誰もしらないことをしってる
幕を開けば、それは劇の始まりです。
「孤独は静寂の森――虫の声もなければ風もなく、葉叢の音すら聞こえない。ならばもう静かな闇と変わりない。月に照らされた梢の、なんと禍々しいことか。天上の大陸を掴まんとするその腕は僕と同じだ。求めれど手に入らないあの空の大地への道のりは闇を通り、石の都を通り超えても、それでも空に有り続ける。どうして至ればよいのか。マグルたちも知らないというのなら誰が知っているというのだ」
森に迷いこんだスィ・ムーランは独白しながら森を進みます。
薄暗く、寒気すら催す森をあちこち歩き回ったスィ・ムーランはやがて、肩を落として空を仰ぎました。
そこには天上大陸が見え、しかし、すぐに梢に遮られ見えなくなりました。
やがて、ヒソヒソとした声が聞こえてくるとスィ・ムーランは耳を澄ませました。
「あぁ――あの子はずっと森にいるなぁ、いつもこの先の切り株の上で座って空を見上げておる。一人で寂しくないんじゃろうか」
「あのこはずっと森にいるのです。話す相手が花ばかりでさみしい子なのです」
「あの子はなんでも知っているのに、誰も話をしたがらんのじゃ」
「だって、あのこはみみの長い、ふしぎなこ。誰もしらないことをしってる、のです」
茂みから隠しきれない頭と尻尾はネズミ――【囁くラタトスク】です。
ヒソヒソとしているわりにスっと耳に通ってくる声にスィ・ムーランは気づかないまま、ちょっとずつ、ちょっとずつ、二人に近寄っていきます。
「きっとあのこは、空の大地への道だってしってるのです」
「そうに違いないのじゃ。あやつは――あの子は物知りの耳長じゃからの!」
「あっ。誰かいるのですっ」
「逃げろ、逃げるのじゃ! 噂話を聞かれてはならん! 風の噂からヒュティパが怒りにやってくるのじゃ! こわい、こわいのじゃー」
スィ・ムーランの気配に気づき、二人は茂みからドタドタと飛び出して逃げていきました。
「なんでも知ってる、か。ちょうど手詰まりだったんだ。行ってみようか」
きっとスィ・ムーランも期待なんてしていなかったのでしょう。
それでも物は試しと森を進んだスィ・ムーランは森の広場で切り株に座る少女と出会います。
イルミンシアはちょうど梢がない、よく天上大陸の見える空を見上げ、何の表情も浮かべていませんでした。
しかし、スィ・ムーランのことに気づいて、慌てて逃げ始めました。
「待ってくれないか! 僕はスィ・ムーラン。あの空の大地を目指して旅をしている者だ。君はあの空への道を知らないか?」
必死に追いすがろうとするスィ・ムーランの指先を遮るように『何かの吠え声』が鳴り響きました。
まるで雷鳴のような音を聞いたイルミンシアは青ざめ、スィ・ムーランは何事かとキョロキョロとし始めました。
「【無色の獣】が起き始めたであります! 頭を低くして、おしゃべりを止めるように息を殺して。どんな冷たい死の風も呼吸を止めた者の生命までは取らないであります」
言われたスィ・ムーランは何度か右往左往した後、しゃがみ、口を両手で塞ぎました。
イルミンシアも同じように座り、口を閉じています。
その背後を巨大な何かの影が横切ります。
何かがいなくなるとすぐにイルミンシアは森の出口を指さしました。
「いきなさい、旅人さん。ここは死の獣が住む森であります」
「なら君もいこう。危ない場所ならなおさらだ」
これにイルミンシアは首を振りました。
「私はここから出られないのであります。何故なら、私がこの場を去ると【無色の獣】が解き放たれてしまうからであります」
「どうしても無理なのかい?」
これにも首を振るイルミンシアにスィ・ムーランは肩を落としました。
「外にはたくさんのものがあったよ。大きな岩の顔が喋り、獣の姿をしたマグルたちが住む黄金の館。真珠が砂のようにひしめく砂浜に鳥たちが住む大木、様々な彩に溢れている。本当にダメなのかい?」
「貴方は今、淋しいから私と一緒に出ようとしているだけであります。誰とも出会わないなら一人はきっと寂しくないであります」
「それは寂しさに目を背けているだけじゃないのか。君はこんな森の中で一人、淋しいと思わないのか」
やはり言うとおりにしてくれないイルミンシアにスィ・ムーランは大げさに肩を落としました。
「樹精が帰り道を示してくれるであります。だから、振り向かずに森から出るであります。死は振り向く者へ早くやってきます」
