永遠に枯れぬ涙跡
リィティカ先生の話を聞いてから、自分は大きなため息が出た。
クリスティーナ君の、教師失格云々が弾みから出た言葉だということくらいわかっていた。
どうせその程度の話で、自分の進退に深い意味なんてないと。
正直な話、自分は生徒たちの先生をやるかどうかなんて、どちらでも良かったのだ。
バカ王のいつもの無茶だ。
それに付き合うのはいつものことだが、潮時が来たら終わるだろうことくらいわかっていた。
クリスティーナ君が教師失格とか言い出したら、辞めよう。
それが自分が教師になって、初めて決めた境界線。
そもそも自分が教師に向いているとは思えなかった。今でもそうだ。
だから、まぁ、そんな軽い気持ちだったことは否めません。否定なんかしてやりません。
何より、自分の性能だけを見れば教師をやるよりも、直接、貴族院に赴いてプレッシャーをかけるほうがまだ有効的なのだ。
教師をやってて、敵の動きを待つのは性に合わない。
本職に戻ったほうが色々と効率的じゃぁ、ありませんか。
「それで、どうするのだ? ヨシュアン」
リィティカ先生の話を同じように聞いていたシャルティア先生は、何やら楽しそうに聞いてくる。
「どうするも何も」
答え自体は決まっている。
「辞めるに決まってるじゃないですか」
「そんなのダメですよぅ!」
リィティカ先生が豊満な胸を押し出すように乗り出してくる。
手を伸ばせば掴めそうです。何がって胸以外の何があるというのです。
「ヨシュアン先生もわかったでしょぅ! あの子たちは『先生が好き』なんですぅ」
まさか、まさかまさかである。
割と容赦なく殴っていて、生徒たちの性能も考えず自分のやり方だけを押しつける教師なんて嫌われていて当然でしょう。好きってどんだけMなのかと。
教師なんて所詮、汚れなんですよ、汚れ。
汚れ仕事の誰が感謝してくれるものかと。
生徒のために頭を下げるなんて、よくある話ですよ。
それがイヤならどこぞに行ってしまえばいい。
「それなのにぃ、辞めちゃうんですかぁ? そんなに簡単なものなんですかぁ!」
「う~ん、どうしましょうか? 約束は守らなくてはならない。人として当然です。しかし、そう簡単に辞めれるようなものでもない。なら、いっそクラスを変えるとかどうです?」
「それは不許可だ」
シャルティア先生が眉根を寄せて、ハッキリと口にした。
「自分の生徒を他人にくれてやるつもりはない。たとえ相手が同僚であろうともだ。私への信仰は私のものだ。リィティカはどうだ」
「わ、私も、そういうのはぁ……、よくないと思います!」
そう簡単に許可なんてもらえるもんじゃないとわかっていましたよ。
「なら、ドアの後ろに居る人たちもそうなるでしょうね」
ドアの向こうにも聞こえるように声を出す。
一瞬、気配が揺れたのはアレフレットだろう。もう一人、変化こそないが巧妙な気配隠しをしている人がいる。おそらくヘグマントだろう。
気配を完全に隠しているので全然、わかりませんがきっとピットラット先生も居るだろう。これは推測です。
ドアを開けたのはヘグマントだった。
後ろにはアレフレット、やっぱりピットラット先生もいた。
「うむ。俺の鍛えた生徒を他人に扱わせるのは癪だ。仕上がった後ならば言うことはあるまいがな」
