てめぇにくれてやるには惜しすぎる
瞬間、世界は動きを止めました。
その中で当たり前のように動くのは自分だけでした。
距離感は狂い、遠近感は失い、動体視力などというものはもはや使い物にならなくなります。
自分の体から発する光の波が物質に当たり、帰ってくることでようやく周囲を『遅れて理解する』、そんなわずかの時間で自分は半歩先を進んでいます。
稲妻の速度で【無色の獣】の首筋に【愚剣】を叩きつけました。
その威力は『斬る』という行為が炸裂に変わるほどです。
しかし、今はまだ、その結末は訪れていません。
炸裂するよりも速く動いているからです。
地面に着地し、もう一度、飛び跳ね、同じ箇所を切り裂きました。
中空を足場に三度目の斬撃を行った時にヤツが自分を見ていることに気付きました。
同じ速度で動けたのか――その思考が頭をよぎります。
前足で殴られ、地面に叩きつけられました。
運が良かったのはヘイエルド・ウォルルムの効果中に殴られたことでしょう。
生身で受けていれば即死でした。
「――ッ!」
這うように立ち上がり、もう一度、食らいつくために四肢に力を込めると突然、世界が動き始めました。
効果時間が切れたのでしょう。
思考が巡った時にはもう遅すぎました。
腹の底から灼熱の塊が溢れ、口から滝のような血を吐き出しました。
全身に激痛が走り、四肢で体を支えきれず、顔面から地面に落ちました。
「――あ、ぐぁ」
呻きが漏れ、意識がチカチカとしているのは間違いなくヘイエルド・ウォルルムの代償です。
なんとか立ち上がろうとする度に手足が滑り、無様に見上げた空に黒いものが見えました。
それが【無色の獣】の『だらりと垂れ下がった首』だと気づいて、怖気が走りました。
首の中程からざっくりとえぐれた跡を確認できても、まったく眼窩の憎悪は衰えていません。
むしろ、もっと激しく燃え盛っています。
【無色の獣】にとってあの程度の傷は無意味なのでしょう。
すでに悪寒すらも感じない自分ですが、火がついたような危機感だけは『早くしろ』と動くことを急かしていました。
のしかかるように落とされる前足。
辛うじて体を動かすことで避けれ――たのでしょうか?
まるで大地が爆発したように跳ね上がり、自分はなすがまま宙に浮かび、何かの壁にぶつかったと思ったらソレは地面でした。
ほとんどの感覚が麻痺しているので痛みはありませんでした。
そんなことよりもまだ生きているというのなら立って戦わなければなりません。
膝が震え、立つことを拒否しようが問題ありません。
自分の意思を【虚空衣】が受け取って、立ち上がれるように神経と肉体を動かしてくれます。
奇跡的にまだ掴んでいた【愚剣】を杖のようにして立ち、ようやく気付きました。
線を引く赤い糸。
それは自分の左肩口から流れていました。
左腕がありませんでした。
利き腕でなくて良かった。
【虚空衣】が肉の断面から飛び出し、肩の付け根を圧迫する光景をそこそこに見て、ブレる視界越しに【無色の獣】を睨みつけました。
「―――ッ」
一歩、動け。
あとは惰性で走り出す。
リソース不足の人格は憎悪が補う。
気を抜けば足から崩れそうな一歩は呆けなく成功した。
支えきれない体重を前に倒すことでようやく走る肉体。
いくつもの岩盤が空から落ちてくるのを無視して、ただあの首を引きちぎることだけ考える。
その無様を許すような敵ではないのだろう。
首が安定していないのかグラグラと動く二つの顎がゆっくり開き、喉奥に陽炎のような破壊球が見える。
やがてピタリと自分に向けられる【無色の獣】の顔。
どうせ避けるほどの力はない。
考えるのは一つ。『確実にアレを殺す』ためにもっと速く走れ。
しかし、どう足掻いても自分の体はこれ以上、速く走れない。
先に破壊球が放たれるだろう。
あぁ、無念だ。
何が無念か――この化物を殺せないのが一番、悔しくてたまらない。
生徒たちを邪魔しようとする有象無象。
『そいつらの目的かもしれない』この化物を地獄に叩き落とせない。
そう考える自分の耳元に何かが囁きかける。
『――おくれ』と。
『――おまえにのこる憎悪をおくれ』と何かがまとわりつく。
透明の巨大な手。
自分はそれをどこかで見たことがあるような気がした。
汚泥をねりつけるように蠢き、関節などないかのように不可思議な動きをする繊毛のような手。
「それでアレを殺せるのなら」
言葉など出なかった。
ただそう願うだけでおそらく『この虚空のような巨人』は力を与えてくれる。
その力はおそらく人知を越えた、悪夢のようなものなのだろう。
それでも良かった。
それでこの『忌々しい獣』を殺せるのなら悪魔との契約であろうとも喜んでやってやる。
「この心など――」
いざ、そう願おうとした瞬間、脇腹が痛みました。
その痛みだけは麻痺した神経など関係なく、疼痛のように頭に響き、色々なことを思い出させてくれました。
そういえばアルファスリン君に怒られながら噛まれましたね。
彼女の言うマッフル君の演技を自分はまだ見ていませんでした。
あのクリスティーナ君が遠まわしとはいえマッフル君を褒めていたのは珍しい光景でした。
アレはクリスティーナ君の照れ隠しだったのでしょう。
エリエス君の脚本は何度も確認しました。
せめて進行状況を知っておかないとまたブーブーと文句を言われますからね。
もっともエリエス君は瞳でモノを語りますが。
セロ君はレギィから教えてもらった術を劇に使おうと考えているようです。
これも見てませんでした。
ときどき演劇で術式が使われることを知っていましたが生徒がやると思うと感慨深いものがありますね。
そして、リリーナ君です。
彼女には正式な大道具係に任命した責任があります。
終わってないようだったら、ちゃんと帰って手伝わなければなりません。
「――てめぇにくれてやるには惜しすぎる」
憎悪ならともかく『コレ』まで持っていくつもりでしょう。
そう願うと何者かは惜しそうに手を引いていきました。
とたん、つんのめりました?
