湖際で捕まって
リーングラード学園、術式担当教師ヨシュアン・グラムは非常に神妙な顔をしていた。
黒に近い栗毛色の髪、メガネの奥には黒曜石にも似た黒の瞳、術式師の証でもあるローブは手に持ったままなのもいつも通りだ。
身長こそリスリア人女性と見間違うほどの低身長だが、炎天下でも汗をかかず、佇む姿に油断がない。
腕を組み警戒する様はまるでこの場に重鎮がいて、その警備を担当している警備主任のごとく神経を尖らせているようだった。
周囲に人影はない。
学園から北の位置に少し行っただけの場所だ。
錬成に必要な素材として『水の蜂巣』と少量の薬草が採れる程度で、生徒会の用事などなければ、ここに人が居ることすら珍しい話だった。
足元にはカーペットのように花畑が広がり、森の中とは思えないくらい広場のように開かれている。
ここに至るまでの道のりも広く、夏の日差しもあって明るい場所だ。
特に目を引くのは太陽の光を反射して、キラキラと光る湖だろう。
涼しげに揺らめいている湖は体感温度を下げるのに十分な光景だ。大きさも遊ぶには十分だ。
むしろこんな場所で眉根を寄せているヨシュアンこそが異様にしか見えない。
「セロさん。エリエスさんの着替えを手伝ってあげなさい」
「はい、なのです」
「セロをこきつかうなよな、やりたきゃ自分でやればいいじゃん」
「それを言うならエリエスさんに言いなさいな。まったく……、いきなり『眼』の術式を刻んでもらって目が見えないだなんて信じられませんわ」
「……問題ない」
「大アリですわ。何から何まで人に手を引いてもらわなければなりませんのよ」
「クリクリは心配してるけれど素直に言い出せないツンツンツンデレであります。本当はエリリンとセロりんが水着を買えないんじゃないかって心配して、こっそり二人の水着を物色してたであります」
「んな――! いつから見て……」
「キャラバンの時にこっそり後ろから見てたであります」
「声をかけなさいな! そういうときは! 大体、そんなわけありませんわ! ちょっと小さいなと思っていただけですわ!」
「ツンツン、ツンデレ、ツンツン、デレデレであります」
「そのツンデレという謎の言葉をおやめなさい! なんの呪いですの!」
「先生が言ってたじゃん。クリスティーナはツンデレの素質があるって」
「また先生ですの! 訳のわからないことはいつも先生ですわ!」
しかし、人影はなくとも声は聞こえる。
人影を隠すために木々に白く大きなリンネルを貼り付けて、簡易着替え室を作ったのはヨシュアン自身だ。
むしろ声が聞こえるせいで逆にヨシュアンは神経を尖らせるハメに陥っている。
「全員着替え終わったか。もちろん私は終わっているぞ。見ろ、このあふれる大人の色気……、しなやかな肢体」
「おぉ~、であります」
「ぁぅ……、おとななのです」
「……シャルティア先生さ、何食べたらそんなになるわけ?」
「もちろん、よく食べ、よく動き、よく呑んで、よく寝るだ。特に胸は支えるのに筋肉がいるぞ? 寝る前にちゃんと胸辺りの筋肉を鍛えるといい。こう……、こうだな反復運動だ」
「ヘグマント先生もしてそうだよね、それ」
「アレは反復運動ならなんでもいい男だ。私の場合はこの体型を維持するためにちゃんと努力をしている。自惚れはどんな美女すらも豚のように堕落させる。レギンヒルト試練官みたいな天然素材は稀だと思え」
「レギンヒルト試練官は反則だと思う。だって、何、あの細さ。でも触るとぐにっと柔らかいしさ……なんでセロが照れてるわけ?」
女性陣全員が着替えをしているということは無防備である、ということだ。
覗きをするような人間に心当たりはいないが、誰かがひょんなことで迷い込み、偶然の形でリンネル製の布を外さないとも限らない。
そうなると何故かヨシュアンも同罪になる。何故そうなるかはわからないが、とにかく経験がそう言っている。
何よりも警戒せねばならない理由はここに男子生徒がいないという理由だ。
ヨシュアンは呼んでもいいとは言っておいたのだが、生徒たちが嫌がったためにヨシュアンは現在、一人で針のむしろを味わっている。
呼んでくれたほうがまだ監視が楽だったとは言わない。
事実であったとしても、警備の都合で生徒たちに無理を強いるのは本末転倒だ。
人によればそれを幸福と呼ぶかもしれないが、彼はそうしたものに幸せを感じにくい性格でもあった。
「どうしたものか……」
ついに独り言がこぼれてしまう。
実は着替えが始まってからずいぶん時間が経つ。
帰る時間は昼を越えるので、昼食の準備は必要だった。
バーベキューの準備だけしようと着手し始めたのが着替えとほぼ同時。
しかし、バーベキューの準備が終わっても中々出てこないため、ヨシュアンは一人、意味なく周囲を警戒するしかなくなってしまったのだ。
『警戒するほど害意はない』
脳内に響く中性的な声色が聞こえ、ヨシュアンはため息をつく。
木陰にいたのは犬に見間違うくらい穏やかな瞳をした狼だった。
純白の、もさもさとした長い獣毛を纏わせ、子供一人くらいなら優に背中に乗せられる体躯の狼は腹ばいの姿勢のまま、短く舌を出して浅い呼吸を繰り返していた。
見るからに暑そうな姿だが今までに一度も暑さを訴えたことがない不思議な狼モフモフ。
そもそも喋る時点で普通の狼とは違う。
原生生物の中でも神話や伝説にしか登場しないような強力な個体、【神話級】原生生物なのだ。
「害意とは最初から持ってやってくるものではありませんよ。種みたいに突然、発芽するもんです。後か先かは鶏にでも聞いてください」
『そうだとしても警戒するほどの存在は近くにない』
「モフモフが言い切るのでしたら、まぁそうなんでしょう。しかし、こっちも仕事……、いえ、保護者なのでね。警戒してませんでしたでは言い訳が立たないわけです」
『……そうか』
モフモフは頭を前足に預け、言葉を切る。
人間の価値観から来る行動を理解しきれていないが、心配の裏返しという面から考えると過剰ではあるがモフモフにも理解できた。
ならばもう言うことは一つだけだ。
『ご飯はいつ始まる?』
「生徒がお腹をすかせ始めたらですかね」
『……そうか』
モフモフはそれきり先とは違う意味で言葉を切った。
しばらくはおあずけだと理解したのだった。
こうして一人と一匹を待たせたまま、リンネルのカーテンがゆらゆらと動き始める。
「せぇの!」
そして、サッと布が外された。
頭の痛い思いでヨシュアンが現れた女性陣を見やる。
端から順にクリスティーナ。
薄い透かしフリルをふんだんに取りこんだ薄青のワンピース水着は、健康的な肢体には少し子供っぽく見えるが、胸部は膨らみを主張していた。