「失礼しますよ。お加減は……、よろしいようですな。さて、先の話の答えはもう言うまでもないでしょう。人とはそう簡単に変えれるものではありませんよ。性格も立場も」
ぞろぞろと入ってくる教師陣。
気を利かせた保健医さんが入れ替わりで居なくなる。
「まったく! お前は常識外れにも程があるぞ! 王が決めた選定に逆らってあまつさえ多くの歴々がお決めになった人員を変えようなどと不敬だぞ!」
「医務室では静粛に」
アレフレットが叫び始めたので、ボディに一発入れて黙らせてあげる。
左腕で良かったな。右腕だったら死んでいましたよ。自分が。
「まぁ、そうでしょうね。そうなるでしょうね。学園長にも似たようなことを言われましたしね。いや、本当、あの子たちは自分をどこまで追い詰めたら気が済むというのか、まったく考えてないんでしょうね。仕方ないですよね。本当にヤレヤレです。あわよくば自宅に戻って研究三昧に戻ろうと思っていたのに台無しですよ。斜め上に行き過ぎでしょう」
自分はズタボロのローブを強引に掴んで、ドアまで歩いていく。
良い生徒とは決して言えない子供たちだった。
良い先生っぷりだったとは口が裂けても言いたくない。
いくらバカ王のバカが原因だったとしても廻り合せというのがあって、ものの見事に自分は面倒なクジを引いただけ。
「どこへ……、行くんですかぁ?」
リィティカ先生の声に止まりたくなる。
あ、止まっちゃった。えーっと、なんかいいセリフはないものか……。
「デリカシーを拾ってきます」
盛大にすべりました。
「えー、実は内密にデリカシーが拾える場所があると今、思い出しましたのですぐにでも取りに行きたいなー、なんて」
「ほー、まぁ、行ってくるといいさ。なぁヘグマント」
「うむ。内緒の話ではあるが……、デリカシーは教室で拾えるそうだぞ?」
やれやれ。お節介にも程がありすぎるでしょう、貴方たちは。
「では、行ってきます」
脱力やら肩をすくめる教師陣を背中に、医務室を抜けて、散歩がてら学び舎を歩く。
いやぁ、本当はわかってるんですけどね。
いまさら、神様の無能っぷりを責めたところで仕方ないって。
出会ってしまった事実は変えられない。
過去はどうあがいたってどうにもならないし、過去が変えられないなら未来だって変えられない。
自分が教師になって、生徒たちと出会った事実は変えられないのなら、いずれ別れの時期が来るのも変えられない。
早いか遅いかの違いしかなくて、現在、今、この瞬間しか変えられない。
しかし、一人しかいない今をどうやって変えていけるというのか?
最初っから手詰まりで寸詰まりでどん詰りで行き詰まりだった。
こうなると誰の定めたものなのか、そんなものは自分にはわからないだろうさ。
信じるなら自らの意思で、願わくば……。
「変わらない未来に幸いを、と」
考えている間に教室にたどり着いてしまった。
ヨシュアンクラスと刻まれたクラスプレート。ここが自分の教室だといつもと変わらず示してくれている。
すでに下校時刻は終わっている。
教室の中には誰もいないはずだ。
リィティカ先生と自分が医務室に行ってしまったので、ヘグマントかシャルティア先生あたりが生徒たちに下校を促しているはずだ。
なのに教室の中には未熟な気配が五つ。
気配を感じるまでもなく、ごそごそ、がさがさと音が漏れ出ている。
さて、生徒たちはどう出迎えてくれるのやら。
間違っても着替え中とかいう変なオチはなしですよ?