後ろ髪を引かれるように、ジリジリと後ろに下がっていくスィ・ムーランはやがて、後ろを向いて走っていきました。
イルミンシアはその後ろ姿に手を伸ばしそうになり、ゆるゆると引っ込めました。
そして、再び切り株に座ると空を見上げ始めました。
二人の出会いはここから始まったようです。
一幕が閉じ、そして、次は森の外でした。
妖精に扮したエリエス君とセロ君の導きで外を出たスィ・ムーランは、森から遠ざかろうとして振り返りました。
「ねぇ、どうして彼女はあんなに一人にこだわるんだい?」
妖精たちは顔を見合わせ、くるくるとスィ・ムーランの周りを回ると、パッと離れました。
「あの子が一人でいるのは【無色の獣】がいるから」
「でも、あのこだって一人じゃないのです。私たちもいるのです」
「そっか……」
なんとか諦めようとしているスィ・ムーランの姿に妖精たちは再び、顔を見合わせました。
「神々ならどうにかしてくれるかもしれない」
「テノート様が近くにいるのです。テノート様に会いに行けば何かわかるかもしれないのです。ここから太陽の登る方角へと歩き続ければテノート様のお気に入りの七色の花が咲く花畑があるのです」
「そうだね、行ってみるよ。もしかしたらテノートが空の大地のことを知ってるかもしれないし」
こうしてスィ・ムーランはもう一度、旅に出ます。
幕が閉じ、もう一度開けば、そこは無限に続くかのように広がる七色の花畑。
煌花は風に揺れ、香花は渦巻き、鼻腔から直接、脳へとくすぐられるような匂いを嗅ぎ分けて歩くと、クルクルと踊る女の子がいます。
花のような鮮やかなドレスを纏い、優雅に踊るテノートを見たスィ・ムーランはその美しさに佇みました。
「花々が噂している旅人は貴様のことじゃな。天を見て、あの大地を目指す愚か者。何も知らぬ愚か者じゃ。じゃが、その蒙昧こそが愛おしい――」
「何かを知るために歩くことは愚かではありません」
「草花は無知であるから根を張るのじゃ。無知であるから美しく、無知であっても美しい。じゃが草花は全てを知っておる。無知であって無知ではないのじゃ」
「なら、あの空の大地にはどうやっていくのか教えてくれないか?」
「妾たちは大地に根を張るのが喜びなのじゃ。空の大地に根を張る必要はないのじゃ」
クルクルと回るテノートに困惑の色を隠せないスィ・ムーランでした。
「しかし、あの森の少女を助ける方法を妾は知っておるぞ? そのために二つの捧げ物が必要じゃ」
テノートの返答に困惑しっぱなしだったスィ・ムーランは目を輝かせました。
「本当ですか? そのための捧げ物とは一体……」
「一つは遥か北でふんぞり返っておる威張りん坊の女王から『氷のヤドリギ』をもらってきておくれ」
彼女が指差す方向は遥か北。
人も住めない氷に閉ざされた大地のことでした。
「もしも、その氷のヤドリギさえもらってきたら次の捧げ物を教えてやるのじゃ」
本当かどうかわからなくともスィ・ムーランには判断できませんでした。
彼にできることは旅をすることだけ。
テノートが見つめる中、スィ・ムーランは北に向かって歩き続けました。
そして一幕が閉じ、次は輝く氷の世界です。
スィ・ムーランは吹雪に翻弄されながら、何度も戻されては進むを繰り返していました。
「これだと先に進めない! 僕の旅もこれで終わってしまうのだろうか」
身にまとったマグルの毛皮のローブでも吹雪の寒さを防げず、徐々に死の影がちらついてきます。
黒いローブを着た影がいくつもスィ・ムーランにまとわりついては離れていきます。
「死の影が前から僕を殺しにやって来る! 死には誰も逆らえないなら僕はもう進めない――死の影? そうだ」
この時、イルミンシアの言葉を思い出したスィ・ムーランは頭を低くして氷原を越えていきました。
死の影は頭を低くしてやり過ごす、ということを教えたのはイルミンシアです。
また決して振り向くこともしませんでした。
彼の首にかじりつこうとする黒い影たちは苛立たしげに彼の周囲を浮かびながら、しかし、去っていきました。
「……あれが氷の城」
吹雪の晴れた隙間から【氷の城】が姿を現し、ついスィ・ムーランは顔をあげました。
死の影はやっと顔をあげたスィ・ムーランに近寄ろうとしましたが、【氷の城】には近寄れないのか、やはり遠くから苛立たしげ身を震わせていました。