まだ子供らしい手足の細さ、大人へと変わろうとしている『熟していない様』が逆に、見る者にこれからを想像させるだろう。
次にマッフル。
大きく肩を出したキャミソール型に短パンという動きやすい格好は、飛んだり跳ねたりするマッフルの趣味をよく表していると言えるだろう。
クリスティーナの健康美とはまた違う、ガゼルを思わせるスラリとした体躯。
胸部こそ足りてない感があるものの、それがより『素早くしなる鞭』のような印象を見る者に与えるだろう。
その隣がセロ。
簡素な水浴び用のワンピースは本来、清めに使われるものなのだろう。
色付きとは違い、細かい生地に『真っ白な無垢模様』はセロの清純性が垣間見えるようだ。
あからさまに膨らみのない胸、まだまだ未発達な身体で子供そのものではあるが、しばらくすればそれも食環境のおかげで変わっていくだろう。
薄すぎる生地とは逆に、そうして隠すべきところは運動用下着で覆って対策している。
足首、手首、首という首が触れたら手折れてしまいそうな、繊細な清冽さがあった。
並ぶようにエリエス。
エリエスの水着は少し変わったもので、首元から胸下を覆うホルダーネック、へその下からスカートズボンという構成をした女性用の運動下着そのものに近い。
滅多にしない活動的な姿は『人形然としながらも鼓動』を感じられる。
片目を隠していた髪は今や綺麗に切り揃えられ、代わりに包帯が巻きついている。
体躯はセロに近しいものの、胸部のうっすらとした膨らみが見て取れるくらいは年上をアピールしていた。
そして、リリーナ。
リリーナは逆に運動下着の上に布を巻きつけるといったパレオの形を選んだようだ。
生徒たちの中でも一番、女性らしい滑らかな凹凸、白磁の器のような肌感。いつもと違う部分は髪を束ねてアップにしていることだろうか。
滅多に見ないうなじから背中にかけて流れるラインがもう大人の色香を匂わせようとしている。
うっすらと帯びた汗が『水が滴る美しさと雪原に咲く芽の愛らしさ』を思わせる。
「どう?」
マッフルが一言、ヨシュアンに感想を求めていた。
もちろん、滅多に見せることのない彼女たちの水際の姿についてだろう。
「そうですね。総合して言うのなら……」
それぞれがそれぞれ、女の子をしていると言ってもいい。
個性的でも女の特徴が見て取れる。一名、除いてだが。
「とりあえずポージングを止めましょう」
そんな艶やかなで賑やかな彼女たちは、登場と同時にポージングしていた。
絵にでも残したいのか、と身体で表現しているポーズにヨシュアンは引きつった顔しか浮かべられない。
「先生ってさ、どーしてそういうしょうもないこと言うかな? 普通、褒めるところでしょ」
「皆、普段と違う姿で先生、湖の妖精にでも出くわしたかと思いましたよ。愛らしいですね」
「心がこもってないですわね。何より最初に言うべきだと思いますわ」
不満だったのはマッフルだけではなくクリスティーナもだったようで、引き継ぐようにダメ出しをし始める。
「まぁ、主役の私が居てしまったら、まだまだ未熟なお前たちでは引き立て役にしかならんさ」
ポージングの影から満を持してとゆっくり姿を現したのはシャルティアだった。
女性の隠すべき部分を濃く覆い、それ以外の場所は薄く、レースのように網目を張った黒のビキニドレス。
それがシャルティアの身体を立体的に見せ、胸部ははちきれるんがばかりに主張する。
乳白色の素肌に髪が一つ、ハラリと落ちるとそれだけで色の匂いが醸し出し、肩甲骨から流れる腎部までのラインは男なら、すぅーっと指で触りたくなるほどの蠱惑的な曲線の美を見せつける。
くねらせた肉体はおおよそ、見る者により美しく魅せるための要素が張り巡らされ、指先一つにしても柔らかな力が抱き止めるかのように漲っていた。
艶。
子供とは違う、女性そのものがそこにあった。
「――さしずめ私は湖の女神か? ん?」
挑戦的な目つきは男性の劣情を催すには十分の威力だった。
が、相手は精神抑制技術に長けた【戦略級】術式師。
劣情すらも封じ込め、源素を制御するための力に変えられてしまっている。
「じゃし……、女神がこんな炎天下に遊びに来たのかと思いましたよ。夜ふかしではなく早起きでもしたんですか?」
しかし、ここで野暮を言うほど空気が読めない男でもなかった。
「いまいちだな。あと今、邪神と言いかけなかったか?」
「気のせいです。そのビキニドレス、本当によくお似合いです。シャルティア先生くらいでないと着こなせないと思います。あぁ、そういえばエリエス君に渡したいものがあったんですよ」
「……まぁ、いい。及第点にしておいてやる」
仕方ないという表情を隠さないシャルティアの許しを得て、エリエスに近づくヨシュアン。
エリエスの眼に包帯が巻かれている理由。
それは冒険者と戦って勝利した『お願い』。
術式師なら必ず欲しがる、源素を視る『眼』のせいだった。
源理世界を観測するためには眼球にある種の波形を打ち込まなければならない。
眼のレンズから水晶体にかけて、認識できないほど細く浅い溝を波形で刻みこむのだ。
その溝に源素を満たすことで『眼』の術式が完成する。
こうした作業のせいで一時的に視力が落ちる、失明するなどの危険性こそあるがエリエスに『眼』を刻んだのはヨシュアンと同じ【タクティクス・ブロンド】にして、もっとも技術力の高いレギンヒルトだった。
包帯に隠れた眼に視線を合わせながら、ヨシュアンは先日のことを思い出す。
「それでは始めます」
医務室。
本来なら静謐な儀式として教会の儀式場で行われる『眼』の授与式。
しかし、学園は周囲の政的影響を排除するために僻地に作られた手前もあって、宗教色すら排除されている。
個人の宗旨までは問われないが、学園に教会に関わる施設はない。
少し前までプルミエールというレギンヒルトの侍女が居たが、今は【貴賓館】に移されたので医務室はいつも通り、女医という名の暴君が怪我人を受け入れている。
今回は何かあった時のためにあえて医務室を選んでいた。
「力を抜いて。圧迫感や痛みを覚えるかもしれませんが決して怯えないでください」
「その発言を聞いて怖がらない子がいると思うんですか?」
腰まで伸びた白金の髪を揺らし、レギンヒルトが困ったように微笑む。
レギンヒルト。
義務教育計画の第一試練官としてリーングラードに訪れた『リスリアの美』とも称される女性。
貴婦人然とした佇まいに緩やかで繊細な所作、整った美貌のせいか実年齢よりも若く、瑞々しささえも感じる。
新雪よりも白く美しい肌質、細くも女性らしさを感じさせる体型は手折られる華の美しさがあった。
「心構えがないと怖いですから」
「……まぁ、自分は儀式関連はどうにも苦手なので、レギィに任せるべきなんでしょうが」
