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リーングラードの学び舎より  作者: いえこけい
第二間章
128/374

友達作りの秘訣は?

 【キルヒア・ライン】外周部隊所属、騎士オルナ・オル・オルクリストがその報を聞いたのは、国境の伝令が現れてから十数分後の話であった。


 国境に近い山岳地帯の途中で野営中だった【キルヒア・ライン】は、緊急の伝令が現れただけで数名の見張りを除いた武装解除状態から即座に臨戦体勢に入るために動き出した。


 もっとも、この中で一番、忙しそうにしているのは正騎士よりも彼らに仕える騎士見習いたちだろう。

 篝火の影から影へと必死な顔で走り回っているのがわかる。


 彼らは【キルヒア・ライン】に仕えるように徹底した教育がなされ、騎士として育てば【キルヒア・ライン】に所属されるかもしれないという栄誉を授かっている。

 他の騎士見習いからすれば妬まれ、羨ましがられるが、どんな騎士団よりも厳格で迅速さを問われることから仕事量は殺人級と言える。


 しくじれば手痛いオシオキをされ、今も若い誰かの悲鳴が聞こえる。


 そんないつもどおりの喧騒を布の壁越しに聞きながら、オルナは目が覚めた。

 慌ただしさと誰かが動いている気配で寝ているどころではなかったからだ。

 どうやらすぐに装備を整えないといけないと判断したオルナはすぐに寝具変わりの外套を放り投げて立ち上がった。


 今頃、誰もがグリーヴ以外の装備の着用に追われているだろうと、オルナも準備を急ぐ。


「騎士オルナ様! 黒装と竜馬の準備が整いました!」

「……あぁ。すぐに向かう」


 見習い騎士が布越しに大声を張り上げる。


 寝起きだとか、夜半だから準備が整っていないなどという言い訳は通用しない。

 整わないのは本人のせいで、少しでも時間に遅れようものなら上官の拳によって答えられる。


 そこに男、女の区別はない。

 オルナもそのことがわかっているから特に急ぐ。


 簡単な木組みの上に布をかぶせただけのタープから、すぐに外への布をめくり、出ていく。


 黒絹のように艶のある長い髪を一つに束ね、遊んでいる髪を頭の上でグルリと回す。

 まとめた髪が解けないように胸元のインナーに差し込んでいた二つ裂けの木挿しを髪の束に無造作に突き刺す。

 ほぼ十秒きっかりで髪の支度を終える。


 それら全ては歩きながら行われ、服装の上からでもわかる滑らかなS字ラインと胸という女性部分を否応無しに強調するハメとなる。


 若い騎士見習いはそんなオルナの仕草に息を飲み、手を止めてしまう。


「どこ見てやがる! とっとと準備をしろッ!」


 すぐさま飛んできた桶が騎士見習いの頭に命中し、木片が周囲に散らばる。

 痛みに蹲る騎士見習いのコメカミから、つぅー、と血が流れる。


 ここで優しい言葉をかけられたら女として正しいのだろう。


「(だが私は騎士だ。未熟でも同じ志の者の甘えを許すわけにはいかない)」


 騎士とはそうやって育っていく。

 そもそも痛みに耐えられないようでは騎士としてやっていけない。

 可哀想だと思う気持ちもあるが、それ以上に強く育ってほしい。

 そして、同じ騎士として帝国を守る一助となって欲しい。


 そう気持ちを込めて、視線を送ってみた。


「……ひッ!?」


 怯えられてしまった。

 それどころか青褪めて、全力で逃げられてしまった。


 それもそのはず。

 傍目からでは、騎士見習いを切れ長の瞳で睨みつけていたようにしか見えなかったからだ。

 そのうえ、彼女は【キルヒア・ライン】でも有数の【戦略級】騎士である。

 意識を込めて視線を送れば、それはもう殺気と変わらない。


「(どうして逃げられた? あぁ、そうか、私にも威厳みたいなものが少しは出てきたか。となると、アレはそう……私の威厳に当てられて逃げたということか。貧弱だな)」


 あの騎士見習いの少年は残念ながら大成しないだろう。

 それでも騎士を目指すならば、志高くあって欲しいと密かに願っていた。

 事の原因が勝手に決めつけてしまったものの、この出来事は概ね大した出来事ではなかった。


 その後、しばらくしての話だ。

 オルナの殺気を受けて恐怖に耐性がついた騎士見習いは剣技において少しばかり成長することになるがこれは余談だろう。


 オルナは自らが騎士として更に成長してるのだな、と、ちょっとだけ自己満足すると、早速、黒装が収められた竜車に向かうことにした。


「おい、あのオンナ。騎士見習いにガンくれてたぞ」

「ガキいじめて顔色一つ変えない、か。性別間違えて生まれてきたんだろう」

「違いない。あれで男だったら何の問題もなかったんだがなぁ」

「言うな。アレを起用したのは帝王様だ。団長からも厳命されている。せいぜい男扱いしておけ」

「男所帯にオンナが一人と言えば聞こえがいいだろうけどなぁ、恥じらい一つ見せやしねぇ。可愛げもなけりゃぁ腕は男顔負けどころか人間止めてやがる。どうしてこうなった……」

「声がでかい。もっと声量を落とせ。あと手が止まってんぞ」


 ヒソヒソと彼女を伺う男たちの言葉は、しっかりオルナに届いていた。


「(不満があるならどうして本人の前で言わない。己が正しいと思って不満を持つなら正々堂々としていればいいものをあのように隠れて……、女々しい)」


 さっきまで少しだけ上機嫌だったというのに、すぐに怒りにも似た気持ちが湧いてくる。

 ただ、それも支度の準備が本格化するとオルナも男たちの無駄口のことを考えている暇がなくなり、男たちも同じように暇がなくなったので、何事もなく着装は進んでいった。


 黒装。


 それは【キルヒア・ライン】の特徴とも言えるだろう。


 合金鉄製の、黒い全身鎧を彩るように金色の縁が輝く豪華な装い。表面をうっすらと彫り上げられた紋様が術式の回路となり、対術効果を発揮する。

 個々人で少しずつ形状や彫りの紋様が違うのは、それぞれの細かな性能に合わせて国の鍛冶師がチューンナップした結果だ。

 個人の性能を十全に、しかし兵装基準を均一に揃えるために何日もかけて微細な調整すら行われる。


 当然、オルナの黒装もまたオルナのために用意されている。


「(身が入る。黒装を纏うだけで、私は女ではなく人ではなく、騎士になれる)」


 全身を覆う布は鎧で肌を傷つけないため。

 その上から素早く、ズレがないようにきつく縛り上げながら黒装を体に纏う。


 軽量化されているとはいえ、人一人分の重みがある金属の塊。

 そんな物を身に纏えば、鍛え上げた男性ですら五分も保たないだろう。


 【キルヒア・ライン】は長時間、黒装を運用するために常時、筋力強化の術式を要求される。もちろん術式も普段からできて当たり前。纏えて当たり前。

 そもそも黒装を着て剣を振れなくては戦いにすらならない。


 それが当たり前にできて初めて【キルヒア・ライン】と呼ばれる。


 黒装に着替えた騎士たちはすぐに隊長の指示を仰ぐために整列する。

 五人の六列で三十名。

 これがオルナの所属する外周部隊、その分隊の総数だ。


 篝火の光を黒い金属が照り返す。

 表面をぬらりと動く光沢の列は、どこか非人間的なものを思わせる。

 甲殻虫の群れのような、それでいて一糸乱れず立ち続ける様が見る者に戦慄を抱かせる。


 すぐに黒の集団の前に一人の男が姿を現す。

 この分隊の分隊長だ。


「諸君! 先ほどリスリアとの国境、【旭日橋きょくじつきょう】より法規を介さず乗り込んだ術式師が現れた!」


 兜を外し、集団を一瞥するとビリビリと肌に刺さる大声が響き渡る。

 

「我らはコレを帝国の和を乱す者とし! 我らが帝王様の名の下に! 粛清の担い手として王命を授かった! コレに是非はあるか!」


「是! 是! 是!」


 三十人の響く唱和が地面を小さく揺らす。


「よろしい! では王命を従い、我らの正義を実行する! 現在、賊は国境を抜け、その行方をくらませた。逃走した方角から予測されるルートは三つ! 一つは国境から帝都へ続くルート、この時、目的は帝都と予測される。一つは重要拠点があるとされる南部のルート、これは周辺の地方都市。そして、これは限りなく可能性の低いルートだが、西部の地方都市に一度、潜伏する可能性がある。元来ならばそれぞれの道を塞ぎ、進行を食い止め、じっくりと炙り出すところだが……」


 ここで一端、分隊長が言葉を止めてしまう。


「鳥のごとく空を飛んでいたという証言があり、国境警備隊の報告であるところから信用性は高い」


 これに屈強な【キルヒア・ライン】たちが揺れる。

 さっきまでピクリともせず分隊長の言葉を聞いていたのに、誰もがその耳を疑ったからだ。


「しかも無傷だそうだ」


 空を飛ぶ。


 これはいくら術式を使っても難しい。

 上空まで跳躍する術式はある。そこから空中で体を維持する術式はある。そこから移動する方法もあるだろう。

 しかし、舞い上がる者は必ず落ちる。

 術式師でも集中力が切れたら、その時点で墜落する。

 賊は集中力の切れ目が死という恐怖の中で、国境を越えて帝国に侵入してきたというが、そんなに容易い話ではない。

 この中の誰一人として、そんな精神状態でうまく術式は使えないだろう。下手をすれば恐怖でうまく術式を編めずに落ちる。


 【キルヒア・ライン】でも騎士でありながら複数の術式の同時使用の使い手はいるが、「じゃぁ、ちょっと空飛んで国境乗り越えてみろよ」と言われたら首を横に振る。

 できる気がしないからだ。


 そして、そんな発想すらなかった。


 例えできたとしても、術式の雨を抜けて無傷などとは到底、考えられない。

 どれほどの技術と精神力と精神性がそれを可能とするのか、理解すらできない。


 まさしく【キルヒア・ライン】の予測を越える何かがこの帝国に入り込んだことを意味する。


「この脅威に対し、近くの分隊が南部を担当し、帝国へのルートは別の分隊が担当する。我々は西部の地方都市へのルートを先回りし、一度、半数を索敵に出す。敵は空を飛ぶことを忘れるな! これより我らは東進しアリズレン領へと向かう! 総員、行軍準備を始め! 点呼の後に出発する!」


 分隊長は冷静そのもので、言葉も常識も真偽も間違っていない。


「(何も知らない人間が『空を飛ぶことを忘れるな』とだけ聞いたとすると、きっと分隊長の正気を疑われるだろうな)」


 オルナはひっそりとそんなことを考えていた。

 まさか、その空を飛ぶ相手にこれから出会うなんて考えもせず、いや、考えていてもまさかという気持ちは拭いきれなかった。


 相手は予測を越える相手である。

 そのことだけをオルナは最重要なことだと胸に刻み込んで、【キルヒア・ライン】は夜も明けないうちに西部方面へと行軍を開始した。


 それから半日。


 騎竜――馬に似た四足歩行の草食竜に金属装甲をつけた乗り物――に乗り、そのまま山岳地帯からまっすぐ東進し、西部でもっともリスリアに近いアリズレン領の街道にたどり着いた【キルヒア・ライン】分隊。


「空を飛ぶことから、ほとんどの街道は意味をなさないと考えるべきだろう。この位置で隊の半分は関を作れ」


 空を飛ぶと見せかけて、普通に街道を使う恐れもある。

 簡易の関を作り、旅人を捕まえて事情聴取するためだ。

 さらに簡易関は分隊の一時的な基地にもなる。ここを中心にして周囲を索敵するためでもある。


「残りは索敵に回れ。そして騎士オルナ!」

「はっ!」


 呼ばれたオルナはすぐさま声を張り上げる。


「貴様はファーバート領方面に向かえ。単騎だ。賊を見つけた場合は逃走される前に足止め、あるいは仕留めろ」

「お言葉ですが隊長――」


 この指示に難色を示した【キルヒア・ライン】が割って入る。


「オルナお嬢ちゃんが単騎がけですか? まだ配属されて一年も満たない新人ですぜ。 帝王様の大事な大事なお気に入りにはちと難しい任務ではないですか」

「グルゼス。その言葉はせめて、オルナから一本を取ってから言え」

「クッ――!」


 分隊長の冷静な返答に、グルゼスと呼ばれた男が喉を詰まらせる。

 ところどころで笑いを抑えた気配があり、それがグルゼスのプライドを傷つける。


「私は言ったはずだ。相手は脅威だとな。もしも予測のできない相手だとしても術式師である以上、オルナの相手にはならん。意味がわかるか? 他の誰でもない、我らが筆頭すら手にすることの叶わなかった騎士剣【アルブリヒテン】をオルナが持つ意味、理解していないとは言わせんぞ」

