確率の悪魔は医務室に住む
「臭い。とっととその子を置いて服を替えてらっしゃい」
と、医務室の女医さん(36)に命じられて、セロ君を任せ、自分は一旦、職員室の連絡板にリィティカ先生への言付を書いてから、着替えをしに社宅に戻りました。
脱いだ時に一緒に水浴びもし、すぐに着替えて医務室に戻ったら生徒たちがドアに張りついていまいた。
そういえばもうお昼休みですね。
「こら。何をしてるんです」
自分の言葉に反応して、クリスティーナ君、マッフル君、エリエス君、リリーナ君がこちらを見ました。
「先生、セロ、どうだったの?」
「片付けは終わりましたか」
「終わりました」
エリエス君が短く答えます。
吐瀉物をそのままにしておくと次の授業、アレフレットクラスが困りますからね。
ついでに自分は引き続いて儀式場を使うので綺麗にしてもらわないと困ります。
「で、セロはどーなったの!」
マッフル君が眉毛を逆立てて聞いてきます。
「ちょっとした疲労ですよ」
心因的な、ね。
生徒たちも心当たりがあるのか、言葉なく納得する顔を見せていました。
「どーして私たちが入れないのですの!」
ここまで我慢していたのでしょう。
クリスティーナ君が声を張り上げてきます。
「クラスの同志を見舞うことも許されないとはどんな圧政ですの!」
「とりあえず静かにしなさい」
無造作にクリスティーナ君の頭にゲンコツを落としました。
「心配なのはわかりますが、医務室の前で騒がない。女医さん(36)にリィティカ先生もついてくれています。セロ君が心配ならまず、刺激しないように気をつけなさい」
「ご飯を食べてません」
突然、エリエス君がじっと覗きこむような漆黒の瞳を向けてきました。
あのですね、話の流れをぶった切らない、主語を使う、これらに気をつけなさい。ちゃんとした説明とはそういうことです。
「セロのこと」
ご飯を食べていない、とは朝ごはんですかね?
いや、貧困層と言い方は悪いのですが、修道院生活の場合、朝ご飯はなく、二食派だったはずです。
となるとセロ君は朝ご飯を食べない生活を続けています。
特別、不思議な話ではないでしょうし、エリエス君もそうです。
なら、食べていないのは――昨日の晩御飯ですか?
そういえばさっきのゲロ――ではなく吐瀉物ですね。
ドロドロとした感じではなく、もっと布に染み込む感じでしたしね。
胃液だけ、といった感じでした。
「何故?」
「食欲がないってさ。管理人がベーレだけでも食べたほうがいいって、ちょっとだけ食べたけどそれっきり」
今度はマッフル君でした。
「先生さ。一体、セロはどーしたんだよ。昨日のことが原因?」
「なるほど。よくわかりましたわ」
突然、立ち上がってどこかに去ろうとする薄着フリルの襟首を捕まえました。
「どこへ行こうというんです?」
「知れたことですわ」
最近、ぞんざいに扱っても文句を言わなくなってきましたね、この子も。
慣れたのでしょうか?
「昨日のアレが原因なら間違いなくセロの不調はティッドのせいに決まってますわ」
「ダメです。行かせるわけにはいきません」
「どうしてですの! セロが……」
拳を握ったら、静かになりました。
よしよし、よく覚えていましたね。大声を出すなと言ったことを。
でも、先生がアクションを起こす前に思い出して欲しかったですね。
「ティッド君のせいではないからです」
「どうして先生はティッドをかばおうとしていらっしゃるのかしら」
「かばっていませんよ。間違いなくティッド君のせいではないからです」
内紛終了後、バカ王は内紛での悪徳を全て国民に公開しました。
裏付けの取れている確実な悪事だけでしたが、その公開情報に革命軍の悪事も入っています。
バカ王は内紛の裏側を明かすことで、誰が正義だとか悪だとか関係なく、後世に己の評価を託しました。
二度と内紛のようなことが起きないようにと考えた行為なので、自分は反対もしませんでした。
オープンなバカですからね、アレは。
だけど、自分は違います。
全てがなんでも公平で明大であれば片付くとは思っていません。
この問題に生徒たちが気づいては困ります。
何故なら、犯人はリリーナ君で、ほんの悪戯心がきっかけだったなどと知ってしまえば、今度はリリーナ君が後悔します。
無知の罪。
だけど、時には知らなくていいことのほうが幸せなこともあります。
だから自分は何も言いません。
「もしも誰が、という問題だと思ったのなら覚悟しなさい」
珍しくクリスティーナ君も、マッフル君もリリーナ君も何も言いません。
妙に真面目くさっているのに面食らっているだけかもしれませんが。
エリエス君だけは静かに何事かを考えています。
「都合がいいだけの『敵』なんていない、ということを」
誰もが声を出せずに、何を言っているかもわからないまま、困惑していました。
ただ、エリエス君だけはその言葉で何かに気づいてしまったようです。
「いこう」
そう言って、廊下の向こうへと歩いていきました。
「ちょっとエリエスさん! 貴方、セロが心配じゃないの!」
「ダメ」
「ちょ、エリエス! いきなりどこ行くっての! 見舞いに来たんじゃなかったっけ!」
慌ててクリスティーナ君とマッフル君がエリエス君を捕まえに行きます。
情報を与えすぎましたかね?