そこでイスに座っていたエリエスがヨシュアンに顔を向けた。
「先生の術式を消す術式は……、儀式ではないのですか?」
ヨシュアンは内心、しまったと思いながらも顔に出さずにいた。
通常、レギンヒルトの使う白属性の術式にしても、干渉に関する術式はある要素がなければ成り立たない。
一つは白の源素。
自然界では滅多に現れない白の源素は【屋外儀式場】のような源素を排出する機関がなければ使えない。
例外は白色結晶による白の源素の持ち込みだろう。
さらには白以外の源素。
白の術式には様々な源素を必要とする。
術式にもよるが最低二種類、一番簡単な物理結界ですら緑と白の源素を使う。
純正の、白の源素単体で行使される術式がないのだ。
そうした手前、複数人でやるのが前提。
物理結界だけならともかく三色以上を使うとなれば、激しい感情を抱く赤の源素や心を揺らす黄の源素は白の源素との行使は非常に相性が悪い。
レギンヒルトやヨシュアンは当たり前のように一人で白の術式を使うが、むしろそちらが異常なのだ。
エリエスはヨシュアンが術式師として優れているから、白の術式にしか使えない干渉が行えると思っていた。
【屋外儀式場】が近くにあるのも理由だが、そうした要素も込みで評価している。
術式を消す術式を儀式の術式であると思い込んでいた。
しかし、実際は違う。
ヨシュアンの術式消去は術式ですらない。
卓越した源素操作力によって無理矢理、相手の構成を壊すハッキングという技術だ。
源素すら必要としない。相手が源素を使えばそのまま、問答無用に奪うことができる。
「そうですね。秘中の秘なので喋りたくないのですが、いつかエリエス君がその実力まで到達したのなら教えるとしましょう」
「……わかりました」
本当は詳しく聞きたいのだが、エリエスは口を閉ざす。
元々、術式師の術式は秘されているのが当たり前だ。
どんな式も答えがわかれば簡単なように、術式において構成を読まれることは効率的な防御手段を相手に教えてしまうことだ。
同時に術式師が『眼』を欲しがる理由もそこにある。
構成を視覚で理解できれば、いち早く対抗手段を取れるのだ。
術式による物理法則の現出、そこから防御結界を使うなどの遅い防御手段、勘頼りの防御手段に頼らなくていい。
確実な防御が可能なら、生存率は一気に跳ねあがる。
極めて原始的で、しかし確実な手段として『眼』があるのだ。
ともあれ、儀式でもないのに干渉できる術式に興味が沸いたものの秘中の秘と言われたら黙るしかない。
ましてやエリエスの技術がまだ低いせいだと言われたら、何の反論もできない。
「いつかエリエスさんが『眼』を使いこなすようになれば、ヨシュアンも教えてくれるでしょう」
「はい」
丸く収まったのでホッとするヨシュアンだったが、実際、そこまでの技術をエリエスが得たら本当に教えるのかどうかヨシュアン自身も迷っていた。
元は敵の術式師を殺すための技術だ。
そのつもりで理屈を作り出し、実際、かなりの成果をあげてきた技術。
ハッキング一つで術式師の天敵になりえるのだ。
そんなものをエリエスに教えて大丈夫なのか。
まだ人として未熟なエリエスがちゃんと成長したとしても……、と考え、ヨシュアンは諦める。
術式具を教える時も同じことを考えたせいだ。
エリエスの成長した姿を見てからでも遅くはない。
そう自分に言い聞かせた。
「では、レギィ。始めてください」
「わかりました。エリエスさん。準備はいいですか?」
こくん、と小さく頷くエリエスを見てレギンヒルトは、ゆっくりとエリエスのまぶたに手を触れる。
波形によりエリエスの顔が険しくなる。
ヨシュアンも覚えがある。
『眼』を刻まれる時、目玉が灼熱したように痛むのだ。
ヨシュアンの『眼』の施術を行ったのはヨシュアンの師匠なので、わざと痛くした可能性あるが、レギンヒルトならそう痛まないはずだと予想している。
実際、予想は正しい。
正当な『眼』の施術式はヨシュアンの時ほど痛まない。
せいぜい眼を撫でられるように染みる程度だ。
だが、問題はここからでもある。
実際に眼球を傷つけるというのもあるがそれ以上の問題はここからだ。
「はい、終わりました」
波形による施術はあっさり成功する。
しかし、エリエスは閉じていた眼を開いて、すぐに手で目を押さえて蹲ってしまった。
「エリエス君。落ち着いて」
本当ならエリエスの頭や背中を撫でて安心させてやりたいところだが、エリエスは接触を嫌う。
少しだけ肩に触れるくらいがヨシュアンにできる精一杯の慰めだった。
「眼が……、眩しいです」
目の異常を訴えるエリエスにヨシュアンはなるべく落ち着いた声色を意識する。
「今まで見えなかった源素が視えるようになったせいで、頭がびっくりしているのです。しばらく……」
ここでレギンヒルトを見ると指を三本立てる。
「三日ほどですね。現理世界を見ようとしたら眩しく感じ、源理世界を見ようとしたら頭痛に悩まされるでしょう。それが収まったら日に数分、朝夕と目と『眼』を切り替える訓練をしましょう。馴染むのは十日くらいになりますね。ちょうど長期休暇全部を使ってしまいますが」
「問題ありません」
それでもエリエスも少し辛いのか蚊がなくような声だった。
少しずつ『眼』の違和感に慣れ始めたエリエスを見て、レギンヒルトはポンと手をたたく。
「髪の毛を切りましょう」
「何をいきなり……」
「その片目を隠した髪型だと目が悪くなります。何より『眼』の使用時に髪が『眼』を覆うと髪の中の源素を近くで視ることになります。慣れたあとならともかく、今は悪影響でしょう」
「そうですね。確かに言われてみれば。それに前髪は伸ばしているよりも揃えているほうが可愛いと思いますよ。どうでしょう? エリエス君。レギィの提案を受けてみますか?」
珍しくエリエスは即答しなかった。
ヨシュアンにはその様子が逡巡し、悩みすらしているように見える。
「思い入れがあるのでしたら、カチューシャかリボンでも用意します」
「わかりました。切ってください」
こうしてエリエスは『眼』を得たと同時に前髪を切ったのだった。
誰が切るかで少しばかり言い合いがあったが、結局、手馴れているリィティカが切ることになったのは余談だろう。
ヨシュアンもリィティカならと安心して任せた経緯があった。
とはいえ昨日の話だ。
まだ『眼』を刻んで一日も経っていない。
そんな状態で遊んでもエリエスは面白くないだろう。
「エリエス君。包帯を取りますよ?」
なすがままにされているエリエスの顔から包帯が落ちていく。
そして不意に耳に添えられる違和感に、エリエスが手を伸ばすと堅く細いものに触れる。
「もう目を開けてもいいですよ」
目を開くと一枚、ガラス越しを隔てた風景が広がる。