「……補佐の一人くらいはつけたほうが良いのではと言ってみただけですよ」

「誰かこの中でオルナの速力に追いつける者はいるか!」


 周囲を見渡しても、誰も何も言わない。

 【キルヒア・ライン】は良くも悪くも実力主義だ。

 女であるオルナに対して反発感がある者もいるが、実力を頭に据えて何かを言われると悔しいことに何も言えなくなるのだ。


 それほどまでにオルナは【キルヒア・ライン】でも群を抜いて力量があると周囲に認知されている。


 術式師の中でも希少な黒属性の【戦術級】を操れる人材で、そのうえ高い剣技を持つ騎士。そして騎士剣【アルブリヒテン】という術式を裂く性能を持つ剣。

 これらは希少価値だけで言えば帝国に一人いれば御の字と呼ばれるくらいだ。


「騎士オルナ! もしもリスリアが【タクティクス・ブロンド】、あの最強に名だたる【凍てつく黒星】を討てと私が言ったらどうだ」

「可能かどうかの検討をし、不可能ならば討てるだけ戦力と共に向かいます」

「なら帝王様が一人で討てと望むのならどうだ」

「身命賭して成し遂げるのみです」

「忠があるということは王の作りし軍規も守るということだ。補佐の必要性はない。機動力がそがれるだけだ。オルナ。相手を見つけたと判断したら【狼火棒】で報せろ。その後の判断は先言通りだ。責は私が取る」

「はっ!」


 グルゼスもオルナでなければこんなことは言わなかっただろう。

 オルナも平然としていても、内心はイラついていた。


「(煩わしい……、どうして騎士としての性能を見ようとせず先に女として見る! 女でなければ何も言わなかったろうに!)」


 女でさえ、なければ。

 全てはこの一言で片付いてしまう。


 分隊長も責任ある立場から、面と向かってオルナを批判するような真似はしない。

 しかし、有用さを理解しているかどうかはまた別の問題だ。

 単騎での任務を申し付ける、まるで有用にオルナを使っているように見えて、実のところ、そうではない。


「(何故、ファーバート領か! あそこには何もないだろうに)」


 相手が単騎で国境を抜けてきたほどの手練で、帝国にもっともダメージを与えようとすれば間違いなく帝都へと向かうはずだ。この時点で西部という選択肢はない。


 ついで南の重要拠点。

 こちらも帝都と同じ理由が挙げられるが、戦力は帝都並であり、破壊が目的だとしても重要拠点を攻めるほどの力があるのなら、そもそも帝都に向かえばいい。


 賊が西部で潜伏するとしてファーバート領はありえない選択なのだ。

 ファーバート領は帝都から北西部。ここからでは少し北東に進んだところだ。ちょうどリスリアと法国の中間点であり、帝都に害なすことを一番と考えればあまりに遠すぎる。

 戦略的に重要とも言い切れず、流通の中継点や軍の一時逗留地としては優秀ではあるが、すぐさまリスリア方面か法国方面かの分かれ道へと進むことになる。

 リスリア方面にしても法国方面にしても、戦略的にもっと優秀な地方都市がある。


 法国へ何かがあるなら、そもそもリスリア人なら帝国を通る必要はない。

 帝国を経由した理由も見当たらない。


 あまりに理由がなさすぎてファーバートが狙われる理由が思いつかない。

 それ以上に、そもそも相手の狙いこそよくわからない。


「(あえて私を単騎で動かし、隊の仕事から私を遠ざけようとしている。そうとしか思えない)」


 実際、どんな理由があったかは知らないが、空を飛べるのなら国境を通る必要がない。賊がリスリアから来たと言っていたが、これではリスリアが犯人だと言っているようなものだ。

 明らかに何らかの思惑があって、あえて国境を抜けたとしか思えない。


 考えていくとどれが本当でどれが嘘か、狙いすら定まらない。

 今回の賊はまるで不定形の何かのように意味がわからない。


 そのくせ、危険だということは誰の目にも明らかだ。

 無視することだけはできない。そのため、普段よりも多くの人員が投入されている。

 

 そんな状況でオルナを遊ばせるという判断が、オルナには許せなかった。

 しかし、それでも上官の命令は絶対であり、軍という群れが正確に行動するために無視してはいけない規律だ。

 

「騎士オルナ・オル・オルクリスト! これより分隊長の命によりファーバート領への偵察任務につきます」

「騎士オルナよ! ルーカンの名の下に加護ぞあれ!」


 分隊長の形だけの応援を受けて、オルナは騎竜を巧みに操作して、くるりと回頭させるとオルナはファーバート領に向かうために【キルヒア・ライン】分隊より離れていく。

 その後ろ姿を厄介者がいなくなったかのように安堵するものが数名、頭が痛いと思っている者も数名、そして大半がそんな暇なんてなかったので無視していた。


 ただ分隊長だけは、


「(実力はある。この場にいる誰よりも強い。そもそもオルナの存在自体、リスリアの【タクティクス・ブロンド】に対抗するための鬼札だ。強くないはずがない。だが、それでも歴史という慣習を打ち破る強さとはまた別だ。そんなもの、私にもわからない。私ができるのはなるべく問題を起こさないように手配するぐらいだ。悪く思うなよオルナ)」


 オルナの行く道先に不安なんてない。

 ただオルナという境遇に少しだけ心配じみた思いを隠して、分隊長は関の構築の指示に戻った。


 しかし、本人を無視した心配りとは別に、まさか本当にファーバート領に賊がいるなどとは分隊長も思っていなかった。


 こうして、騎士オルナは遭遇するハメになる。


 正常な術式師とはまったく違う、異常な術式師に。

 それがリスリア王国で【タクティクス・ブロンド】と呼ばれる者を指し、その中ですら異常とされた異端の術式師だったことなど、事が終わった後ですら誰一人気づくことはなかった。


 移動の途中、オルナはずっと騎竜に対して行軍術式を使い続けていて、その姿は土煙をあげる黒い矢のように見えていたろう。

 それが苛立ちを解消するための八つ当たりじみた手段だったとしても、そうして気分が晴れた後、騎竜に無茶をさせたと地味に凹むのもいつものことだ。


 少しでもいいから騎竜を休ませてやろう。


 そう考えて、オルナはファーバート領内の地方都市に立ち入ることを決めた。


 なにも騎竜を休ませるだけが理由ではない。

 とにかく人を探すという行為は時間と人員がかかる。


 【キルヒア・ライン】の名の下に警備隊から索敵の人員を徴収すれば、騎竜を休ませる時間と人員も手に入ると思っての行動だ。


 特に外周部隊は地方都市の武力問題を解決する名目もあって、領主から無条件で人員を借りることができる。

 もっとも領主は、いくら問題を解決してもらえるからといって、勝手に領の警備を持っていかれると困るので小さなイザコザがあったりするのだが、これらは大体、【キルヒア・ライン】の要求どおりに持っていかれることが多い。


 これが【キルヒア・ライン】などの軍部と貴族たちで意思統一しづらい遠因にもなっているのだが、これに対して効率のいい答えもなく、大なり小なり軋轢を残してしまう。

 とは言っても自領の問題を解決するためだと苦を飲んで耐えてもらうしかないとオルナは思う。


「(そもそも帝国の平和のために協力するのが帝国民として当たり前なんだがな。そこは領主にも立場があって素直に頷けないのだろう。それにしてもファーバートか……)」


 オルナもファーバートについてはよく知っている。

 何せ帝王が是とした『女性騎士登用』に対して、未だに反対の表明をあげている内の一人だ。

 言ってしまえばオルナそのものを認めていない領主になる。


 政に興味を持つくらいなら、少しでも剣の腕を磨きたいオルナだが、事あるごとに嫌味じみたことを言われていれば、嫌でもファーバートのことを知ってしまう。

 そんな領主がいる領で任務を行わなければならないとなると、オルナでも気が滅入る。


「(しかし、あえて胸を張って進むべきだ。私には私の正義があり、帝国の正義となんら変わりないのなら卑屈になる必要はない)」


 とはいえ、挨拶に顔を見せるなどの行為はしない。

 任務中であるのも理由だが、わざわざオルナが顔を見せてファーバート領主の機嫌を損ねる必要もない。

 下手をすれば任務の妨害などをしてくる可能性もある。馬鹿げた話ではあるが、実際にあるのだから注意しなければならない。


 密かにそう決めて、オルナがファーバート街の門番を捕まえようとしたとき、異変に気づいた。


 石組しただけの門、その前に立っている門番はともかく、詰所から慌ただしい気配がする。まるでオルナたちに伝令が来た時と同じ、蜂の巣をつついた騒ぎだ。


「(兵たちが浮き足立っている? 何か問題でも起きたのだろうか)」


 門番は黒装のオルナが近づいてきているのに気づいて、背筋を伸ばす。


「お、おい、あ、ありゃぁもしかして!」

「黒で金のラインって言ったら……、【キルヒア・ライン】じゃないか! おい、胸のマークも金の【蛇を食う鷲】だ、間違いない! エリート部隊がこんな地方都市に一体、何の用で……」

「おい、もしかしてファーバート邸の騒ぎに、もう駆けつけたのか?」

「嘘だろ……、騒ぎになってそんなに経ってないぞ。そんな偶然、あるもんかよ」

「そこの二人」

「「は……、はっ!」」


 オルナが声をかけると更に背を伸ばしてしまう門番の二人。


「私は【キルヒア・ライン】外周部隊所属。オルナ・オル・オルクリスト。任務の途中でファーバート領へと立ち寄った次第だ。急ぎ警備の責任者との取次を要求する」

「あ……、え? あ、はい!」


 しどろもどろに返答した門番の一人が詰所へと駆け足で向かっていく。


「だぁ~~~!? こんな忙しいときになんだ!」


 と、詰所から大声が聞こえる。

 さすがにオルナもまさか声が聞こえるとは思わなかったので面食らったが、フルフェイスをかぶっているため誰にも気づかれなかった。


「なぁにぃ!? なんでこんなときにそんなのが来るんだよぉお!」

「……隊長、声デカすぎ」


 門番が顔を覆って、絶望したりした。


 オルナの機嫌を損ねていないかチラチラと見ていたがフルフェイスの向こうはのぞき見れない。

 オルナはオルナで【支配域】を広げて、周囲を異常がないか調べていたので、門番の様子に気を止めることはなかった。


「……何かあったのか?」

「あ、はい。実は先ほど、ファーバート邸で爆発がありまして」

「何故、突入しない。責任者が詰所にこもっているなど、仮にも領主に仕える兵のするべきことではないだろう」

「ご、ごもっとも。ですが、ファーバート邸の門番がやってきて事態がよくわかったらしいんですが、どうも、犯人は邸内に入ってしまったようで」

「では領主が人質に?」

「いえ、声明すらありません。部屋の中から物音がするだけで、現在、兵を何人か緊急で動かしているらしく、その手間が……ウチの隊長、書類ないと人に命令できないタイプだから」

「(鈍臭のろくさしすぎだ……)」

「あ! ちょっと!」


 やがて痺れを切らしたオルナが騎竜を降りて詰所へと向かい、ドアを開けると懸命に書類にサインを入れている隊長らしき男がいた。先ほどの門番の片割れもいる。

 突然、入ってきたオルナにギョッとしていたが、何か言おうとする間もなくオルナに胸ぐらを掴まれ、机から引き剥がされてしまう。


「私は【キルヒア・ライン】外周部隊所属。オルナ・オル・オルクリスト。貴様は何をしている」

「い……?」

「貴様の仰ぎ見るべき領主が危険にさらされているというのに書類にうつつをぬかしている場合か! 即時に兵を集め領主邸を取り囲め!」

「そ、それでは犯人を刺激してしまう恐れが、責任問題となったときに」

「では領主が死んだ責任は貴様が取るのか!」

「いえ! だから!」

「いいから掻き集めろ! 点呼を取っている暇はない! 現地集合だ!」

「は……、はい~!?」


 オルナの強烈な殺気を受けながら、慌てて返事をした隊長はすぐに詰所を飛び出していく。


「(これだから優柔不断な男は嫌いだ)」


 程なくして、ガチャガチャと鳴る金属音と共に外が慌ただしくなってきた。

 今頃、大騒ぎで兵をかき集めているのだろう。


「あの~……すみません」

「なんだ」

「いや、隊長のことなんですが、悪い人じゃないんですよ。大声出すし、書類がないとダメな人ですがね、部下思いっスからこういう事態でも全員が怪我しないようにとか安全に取り計らおうとしちゃうというか」

