賢王の深慮の向こう側を見ようとした。
ところが相手は賢王。子供に策謀を見抜けるわけもなく、ただ利益だけでモノを見た。
実験だ。何が起こるかわからない。だが提示された報酬は魅力にもほど溢れていた。
満足に字も書けない者は単純な憧れで。
知識の大事を知る者は国が集めた教育者の薫陶を授かるために。
名誉を求める者はこの実験を踏み台にして。
やむにやまれず行かねばならない者もいた。
あるいは策謀に巻きこまれ是非もなく放りこまれた者もいる。
十人十色の動機ではあったが、興味があったのも本当だ。
一番、多感な時期の少年少女が新しい世界を夢見るのも無理はない。
そして、場所も身分も、まるっきり違う少女たちもまた――
「これは好機に恵まれたと言えるわ。これを見なさい。このゴシップ誌に書かれた文字を……、教師に【タクティクス・ブロンド】が居ると書いてあるわ」
「そのようでございますね」
「こんな幸運、聞いたことがないわ。だって、【タクティクス・ブロンド】の誰もが彼らの望んだ才ある者しか弟子を取らないと聞くわ。それなのに無条件に近い形で【タクティクス・ブロンド】の薫陶を授かれるわ!」
「お館様より、この度の王命にはせ参じよとの事。しかし……」
「何を憂うことがありますの。ハイルハイツの人間が王命に逆らうわけがありませんわ。何より、私ならば如何なる試練であろうと乗り越える。それが例え王国最高峰の試練であっても」
「お嬢様の御心が前向きとあれば確かにコレを憂うこともありますまい。すぐに支度致しましょう」
「えぇ、よしなに」
ある少女は興奮を隠せなかった。
術式に携わる者が【タクティクス・ブロンド】と呼ばれる最高峰の術式師が授けるだろう未知の術式に心踊らないわけがない。
何より、少女の経歴に箔がつく。
これは貴族として興奮せずには居られない、誰にもマネできない彼女だけの経歴だ。
自らという杯に全てを満たすだろうこの好機を決して逃すつもりはなかった。
「親父! これってチャンスじゃね? だってここには色んなヤツが来るんだろ? 将来、有望そうなヤツや現役で国を動かしてるヤツ、コネがネギしょってやってきたようなもんじゃん!」
「その答えだと50点もくれてやれねーなぁ、大丈夫か? そんなもんで」
「はぁ? 50点? なんでよ」
「これも良い経験だ。残りの50点、見つけてこいや。まぁ、古い知人の名前もあるそうだからな。運が良ければお前、すごいヤツに教えてもらえるかもよ」
「ん? なんだよ親父。なんか知ってるの?」
大きく、ごつい手に頭を撫でられて憮然とする少女が居た。
商人として五歳のころから修行をして、未だにこの父には勝ったことがない。
だが、いつか商人として父を追い越してみせる。
その夢への階段を昇るには知識は必要だ。コネも必要だ。たくさん、たくさん必要なものがある。
その全てを手に入れられるかもしれない、この大博打。
商人として勝ち取らねば未来永劫、父には勝てないだろうと理解していたのだ。
「行くのですね」
「はひっ……、院長様」
「そうですか。国の命令とあれば仕方ありませんね。ですが今だけは貴方の心の内を聞いてみたいのです」
「心の内……、なのですか?」
「えぇ。不安はありませんか?」
「……外は、こわいです。ずっと皆と一緒に、でも最近、あまりご飯が」
「そうですね。このご時世、御貴族の御布施も少なくなってきました。でも貴方一人分くらいは大丈夫ですよ。倹約の旨は常に課せられる定命にあります」
「でもでも」
「相変わらず心配症ですね。でもその優しさは決して異郷の地でも忘れてはいけません。修道女バレンの名を忘れぬよう謙虚で慎ましやかに。何かあったら神に祈り耐えしのぎなさい。神は常に見ておいでです」
「……はいです、院長様」
老婆に抱かれる少女が涙を流した。
物心つく頃から修道院にいた少女は、ずっと質素倹約を強いられてきた。
もはや当たり前すぎて煌びやかな世界とは無縁。それは絵本の中にしかなかったものだ。
この狭い赤煉瓦の廊下が続く世界から飛び出していくことへの不安は多分にある。
同時にこの世界の外を見てみたいという気持ちもあった。
期待と不安、震える少女は二つの想いに揺れながら異郷を目指す。
「私の処遇は決まりましたか? Msベルベール」
「処遇ではありません。貴方は罪人ではないのですから正しくは身の振り方でしょう。何よりこうして保護の名目で貴方を束縛し続けるには少々、貴方は何も知らなさすぎる」
「ならば貴方が教えてください。私に知識を」
「いいえ。貴方に教えることはできません。私にその資格はない。その飢えを満たすための名案を持ってきたのです。貴方は知識よりもまず知らねばならないことが多い。何より、その空白の多い心では誰も貴方の渇きは癒せない。その癒やしとなるかもしれない場への招待状を預かっております」
「渇き? 飢え? 誰でもいいです。誰か私に知を。叡智をください」
「えぇ、存分に。そして、きっとそれは彼の飢えにも癒やしとなるでしょう」
飢える少女は小さな声で叫んだ。
血を吐くような知への渇きは癒えない。
気づいたときから知の源泉と共に暮らし、人の形をした者はたった二つしか見たことがない少女は新しい知識を求めて新しい場所へと赴こうとしている。
期待よりも激しい飢えという名の知識欲に焼かれながら、少女は足掻きながらの茨道を行く。
その道がどこに続くのか理解しないまま、求めるまま這い進む。
願わくば救いを、飢えを癒す幸いを。
「人の里に赴くことへの忌避はないようだの」
「? まぁ、なるようになるであります。誰かがいかなきゃいけないようでありますし」
「まっこと異端よのぉ、お主。普通のエルフならば人の里など行きたくもないだろうに。なるとすれば見聞を深める冒険者や流れになるというのに。あろうことか人の里で学び、人の里で人を語るか……、あの小賢しい小僧めの口車に乗せられた我らを恨んでも良いぞ?」
「同胞を恨む者はそういないものであります。たとえ長老のうっかりで人身御供にされそうでも問題ないであります」
「……本当に恨んでないかのぉ?」
森の中で呑気な少女は未知の世界へと足を進める。
森では得られなかったもの、森では見られなかったもの、その全てを遊山の一部として受け入れていた。
たとえそれが長老と人の深慮の策謀に巻きこまれようとも生来の気質に変化はない。
どこまでも自然体の少女は彼女の所属する集落の気質をただ純粋に受け継いでいると言えるだろう。
彼女を取り巻く権謀術数があろうとも意に介さず、これから出会う何かに想いを馳せる。
彼女にとって未知は恐怖足り得ない。
やがて彼女たちは出会う。
接点も共通するところもなかった彼女たちが一つに集められ、そして、たった一人に教えを希う。
そして、そのたった一人の男は、ため息で自らの境遇を呪うばかりだ。
この男とも、誰一人接点を持たぬまま、初めての境遇に戸惑い、迷い、それを理性の鎖で押し隠したまま彼女たちの前に立つ。
名簿を机に押しつけ、両手で身体を支え、睥睨するかのように少女たちを観察する。
「一年間、君たちの教師を担当させてもらうヨシュアン・グラムです」
同時に少女たちもまた、自らに教えを注ぐ者を観察する。
一人は失望し。
一人は算段し。
一人は狼狽し。
一人は期待し。
一人は無関心。
これから誰にとっても狂乱の日々となる一年間。
その最初の日。
義務教育推進計画はこれから始まる。