視界の隅に映る黒琥珀にぼやけたフレーム。
それがメガネだと気づき、エリエスは再度、メガネに触れた。
「……メガネですか?」
「えぇ。先生が使っているものと同じ術式具です。『眼』の活性化を鎮静するものです。これをかけている間だけは目を開いていても大丈夫ですよ。そのうち、メガネを外すことになるでしょうが」
「ありがとうございます」
エリエスの顔を隠してしまわないようにアンダーリム系のフレームを意識して作ったもので、ほとんどの部品がヨシュアンのメガネの予備部品からできている。
そのせいで予備部品がなくなってしまったことはことさら言う必要もないだろう。
後でこっそりとベルベールに予備部品を送ってもらおうと考えていたくらいだ。
「さて。準備運動が終わったら自由に遊んでいいですよ。泳ぐなりなんなりしてくださいね」
「はぁい」
まばらな返事と共に準備運動し始める生徒たち。
前もって準備運動しておかないとオシオキすると伝えていたせいか誰もいきなり湖に飛び込んだりする者はいなかった。
一方、シャルティアはいつの間にか木製の折りたたみサンラウンジャーを広げ、胸部を誇張するように寝転がっていた。
木陰にサンラウンジャー、そしてモフモフ。
高級遊泳場のマダムのごとき貫禄に、ヨシュアンはひっそりとジト汗を流すのだった。
「昼食は肉ばかりでなく野菜も多く焼いておけよ」
「お酒は控えてくださいね。一応、こうして居る以上、シャルティア先生も保護者なんですから」
「嗜む程度にしておくさ。大体、私の仕事はそう多くない。アレらが湖で溺れようとも先にお前が助けにいくだろう? 私がすべきはこうして日差しを遮りながら湖で涼を取る程度さ」
事実なので何も言えないヨシュアンだった。
やがてドポン、ドポンと生徒たちが湖に飛びこむ音がする。
「飛びこむな」と注意しようと息を吸った瞬間、
「止めておけ。アレで生徒たちも心得ている」
「言っても無駄ですか」
「むしろ見えない位置でやられるよりマシだ」
これまた納得な意見に肩を落とし、そのままバーべキューの木炭に火を入れる。
「それじゃ、泳がないんですか?」
「適当にな。それに見ろ。生徒たちが遊んでいる中、大人が入ったところで――」
言われ、湖を見ると生徒たちの楽しそうな姿を見やる。
クリスティーナとマッフルが対岸までガチ競争を繰り広げ、メガネを気にしているのか泳ぐ気がないのか足を水に入れたまま動かないエリエス。
泳いだことがないセロのために泳ぎ方を教えているリリーナ。
同時に対岸についたクリスティーナとマッフルがまた取って返し、セロの手を引いていたリリーナと衝突、大きな水しぶきがあがり、エリエスが頭から被ってしまう。
無表情だったエリエスだが、ふと気づいたようにメガネを取り、すぐにかけ直す。
一瞬、ピクリと肩を震わせていたようだがヨシュアンからではその表情までは見えなかった。
ただ位置的にエリエスの表情を見ていた四人は全員、「あっ!」という驚きを顔に張りつけていた。
ゆっくり立ち上がるエリエスの手からバチバチと活性化した黄の源素が火花をあげる。
術式の気配を感じたクリスティーナとマッフル、リリーナがエリエスを取り押さえ、なんとか事なきを得たようだ。
「大惨事ですね」
「――お前のクラスは本当にどうなっている」
「とりあえず注意します。エリエス君! 錬成の授業でも習ったでしょうが水場で黄の源素! 黄の術式を使わない! あとメガネがないと見えないんですから暴れないの!」
注意されてようやく抵抗を止めるエリエス。
エリエスが暴れた原因はメガネに水がかかったことなのだが、ヨシュアンの位置からでは様子がわからなかったため、どこか見当はずれでありながら、正しい言葉でもあった。
ヨシュアンは生徒たちの様子を適度に観察しながら網目の上に手を翳す。
チリチリと手のひらに伝わる熱で火が整ったとわかると、次は下ごしらえに入る。
といっても既に朝のうちに野菜や肉類は切り終わって、後は焼くだけだ。
しかし、これだけでは足りない。
肉と野菜、主食のパンがあってもあまりにレパートリーが少なすぎる。
例え肉類は朝のうちに臭みをとるためにぬるま湯で一度、通し、塩やハーブ、ニンニクなどを馴染ませていたとしてもだ。
手元には一応、調味料も用意してある。
現地調達するとしたら何が良いのか。
考え、ふと湖を見る。
「あぁ、あるじゃないですか。シャルティア先生、ちょっとだけ火を見てもらっていいですか?」
手をひらひらさせているシャルティアを確認して、早速、ヨシュアンは湖に足を運ぶ。
湖の大きさは全力ダッシュして、おおよそ15~16、あるいは17秒くらいだ。横幅のほうが長く、長方形をしている。
一番、深いところでもリリーナがプカプカと浮かべるあたり、そこまで深くない。
底もお椀のような形だろうと推測をつける。
水は悪くない。が若干、綺麗すぎるのが気にかかった。
おそらくどこかに湧水、地下水がそのまま細い管のように通っていて、そこから流れているのだろう。
よく見れば、水を排出するように横手の川へと流れている。
そのせいで澱まずに綺麗な水質を保てているのだろう。
小魚くらいなら居ると見ていい。
もしかしたら底の岩陰には少し大きめのものが居てもおかしくない。
「小麦をまぶしてバターで焼くのが一番ですね。大きいものならそのまま焼いてもいい。少し迷いますね」
この時点で調理方法を考えている辺、『魚が捕れない』という選択肢はない。
セロが角の生えたサワガニに葉っぱを差し出して、おっかなびっくりな様子で異種間コミュニケーションを取っているのを横目に見ながら、足を一歩、湖に放り出す。
そのまま二歩、三歩と動かすたびに不思議な光景へと変わっていく。
「うわぁ……」
マッフルがリリーナと水の掛け合いをしている途中で、その光景に手を止めてしまう。
「先生さ、なんで水の上を歩けるわけ? アメンボの親戚?」
本来なら沈むはずの足は水の頼りない境界に支えられていたのだ。
「血が繋がっているように見えます? ちなみに先生は子供の頃、アメンボを水の入った小瓶に入れて油や洗剤を垂らす遊びをしていました」
「どうなんの?」
「沈むんですよ」
「先生はその頃からドSだったわけ……」
ジト眼するマッフルだった。
「ちなみにこれは表面張力ではなく、足底の水を固めているだけです。源素操作の応用ですね」
青の源素を湖から組み上げ、術式を構成する段階、陣を張る段階で留めると陣の固定効果に水も引っ張られて固形化するのだ。
「足の近くを触ってみるといいですよ」
言われたとおりにマッフルが訝しげに触ると、見た目は同じ水なのに明らかに硬い部分があることに気づく。
驚きながらもゴンゴンと叩きはじめる。