吹雪のない道のりは軽く、雪をかき分けるように先に進みました。
また幕が閉じ、そして上がれば、そこは煌びやかな謁見室でした。
全てが水晶色に透き通った不思議な謁見室。
そこは肩を怒らせ、威厳たっぷりにイスにもたれる女王パルミアがいました。
「お前の事はよく知っていますわ。奔放なる風のヒュティパがお前のことを囁いておったわ。聞きもしないことをペラペラと語るあやつは知というものを言の葉にして垂れ流すことだと勘違いしていますわ。知とは黙してあるものだと知らないのですわね。知っているからといって恵まれてはいないのですからお笑いですわ。そういえば近頃、奇っ怪な獣が妾の領域を侵そうとしていますの。おそらく我が不肖の弟パルクトーのヤツのせいに違いありませんわ」
雪と氷の女王パルミアはスィ・ムーランに語らせる暇すらなく、ぺチャぺチャと喋り続けていました。
別にスィ・ムーランに喋らせたくないわけではなく、悪気もないのでしょう。
しばらくは黙って聞いていたスィ・ムーランでしたが、しかし、だんだんとパルミアの言葉数が減ってきました。
おしゃべりを止めるには沈黙が一番だとスィ・ムーランは知っていたのでしょう。
「して、お前は一体、何の用でここに参った。その力なき身でありながら妾の氷原を抜けてきたことは褒めるに値するが、何が欲しい? 力か? それともこの城の幽美な調度品か? 妾に仕えるにしてもお前のような貧弱では【氷の城】の氷樹も剪定できまい」
「僕の望みは一つです。【氷のヤドリギ】をいただきに参りました」
「【氷のヤドリギ】を! そのような貧弱な身体で! よろしい! 氷樹に巻きついているのを取ってくるがいい!」
パルミアから許しを得たスィ・ムーランは氷の兵士に連れられ、氷樹の元までやってきました。
氷樹に巻きついている【氷のヤドリギ】に手を伸ばすと、瞬く間に手袋が凍ってしまいました。
「氷樹の力を吸い上げる【氷のヤドリギ】。その冷気はあらゆる生物を凍らせてしまうのだ。その硬さは石よりも硬い。見よ、この先端を」
ふんぞり返る氷の兵士の手に槍が握られていました。
「落ちた【氷のヤドリギ】の先端で作られた槍は容易く岩を貫いてしまう。お前に石を砕くものがあろうか?」
氷の兵士はスィ・ムーランが【氷のヤドリギ】を持って帰れないと知っていて、わざと意地悪なことを言っているのでしょう。
しかし、スィ・ムーランの杖は石を削る杖。
杖の先端で【氷のヤドリギ】を叩くとポロポロと氷樹からこぼれ落ちてきました。
「なんてことだ!? 【氷のヤドリギ】を砕くほどの力を持つ者だったのか!」
大慌てで氷の兵士は城内に戻っていきました。
【氷のヤドリギ】をマグルの毛皮でできた革袋に入れて、スィ・ムーランは【氷の城】の後にしました。
兵士たちがこぞってスィ・ムーランを捕まえようとした時にはもうスィ・ムーランの姿はなく、兵士たちは高慢な女王のお叱りに怯えて、足から頭の先まで身体を震わせました。
次の幕はテノートの七色花畑です。
帰ってきたスィ・ムーランにテノートは眉をあげて両手を広げました。
「あぁ! 本当に帰ってくるなんて信じられん! 意地悪なことを言ったのじゃ、許しておくれ! どうせ諦めるとわかっていて言ったのに、汝は妾の想像を越えて苦難を乗り越えてきたのじゃ!」
「死ぬとわかって条件を出したって言うんですか」
「諦めるじゃろう。そして、諦めを誰が責められるじゃろうか。だが、その全て、もう良い。汝も覚悟あっての旅路じゃったろう。そのことを誰に責任があろうか、己以外にの」
釈然としないスィ・ムーランでしたが約束通り、【氷のヤドリギ】の入った革袋を手渡すとテノートは大事そうに革袋を抱きしめました。
「そんなものを何に使うんです? 氷の兵士たちのように武器でも作るつもりですか」
「いいえ。そんな野蛮なものは作らん。この【氷のヤドリギ】の力で寒さに強い花を作るのじゃ。寒くなれば萎れるのは必定であろうとも、雪の中で咲く花があっても誰が責めよう」
テノートの目的を聞いて、スィ・ムーランは頷きました。
そうした花があってもいい、そう思ったのでしょう。
「最後の条件をお聞きしても」
「ふん、ふん。良いぞ、良いぞ。約束を守った汝じゃからこそ美しい」
嬉しそうにクルクルと回るテノートはスィ・ムーランに急接近すると口付けるように言いました。
「最後の条件は妾を愛することじゃ」