「それで間に合わなかったら、元も子もないだろう」

「それを言われたらオシマイなんですけど……」

「詮のない話よりもお前には通常の仕事をしていてもらおう。もしかしたら、犯人が門を抜けるかもしれない。そうなったらお前が最後の砦だ」

「うぇ? あ……、はい」


 門番は「【キルヒア・ライン】が取り逃がすような相手なんてやってられないだろ」と思いつつも明言を避けた。

 相手は門番が何十人居ても勝てない相手だ。

 オルナに抵抗するほど、彼は気骨の溢れた人材ではなかった。


「しっかし、兜でくぐもっていたけどあの人、声高いなぁ」


 まるで少年みたいな声に、もしかしたら中身は若いのかもしれない。

 門番はそんなことをつらつらと考えながらも言われたとおり、いつもの持ち場に帰っていった。


 一方、そんなことを思われているとは露知らず、不甲斐ない兵ばかりで眉根を寄せていたオルナもファーバート邸へと向かう。

 道順を知らなくても、周囲からファーバート邸に向かおうとする兵士たちがいるので、道案内には困らない。

 それ以上に貴族の家は大体、一番奥か中央に決まっているので街の奥へと向かえば大体、正解だと知っていたからだ。


 やがてファーバート邸に兵士たちが集まり、オルナが到着したことによって奇妙な緊張感が生まれていた。


 ファーバート邸は玄関口が見事に破壊されており、鍵なんて意味をなしていない状態だった。

 おそらく術式で破壊したのだろうとオルナは推測する。


 一方、兵たちは別のことを考えていた。


「(【キルヒア・ライン】がいるならこんな事件、楽勝だろうけど、なんていうか下手なところは見せられないな。何を言われるかわかったものじゃない)」


 と、一同、お叱りがあるんじゃないかとビクビクしていたのだ。

 叱られることを意識するあまり、程よい緊張感が生まれ、その結果、兵たちはいつも以上の集中力を見せることになった。


 それは後に賊が『よく鍛えている』と感想を抱くほどだったのだから、何が作用するかわかったものではなかった。


 オルナも同じ意見だったらしく、


「(やればできるじゃないか。やはり、街を守護する者となれば騎士と同じくして守る気概に溢れていなければならない。不甲斐ないと思ったことは取り消そう)」


 ちょっと評価を改めたのだった。


 しかし、ファーバート邸を取り囲んだまでは良かった。

 兵の士気も高く、後はファーバート邸に乗り込むところまで進んだのも良かった。


 実のところ、ここから先こそオルナも困っているところだった。

 ファーバート卿を救おうと思うなら、まずは邸内に入らなければならない。

 しかし、人質にでもされていたら身動きできない。

 最悪、ファーバート卿をオルナの過失で殺したことになりかねない。


 それにオルナは任務中だ。

 国境を越えた賊を見つけて、倒すか、あるいは生け捕らなければならない。

 そのための人員を借り受けるために別の事件を解決していて、賊を取り逃がしたら本末転倒だ。


「(しかし、ここで彼らだけに任せるわけにも……、いっそ【狼火棒】で)」


 【狼火棒】はオルナたち【キルヒア・ライン】に貸与されている術式具の一つだ。

 ちょうど人差し指くらいの黒い金属の棒で、表面にびっしりと術式の回路が刻まれている。

 これを作動させると激しく煙を吹き出す。

 

 術式によって発生した煙は一日中、空に狼煙を上げ続ける。


 しかし、これはあくまで所在地を正確に報せるための二次効果だ。

 本命は【狼火棒】を使うことで本隊側――この場合、分隊長の持つもう一つの【狼火棒】が呼応する。

 大まかな位置を報せる光を分隊長側が発し、それによってオルナの位置を確かめることができる。


 これを使えば【キルヒア・ライン】の分隊そのものを呼ぶことができるだろう。


「(これを使うのは賊を見つけた時だけ。そう決められている)」


 決まり事は破れない。

 オルナが己を戒めるための約束であり、【戦略級】と呼ばれる人種にはめるべき枷である。


「(やはり、ここは私が突入して、危害を加えられる前に犯人を一蹴すべきか)」


 他にも何か名案はないかと人質や立てこもりに対するセオリーを思い出している内に、壊れたドアから、ぬぅーっと人影が現れる。


 目深にフードをかぶり、顔は見えない。

 その身長から一瞬、女かと思ったが肩幅から男だとわかる。

 ローブを着ていても腰に備えられた長物の形がわかるところから剣士なのか、それとも術式剣士なのか迷う。

 

 おそらく彼がファーバート邸を襲った犯人だろう。


 ボロボロのローブを風にはためかせ、こちらを興味がなさそうな仕草で眺めている。


 しかし、犯人には犯罪行為に走った人間独特の怯えがない。

 悪いことだと自覚していて、その責任を自らが取る覚悟があるのか、悪いことだと思っていないのか。

 あるいは両方を組み合わせた考え方か。オルナには想像がつかない。


 ともかく犯罪者の癖に妙に堂々としているのだ。

 いっそ清々しいと言っていいくらい悪びれていない。


「動くな! 武装を解除してこちらに従え!」


 不思議に思いながらも敵は犯罪者。

 そして、出てきたところから観念したか、既に全てが終わっている――領主は殺されてしまっているか。

 そのどちらかしかない。

 ならば、オルナが取る道は一つだ。


「貴様は包囲されている! 抵抗は無駄だと思え!」


 声を張り上げ、オルナは犯人に投降を促す。

 正直、相手にとっては絶望的な光景のはずだ。


 数十人の騎士とオルナ、これだけの戦力をたった一人では覆せない。


 それでも相手には何の感慨を与えていないのか、微動だにしない。

 さすがのオルナも薄気味悪くなって、警戒させながら兵を動かそうと考えた瞬間、犯人の周囲に術式の紋様が走る。

 それは展開と同時に瞬く間に陣の姿に変わり、男の四肢、全てに重なっていく。


 人の身丈を十分に覆い尽くすほどの術式。

 それだけの規模を圧縮し、迷いなく人の肉体へと行使する。

 その規模から上級、あるいは戦術級と判断したと同時にオルナに戦慄が走る。


「(まさか――こいつか!)」


 それはあまりに直感めいた思考だった。


 何かヒントがあったわけではない。

 時期的にありえそうというだけの話だ。

 国境越えの賊とファーバート邸を襲った犯人、この二つに限った話ではなく複数の事件が同時に起こるなんてままある話だ。


 それでもオルナは二つの事件を結びつけて考え、こう結論を出した。


「(こいつはファーバート卿を襲うためだけに国境を越えたのか!? どんな理由がそんな愚行に駆り立てる!)」


 リスクやリターンなど意識にない考え方に戦慄しか浮かばない。

 赤子一人で千の軍勢を襲うような暴虐だ。自爆覚悟なんてものではない。

 自爆して周囲をデタラメに壊滅させておいて本人は生き残っているという矛盾のような存在だ。


 もはや狂人に等しい思考に怖気しか走らない。


「(こいつは何かが外れている――人間として外してはいけない何かを外したままのうのうと生きている! 説得なんてこいつの前では無意味だ! 斬るしかない!)」


 彼女自身、真実は知らない。

 正しさというものをずっと己に強いてきたオルナだからこそ、彼女の強さがソレを見抜く。


 この瞬間こそがリスリア王国が誇る六人の最強の術式師たち。

 【タクティクス・ブロンド】が一人、ヨシュアン・グラムとの初対面だった。


「―――!」


 本能が出した答えは正確で――正解だった。


 オルナは内源素操作と同時に肉体強化術式を走らせる。

 色は黒。特性は【拒色】。

 物理法則が拒絶され、オルナにとって都合のいい物理方式に書き変わる――置き換える。

 ゆえに黒の属性の肉体強化術式は物理をよく知っておかねばならず、正確にイメージするだけの力が必要となる。


 そのイメージ力は【支配】とも同調し、間違いなく初手で犯人を切り裂く姿を予測していた。


 名乗りも上げず闇討ち同然の方法ではあったが、『相手は常識の枠に捕らわれていない』。

 それどころか、あの強化らしき術式でこちらを壊滅に追い込む可能性すらある。


「(一撃で首を跳ねる!)」


 駆け抜けると同時に騎士剣【アルブリヒテン】を抜き放つ。

 足が地面を叩く、その反動を分散させずに100%受けておきながら、肉体へのダメージだけ無力化するように書き換える。

 ほぼ100%のエネルギー伝達によって飛び出したオルナは人の動体視力を超えていた。


 それはもう、人間が知覚できない速さだ。

 それでいて周囲の人間を傷つけないように音速で生じるソニックブームまで書き換えての、無音の瞬速剣技。


「(これで二つ!)」


 気がついたら首が飛ぶ、そんな速さであるのにローブの男はまるでそうくるとわかっていたようにファーバート領の屋根へと飛び跳ねる。

 気づかれたことだけでも驚愕の境地である。

 しかし、予測外の事態でも動じずになおも追撃するオルナ。


 お互い加速した世界で一瞬だけ、目が合う。


 赤属性の術式らしきものを使ったのにも関わらず、冷徹なまでに目は冷たい。

 まるで単眼の昆虫でもいればこんな瞳ではないか、そう思わせる目にオルナは寒気が走る。


「(気色悪い!)」


 生理的嫌悪を押さえ込み、攻撃する予定で踏み込んだ力を跳躍力に変換する。

 傍目から見れば突進した速度のまま、空へと直角に動きを変えるオルナは、どう贔屓目に見ても人の挙動とは思えないものだったことは棚上げである。


 追撃、しかし、ローブの男はそんなこともわかっていたと言わんばかりにオルナの横凪ぎの剣を寸前で回避すると、更に上空、空へと飛び跳ねた。

 すでに横凪のために剣を振るってしまっているオルナは、男が蹴り砕いた屋根の破片の中でも攻撃の手を止めなかった。


 むしろ、ここで屋根の破片をモロに受けるくらいならばと破片ごと屋根を吹き飛ばしたのだ。


 すぐさま重力に従い、地面に降りるオルナは空に浮かぶ敵の姿を見つける。


「(空! まずい! 逃げられてしまう! あんな高さまで飛ばれると三つ同時じゃないと届かない!)」


 相手が空を飛ぶのなら、空に逃がすのは一番、まずい選択だ。

 即座に【狼火棒】を着火させ、地面に放り投げてからオルナも敵を追って空へと飛び跳ねた。


 もしも『オルナが殺されてしまった場合のための保険』だ。

 この相手なら、いや、どちらも一流となればどちらが死ぬかわからない。

 そのために打てるべき手段は全て打っておく。


 そして、黒の術式が書き換えられる物理制限解除は一つにつき一つのみ。


「(三つを使う! いや、三つを使い続けないと追いつけない! 他に選択肢はない!)」


 重力を無効化させ、空気摩擦を極限まで減少、跳躍の反動を一身に受けての跳躍は黒い弾丸そのもの。

 その負荷は間違いなくオルナの意思を、心を圧迫する。


 黒の術式は人のもっとも昏い感情により集まる。

 妬み、不安、憎悪、悪意。

 それは当然のように存在しながら、当たり前の日常では決して寄ってこない源素だ。

 しかし、どれだけの深い絶望であったとしても、決して黒の源素は動かない。

 