「他にも空気を足場にする方法や黒の源素による力場作りなど、応用すれば空中戦もできますよ。これらは源素操作ではなく立派な術式ですがね」
「結構、色々できるんだ? 空中戦ね……、途方もないなぁ」
「その分、対応する陣や術韻を覚えないといけないので集中力が試されますね。さて、魚を獲るので一度、湖から出てください」
水に浮かびながら魚を獲るという言葉にマッフルも好奇心を動かされたようで、すんなりリリーナを連れて湖を出る。
クリスティーナにも指で合図すると眉をひそめながら従う。
「なんですの?」
「先生がなんかやるんだってさ」
それだけで伝わるほど、お互い罵り合ってきている。
それは相手の意図を十分、理解しているという意味にもなる。
他にも自らの先生が何をするのか、底のない興味があるのだろう。
足を湖に入れていたエリエスまでも川辺のセロを連れて、湖の端に集まりだした。
生徒たちが安全圏に入ったと同時にヨシュアンも行動を始める。
ヨシュアンは青の源素を湖の底まで張り巡らせたと同時に、【獣のガントレット】を発動させる。
複数の強化術式によって赤く脈動する獣の腕は、侵食するように背を伝って腰まで及んでいる。
強化された腕で湖を殴りつけた。
瓦割りの要領でなされる最大の一撃は青の源素を粉々に砕きながら湖に振動を撒き散らした。
しかし、自らの足場を壊すのと同じことだ。すぐにでもヨシュアンは湖に落ちてしまうだろう。
その前に叩きつけた腕の反動を利用して、そのまま空中に飛び上がり、空気を固めて足場にしてしまう。
衝撃で湖全体が波立つほどの威力は、生徒たちの誰もまだ再現できないだろう。
ちいさな驚きの声をあげ、吐息を漏らす。
一連の動作もまた術式師とは思えないほどの洗練さがある。
あるのだが、魚を捕まえるためだけに行われる高度な技術にシャルティアが内心、ため息をついていたのを知る者はモフモフだけだった。
ガチンコ漁と呼ばれる魚の獲り方だ。
本来は川幅のない場所で行うものだ。
最初に川で暴れ、魚を岩の下に逃がし、その岩に石をぶつけることで衝撃を与え、魚を気絶させる方法だ。
子供でも簡単にできるせいで子供たちも同じことをしたことがあるのではないだろうか。
「ちなみにコレは真似をしないように。魚がいなくなりますからね?」
「いやいや、先生だけだから。そんなの」
マッフルの言うとおり、ヨシュアンのように湖単位でやるものではない。
ましてや魚がいそうな場所まで源素の網を張って、効率的に衝撃を分散させるなどやれはしない。
「昔、飢えた子供たちのためにやったことがあるんですが次の日には魚がいなくなって困りましたよ。あの時、『もう一回、魚獲ってくれないかなぁ……』という子供たちの視線は先生、苦い思い出です」
在りし日を思い出して、遠い目をするヨシュアンの足元でプカプカと魚たちが浮かび始めた。
「苦い思い出なら今やらなくていいじゃん!」
「まぁ、何らかの旅先で食糧に困った時、こうした方法もあるということです。緊急的な方法の一つとして理解してください」
パクパクと口を開いて何かを言いかけるマッフルの肩にクリスティーナが手を置いて、ゆっくり首を振る。
「……ん?」
再び湖に着地し、魚をどうやって集めようかと思案した時のことだ。
ヨシュアンは煙る水底に動く気配を感じ取る。
魚がいなくなったせいで余計に際立つ奇妙な気配。
氷の銛を作り出し、気配に向けて射出すると射抜く手応えを感じる。
そのまま銛を引き上げ、その先にいた生物は……、
「……は? タコ?」
ちょうど拳くらいの頭部に細長い足のタコが銛で貫かれ、苦しそうに触手を蠢かせていた。
海にしかいないものが湖にいたのでヨシュアンも驚きを隠せない。
「うわぁ、先生はトイフェルを捕まえた!?」
「え~んがちょ、であります。え~んがちょ」
途端、身構え始めるクリスティーナとマッフル、そしてリリーナ。
一方、きょとんとしているセロと首を傾げているエリエス。
生徒たちが引き出した反応があまりに両極端で、ヨシュアンも判断がつかない。
仕方ないので湖から出たら、過剰な反応をした三人はヨシュアンから離れ、セロとエリエスは動きすらしなかった。
「なんなんですか?」
「わかりません」
「うねうねなのです。葉っぱ、食べますか?」
「吸盤に触ると大変ですから止めましょうね。とにかく浮いている魚の回収をお願いしますね」
タコ付きの氷の銛を持ったままシャルティアに近づくと、眉をものすごく歪めて迎えられたヨシュアンだった。
「お前、それがなんだか知っているか? いや、知らないだろ」
「えぇ。一応、知っていますが淡水に適応した種を見るのは初めてです」
「……そうだな。西部の海岸あたりでは珍味と知られる生物だ。トイフェルと言ってな。悪評の多い生物だ」
「悪評? 確かに形は悪いですが美味しいですよ」
「味までは知らん。私だって食べたことがない。知っているだけだ。それにしても時々、お前は物を知らんな」
「異邦人ですからね。ちなみに故郷ではよく食べられていますよ。塩と砂糖、酢でシメるだけの簡単なものから生食、他には干したりしていますね。今あげたもの全て、お酒のつまみです」
「……心惹かれる提案だな」
まだ生きているタコにモフモフが近づき、ふんふんとニオイを嗅ぎ始めた。
その鼻に吸盤が張りつき、引き剥がそうと後ろに下がるも取れない。
『ちょこざいな』
とうとう前足で吸盤を剥がそうと躍起になるモフモフを微妙な表情で見ていたヨシュアンとシャルティアだった。
「悪評の話をしてやろう。リスリアの子供は皆、トイフェルを危ない生物として親から教わる。特に農家は苦い顔で教えてくれるだろうよ」
「農家? 何故に農家ですか」
「荒らすからだ。作物を」
『噛み砕いてくれる』
ぶちり、と音を立ててタコ――トイフェルの触手がちぎれる。
「……モフモフ、食べていいですよ」
『さもありなん』
触手をくちゃくちゃと咀嚼するモフモフ。
【神話級】原生生物には悪評など関係ないようだ。
「作物を荒らしてどうするんですか」
「そいつは雑食でな。魚から植物まで何でも食べる。田畑の作物を荒らしてはどこかに消えていくため【悪魔】と呼ばれている。大型の種は狼を食べるそうだ。時には子供が足をかじられ大泣きする事態もある。森に住む種までいるそうだが、それは知らん」
「なるほど。あの三人が過剰反応したのはそのせいですか」
クリスティーナは執事から教わり、マッフルは親から話を聞き、リリーナは森に住む種と出会ったことがあるのは余談だろう。
一方、粗食と敬虔を旨とする修道院に居たセロと、特別な施設で暮らしていたエリエスはそうした親子の会話に似たものがなかったせいだろう。