あれだけで気づくとは思っていませんでしたが、エリエス君なら遠からず真実にたどり着くと思っていました。
後はエリエス君次第です。
「先生、セロりんは頑張っていたでありますよ?」
「わかっています」
リリーナ君はエリエス君たちについていかずに、自分をじっと覗きこんでいます。
この子もこの子で野生の本能で理解しているのかもしれませんね。
「リリーナ君はクラスでも一番年上のお姉ちゃんなのだから、エリエス君たちについていてあげなさい。セロ君は自分がなんとかします」
「なんとかできるでありますか?」
「もちろんです。何か問題でもありますか?」
「むー、であります」
櫛を使わなくてもサラサラな頭をゴシゴシと手荒く撫でてやりました。
ごまかされているのがわかっているので拗ねていますね。
「ちょっとだけ本当のことを話しましょう。今回の件は誰か一人の問題ではありません。誰かが悪い、という問題でもありません」
「クリクリには誰かっぽいこと言ってたであります」
「もしも『誰か』を求めるのなら、という話です。今回の件は無数の問題の立て方があり、クリスティーナ君がティッド君を糾弾しようとしたのも間違いではありません」
セロ君が倒れるほど心的な疲労を感じたのは、性の知識に始まり、女性の意識を持つことが発端だったのは間違いありません。
ですが、それだけで吐くほどの心的ストレスを溜めたとは考えにくいのです。
まずはティッド君を拒絶したことの罪悪感。
もしかしたらセロ君は生まれて初めて、明確に誰かを『嫌だ』と思ったのではないのでしょうか?
セロ君からすればティッド君は一緒にクラスメイトを探してくれた恩があります。
なのに『嫌だ』と感じたせいで罪悪感が生まれました。
しきりにティッド君をかばっていたのは周囲がティッド君を責めようとしたからだけではなく、ティッド君への罪悪感がそうさせたのでしょう。
セロ君の、時々見せる己を押し殺してでも優しくしようとする性格も拍車をかけたのでしょう。
次にレギィです。
レギィが悪いわけでも、何かを言ったわけでもありません。
ただレギィの存在は【貴族院の試練】という形のないイベントを明確な形にし、生徒たちに試練が始まるという意識を持たせました。
【貴族院の試練】に失敗すれば、皆の頑張りが無駄になる。
これは誰もがそう考えていることでしょう。
理解が乏しくても、なんとなくわかることです。
他のクラスメイトより成績が劣っているセロ君。
体育は言わなくてもわかりますが、他の教科にしても中堅どころばかりでパッとしません。
そんな成績だからこそ、プレッシャーを感じたのです。
より明確になった『皆の足を引っ張ってしまう』という恐怖感、強迫観念。
それらは立て続けにセロ君に押し寄せ、そして今日の術式の失敗です。
すでに術式が不発に終わるほど追い詰められていたのです。
より『皆の足を引っ張ってしまう』ことへの心的ストレスが引き金となり、心を圧迫させ、嘔吐、吐き気に繋がりました。
「時期が悪かったとも言えるでしょうね」
授業のレベルとセロ君の歳を考えれば、セロ君はよく頑張っているほうです。
ちゃんと着いてこれてますしね。
それは自分だって認めていますし、リリーナ君が言ったように先生の見えないところでも頑張っていたのでしょうね。
それはセロ君の、日常的に積み重なった疲労です。
さらに最近の暑さに体力的に弱っていたのでしょう。
ますます弱っているところに、この状況。
折り重なるようにセロ君にのしかかったのです。
「何よりも悪かったのはそんなセロ君の状態を知りながら、まだ頑張れると無意味に思っていた自分です」
思わなかったはずがない。
考えなかったわけがない。
なんとかできる、まだ時間がある。
そんな言い訳で先延ばしにしていたから、簡単に決壊してしまうなんて思わなかったことです。
歯ぎしりをして周囲に八つ当たりしてやりたいですが、そんなことをするわけにもいきません。
目の前に生徒がいるのですから、彼女たちを導く教師として不格好なところを見せるわけにもいきません。
「もしも誰かが悪いとしたら、先生が悪かった……、それだけです」
頭から手を離すと、リリーナ君が構え始めました……え?
「先生が犯人でありますね。いたいけなセロりん相手にいやらしいであります」
「君はどんなシーンでも通常運行ですね」
シリアスな時くらい空気を読んでください。
あと、地味に腹が立ったのでグリグリ刑にしてやりました。
「今、セロ君はまだ寝ているでしょうし、起きてすぐ君たちに会ってしまうとまた頑張ろうとします。先生に任せなさい。というか償わせる機会くらいください」
グリグリ刑によって頭を抱えていたリリーナ君は、まだ痛む頭をさすりながら、
「仕方ないでありますね。言ったら聞かない人種はこれだから……、であります」
ちょっとだけ唇をへの字に曲げて、パッとエリエス君たちを追いかけていきました。
リリーナ君もそうしたかったのでしょうね。
償う機会というのならリリーナ君にもあるのですから。
でもね。やっぱり、これは先生のせいなんですよ。
君たちの管理ができなかった、自分の管理責任です。
気づくべきことに、気づけなかった。
だから、自分はセロ君をちゃんと看てあげないといけません。
そして、セロ君が乗り越えるべきことをちゃんと乗り越えられるように見守らなければいけません。
セロ君の心が、ちゃんとセロ君自身の納得と向き合えるように。
「失礼します」
ドアをノックし、医務室に入ると――
「――え」
――リィティカ先生が意識を失ったセロ君の服を取り替えている場面と遭遇しました。
幼い肌色が見えた瞬間、自分は持てる全ての力を使って、医務室のドアを閉じました。
「すんませんでした!」
全身筋肉を使った全力を出したため、脇腹と右腕が痛みました。
ジワジワ痛む体を抱えたまま、廊下の壁に体を預けました。
一番、何が悪いかって自分の運の無さですよ。