自分は教師辞めても未練はありませんが、変態と呼ばれるのだけは勘弁です。
こうしてドアの前で躊躇していると初日のことを思い出す。
黒板消し落としが仕掛けられていないか、ドアの上あたりを見て確認したものです。
教師なんて出来るものかと半信半疑だったあの日。
今もその気持ちはまったく変わっていない。
今回の件だって、やっぱりな、という気持ちが強い。
これが別れの挨拶になるのかと思うと、色々と……、
「はーなーしなーさーい! 下賎の民のくせに私に何を!?」
「うるさーい! セロ! 絶対、足を離すなよ!」
「は、はひっ」
「そこはかとない……、えろすを感じるであります」
「気のせい」
「くっ! 貴方たちね! きゃっ!? リリーナさん! どこ触ってらしてるの!?」
「暴れんな! セロ蹴飛ばしたら殴るかんな!」
色々と感慨に浸ることもできないのか。
生贄の儀式とかしそうなので慌ててドアを開けました。
「何をしてるのです?」
教室の真ん中で、クリスティーナ君の手足に絡みつく四人の生徒の姿がありました。
右腕にマッフル君、綺麗な関節技を極めています。
左腕にエリエス君、束縛系の術式を使ってまで拘束しています。
右足にはセロ君、目をぎゅーっと閉じて指を真っ白にしながらクリスティーナ君にしがみついている。
左足のリリーナ君に関しては……、おいこら。絡みつきながらふとももを愛おしげに指で摩るな。無意味に艶かしいんだよ。
そして四人に拘束されているクリスティーナ君は涙目で。
そりゃ涙目にもなりますよ。
ドアの開いた音と共に一斉に、こちらを凝視する生徒たち。
自分もなんと言っていいものかと生徒たちを見つめていました。
あぁ、なるほど。
ここでデリカシーが試されるのか。
なんと言えばいいのか……、そう。
「新手の儀式か何かですか?」
自分の一声に場の空気が寒く、白けていくのがわかります。
唯一、拘束術式を使っていたエリエス君だけが自由だったせいか、代表者のようにトコトコと歩いてきて自分のお腹を精一杯、押してきます。
抵抗するつもりがなかったので、そのまま押されるままにしているとドアの向こう側、廊下で突き放されました。
「リテイクを要求します」
と言って、無慈悲にドアを閉められてしまいました。
うん。どういう結果になったらあんな状態になれるのか。
我が生徒ながら謎です。
心は深く、意味なく落ちこんでいきます。
そして大暴れするような音が教室の中からし始める。
それも徐々に聞こえなくなってくる。
その間、自分は人生とは何かについて、廊下の天井を仰ぎながら考えていました。
それからたっぷり十秒、数えて「入りますよ」と言うと肯定するような沈黙が返ってきました。
再び、ドアを開ける。
そこに居たのはクリスティーナ君、ただ一人。
その顔は憮然とした表情を貼りつけ、ピンと尖った風にそっぽをむいてしまっている。
あぁ、なるほど。他の生徒たちは用具入れの中ですね。気配もダダ漏れですし、四人を無理矢理詰めこんだせいかガタガタ揺れてます。
なんだ、この三文芝居は。
頭がキリキリと痛み出すのを自覚する。これってバカ王家以外にも出るんだなぁ。
「せ、先生! な、何の用ですの!?」
この場に及んで、何の用も何も。
棒読みでものすごーく芝居っけがあって、オーバーリアクションなのはどう突っ込んだらいいものか。
何? この小芝居に付き合わなきゃいけないの?
「えぇ? それは何かのツッコミ待ちですか?」
「私た……、私は何もしてませんわ! あれはあの子たちが」
むしろこっちが問いたい。君たちは何をしているのか。
突然、用具入れがガンッと内側から殴ったような音がする。
とたんにクリスティーナ君がビクリと肩を震わせて、用具入れを見る。
「え……、ち、違いますわ。せんせいをおまちしていましたのー」
二度、咳払いし、必死で言い繕った言葉がソレですか。
まぁ、大体、予想はつきます。
あのあと、話し合いでもしたのでしょう。クリスティーナ君がしぶしぶ折れるという形になったのではないでしょうか。
そして、土壇場で騒ぎ出して、それを取り押さえているところに自分が来た、と。