「海の中に天敵がいたんでしょうね。だから淡水や森に逃げてきた、と。海洋にも居るということは分布域に差があったのでしょうか」
「面白い説だな。私の分野ではないが、ありえそうだ」
思えば海竜という種がいる以上、そういうこともあるのかと思うヨシュアンだった。
「自分からしたら食べ物でしかありませんね。どうです?」
「抵抗はあるが興味もあるのも事実だ。調理次第だな」
「では、そのように」
生徒たちが魚を集めてきたようで、マッフルとリリーナが木の枝で作られた網を持って現れる。
そこからの作業は分担作業だった。
多くの魚が積み上げられている中から、あまり食べないものや骨が多く食べづらいものをよりわけていく。
マッフルとリリーナは見知った川魚を選んで分けていき、エリエスは本で見た魚の種類で知っているものを分けていく。
クリスティーナとセロは魚の種類の見分けがつかないため、野菜を渡して焼くように指示する。
食べられない魚の処理は全てモフモフが行っている。
骨がある程度では意に介さない狼だった。
ただ、少々汚い光景にクリスティーナが怒り、木の影で食べることを強いられたのはちょっとしたアクシデントだったろう。
「魚は私がさばこう。ナイフを出せ」
「料理、できたんですか?」
「薔薇の園でお茶を嗜むお嬢様は手を汚さないのが仕事だが私は少し違うぞ。女としての嗜みは必要だろう。なぁクリスティーナ」
「わ、私は別に料理が嫌いだなんて言った覚えはありませんわ!」
「ふむ。そっちの意味をとったか。健全で結構」
クリスティーナの頭の上に大きなクエッションマークが浮かぶ。
そうした光景はともかく、ヨシュアンは何をしているかというとトイフェルと格闘していた。
まずはトイフェルの額を銛で突き刺し、確実に息の根を止めてからが始まりだ。
頭の皮を固定する筋を切り、頭をひっくり返して、そぎ落とすように内蔵を抜いていく。
目玉と口も先に落としておく。
塩でよくもみ洗いして滑りを取り、ねばつくホイップ状の粘液を川辺で洗い流し、何度かすると粘液も落ちていく。
「あまり大きくないので何にするか迷いますね」
ここからの調理はどういう料理にするかで変わってくる。
つまみと言った手前、半分はシャルティア用にするとして、もう半分はバーベキューで焼いてしまってもいいかもしれない。
そうなるとどちらにしても触手――足は切らねばならない。
流水に晒してから匂いを嗅いでみても、そんなに泥臭いわけでもない。
とはいえ、独特の生臭さはまだまだ感じられる。
「大根で叩けば柔らかくなるのですが、そうそう大根があるわけでもなし」
他にも湯通しする前にすべきことは多いが器材も必要なものもない。
仕方ないのでそのまま鍛鉄製の鍋で湯通しすることに決める。
川の水、引いては湖の水を鍋に入れて、石組み、バーベキュー用の木炭を利用して沸かす。
足の半分と頭を湯通しすると薄い土色だった肌が真っ赤に変化していく。
ここまで来て、ふとヨシュアンの頭にふとよぎるものがあった。
「そういえば、このタコ……、毒を持っているということはありませんよね?」
毒を持つ生物は基本的に毒を持っていると知らせるように、鮮やかでケバケバしい体色をしている。
トイフェルの体色がヨシュアンの知るタコと同じ色だったことから、毒の有無を確認していなかった。
一度、気になり出すと不安になってくる。
足先と頭、そして根元部分を小さく切って、それぞれ食べてみても身体に変化はなく、内源素にも変化はない。
「モフモフ、ちょっと」
小声で呼ぶと口を真っ赤にしたモフモフがトコトコとやってくる。
「魚臭ッ!? いえ、それはともかくタコを食べて大丈夫でしたか?」
『特に問題ない。毒の臭いはしなかった』
モフモフは生食しているので大丈夫だろうと判断。
茹でたら毒になるファンタジックな生物毒はないだろうというのもある。
茹であがったトイフェルの足を輪切りの要領で刻み、もう半分は頭は一直線になるように切っていく。
焼け始めた野菜が並ぶ頃にはトイフェルと魚の下処理は終わっていた。
「酢とネギだけでいいでしょう」
あるものだけで凝ったものは作れない。
砂糖ひとつまみ、塩も少々、酢に少しの魚醤、トイフェルになじませるようにかき混ぜて終了。
半分はつまみ用、もう半分は塩茹でだけのものを用意し、バーベキューコンロには生の足を乗せるくらいで完成だ。
「出来上がったのならそろそろ食べていきましょう」
まだフライパンを振っているシャルティアが厳しい目を送ってきたが、これ以上、生徒たちや食材を待たせるわけにもいかない。
生徒たちが座り食事の合図をすると、食べ始める。
一度、バーベキュー形式を体験したことがあるせいか、食べる、焼く、火の管理を生徒たちが自発的に行い始める。
その光景にヨシュアンは驚きながらも、なんとなく嬉しく思う。
経験から何をすべきかを把握し、次回に活かす。
そうした行動を生徒たちが自発的に行うのを見ると、そうした思いが胸をじわじわと柔らかくする。
もしも、そう、もしも。
数多の因果を超越して、過去の修正を行い、奇跡という奇跡を繋いで、もしもの可能性を見るのなら。
フィヨとの間に子供がいたら、そんな気分になるのだろうか。
ありもしないことを少しだけ思うヨシュアンだった。
それもすぐに『そんなことは存在しない』と現実的な思考が追い出してしまう。
四ヶ月で生徒たちも変化していった。
最近ならセロも少しだけ変わった。
怯えているだけのイメージしかなかったセロ。
自信のなさそうだった行動の怯えも少しなくなり、こうしてじっと見ているとクリクリした目を向けて、ニコリとするのだ。
もっとも時々、ヨシュアンの肝を冷やすような表情もするようになった。
クワッと目を見開き、眺めてくる様は背筋に嫌な汗が流れるくらいだ。
「できたぞ。私より先に食べるとは何事だ」
言うほど怒りは見えない言葉だった。
人数分の小魚のソテーを配り終えると肩をすくめ、すぐにシャルティアも食に勤しむ。
「では、試してみるか」
「どうぞ。召し上がれ」
木皿に盛られたトイフェルの酢締めをフォークで突き刺し、一口含む。
生徒たちも、じぃ、とシャルティアを注意深く見ている。
どんな感想なのか、興味があるのだろう。
「これは! 肉よりも硬くなく、それでいてプリプリとした弾力から染み出してくるさわやかな酸味にほのかな甘味! ネギの辛味が調和した一品! 言うなればおんなじ辛味の強い酒のために生まれてきた前菜料理でありんす!」
叫んだのはシャルティアではなく、何故かシャルティアの脇からフォークを突き出し、酢締めを食べたリューミンの叫びだった。
団子状にまとめた髪型、左だけ妙に長いエプロン、ノースリーブのように切られた肩口、そして快活な美料理人リューミン。