 昏い感情を呼び水にして、黒の源素を鋼の意思で無理矢理、集めて、捕まえて支配しなければならない。

 その結果、心は黒く染まっていく。

 意味なく絶望を感じ、意味なく人を妬み、意味なく、人を殺したくなる。

 そんな感情が湧き上がるのを理性の鎖で縛り上げて、ようやく術式は効果を発揮する。


 当然、使う術式の数が増えれば増えるほど、心の中は真っ黒な欲望に支配される。

 純正の敵対心に心を支配され、やがて周囲全てを殺して回る殺人狂へと変貌する。

 

 黒属性の源素がもっとも恐ろしく、おぞましいと言われる所以でもある。


「――【キルヒア・ライン】か!」


 ここで初めて男の声を聞く。

 どうやらオルナの存在は男を驚かせるには十分だったようだ。

 そのことでオルナも相手が無機質なだけではないとわかる。


 男から放たれた無数の風圧弾を剣で弾き、推進力を変更させ真横に回避し、もっとも男に肉迫するルートを【支配】で予測し、再び男を斬れる間合いまで近づく。


 こうなってしまったら闇討ちのように無言のまま戦うわけにはいかない。

 目の前にいる犯罪者は下賤かもしれないが、オルナは騎士で、正々堂々を旨とする。

 面と向かい言葉を交わした以上、名乗らずにいるのは礼儀を問われる。


「ルーカンの名の下に名乗れ悪漢!」

「名乗りたいなら勝手に名乗ってろ」


 案の定、男は名乗らない。

 しかし、相手が礼儀知らずだからといって、礼儀を失するわけにはいかない。


 騎士として。


 それがオルナの鎖だ。

 そして黒く染まる心を正す、ヨスガでもある。

 

「【キルヒア・ライン】外周部隊所属――オルナ・オル・オルクリスト」


 名乗っても反応しないことに少し腹が立ちながらも、瞬間の変貌には驚きを隠せなかった。


 男が使った術式。

 全ての色を使い、足に纏わせた術式は高密度すぎて、もはや人のものとは思えなかったからだ。


 赤の術式が剥き出しの筋肉のように脈動し、その内部に走る黄色は疫病めいたおぞましさを覚える。腱のように白い筋、関節部にまとわりつく緑の外骨格、そして全ての術式の中でうっすらと見える真っ黒な術式は、禍々しささえ放っている。


 術式の形は決まっているものの、その表現は人によって異なる。

 清廉な人物が使う術式は陣すらも綺麗な形をしている。精神が色濃く反映されるのだ。


 人の形をしながら人外の形状を作り上げるこの精神性は一体、どうやれば作れるのか。


 そして、男がそこに込めた必殺の威力がどれほどのものか。

 おそらく人など簡単に引き裂くような力があるのだろう。


 しかし、だからこそオルナは【アルブリヒテン】を蹴撃に向かって下から切り上げる。


 【アルブリヒテン】と人外の足が接触した瞬間、男はすぐさま蹴り足を引き戻した。


「(勘がいい……、よほど戦い慣れていると見るべきだ)」


 剣は足のように簡単に引き戻せない。

 振り切ってしまわなければならない。

 それは何も剣術という技術のせいではない。


 接触の瞬間、発動した術式がオルナ目がけて迫ってきたからだ。

 しかし、その全て、【アルブリヒテン】に触れてしまうだけでバラバラに砕けて威力が失われていく。


 帝国が古くより伝える最強の騎士剣【アルブリヒテン】。

 その剣は源素同士の接続を強制的に断ち切る剣だ。

 どんな術式であれ、術式ならば【アルブリヒテン】で破壊できる。


 やったことはないが【戦略級】術式ですら切り裂くことが可能だろう。


 少なくともオルナには自信がある。


「(如何なる術式であろうとも、斬る。斬れる。私と【アルブリヒテン】なら!)」


 【アルブリヒテン】は人を選ぶ。

 まずは六色の源素を見る『眼』がなれなければ【アルブリヒテン】を十全に使いこなせない。

 使用者の術式ですら【アルブリヒテン】は切り裂いてしまう以上、己と敵の術式を区別できない者は使用以前の問題だ。


 ありふれている射程超過の能力も、刀身より完全に切り離す特殊性――『切り裂く力を飛ばす性能』のせいで扱いが難しい。

 それらは優れた剣士ならモノにできる程度だろう。


 しかし、一番の問題が控えている。

 

 もっとも人を選ぶ理由が、どうしてか【アルブリヒテン】はリスリア王国の【樫の乙女】も同じで『選ばれていないと何故かそれらの機能が使えない』ことにある。


 選ばれる基準はどれも一定しておらず、強いてあげるなら『変な才能』があるとされている。

 その『変な才能』も、何一つ共通点がないため、使用者が死んでしまって代替わりすると次が何年も見つからない時もある。

 どこに選ばれるような要素があるのか、選定される刻術回路の位置すらわかっていない。


 しかし、だからこそ使用者が選ばれた時。

 そして使用者と戦うことがあった時。


 それは巨大な壁として相手の前に立ちふさがる。


 すでに男も【アルブリヒテン】の危険性に気づいたようで、オルナから一定の距離を取ってしまっている。


「(判断が早い。やはり一流……、だが何故!)」


 何度も斬りかかり、その度、男は手を変え品を変え【アルブリヒテン】を避けてしまう。

 時には術式を犠牲にして、時には素手で剣を挟み込んだりして。


 稀に来る決定打。

 絶対不可避の一撃を予測し、剣を巧みに操っても何故か生命までは届かない。

 少しずつ、相手を削っている感触はあるのに、まったく相手が消耗していないように見えるのだ。


 辛抱強く戦えば、おそらく削り勝ちできるだろう。

 しかし、一方でオルナの【支配】から紙一重で予測を回避しているのも事実。


 そのうえ、時々、相手の攻撃が完全にオルナの予測から外れる時がある。


 そういう時に限って、やはり男は距離を保ってしまって、中々懐に入り込めないでいる。


 まるで『騎士という存在に対する天敵』のような動きなのだ。

 おまけに相手は腰にぶら下げた剣を一向に使おうともしない。

 ずっと、戦いが始まってから一貫して徒手空拳だ。


 それらが導くものが、オルナは理解できない。

 ただ、ここまで戦えば必然、相手の力量がオルナと同じレベルのものだということくらいは理解できる。


「神の名の下に名も名乗れない罪人が、よくよくやるな」

「そいつはどうも……、帰っていいか?」


 非常にげんなりした声で言われてしまった。


「罪人を斬るのは騎士の務めだ。帰すわけにはいかないな」


 本気で言われているからこそオルナも真面目に返す。


「それは処刑人の仕事だ。騎士なら捕縛しろ」

「我らに罪なし。ゆえに不備はない」

「罪人ね……、何を罪とする?」


 その問はまるで剣の師から問われたような、上位者からの言葉のような重みがあった。


「(なんだこいつは! まるで私の教師みたいな口ぶりじゃないか!)」


 そのことが妙にしっくりきていて、逆にオルナは感情的になってしまった。


「決まっている! 我ら騎士が誉れの帝国の律法こそが正義であり、従順と規律に外れる輩は須らく悪! 貴族の館を襲うなどという不遜極まりない所業を許すつもりはない!」


 躊躇いもなく、心の内に思っている信念を口にする。

 言いながら、己の言葉に疑いの余地がないことをひどく実感できた。


 正義は、正義を迷わないことである。


 オルナの心がこもった言葉は、


「単調な二元論をありがとう」


 男にはやっぱり何の感慨も抱かせなかったようだった。

 それどころか残念そうだったのが妙に腹が立つ。

 賊には理解できないとはわかっていても、やはり理解されないことにオルナは少しだけ残念な気持ちが湧いてくる。


 それほどの力。

 予測を遥かに超える想像力。想像を実際に行使する力。そして、術式を操作する技術。

 体術も今までオルナと戦えていた事実から、高い技量があると見て取れる。


 なら、何故、それだけの力を良いことに使わないのか。


「(力がありながら賊に身をやつす……、この男にも何かがあるのだろう。そうしなければならない道が。だが、やはり)」


 惜しい、と思う。


 男が放つ氷と風の竜巻を切り裂きながら、思ってしまう。


 力があれば守れるのに。

 力を正しく使えば、救われる者もあるのに。


 そう思わずにはいられない。


「諦めろ! 直に本隊が到着する。そうなればもう逃げられないぞ」

「怖い話だ。本隊が到着する前にお暇させてもらおう」


 捕まったら死刑は間逃れないだろう。

 もしかしたら空を飛ぶ術式について、拷問じみたこともされるかもしれない。

 司法取引がないとは言い切れないし、それはオルナがもっとも嫌う不義ではあるが、もしかしたら、そう、天文学的な数字の上で語るなら。


 考えながらも男の首を跳ねるために剣を翻す。


「(この男が帝国にいれば、そして忠義を誓えば、帝国はより強い国になるのに)」


 きっと相いれることだけはない。それは味方になっても同じことだ。

 性格的に噛み合わない気がしてならない。


 だけど甘い夢のような思念がオルナの動きをコンマ数秒だけ、遅らせてしまった。

 

 その隙を見逃すような相手ではなかった。


 器用に首に迫る剣をのけぞって避けて、しなる足が下から上へと突き抜ける。

 遅れた数瞬だけ、オルナの体は回避し損ねる。


 ガンッとフルフェイスの顎に当たる衝撃。

 かするだけで脳まで揺らされるような痛みと開放感。


 そして、今までフェイス越しでしかわからなかった上空の涼しい空気が、直接、頬に感じ取れる。

 そうして、オルナはようやく気がついた。


「(顔を見られた!)」


 顔を見られたとて、どうということはない。

 敵は間違いなく目の前に居て、戦うことには変わりない。


 しかし、それでも変わってしまうことがある。


 オルナが女だった、それだけで怒りや憎しみがこもった目に情欲の火が灯る。

 そういった人種をオルナは何度も見てきたし、実際、女だとわかった瞬間、舐めてかかる犯罪者もいた。


「まさか、ここで出てくるとはな」


 男もオルナが女だと気づいて、納得したような驚いたような深い呟きを漏らした。

 おそらく帝国に女性騎士がいる、ということを知っていたのだろうが、まさか目の前の人物がそれだとは思わなかったのだろう。


「ふんッ! 私が女でおかしいか」


 この男もまた同じなのだろう。

 女とわかっただけで態度を変える、そこらの軽薄な男と変わらない。


 途端、夢想が塵となって消えた。

 だが、それでいい。

 この男を斬ることには変わりない。


「いいえ。いいんじゃないでしょうか」

「何故、急に敬語になった」

「そんなことありませんよオルナさん」


 態度どころか口調が変わったのは予想外だった。

 目の前の男はどうにもオルナの予測を越えた生き物だったようだ。


「男は皆、私を見てそういう。含むところがあるならハッキリ言えばいい!」

「いえ、だから、聞いてませんし言うつもりもないし興味ないです」


 更に予想外な言葉が連ねられる。

 それどころか本当にどうでも良さそうな口調で、


「貴方が最悪の敵であることに変わりない」


 そうハッキリ、オルナを認めたのだ。


 仲間ですら、女であるという理由で毛嫌いし、遠ざけ、皮肉を言う。

 女という理由で性欲を剥き出しにする相手もいるのに。

 目の前の男は終始、まったくオルナを油断のならない相手として見ている。


 変わったのは本当に口調だけだった。


「……皮肉なものだ」


 味方ですら受け入れてもらえないオルナは、だが、しかし。

 最悪の敵だけが騎士として認めてくれるという。


 敵だけが、オルナと同等であり対等だった。


 男も女も関係なく、ただ純粋に力と強さを見て、認めた。

 奇妙な感情だと思える。ここからの友愛や親睦はありえない。

 敵対しか道がないのに、想いだけは同じだというのがなおさら奇妙だった。


「仕切り直しといきますか」


 そんなオルナの胸中をリセットするように、男は言葉をかける。


「(あぁ――そうだ。揺れている場合ではない。相手は敵だ。最悪の敵だ。向こうも私をそうだと言ってくれる。なら全力でその首を跳ねるのみだ!)」


 心の中に、敵を残念に思う気持ちはなくなっていた。

 仲間になれとは絶対に言わない。


 この男だけは倒そう。

 逆に、オルナも倒されるかもしれない。


 決意をする。

 ただ相手を圧倒する、それだけに全力を尽くす決意だ。


「騎士オルナ。問おう」


 言葉よりも行動は雄弁に語る。

 問いよりも先に答えはその姿が物語る。


「自壊寸前まで術式を!」


 いつの間にか目の前の男の奇っ怪な肉体強化の術式は、全身にも及んでいる。もはや人の形状をした化け物そのものだ。

 今まで会話していたのが変だと思えるくらいに。


 だから、今更、どんな形になっても驚かないつもりだった。


 だが、今、男が使った術式は間違いなく違う。


 全身を覆っていた剥き出しの筋肉じみた術式はさらに膨れ上がり、疫病を思わせる黄色の斑紋は更に広がり、赤と渾然としていてますます生理的な気味の悪さを掻き立てる。神経のように通う白属性は脈動するように輝き、黒の源素はじわじわとカビのように広がった。