我が生徒ながら、涙が出るほどバカです。
あのね、人生、そうそう上手くいくものではありませんよ。
ましてや自分相手に拙い策で教師失格の件を有耶無耶には出来ない。
何故なら、それは。
「あまり使いたくない術式ですが……、仕方ないですね」
自分のコメカミを二回、指先で叩いて、ため息一つ。
構成するのは白、黒の源素で作られた陣。
「ルガ・モルク」
瞬間、自分とクリスティーナ君をグルリと回る術式陣。
それらが黒い光を天井に向けて放った瞬間、周囲の音が消え去る。
こんな事態になるとは思っていなかったクリスティーナ君は驚き、周囲をキョロキョロと見回している。
「安心してもいいですよ。この術式は任意の空間の音や干渉を妨げるものです。わかりやすくいえば……」
ドカン、と音がして用具箱から四人が雪崩てくる。
「ちょ!? なんだこれ!」
「……こんな術式、知らない」
「きゅ~……」
一人、無言で立ち上がったリリーナ君が術式陣に近づくと、コンコン、とノックしはじめる。
まるでそこに見えない壁でもあるかのように。
「真っ暗であります。たぶん、この中に先生とクリクリが居るでありますな」
「だー! もう! あの先生、本当に思ったとおり動いてくんないじゃん!」
「音と物理の干渉を妨げて……、術式の密室を作る? するとこれが『黒色の術式』? そんなものまで使えるのですか?」
頬を紅潮させながら、陣の周囲を触ったり叩いたり、術式を放ってみたりしているエリエス君。
セロ君はというと、皆の下敷きになってしまったせいか目を回している。
そんなセロ君を介抱しているのはマッフル君。でもそのマッフル君も術陣から目を離せないようだ。
「これは……」
クリスティーナ君が『この術式はなんなのか?』と目で訴えてくる。
「まぁ、見たまんま、感じたまんまですよ。こちらの音は全然、向こう側に届きませんし、あっちの声はダダ漏れです。こちら側から見ればあの子たちの様子はわかりますが、あの子たちから見れば、真っ黒な壁が教室に出来たように見えるでしょうね」
黒の術式。
黒色の源素を使う術式は、極めて複雑で扱いがたい。
ましてや使用者が限られているとなれば、黒の術式が術式の中でも特異中の特異だと言うことがわかる。
もちろん、今はそんなことを講義するつもりはありませんが。
「さて、ここなら本当のことを喋ってもいい。誰かに見栄を張る必要もありませんし、恥ずかしがることもありません」
「それ、は……」
戸惑うクリスティーナ君。
「わかったであります! この中でエロいことが始まってるでありますね!」
叫ぶリリーナ君。この野郎!
お前が余計なことを言うからクリスティーナ君が胸元を抑えて、自分から逃げるような体勢を取ったじゃないですか。
余計に心を閉ざさせてどうする!
「まさか……」
「しません。ありえません」
ジリ、と足を引いて逃げないの。
とはいえ、こうしていても時間の無駄だと悟ったのか、クリスティーナ君は構えを解く。
しかし、これだけでは不十分だ。
まだ、この子は素直になるだけの理由がなく、素直になれない理由が消えただけ。
向かい合う、大人と少女。
どちらが手を差しのべるべきか歴然だ。
それが、その関係が教師と生徒ならなおのこと。
「初日のことを覚えていますか? クリスティーナ君は『タクティクス・ブロンド』からしか薫陶を授かりたくない、と。自分を高みに導く者でなければ授業を受けたくない、と」
「そ、それは……」
ゆっくり頷く。
変えられない過去だ。クリスティーナ君も認めるしかない。
「自分はこう言いました。『人が学ぶ姿勢に間違いはない』と。だから君がもし、自分を教師失格だと思ったのなら教師替えを提案すると」
もっとも、ここで『提案しましたー、でも無理でした』で終わらせることは容易い。
信頼性を生贄に無理矢理、授業を続けることだってできるのです。
「そして、君は『教師失格だ』と言った。約束通りです。ちゃんと学園長には話を通してきました」
その途端、クリスティーナ君が崩れ落ちた。
呆然としているような、取り返しのつかないことをしてしまったような、そんな空虚な顔。
この子のメンタルは急場で使い物にならなくなりますね。