その人がのけぞりながら叫ぶのだから、誰も動けないでいた。
「あー、一同の気持ちを代弁しましょうか。一体、何故にリューミンさんがここに?」
「痴れたことを言いんす」
ビシリと突き出される指に合わせて手のひらを突き出すヨシュアン。
ごきり、と奇妙な音がして、リューミンが蹲った。
「おおかた新しい料理の素材を探しに森に入りこみ、途中でバーベキューの匂いに惹かれたところ、見たことのない料理を楽しんでいる自分たちを見つけたので現れた、と解釈していいですか?」
「ト……、トイフェル料理は知っていんす。まさか陸のトイフェルを調理する輩がいるとは思わなかっただけでありんす。それだけでなく、こなたの新しい料理方法にも興味が沸いたんでありんす」
「ほう。どうでもいいが私のつまみを盗むとはいい度胸をしているな、リューミン料理人」
青筋を立てたシャルティアを見て、まずいと思ったのかリューミンは二度ほどバックステップで距離を取る。
いつの間にか木皿の底に手を添えて、リューミンがニヤリと笑みを浮かべる。
バーベキューで焼かれた野菜や肉がこんもりと盛られた木皿だ。
ヨシュアンすらもいつの間に盗まれたのかわからなかったほどだ。
事、食に関する執念はモフモフ以上。
それがリーングラード学園、上級厨師のリューミンだ。
「生焼け、通しすぎ、色々とありんせん……。料理として二流でありんす」
リューミンの指摘は間違いではない。
とりあえず焼けて食べられたらいいと思っているマッフルやリリーナ、エリエス。
頑張って味を見極めようとしているが技量が足りないクリスティーナとセロ。
生徒たちが焼いている以上、どこかしら不備が目立つものだ。
それ以外となるとシャルティアが作った小魚のソテーと、ヨシュアンの酢だこ、持ち込みのパンくらいしかない。
「けれど 美味しく感じられる。拙い技量でも不特定に美味しく食べさせようとする努力を感じる。そう、こなたの形式は美食ではなく空気を食べてありんす。想いの伝わった料理は一味、二味も変えてくれる最高の調味料……、新しい! 新しい食の形式! 否! はるか昔より人類が囲み続けた家族の味!」
パクパクと食べながら語るリューミンにヨシュアンが静かに立ち上がる。
「クリスティーナ君には『幽歩』の初歩しか教えていませんでしたね。今から完成形を見せます」
その瞬間、ヨシュアンが消える。
あまりの速さで見えないわけでも、姿を消す術式を使っているわけでもない。
ただ、この場にいる全ての人間の意識の外を歩いているだけだ。
初速と音、支配による視線の誘導、それらの相乗効果が歩いているだけのヨシュアンの姿を消してしまっている。
幽々と歩き、リューミンの襟首を掴んだ辺でようやくこの場の人間、全てがヨシュアンの位置を知り、驚き始める。
「元々、【支配】による先読みを消すために作られた歩法です。純粋な【支配戦】で混ぜると効果的な隙を作れます」
「い、痛くせんでくんなまし」
バチィと音を立てて、リューミンは力を失い倒れる。
しかし、倒れながらも木皿を胸に抱き、背から落ちるあたり筋金入りだった。
「クリスティーナ君、わかりましたか?」
「……色々あってわかりませんわ」
ちなみに時々、クリスティーナとマッフルの喧嘩中に気づかれず接近している歩法でもある。
倒れたリューミンを放置していると、こそこそとリューミン八傑衆が現れて回収していく。
ヨシュアンが睨むとピクリと動きを止める。
嫌な沈黙。
リューミン八傑衆の喉を味の悪い唾が通り抜ける。
「行っていいですよ」
許しの言葉が出た瞬間、脱兎のごとく逃げ去るリューミン八傑衆。
再び簡素な食卓に戻ると、肉も野菜も少なくなってきていた。
少食のセロやエリエスはもう食べ終わっているあたり、そろそろ昼食も終わりそうな空気が漂っている。
しかし、焼く用に取っておいたトイフェルは誰一人として手をつけていない。
「仕方ありませんね」
せっかく獲ったものを食べないのも食材に失礼な話と思ったのだろう。
トイフェルの足を網に乗せると海のような匂いがする。
食欲を掻き立てる良い匂いなのだが、トイフェルを怖がる三人の目は訝しげだった。
「本当に食べるでありますか? 森の悪魔でありますよ? 悪魔を食べる先生は何悪魔でありますか?」
「散々、両親から言われてきた言葉があります」
ほどよく赤くなったら、今度はひっくりかえす。
「食わないなら作るな。作るなら食え、とね」
「言ってることは正しいでありますが、やってることはグロ生物焼きであります」
「シャルティア先生だって食べたじゃないですか」
「あれは原型を留めてないじゃん。こっちはもう、足まるごとじゃん」
マッフルも反論に参加する。
どうやらトイフェルへの忌避感は身近であるほど大きいのだろう。
適度に赤くなってきたのを確認して、トイフェルを口に入れる。
「おいしいのですか?」
「慣れた味ですね。すこし故郷を思い出します」
「先生の故郷の住人は皆、トイフェルを……、魔境ですわね」
とりあえす小さな氷の玉をクリスティーナの額にぶつけるヨシュアンだった。
「案外、形を隠すようなものに調理すれば食べるかもしれんな」
シャルティアの言葉に生徒たちが青ざめる。
ヨシュアンの手料理に恐怖と猜疑心が生まれた瞬間だった。
「少し癪だがリューミン料理人の言うとおり、このトイフェルは辛い酒が合う。赤ワインも合いそうだが、すこし違う。何かいい酒を知っているか?」
「下戸に聞かないでください。とはいえ知らないわけでもありませんよ。確か帝国産に葡萄やとうもろこし、麦を使わない有名なお酒があったと思います」
帝国では一部の好事家が米の酒を作っている。
「米酒を生産していたはずです。生産量も極少数で輸入されることはほとんどありませんね。天然の沼地を利用しているので数が作れないという話をどこかで聞いたことがありますね」
「帝国産か。さすがに手に入らんか」
今はまだ商人同士の取引が細々と行われているだけだ。
リューミンのような三国を渡り歩く者もいなくはないが、だからといってそうした人材に渡りをつけて帝国の酒を持って来いというのは現実的ではない。
友好条約でも結ばない限り、商取引の制限がなくなることもないだろう。
「いつか帝国と仲良く――なれる要素が今のところ、ありませんが気長に待ってみたらどうです?」
「それかこちらでも同じものを作るかだな」
ヨシュアンたちは知らない。
どこぞの妹様のわがままのために、帝国の宰相が友好も視野に入れて外交を考え直していることを。
そして、先日起きた事件の結果、帝国に罪をなすりつけたせいでランスバールの思惑が少し変わったことを。