 薄く青みがかったところが紫に見えて、それが腐敗した色にしか見えない。

 外骨格のような緑属性は、その術式に合わせて荒々しく各関節にへばりついて見える。

 

 それら全てを形容するには、あまりにも似た生き物が思い当たらない。


 人の形をした異形、人を壊して改造したような悍しき獣。


「(いや、これはもう――人の姿をした魔獣だ)」


 覚悟を決めて、剣を握りなおす。


 肉体が悲鳴をあげ、軋む音。心臓の鼓動が風切り音を貫いてまで聞こえてくる。


 『眼』を閉じれば、男は自分の術式に体を圧迫されて、鼻から血を吹き出していた。

 目は血走り、動脈が浮かび上がり、それでも紅潮しないのは内部の術式で強制的に体を冷やしているからだろう。


 確実に己を死へと導く、自殺のようなパワーアップ。


 もはや、そこから先、オルナは思考を止めていた。

 繰り出される初撃のカカト落としはそもそも接近されたことすらわからなかった。

 体に染み付いた剣術がそのカカト落としの力を利用して、逆に首を跳ねる動作へと繋げた。


 しかし、急に【アルブリヒテン】が跳ね上がる。

 首を狙ったはずの剣閃が拳によって、下から上へと逸らされたのだ。

 剣で傷ついた拳の血がオルナの頬へと滴る。相手も剣の先が少しだけ表面の術式と頬をかする。


 血が頬に染みるまでに、二人はもう動いていた。


 ほぼ一瞬の睨み合いの次は光と見間違うほどの速さのやりとり。

 一歩間違えば、どちらかが傷ついた。


 オルナの剣が男の右腕を切り裂けば、男の拳はオルナの黒鉄に包まれた右腕を軋ませた。骨が折れたろう。しかし痛みよりも行動が優先される。


 もはやお互い、鉄を斬っているのか、肉体を殴っているのかわかっていない。


 相手を確実に殺す、その時まで止まることはない――そうオルナは覚悟していた。

 

 だが、戦いはオルナの意図しない形で終わることになる。


 剣が男の脇腹をすり抜けた直後だった。

 すぐさま振り向かねば、反撃が来ると反射的に動いた時。


 オルナが見たものは、脇腹だけではなく全身から血を吹き出す男がゆっくりと、力みの一つも感じられない姿で地面へと落ちていく姿だった。


「(――自壊した、のか)」


 男が落ちていく様をしばらく呆然として見ていた。

 いつの間にか街の上空ではなく、少し離れた位置にいたことに驚きながら、オルナも落ちていく。


 一瞬の気の緩みでオルナ自身にかけられた空中機動の術式を解除されたせいだ。


 集中しすぎて忘れていた痛みが一斉にオルナの脳に送られる。

 激痛が走り、歯を食いしばり、落ちきるまでに重力に制御をかける術式を編む。


 それはちゃんと成功したようで、オルナはゆっくりと空から地面へ降りていく。


「(腕――折れている。アバラも何本かくれてやったな)」


 黒装に至ってはベコベコだった。

 ハンマーで叩かれてもこうはならない鎧であるのにも関わらず、変形し、一部は肌に食い込んでしまっている。ショルダーは革のベルトで固定されているにも関わらず吹き飛んでしまっている。そこから裂傷が見え、同じように左腕の関節部も千切り取られている。


 それだけの強烈な打撃をオルナも受けたのだ。


 全身に血の雨でも浴びたように黒装に赤がこびりついている。

 これのどれがオルナのもので、どれが男のものかわからない。

 しかし、その大半が男のもので、オルナの血があまりついていないのは鎧のおかげとも言える。


「(なるほど……、それで剣を使わなかったのか)」


 オルナは自分で考えた結論に納得した。

 古来より鎧は斬られるよりも壊されることのほうが多かった。


 スレッジハンマーやフレイル、ブラックジャックのようにフルプレートアーマーに対抗した武器は打撃を主としている。

 ハルバートなんかは重さを主眼に置いて、鎧の鈍重さを弱点として考えた武器だ。

 鎧を壊さずとなれば、レイピアやダガーなどの鎧の隙間を狙うものばかりだ。

 

 もちろん、術式を使って剣を強化すれば、鉄すら切り裂くだろう。

 その術式剣を防ぐために黒装は存在している。


 逆転、黒装はまだ通常のプレートアーマーの域を出ていない。プレートアーマーに使われる金属よりも硬くても、その構造までは変わらない。

 剣技で無理なら拳を痛めてでも衝撃でオルナを殺すしかなかったのだ。


「(そうか、舐められているわけではなかったのか)」


 そう考えれば、男は最初から最後までオルナを倒す、そのことにまったくの油断がなかった。

 オルナに対して、最適にして最効率の結果しか求めなかった。


「……終わらせよう」


 ならばオルナもまた好敵手として戦いの幕を閉じてやらねばならない。


 敵への敬意を表して一切の加減なく、その生命を奪おう。


 降り立った場所はファーバート邸――地方都市から少し離れた花畑だった。

 血の香りを消すように花の良い匂いがする場所で、男は無造作に手足を放り投げ、見るつもりもない天を見ている。

 息をするたびにゴポゴポと、うがいをするような音がする。


 奇跡的にフードはまだ顔を隠しているようだが、これから先はもう気にすることはないだろう。


 もはや虫の息。

 一体、何のために戦い、どんな道を行った結果、オルナと戦うことになったのか。

 そのことすらオルナは知らなかった。


 そんな姿を見てしまうと、どうしても聞きたくなってしまう。

 先ほど、決意したばかりではあるが、死にゆく敵の遺言を聞くのも騎士の務めだ。


 そんなに長い時間、喋っていられないだろう。

 だからこそ、全ての疑問に答えられるような、オルナが納得するような答えが聞ける問いを考えて――


「(……こう考えると難しいな。質問するというのも。問題ばかり作っている教師や師匠のような人々はこうも煩悶して問題を作るのだろうか?)」


 ――結局、なんと言っていいかわからなかった。

 それでも疑問があったのは確かだ。だったらソレを聞こうと即断即決する。


「どうしてそこまでやる? 理解不能だ」


 実際、理解できなかった。

 望みと天秤にかけるリスクが間違いなく釣り合わない

 望みと天秤にかけるリスクが間違いなく釣り合わない道を行く、その行動原理が。

 戦っている内に大体、相手の思想というものが見えてくる。


 オルナなら、帝国の正義と己の正義、二つのために勝利を目指すだろう。

 引いてはそれが帝国の繁栄と己の正しさを証明する。

 危険の渦中にいる弱者を見れば、助けるだろう。そして、弱者を守るために勝つ。


 だから、決して負けない。負けられない。負けたくない。


 そう頭の中にあれば、必然、動きも必勝の型や誰にも負けない技が生まれてくる。

 思想は意思だ。意思の形こそが強さになる。

 その結果が戦闘の型となって表れる。


 しかし、男には必ず勝ちたいという気持ちがない。

 それどころか死んでもいいのかとさえ思うような、まるで死を望むような技術ばかりなのだ。

 相手にとっても、己自身にとっても。

 爆弾のように破裂した先に、一体、何が見えるというのか。

 周囲を巻き込んで、己を犠牲にして、殺戮の限りを尽くして、それでは誰のための勝利なのかわからない。


 一体、何のために強さを求め、そこまで高みに登った末に何がしたいのか。


 特に何がしたいのか、という部分が見えてこない。

 こうして相手の遺言だと思わなければ、知りたいとも思わない狂人の境地。


「騎士オルナ。問おう」


 男は弱々しくもハッキリした口調で答える。

 まだ立ち上がろうとしているのか、体はピクピクと痙攣している。


「海菊の花に価値を問うか?」


 一瞬、何を言われているのかわからなかった。


「何を言っている」


 だから、真意を聞こうとしても男はもう、答えを聞こうとしているような気配しか見せない


 真意を隠して、何かの問うているのだ。

 そう考えると、真意に気づくのもまた問題の一つなのだろう。


 海菊。

 オルナにとっては海菊はどこにでもある、そこらに咲く花だ。

 花の善し悪しなんかわからない。そういう女らしいことは一切、してきていない。


 それでも、懸命に考える。

 花を何かの暗喩として捉えるなら、オルナにとって花とは弱者だ。

 どこにでもある、どこにでも咲く海菊の花は民衆に置き換えることができる。


 言い換えると、民にどんな価値を見出すのか、ということになるのだろう。

 

 ならば、答えは決まっていた。


「花踏む人がいるのなら、説いて諭そう」


 民は弱い。オルナのように強い力もなく、【キルヒア・ライン】のように鍛えているわけでも、騎士剣【アルブリヒテン】に選ばれているわけでもない。

 帝国の民はオルナにとって守るべき花だ。花/民を守るのが騎士の務めでもある。


 そして、もしもその花の中から他の花を害する者が出たとしよう。


「なおも踏むなら剣で応えよう」


 多くの花を救うために同じ花を斬らねばならない。

 同じ帝国の花であっても、斬る悲しみに耐え斬る。


 オルナの意思で背負うべき、業花だ。


「それが聞きたかったことか?」


 オルナにはそれしかできない。

 自らの強さを示すことでしか、誰かに応えてやれない。


「――点です」

「何?」


 ポタポタと落ちてくる雨は血の色をしていた。

 空中でオルナと男が撒き散らした血が今頃になって落ちてきたのだろう。


 そんな血の雨の中、男は何かを思い出したように笑う。


「零点です。それじゃぁ、不合格ですね」


 『そうじゃない』『そんな程度の低いものではない』『そんなのでは何一つ、救えやしない』――


 男の微笑が、言外からありとあらゆる否定の言葉を発する。


「(なら――お前は、そんな姿のお前は一体、何が守れたというんだ)」


 オルナの反発と疑問は、言葉なく胸に沈めた。

 全てはもう、終わってしまっている。これからこの勝敗を覆されることは一切なく、無慈悲にオルナが男の首を跳ねて、おしまい。


「そうか」


 賊は討たれ、帝国の平和は守られる。


 大きく振りかぶられる剣。

 正確に首の根を目指した剣――絶対に届く必殺の一撃はありふれた、それこそ草根を刈るように無造作でなめらかだった。


「――ッ!」


 しかし、オルナは知らない。

 この世にはそんな書割のような安寧を嫌う何かがあるということを。

 誰かを倒してハッピーエンドなどというありえない空想の、夢想の、幻想をもっとも身に沁みている者がいることを。

 安直で、当たり前で、どこにでもある、ありふれた絶望を胸に、この世の地獄を歩いた男がいた。


 オルナが業花を背負うなら、男は――業火を握りしめて生きてきた。


 いつだって血のような涙を流し、悲しみに空いた心を嘆き、手に入らない安物の平和を望んでも叶えられない男の生み出した怒りと憎悪は、たった一つの、人が作り出した生ぬるい地獄すら変えてみせた。