まずい、ここでこけるともう立ちあがる自信がありません。
本当に余裕がないのでしょう。
何か妙な幻のようなものを見たような気がしますが、血を失いすぎたせいかもしれません。
今まさに放たれようとする破壊球。
その顎が開かれようとしたその瞬間、虹色の刃が地面から飛び出しました。
【無色の獣】の顎から脳へと貫く、その虹色に見覚えがあります。
ぐったりと横たわっていたはずのモフモフが上体を起こして、荒い息をついていました。
首筋を血で真っ赤に染めて、虹色だった毛並みがパサパサになるくらい消耗していながらも攻撃に力を回したのでしょう。
最高ですよモフモフ。
【無色の獣】の動きが止まったのを好機と見て、体をぶつける勢いで首筋に【愚剣】を振るいました。
ありったけの源素を流しこみ、分子分解機能を起動させます。
ブチブチと鳴る音を片腕に受けて、振り切りました。
【愚剣】の重さに耐えかねて無様に転げてしまいましたが手応えはありました。
虹の刃が霧散すると同時に【無色の獣】の首がゴトリと地面に落ちました。
そして、その巨体もまた地響きを立てて地面へと倒れました。
無数の鎖がジャラジャラと音を鳴らし、終わったことを告げていました。
勝利の実感はありません。
むしろ、いますぐ手当をしないとこのまま自分とモフモフが死にます。
というかモフモフが死んだら自分は一体、どうやって帰ればいいかわかりません。
謎の世界で帰り道を探す旅なんてぞっともしませんよ。
モフモフに近づくためにゆっくり歩いていきました。
もう走る余力もありません。正直、歩けているのが不思議なくらいです。
「モフモフ……、生きていますか?」
『――同胞よ!』
モフモフの叫びで振り返ると【無色の獣】の首が小刻みに揺れながら飛びかかってきました。
とっさに【愚剣】を振るおうとしましたが、全ては遅かったようです。
ぶちり、という音と共に右腕も持っていかれました。
「―――ッ!?」
衝撃によろめき、また地面に倒れてしまいました。
大地に流れる血の量はそんなに多くありませんでした。
むしろまだ残っていたのかと関心するほどです。
【虚空衣】の止血も気休めにしかなりません。
俯せのまま顔だけを動かすと、モフモフが前足で【無色の獣】の頭を抑えこんでいました。
『おとなしく森に還れ! その姿のまま生きて何になるというのだ!』
モフモフが何かを言っているようですが、その内容を吟味している余裕はありません。
モフモフは抑えるのに精一杯のようです。
そして、【無色の獣】はまだ自分たちを殺す力を持っているようです。
もしもアレにトドメを刺せるというのなら、それは自分しかいません。
しかし、両腕を失った自分に何ができるというのですか。
【愚剣】もどこかに……、いや、あるじゃないですか。目の前に。
右腕と一緒に宙を舞っていたのでしょうか。
【愚剣】は自分の目の前に突き刺さっていました。
今になってようやく、この人狼の姿に感謝できそうです。
何せ、狼の口ならば人間よりも顎骨が長いですからね。
持ち手に噛みつき【無色の獣】の眼窩に【愚剣】をめりこませました。
もう、これ以上の力は出ません。
何かがブツリと切れた感触と共に地面に沈みこみました。
内源素もカラ、周辺源素もカラ、【愚剣】のタンクも使ってしまったためか鳴動が鳴り止みません。
それは向こうも同じなのか【愚剣】を突き刺した時から動きを止めました。
『あぁ――ようやく開放される』
低くしわがれた声。
それが【無色の獣】のものだと理解するのに時間がかかりました。
単にもう時間感覚もなくなっているのでしょう。
グズグズと溶けて地面に染みていくヤツの姿。
反対の方でも同じような音がするので体も崩れていっているのでしょう。
次に倒れたのはモフモフでした。
やはり、モフモフも最後の力を使っていたのでしょう。
ドサリと巨体が倒れる音だけが聞こえました。
仰向けで見た空は暗い――のではなく、自分が目を閉じていただけなのでしょう。
さすがに限界です。
思えば最上の死に方だったのかもしれません。
最悪の死に方をするものだと思っていた自分が、生徒たちの未来に【無色の獣】という遺恨を残さずに済みました。
これで向こうにいってもフィヨに怒られることもないでしょう。
あ、いや、怒られますね。
生徒との約束を果たせないでいるのですから。
会えるかどうかはわかりませんが、それでも胸を張れるような気がします。
だんだんと意識が、なくなっていきました。
とても静かな世界に何かの気配がします。
たくさんの数の何かがひっきりなしに自分を見つめては去っていきます。
アレは今まで死んでいった人たちの魂なのでしょうか?
懐かしいですね。
いつも腹ペコで死ぬまで空腹の心配をしていたメルエル。
鍛冶師の息子の癖に才能がなくて武器磨きばかりしていたドルフ。
人のことばかりからかっては怒られていたヴィリー……、あぁ、ヴィリーは死んでませんでした。
きっと、その疑問に解答はいらないのでしょう。
最後に現れたのは白い少女でした。
どこかで見たことがあったような、耳の長い少女。
その少女の顔はわかりません。
『――……』
何かを呟き、彼女はずっと傍にいました。
ポケットに入っている何かの暖かさを感じながら、自分は意識を閉じました。