その二つの要素がカチリと歯車があったことをこの場はおろか、政治を司る重鎮たちもまだ知らないでいる。
「はい、セロ君、あ~ん」
「ぁぅ……」
その二つの事件の当事者でもあるヨシュアンはトイフェルの足をセロに食べさせてみようとしているのだから、なんとも奇妙な話だった。
頬を赤く染めながらセロがトイフェルを口に含む。
弾力があって噛みづらいのか、しばらくもごもごとしていたがすぐに嚥下し、首を傾げる。
「どんな感じだった?」
「……食べたことがなぃ味なのです? おいしい、のです?」
「なんで首を傾げるわけ」
セロは味よりも食べ慣れない食感のほうが気になるようだ。
こうして食事が終わるとまた泳ぎに行くクリスティーナとマッフル、木の上でのんびりしているリリーナ、モフモフの隣で読書を始めるエリエス、片付けの手伝いをしているセロといった具合にバラバラに行動し始める。
シャルティアも少しは水に触れる気になったのか、湖の際で水に足をつけている。
そして、片付けも一段落したあと、ヨシュアンは木陰で生徒たちの監視をしつつ、腰を落ち着かせる。
「ふぅ……」
ため息、というよりも一仕事ついた後の吐息に近いのだろう。
後は遊ばせておき、陽が傾く前に帰るくらいで良いと考える。
湖の水は思ったより冷たいので、クリスティーナとマッフルの唇が真っ青になり始めたら帰る時間だと促せばいいだろう。
十連休が始まる最初の日にしては十分な休日と言える。
エリエスの『眼』や王都に帰ったレギィ、次の【試練】のための計画やとうとう暗躍し始めた貴族院の影、知らされざる魔獣信仰者たちなど色々と頭を悩ますことも多い。
それでも今日くらいはのんびりしてもバチは当たらないだろう。
考えようとする思考を切り離して大きく背伸びをしていると、ちょこちょことセロが近づいてくる。
「ぇい、なのです」
ヨシュアンの足の間に滑りこみ、ニコニコとしているセロを受け入れる。
陽の暑さのせいかすでにセロの水着は薄く湿っている程度に落ち着いており、あまり気にならない。
「せんせぃ、『お願い』なのです」
「えぇ。冒険者の時の『お願い』でしたね」
クリスティーナには『幽歩』を、マッフルにはこの湖の遊びを、リリーナには冷風の術式を、エリエスには『眼』の術式を与えたがセロだけはまだだった。
そのうち、ものすごい『お願い』が飛んでくるのではないかと思うと、できれば早めに処理しておきたい案件だった。
それが今、セロの口から飛び出してきた。
「先生ができる範囲になります。それで何に決めたんです?」
ヨシュアンに気負いはなかった。
しかし、セロはもじもじしたまま、どう言おうか迷っていた。
『お願い』はそう難しいものではない。
ただどう言えばちゃんと伝えられるか、セロが迷っている部分はそれだけだった。
「ぁのあの……、セロといっしょに寝てくださぃなのですっ」
この瞬間、ヨシュアンの思考が止まった。
表面上は何一つ、変わっていない。
再起動に数秒のラグが必要だっただけだ。
脳が回転し始めてから、セロの言葉を分析し始める。
ありとあらゆる条件と照らし合わせ、セロが望む言葉の意味を吟味し、可能性を検討し、やがて一つの解答にたどり着く。
「あぁ、なるほど。いつかの保健室みたいに寝たいということですか」
セロが体調不良に陥った時、ベッドの傍で眠るまで付き添ったことがある。
その時にセロに聞かせた物語が聞きたいのだろうというのがヨシュアンの解答だった。
「はぃ、なのです」
そして、それは大当たりだった。
甘えたいというのもあるのだろう。
先日、慕っていたレギィとの別れを心底、悲しそうにしていたのをヨシュアンも知っている。
そうした反動がセロの言葉なのだろう。
かわいいものだと素直に思う。
「そうですね。都合の良い日にでもお泊りに来たらいいですよ。この十連休のいずれかが一番、良いと思います」
「はーいはーい、リリーナもお泊りしたいであります」
木の枝に逆さまにぶら下がって、リリーナがヨシュアンの頭の上から顔を出す。
「リリーナ君は『お願い』を聞いたでしょうに」
「先生の部屋は涼しいので眠りやすいであります」
「……セロ君にお願いしなさい」
「セロりん~」
猫撫で声でセロに聞く。
「泊りがけで勉強……」
ぼそりと木の裏側からエリエスが口を出す。
ここまで来ると若干、嫌な予感がするヨシュアンだった。
案の定、タイミングよく湖から出てきたクリスティーナとマッフルがヨシュアンの元に集まっている三人を見て、近づいてくる。
「んー、何の話?」
「また妙なことを企んでいますのね」
「お泊まり会であります」
まるで混乱を助長させるようにリリーナが端的に答える。
「お泊まりってどこで? もしかして先生の家?」
「と、年頃の女が異性の家に泊まる、泊まるだなんて……!」
一人、顔を真っ赤にしているのはクリスティーナだった。
「んじゃ、クリスティーナだけ寮で寝たら?」
「んな――! さすが貞操意識の少ない愚民は一味違いますわね。抵抗感もありませんの? 売女と呼ぶべきかしら」
「よし。その喧嘩……、あんたからふっかけてきたんだからね。売女よりも酷い顔にしてやる!」
もはや手馴れたように距離を取るクリスティーナとマッフル。
これにはヨシュアンも慣れっことはいえ、ため息しか出ない。
「あのですね。まずそうした発想にたどり着くクリスティーナ君の頭がどうかしていますね。先生は生徒に手を出すほど飢えていませんよ」
「いいえ! 事はもうそんな話ではありませんわ! この愚民に思い知らせなければなりませんの! 今までのことも含めて!」
「そういうこと! この色ボケたクルクル頭には一回、ガツンと叩きのめして直してやらないと! 元からおかしいけど少しはマシになるはずだし!」
お互いの拳が繰り出される前に、二人の頭に拳大の氷が落ちてくる。
ゴン、と鈍い音と共に蹲る二人。
「とりあえず頭を冷やしなさい。セロ君はどうします?」
「……ん。皆とおとまりがぃぃのです」
腕の中で身をよじって言うセロの横顔は楽しそうでもあった。
「やったー! ドゥドゥフェドゥをベッドにできるであります!」
リリーナが楽しそうに木の枝で宙返りをし、降りてくる。
名前を呼ばれたモフモフは頭を少し動かし、物言いたげにしていたがどうにもならないと判断し、再び前足を枕に寝そべっていた。
これは休日。
【試練】を抜けたあとの、ほんの一時の休日。
「一応、言っておきますが深夜まで騒いでいると強制的に眠りにつかせますからね」
例え休日であっても教師の受難はまだまだ続くのだった。
この話を読んで、作中にある魚の獲り方を実践した者は憲兵に捕まってZAPZAPZAPされます。
釣りは清く正しく行いましょう。