 平凡だった男を王国最強の術式師まで登りつめさせた。


 致死の刃は、そんな男には届かない。


 血の涙で出来たような真紅の鎖が花たちの中から飛び出し、オルナの四肢を何よりもきつく縛り上げた。


「い、いつの間にッ!」


 どんなに力を入れようとも剣先すらピクリともしない。

 何故、こんな術式が発動したのか混乱した頭では即座に答えを導き出せなかった。


「仲間がいたか!」


 術式はどんなに隠しても『眼』持ちからは逃げられない。

 術式を隠す術式もあるが、それには儀式場による干渉が必要で、この場のどこにもそんな儀式場など存在しない。


 だから初めに疑ったのは常識だった。


 目の前に男しかいないなんてことを考えていた常識を疑った。


「いいえ、仲間なんていませんよ」


 そいつは悪夢のように立ち上がった。

 オルナが見た限りでは間違いなく、半死半生、もはや小突けば死ぬような重体だ。


 それでも、彼にとってはそれが日常だった。


 己の生命を犠牲にし、肉体を犠牲にし、魂すらも犠牲にした。

 平凡であるがゆえに届かない望みを痛みに焼かれながらも、ドロドロの手を伸ばし、剥がれた爪で握りしめてきた。


 オルナはそんな男の過去を一切、知らない。


「(なんで動ける? 痛みに耐性があるにしたって限度がある……、なんでこの男はそんな状態で術式を使い、当たり前のように立ち上がる?)」


 だから、この世には在るのだ。

 死ぬ程度では止まらない、イカレた不条理を平然と行う者が。


 ゆえにその謎は決してオルナには解けない。

 ただ、オルナは今、敵を前に無防備な身体をさらしていることだけは理解できた。


 混乱したまま、可能な限りの情報を思い出す。

 直感じみた思考で導き出したのは、遠隔操作や自動発動する術式の存在だった。


 指定した場所に予め術式を流し込むことで、特定の条件下で発動する術式は使用者の意識が途切れない限り永久に動き続ける。

 一般的に『罠の術式』と呼ばれる種類の術式だ。


「術式の陣はなかった! どこにもなかったぞ! 半死半生の貴様はどうやっても……!」


 そんな術式なら事前にどこかで使っているはずだ。

 六色を見る『眼』を持っているオルナなら、戦闘中の不自然な術式の一つや二つ、見過ごさない。


「それこそ、いつの間に!」


 オルナに気づかれず、干渉を使わず、罠の術式を仕掛ける時間も隙も与えていない。

 なのに平然と常識と絶対を超える男に初めて、理解できないという恐怖を知る。


 恐怖と混乱。これで取り乱していたらオルナはまだ騎士以外の道があったろう。

 だが、オルナはこの急場でも騎士たらんとした。


 一転して危機に陥ってもオルナは、この状況を覆すための方法を考える。

 そして、急場であるからこそ、初めに頼ったのは己の強さだった。


「術式というのなら!」


 【アルブリヒテン】は動かせない。

 しかし、そんなことはわかりきっている。そも剣に頼るような強さにしがみついていたわけではない。


 いつでもオルナの心にあったのは『強さ』ではなく、『強さを得るために積み重ねた努力』だ。


 いくら術式でも過度な力を加えれば、容易に打ち崩せる。

 これもレジストや抗術式力とも呼ばれる、術式に抵抗する力の一つだ。


 内源素を編み上げ、術式を使おうとしてオルナの顔に驚きが満ちる。

 内源素を編もうとすればするほど、誰かに横から邪魔されて書き乱されたように陣が崩れていく。


「(術式が――使えな)」

「その罠の術式にかかっている最中は術式が使えない」


 しかし、あっさり男はオルナの身に起こった疑問を解消してしまう。


「もともと内源素を運ぶものです。それに鉄分が豊富ですから、術式を走らせるには十分な素地があった」


 男が口にしたのは術式を知る者なら常識を疑う言葉でもあった。

 もはや何からツッコんでいいかもわからない。


「(どういう理屈か知らないが、罠の術式は血を媒介にしているようだ。どうやってと言えば、おそらく体の中で編んでいたんだろう。『鉄分』とやらが何かはわからないが、しかし、そんな危ない術式を体の中で編むなんて真似、失敗したら体の中から食い破られていたはずだ。あの戦闘の中で、そんな爆弾を抱えたまま――本当に、コレは人間なのか?)」


 しかし、おおよそ、どんなものかくらいは理解できたようだ。


 理解はできるのに何一つ訳のわからないまま、あっという間に逆転されてしまって、しかも手の打ちようがないのだから、歯噛みするほど悔しくて堪らない。


 油断も、隙もなかったはずだった。


「くっ! こんな男に私が……」


 自らの今までを反省するように下を向く。


 血で染まった海菊しか見えない地面。

 

 何か他に手はないかと必死に考えるも、どう足掻いても、ここからの逆転は不可能だとわかる。

 他の誰でもない、強さに自信があるオルナだからこそ、どうにもならないことがわかってしまう。


 そして、強さを失った者がどんな末路をたどるのか。

 いくらオルナでも、その程度はわかる。


「このような真似をしてタダで済むと思うなよ罪人! 貴様のような男は必ず地獄に落ちるぞ! 恥を知れ!」


 辱められ、貶められ、殺される。

 それはよく山賊や盗賊がよくやることだ。


「……ありがとうございます!」

「の、罵られて感謝した……、だと……ッ!?」


 しかし、男から帰ってきた言葉はやはり、オルナの予測をはるかナナメ上に突っ切るものだった。


 何故、感謝されているのかとか、もう理解どころの問題ではなかった。

 たぶん、いや、かなりの、きっと【戦術級】の変態だろう。


 オルナは本能的に後ずさってしまった。

 両手が使えたら、つい自分の体を抱いていたことだろう。


 男は「にやり」と笑う。

 言いようのないほど勝ち誇った口元に「勝った!」と叫ぶこの変態の毒牙にかかるのだけはイヤだと心底、思った。


 そして、掴まれる肩。

 この男に汚されるくらいなら、舌を噛み千切ろう。

 そうまで覚悟した。


 壊れていないもう片方のショルダーに気安く手を置くと、二度ほどポンポンと叩く。


 その気安さに、硬直したオルナは不思議な顔をする。


「結婚式には呼びますよオルナさん」


 オルナの理性はもはや働いていなかった。


「こんな気持ち悪い男は初めて見た……」


 もう一刻も早く、この男を何とかして欲しい気持ちで一杯だった。

 もしも隕石が降ってきて、男の頭にでも命中してくれたら、騎士を止めて修道女になるくらいの気持ちだったのは言うまでもない。


 運命に生命を賭けてもいいと掛け値なしに思ったのだ。


「友達とかも連れてきてくださいね」


 ただ運命は、思わぬ方向に転がる。


 男の放った、この上なく間違った何気ない一言。

 当たり前のような言葉がオルナの心の深く昏い種火に燃料をぶちまけた。


「(……と、友達だと! 友達なんかいるわけないだろう!)」


 女だから、という理由で貶されるのはよくわかる。

 女であることに男がプライドをこじらせて憤慨する気持ちはわかるし、オルナにとってもそれは、言わば『逆境をはねのける強さ』に繋がっている。


 しかし、『友達』だけは違うのだ。


 子供の頃から剣を振るい、女らしいことは一切せず、ただただ強さだけを求めて、求められたオルナにとって、同年代の友達など存在しなかった。


 それが一般的にはおかしなことで、恥ずかしいと言われることだと知ってから、オルナにとって理不尽に指を差される地雷に成り果てていた。

 憤慨しても努力しても、そもそも何に繋がるのかわからない、日常に横たわる意味不明な理不尽だ。


「(暑い日も寒い日も変わらず剣を降り続け、術式を学び! 騎士になることだけに費やしてきた私が! あぁ、そうさ! おかしいと気づいたのは帝都に来てからだ! 世の中には同年代の友達という、お互いに切磋琢磨する者がいるという事実を知ったのは! 私なんか! 私なんかずっと一人で黙々と! それを語れば『変な人』扱いされる上に遠巻きに見られるし、同年代らしき女に剣ダコに染みる冬の水の冷たさを語っても何一つ共感してもらえない私に! あろうことか友達ぃ! いないと言っただけで同情じみた顔をされるアレのことか!! いるわけがないと言わせたいのか、この男は!)」


 若干、身の不幸を擦り付けるような怨嗟の言葉が胸に流れる。


 男は、知らなかった。


 女は突然、理不尽の壁を突き破ってくるという事実を。

 彼は何度もそういった理不尽を経験していたが、目の前の騎士を女扱いしていなかったため、発見が遅れてしまった。


 経験が必ずしも正しい作用をするとは限らない。


 知覚できないからこそ回避できないという真理を知らなかった。


「……殺すッ!」


 ただ、男は聡すぎた。

 その一言で、オルナがどんな立ち位置にいるのかを理解する推理力があった。


「あ、すみません。ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです、その当たり前だと思っていたので気が回らなくって……、すみませんでした」


 彼なりの、慰めのつもりだったのだろう。


「友達がいなかっただなんて」


 最後の言葉以外は。

 

 これを最後にオルナの理性は途切れる。

 術式を使う者にあるまじきことだが、しかし、混乱や恐怖、戦闘での疲れ、そして、特大の地雷を踏みつけられたことでオルナは――プッツンしたのだった。


「うがーッ!! 絶対、殺すッ! 殺し尽くすッッ!」


 四肢を縛る鎖と鋼鉄の軋む音。引っ張られて腕と足が痛んでも気にならない。


 術式の能力や騎士剣【アルブリヒテン】や高い剣術に目が行きがちだが、オルナもまた【キルヒア・ライン】の訓練についていけるくらい、身体能力が高い。


 男性顔負けの膂力は、怒りで肉体リミッターが外れている。

 その腕力は鎖にヒビが入るくらいだ。


 暴れるオルナに男はやはり、申し訳なさそうな空気を出したまま、懐から万年筆を取り出すとインク壺を開いて、指先に纏わせた術式でインクを掬い取ると、さっとオルナの顔の表面をなぞるように触れただけだった。


 インクを利用して文字を書く術式は、主に文官が用いる技術だ。

 手馴れた者なら直に書くより早いが、術式である以上、精神的な圧迫からは逃れられず、結局、手で書いたほうが疲れなくて済むという、使いどころがない技術でもある。


 それでも今日までこの技術が廃れていないのは、とっさの時にペンを持たなくていいという理由からだ。


「これでよし」


 もちろん、人の顔に『友達募集中』と書くのにも使えるだろう。ペン先で人の顔を傷つけずにも使えるうえに、術式の保護効果でなかなか落ちない。

 日常に使う術式の正しい悪用法だった。


 男は会心の作品が出来上がった芸術家のように満足気に頷いている。


「何が『よし』だ! 何をした貴様ァッッ!!」


 冷静な時の観察眼など見るに耐えない有様のオルナだった。


 ちゃんと男を見れば、手にインク壺があることくらいわかるのだが、そんなものより『貶められた感』が強すぎて状況を正しく理解しきれていない。

 『何かされたこと』だけはわかるのでなおさらだ。


 フード越しからでもわかる生暖かい視線もまた、オルナの勘どころをくすぐる理由になっている。


 やがて満足しただろう男の体に、緑色の帯状の術陣がまとわりつく。

 それが緑属性の強化術式だと判断したオルナは叫ぶ。


「待て! 逃げるな! 殺させろ!」


 騎士としての任務よりも、もう目の前の男をボコボコにすることしか頭にないオルナだった。

 しかし、猛獣が鎖に繋がれていて、その鎖がもうすぐ解けるとわかっていてその場に佇む人間がいるだろうか?