本当、メンタルトレーニングが必要かもしれないなぁ……、なんて。
まだ、どうにかなったわけでもないのに先のことを考えてしまう。
つくづく、職業病だこれ。たった一ヶ月なのになぁ。
そんなクリスティーナ君に視線を合わせるために、しゃがみこむ。
「自分はそれでもいいと思ったのです。あまり教師らしい人間でもないですしね。戦争とかやったこともありますし、人を殺したことだって数え切れないほどあります。女の子の気持ちもわからない独り身でもありますしね。教師失格、まさに教師になるような人間でもなかった。まぁ、でも」
思い出してしまった。
「そんな自分でもね。この一ヶ月で君たちは色々と学んでいきました。わかりますか? クリスティーナ君。君は暦学が苦手だったけれど、なんとかボーダーラインを突破しました。頑張りましたね。術式ができなかった、フロウ・プリムさえ真面に出来なかったマッフル君が今じゃエス・プリムまで使えるようになりました。セロ君は運動神経が壊滅的でも前を向いて一生懸命、動いてきましたし、エリエス君も初めに比べて表情が豊かになりましたね。まるでお人形のようだったのが今じゃ感情を伝えるようにもなりました。リリーナ君の逃げ癖は相変わらずですが、教養の授業なんかも逃げるだけじゃなくって自分なりの納得をみつけようとし始めました。それは君たちの頑張りです。きっと他の誰かでも君たちのその才能を引き出してあげたでしょう。自分よりも優秀な先生はいますから。でも、あえて言いましょう」
この一ヶ月、自分の生活の大半はこの子達のためにあったことを。
この子たちのためだけに学園長に合同制を認めさせ、制服を作り、寝る間を惜しんで、騎士団長とも興行して、メルサラを撃破した。
「自分が先生で、君たちが生徒だから君たちはそこまでたどりつけて、これからも歩き続けることができると」
貴族院のこともあった。敵を見つけて邪魔をさせないという話が。
しかし、そんなものよりもこの子たちの一挙一動のためだけに全ての無茶を通してきてしまった。
「一ヶ月でコレですよ? なら一年後はどうなってるか考えるだけでも楽しいのです。明日のことはいつだって君たちで一杯ですし、悩み事のほとんどは君たちです。学べる機会があれば君たちのために騎士団長すら打ち倒しますし、【タクティクス・ブロンド】が敵でも自分は倒して見せましょう。実際、倒してやりました。すごいでしょう?」
自分は思ったより、この子たちに知識を注ぎ、手間をかけ、情を与えてきてしまったのだ。
「これが自分の偽らざる今です。クリスティーナ・アンデル・ハイルハイツ」
それは決壊の合図だったのかもしれない。
この子は元々、壁があった。
自分への誇り、血統への自信、自分は貴族でクラスメイトは平民。
それでもこの子なりに壁をどうにかしようともがいてきた。
何かにつけて『王族』であることを強調した。
それは誰かに否定して欲しかったからだ。
何かにつけて『正しい』と思い続けた。
そうしないと壁に圧殺されて凝り固まってしまうから。
その壁はずっとノックされてきたドアだ。
ならば、今はそう、その瞳から流れようとするものはきっと。
「教師替えなんてまっぴらゴメンです」
壁のヒビから漏れ出した、本音という涙だ。
涙をポロポロと零すのを救ってはやらない。
それはこの子の、自分自身の手で掬えばいい。
自分はクリスティーナ君の頭を優しく撫でてやるだけだ。
「しかっ! しかだあ、りばぜん……、わねっ」
嗚咽のまま、喋り続けている。
喉が引きつってうまく喋れないのをゆっくり聞き取ってあげる。
「ぞこ……、そこまで、言われっ、たら、わた、わた……」
そこからはもう音にはならなかった。
子供のように、子供らしく泣く。
ただ一言、「私もイヤだ」、そう言いたいがためだけに泣いた。
「自分もイヤですよ」
ポンポンと撫でてやる頭の温度は暖かくて、小さくて。
か細い手で自分の袖を強く握り締めたまま。
壁の中の涙が全部、流れ出してしまうまで。
湿り気のある熱を手のひらで感じ続けていた。
信じるなら自らの意思で、願わくば我が生徒もまた同じであれかし。