 例に漏れず男もさっさと術式を発動させ、舞い散る花と突風の二つに連れ去られるように空中へと浮かんでいた。


 そして、オルナは見た。


 その姿は赤い異形の化け物だった術式とは違い、鳥のように大きな翼とその下に大きな口を開いたような筒状の術式。前面に円錐状の術式が取りつけられた見たこともない異形の鳥。


 全体的に覆われた流線状な防護膜と翼は、飛竜のように見えなくもない。

 飛竜と違い、無機質で無駄な部分もない。よくわからないけれど非常に高度な技術によって作られた移動術式だということだけはわかる。


 それが飛行機械と呼ばれる形だということは、この世では故ウルクリウスを始めとするウルクリウス派の哲学者くらいしか知りえない。


 予想したとおり、緑の鳥は空を行く。

 オルナも何もかも見捨てて、空の彼方へと消え去っていく。


「のを黙って見てられるかぁー!!」


 逃がさない。

 もはやその一心で力を込めた。


 異形の鳥の姿に驚いたが、それはそれ。

 黙って逃がすつもりはまったくない。


 すぐさま邪魔な鎖を大きく体を動かして無理矢理、ぶち壊す。

 真紅の鎖がバラバラに砕け、短い波動をまき散らしながら空中に溶けて消えるのを眺めるまでもなく、オルナは空に浮かぶ怨敵の姿を目視する。


 騎竜の平均的な速度は一日に山を一つか二つを越える程度だ。

 これは夜駆けができないと仮定しても十分に速い。

 これに術式を使うことで、大体倍数近くの距離を走ることができる。


 しかし、目の前の賊はそんな速度を軽々と越える速さで空を飛んでいる。


 騎竜では追いつけない。術式を使っても同じこと。

 そもそも相手は障害物なんてものがまったくないのだから、同じ土俵にも立てない。


 ならば、走る。

 それが今のオルナが短絡的に決めた考えだった。

 しかし、まさかの大正解だった。


 強化の術式を騎竜に使う技術は、一つの穴がある。

 自分の体ならまだしも、他者の体への強化は非常に難しいのだ。


 肉体を二倍、強化する術式があって、これを他者にかければその倍率はわずか二割上昇するかどうかという程度。五分の一程度の効力しか発揮しない。

 一方、それだけの効果しかないのに使用する術式は難易度が跳ね上がる。

 初級が上級になるくらい、難しくなるのだ。


 ましてやオルナたちが使う【チェクト・レノ】方式は内源素から外源素に連結して使う術式だ。【チェクト・レノ】方式同士ならともかく、馬や人に一方的に与え続けるには不向きなのだ。


 それをなんとか使えるようにしたのが行軍術式であり、それでも倍率は四割を下回るくらいだ。


 人間の足がもし、一日で山を半分行く程度だとしたら、二倍で山を越え、三倍で一つと半分の山を越え、四倍で山を二つ越えるだろう。

 距離だけを考えれば倍数が増えれば増えるほど、馬よりも早くなる計算だ。


「(逃がさない逃がさない逃がさないッッ! これだけ貶められたのは生まれて初めてだッ! 絶ッ対、許しはしないぞーッ!)」


 と、考えているので、考えてやっているわけではないようだ。

 黒属性の術式を同時に四つ、フル稼働で動かす。

 そのせいでオルナの体にも負担がかかり、表皮を這うように黒い線が浮かび上がる。

 外源素を吸収し、内源素が活性化しすぎて体が刻術化しているのだ。


 刻術化は肉体を術式具のようにしてしまう。

 金属ならば影響を与えないが、肉体が刻術化すると一時的な強化の代わりに莫大な精神力と体力を奪われる。


 計らずとも、賊が自壊寸前まで術式を動かしたのと同じ効果が現れる。


「逃がしてたまるかぁーッ!!」


 ただし、現在のオルナのスタミナと精神力はちょっと尋常ではなかったりする。


 賊もまた、普段よりも損傷が激しいのかいつもより遅く飛行している。

 他にも詳しい地形を知っているオルナと、割といい加減でどんぶり勘定で空を行く男が同じ方向に向かえば、必然、オルナのほうに軍配があがる。


 この時、様々な条件、奇跡が重なり――


「(見ぃつぅけぇたぁ!!)」


 オルナは飛行する男を射程距離に収めることに成功した。

 どこをどう走ったかはオルナ自身も覚えていないが、走る森の梢の影に賊の姿が確認できる。


 瞬間、オルナの瞳孔が縮小する。


「死ねぇええ!!」


 走り、飛び、梢を蹴って、森の頭まで上昇し、剣を振りかぶって着地してはまた走る。


 【アルブリヒテン】の射程超過の能を利用して、斬撃を男に向けて放ったのだが、どうやら寸前で気づかれ回避されたようで、依然、悠々と空を飛び続ける。

 それが腹立たしくて仕方ない。まるでオルナの努力なんて関係ないとばかりに進んでいくのだからなおさらだ。


「――チッ!」


 幾度となく、剣撃による追撃と追走が続く。

 時には平野で、時には民家の上で、時には湖の上を走りながら。

 ひたすら鬼のように男を追い続けた。


 何時間経過しただろうか。


 さすがのオルナも疲れ、足がガクガクと揺れているのがわかる。

 それでも追おうとしたオルナの目の前に立ちはだかったのは遠目からでも霧の濃さがよくわかる森だった。


 霧の森。

 帝国と王国の国境に横たわる深い森だ。

 ここは帝国でも魔獣の多発地帯と恐れられ、国境の近くという理由から迂闊に騎士団を派遣しづらい場所である。

 散発的に【キルヒア・ライン】の十数名で森に入り、近隣を守るために魔獣狩りをする程度でしか干渉できない場所である。


 異常な植生を持ち、通常の木々よりも背が高く、そのほとんどの木が見上げなければ先端すら見えない。霧のせいと高い木のせいで足元あたりの植物は皆、背が低くなっているため、普通よりやや走りやすい環境とも言える。


 もっとも森の中を走れば、大抵が突然の土手や草に足を引っ掛けて大怪我をするものだ。

 どちらにしても今までのように極まった身体能力だけで抜けるには厳しい土地である。


 大きく、激しく肩で息をし、汗を流しているオルナ。

 感情のまま突き進んできたオルナも、さすがにこの森を進む行為に戸惑う程度には、頭も冷えてきたのだろう。


「(時間がない――霧の森の前ということはもうすでにリスリア王国の間近だ。ここで逃がしたらもう、奴を殺せないッ!)」


 まだ怒りは収まっていなかったようだ。


「(これが最後のチャンスだ! そろそろ、相手の挙動もわかってきた。次で当てるッ)」


 どこか目的は間違えていないのに、一周回って、対空斬撃の妙を極めたくなってきていたオルナだった。


 なるべく魔獣を刺激せずに、見つけても倒さず、追跡だけに集中するため気合と覚悟を込めて、森へと突っ込む。

 視界の悪さをなるべくカバーするために、あえて木々の上を通る。


 物理制限の解除を使えば、湖を走ったときのように梢の上に乗りながら進むこともできる。


 しかし、一心不乱に走り続けていた時と違って、警戒しつつ、視界の悪い森を行くのは必然、ペースが落ちる。

 徐々に賊の姿が見えなくなっていく。


「(くそ……! もう、無理かッ!)」


 そして、とうとう見失ってしまった。

 魔獣が多く住む森のど真ん中。たった一人残されたオルナは心細さより悔しさに打ち震えていた。


 もっと早く相手にトドメを差していれば、もっとオルナが強くあったら。

 自問するように己の責め続け、


「(いや、相手が上手だっただけだ。己の不明を恥じるあまりに責を見失うな)」


 この瞬間、オルナは賊を完全に諦めた。

 逃げられたのだ。このことをすぐに分隊長に伝え、罰を受けなければならない。


「(手痛い失敗だ。何度ともなく問題を起こすなと言われ続けていたというのにこの有様……)」


 先のことを思うと、やはりオルナでも気分が滅入る。

 罰を受けることに躊躇いはないが、やっぱりそれでも気持ちのいい話ではないだろう。


 しばらく明かりの術式を使いながら帰り道を行くと、不思議なことに気づく。


「(そういえば魔獣の気配が全然、ない。走っている途中もあまり感じられなかったが)」


 気配を探ると複数、動く気配こそあれ、魔獣独特の気味の悪さをまったく感じられなかった。

 誰かが一箇所に魔獣を集めているのか、それとも。


 そう周囲を観察していると、気づく。

 薄く漂う、腐敗した血の匂いが。


 それは南の方角から漂ってきていて、霧の冷たさもあいまって寒気を起こさせる。


「(なんだ? 一体、何が起きている? 魔獣同士の潰し合いでもあったのか?)」


 薄気味悪さから足を止め、南の方角を睨みつけても、霧のせいでよくわからない。

 気配もせず、まるでこの森にオルナしかいないようにさえ思える。


 オルナを中心に薄く周囲に広げた【支配域】。

 その先端に何かが速度を伴って接近してくる。


 何が出ようとも対処するために腰を落として【アルブリヒテン】を抜き放つ。

 それから程なくして茂みから、黒く汚れた生き物が姿を現した。


 目は白く汚れ、舌は紫色の腐臭を放ち、硬質に逆だった毛がまるでその四足に突き刺さっているように鋭く、黄色の涎をまき散らしながら来る異形。


 狼を食らって成長した、無色の源素の申し子。魔獣スレッチ・ヴォルフだ。


 それを見たことのない者ならその姿と威圧感に、正気が保てずストレスで呼吸すらも困難になるだろう。

 そんな人の精神をガリガリと削るグロテスクさがあった。


 本来なら人を見れば嬉々として飛びかかってくる魔獣であったが、そいつはオルナなんかに構っていられないという風にオルナの横を通り抜けてしまったのだ。


「な――」


 斬ろうと思った瞬間だったのだ。

 それがまったく相手にされていなかったので、動きが鈍っていた。


 それ以上に驚愕で動けなかった。


 突然、間近に現れた細い線が魔獣を尻から口へと貫き、あまりの威力に爆散させてしまったからだ。


 オルナをしても、まったく見えなかった。

 魔獣を知覚外から一突きにした攻撃に、寒さとは無関係に汗を流させる。


「何……?」


 茂みから一直線に伸びた破壊跡。

 その向こうから、白夜のように輝く鋼鉄に真紅の縁を彩った鎧の姿が見える。

 乳白色の視界の中ですら、太陽のように輝く鎧をオルナは知っている。


「すでにリスリア領だったか……」


 どうやら追いかけすぎて、リスリア領まで入ってしまっていたようだ。

 ハッキリ言って、最悪の状況だった。


 侵入者を追い掛けて無断で国境を越えたのならまだいい。

 そんな時にそこの国の騎士に見つかったらどうなるか。


 今度はオルナが賊のように追い掛け回されるハメになる。


「……こんな森の中で人がいる。それも黒装か」


 そいつは身長よりも長い槍を地面に向け、使い慣れた庭のような足取りで霧から姿を現した。


 存外に若く、歳はオルナよりも上だが、30を超えているようには見えない。

 短くも長くもない金髪に碧眼、親しみよりも冷たさを感じる美貌だ。

 リスリア人らしく長身長に、細く引き締まった体を鎧越しにも感じさせる。歩く様は武人のオルナが見ても、感嘆するほどの足運びで、まったくの揺らぎというものを感じない。


「俺の名はクライヴ。クライヴ・バルヒェット。王国騎士団が白き剣。法術式騎士団の長だ」


 静かに流れるような声色に、自然とオルナの身が引き締まる。

 誰かの上に立つ者独特の命令に慣れた口調が、騎士にとっては叱咤激励よりも効果的で、オルナも例に漏れない。


 完全に圧倒されていることに気づいて、自らに喝を入れる。

 剣を握ったまま、いつでも逃げられるようにしながらも、身構えを解く。


「如何な理由でこの霧の森に足を踏み入れ、リスリアの領土を踏んだのか。答えてもらおう、勇壮な騎士よ」

「……私は【キルヒア・ライン】が一人。オルナ・オル・オルクリスト」


 名乗りには名乗り返すことが礼儀だ。

 そして、非礼がこちらにあるのなら、ますます【キルヒア・ライン】の名前を汚さないように礼儀を貫かなければならない。


「貴君の仕えるべき王の領土に何の断りもせずに侵入した無礼。まずは詫びさせてもらおう。逃亡中の賊を捕らえる任の途中、この森に入り込んだ。他意はない。賊は見失った。これ以上、私がここに留まる理由も、侵入する理由もない。すぐに……、何か?」


 オルナが口上を述べている途中、クライヴはつい首を傾げてしまっていた。


 どうやら賊とやらがかなりの手練だったのだろう。リスリアですら硬いと鳴る黒装をあれだけ破壊され、よく見ればいくつもの怪我を負っていることがわかる。

 そして、森で見かけた『空を往く奇妙な術式』、アレの使い手にも心当たりがある。


 元々、クライヴは王国内の治安維持のために地方巡回の途中だった。


 この霧の森の近くまで行軍予定があったのは事実だが、霧の森の魔獣退治までは予定に組み込まれていなかった。

 それなのに、どうしてクライヴがここにいるかというと、行軍予定に軍からの横槍が入ったせいだ。


 突然、緊急用の伝令飛竜がクライヴの下に訪れ、三日間、森の近くで野営をすることになったのだ。

 突然の野営、三日間もの待機、ましてや理由も不透明となればクライヴでもおかしいと思った。

 しかし、命令である以上、待機は絶対だ。


 ところが目の前は霧の森。野営するにはいささか物騒極まりない。

 そこで隊の半数を森に入れ、魔獣を駆逐する作業に入ったのだ。


 そして三日目。待機命令が解かれ、通常行軍に戻る最中、遠目で知己を見かけ、オルナが現れた。


「(これはつまり……、ヨシュアン・グラムのせいか)」


 こんな訳のわからないことを起こすのは何時だって、クライヴがライバル視しているヨシュアンしかいない。


 おかしいだの理不尽だの叫びながらも、何時だって事の中心にはヨシュアンがいる。

 もっとも理不尽なのはその本人だということに気づいていないのだから、クライヴでもしかめっ面になろうものだ。


「(グラムなら……、そうだな。ありえる)」


 しかし、何年もの付き合いだ。

 顔を合わせる機会が少なくても、大体のことはわかる。戦ったことがあるならなおさらだ。

 恋する相手が惚れた相手でなければ、友人と思っているくらいなのだ。


 クライヴの中で「これはグラムのせいだ」と分かってしまえば対処は簡単だ。


 そう簡単なのだ。


 例え、隣国の最強部隊にいる噂の女騎士の顔に『友達募集中』と書かれていても、ヨシュアンが絡んでいるのならまったく自然だ。


「問題はない」

「は? ……それは不問にする、ということ、だろうか?」


 オルナは一瞬、敬語を使おうとして止めた。

 敵国の騎士に敬意を払っていても、そこまでする必要がなかったからだ。

 舐められてはいけないのも騎士の側面である。


「時にそういうこともある」


 クライヴの言いたいことが理解しきれないオルナはちょっと首をかしげる。


 クライヴもクライヴで「貴方の顔にラクガキされていますよ?」などとは言えない。

 しかも「それは知人の仕業です」とも言えない。

 言ってもいいのだが、どうやって言えばいいかわからない。


 ここでも口下手が発動していたクライヴだった。


 だが、その口下手に天啓が舞い降りた。


 かつてクライヴはヨシュアンに口下手を治すヒントをもらっている。

 それだけではなく常々、色んな人の意見を参考にしている。

 そんな中にこういう答えがあった。


「おうおう、いいか? 時には女を喜ばせるためにウィットに富んだジョークで場を盛り上げるのも肝心だと思うんだが、どーよ? お前なんかそんなのなくても大丈夫なんだろーが、結構、言葉にしないとわかんねーし、わかってくれねーもんだぞ、女って奴はよぅ」


 以前、ランスバール王から賜った言葉を思い出す。

 クライヴもクライヴなりに響くものがあったので、ずっと覚えている言葉だ。


 ウィット、というのは機転の効いた発言のことだろう。

 あえて気にしている部分を触れながら、それを笑いに変えて、「大丈夫だ、誰も気にしていないさ」と伝える高等技術だったはず、と、クライヴは学んでいる。


「わかった」


 つまり、あえて触れて気にするな、と言えばいい。


「友達がいなくても気にするな」

「……ッ!!」


 特大の地雷を踏んだ音が目の前で鳴り響いた。


「友達くらいすぐにできる。なので大丈夫だ」

「……き、貴公ッッ!!!」


 踏んだあげく、タップダンスを踊る勢いだった。

 もはやウィットではなく、ただの言葉の暴力であった。


「貴様らはいつもそうやって私を愚弄する! 女であることの何が悪い! 騎士の何が悪い! 友達がいないのがそんなにダメなことかー!! ダメである理由を述べよー!!」

「……待ってくれ。怒るな」

「怒らせてるのはお前らだ!!」


 近年、稀に見る残念が響きあう瞬間だった。


 怒りが再び頂点に達しても、オルナの剣閃は流麗のそれだった。

 足首から腕の振りまでが完璧に同調した素晴らしい一刀は、だが――


「――ッ!?」

「……怒るなと言っている」


 それよりも素早く、死角から伸びた槍の穂先に止められてしまった。

 ほぼ薄皮一枚を隔てた喉先に突きつけられた刃に、オルナの頬から冷たい汗がこぼれ落ちる。


 その槍刃の持ち主は、平然としたままオルナの生命を掴んでいる。


 絶技が、冷水となって沸騰した頭にぶちまけられ、オルナも怒りが冷めてしまう。


「な――」

「済まない。悪気はなかった」

「わ、悪気がないほうがよほどタチが悪い!」


 反射的に腕が動いてしまったクライヴだが、裏を返せば、クライヴが生命を奪われると判断して出してしまった手だ。

 それだけの技量に、クライヴは内心、歓喜する。


「(なるほど。強くなる理由などどこにでも転がっているものだ)」


 以前、これ以上、強くなっても仕方ないと言われたのだが、愛すべき人に強さを認められてより強くなろうと決心した。

 そして、今、目の前で剣を振ろうとした女騎士の動きに、これに負けてはいけないという気持ちが湧いてくる。


「オルナ・オル・オルクリスト――良き一刀だった。いつかは互いが十全な時に刃を重ねてみたいものだ」


 槍を下げるとお互いが無意識に刃を収める。


「(こ――これがリスリア人か)」


 つい出た言葉が、オルナにとっては驚きに値する。


 今日、二度目だった。

 二度、出会った敵は二人共「オルナを女ではなく敵として見た」のだ。

 そして二度ほど地雷を踏まれて、ものすごい顔になってしまった。


「(なるほど、だいっきらいだ)」


 帝国が王国にちょっかいをかける理由もわかるものだ。

 この瞬間、オルナはリスリア人が大嫌いになったのだった。


「とにかく――非礼は詫びた。私に王国を害する意図はない。この森から退去する。いいな」

「……あぁ?」


 まだ怒っているようなのでクライヴは鷹揚に頷いた。


 まさかクライヴも領土侵犯から命令されるように怒られるとは思わなかったので、表面上、じっと佇んでいても内心はクエスチョンマークで一杯だった。


 そのままオルナが肩を怒らせて帰っていく様をじっと眺めていたが、やがて本隊に戻るために踵を返した。


「(しかし、一体、何のための作戦だったのだろうか?)」


 ここでクライヴとオルナが出会うことが上層部の意図だったのか。

 あるいは全て偶然で、こうなることを予測だけしていて予防策のつもりだったのか。

 それとも、ヨシュアンのせいなのか。


 クライヴに疑問はあっても、全てを知ることはできなかった。



 オルナが霧の森を離れてから、しばらくしての頃だ。

 【狼火棒】の反応を頼りにファーバート領に現れた【キルヒア・ライン】分隊は街に一時駐屯を申請し、復興活動に取り掛かっていた。


 といっても、ファーバート邸の修復だけでなんとかなったのだから、【キルヒア・ライン】の負担は少なかった。

 せいぜい、大工のために木材を担いでいくくらいだったろう。


 そんな中、分隊長はとてつもない違和感に遭遇していた。

 その答えは街を巡り、おそらく最後に争ったであろう花畑にたどり着いた頃には氷解していた。


「(……オルナと互角の勝負ができる相手。それなら相手は【戦略級】だろう)」


 鋼鉄の指で血がこびりついた花に触れて、思う。


「(問題はオルナが本気になったのに、街の被害がまったくないことだ)」


 オルナの剣は射程超過もあって、無差別に周囲を切り裂く。

 森林が一つ、なくなることだってあるのだ。


 真相がどれほどのものかはわからないが、そんなレベルの二人が争えば街一つが消滅してもおかしくない。

 オルナが【狼火棒】を使った瞬間の、分隊長の後悔は自殺を覚悟するくらいだったのだから、当然といえば当然だろう。


「(何が起きたのか――アレは頭に血が昇るととんでもないからな。となると、相手にうまく踊らされたのかもしれん)」


 つまり、敵はオルナを相手にしながら街に被害が全く出ないように取り計らいつつ戦っていたことになる。


「(まさか。それほどの脅威だったのか?)」


 実際、分隊長の予測は正しかった。


 ヨシュアンがオルナよりも少し高い位置を常にキープしていた真の理由とも言える。


 射程超過の能があるのなら、当然、斬撃はオルナからヨシュアンに向かって振られる。

 それが下から上に向けて放たれるのなら、地上はどこも被害を受けないで済む。

 だが、唐竹割りのような斬撃は――地上への被害はヨシュアンが身を持って受け止めていた。

 

 その結果、ヨシュアンは加速度的に攻撃を受けることになった。


「(いや、そんな化け物はそうそういないだろう。杞憂でしかない)」


 真実を知っているのはヨシュアンただ一人だ。

 そして分隊長は賊とヨシュアンを結びつけることができず、結局、真相の近くまで推測できても決定的な一手がなかったために真実にはたどり着かなかった。

 

 しばらくその場で静かに立ち尽くしていた分隊長だが、ふと誰かが近づく気配を感じてそちらを振り向く。


 遠くから黒装に身を包んだ姿で分隊長に向かって歩いてくる。

 慄然とあるはずの黒装はところどころが壊れ、血がこびりついて汚れてしまっている。それだけではなく手酷い怪我も負っているのに、その決意に満ちた眼と眉で決して弱音など吐かなかったであろうことも知っている。


 疲労困憊な顔を無理矢理、険しくして必死に隠そうとしているオルナの姿だ。


 すぐに分隊長の前に膝をつき、息を整え、声を出す。


「……賊を捕り逃がしました」

「そうか……、ご苦労だった」


 この姿を見れば、反対派の人間はこぞって手を叩くだろう。


 確かにオルナは問題の種だ。【キルヒア・ライン】の根幹も揺るがすような人材で、歴史を変えるような人間だろう。

 二つとない人材だ。

 それを有用に使いきれていないことを分隊長は自覚している。


 しかし、この姿のどこに貶されなければならない要素がある。


 帝国のため、人のため、こうまでボロボロになってまで賊を追いかけることが【キルヒア・ライン】の誰にできる。

 剣とは元より、こうではなくてはいけない。


 切れすぎる刃物ではなく、いくら叩き、いくら砕こうとも折れぬ剣であるから人は信頼し、信用し、その姿に憧れと頼もしさを感じるのだ。


「如何なる罰も甘んじて受ける所存です」


 そして、何よりも気高い。

 茨の中で咲く野薔薇よりも強く在る。

 そんな花を貶める言葉を分隊長は知らない。


「そうか。ならば――【キルヒア・ライン】が分隊長からの命令だ」


 分隊長は頭を下げるオルナの肩を叩き、


「少し休め。詳しい話を聞こう」

「……分隊長?」


 まさかの言葉にオルナが顔をあげた。

 そして、オルナを見下ろしていた分隊長もオルナの顔をハッキリと見た。


 瞬間――大爆笑した。


 これに驚いたのはオルナだ。

 一体、何故、笑われたのかさっぱりわからない。


 元来、分隊長は笑い癖がある。

 厳しい訓練のせいで笑うことは滅多にないが、一度、火がつくとよじれるように笑う。


 その笑いを必死で押し殺し、


「あ、あぁ……っ! すまないな……くっ! いや、そうだな。手鏡がある。顔を見てみろ」


 小刻みに震えながら、分隊長は腰の革袋から愛用の手鏡を取り出す。

 まだ若い頃、初任給で買った櫛を妻に与えたとき、交換にとくれたものだ。

 今でも彼のお守り替わりとして持ち歩いている、女物の手鏡。


 それはオルナに非常に似合わなかったが、それでも鏡の役割を果たしたのだろう。


「は……、はー――!?」


 みるみるうちに顔が真っ赤になって叫ぶオルナの姿は、分隊長でも初めて見る姿だ。


「こ、これは賊に! いえ、まずは水を! くそ! あの男ぉー!!」


 取り乱す姿も初めてだ。


「くっくっく……、なってやろうか? 友達に」

「分隊長! 笑わないでください!」


 それがまた分隊長のツボに入って、笑い出す。


「何が『友達募集中』だ! 絶対にあの男を見つけてくびり殺してやるッ!」


 怒りと羞恥で染まる顔。


「(なるほど。そういう顔もできるということか)」


 年相応というには殺気に溢れすぎていたが、概ね、今までのイメージを壊すのに十分な威力があった。


 帝国初の女性騎士オルナ・オル・オルクリストには敵が多い。

 帝国を脅かす者、犯罪者、反対派の帝国貴族に、身内の中にもいる。


 そんな彼女に友達はいない。

 だが、こうして味方が増えていくのもまた事実だった。

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