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リーングラードの学び舎より  作者: いえこけい
第一章
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本当に純粋なものを錬成してみよう

 次の日。学園生活二日目です。

 このリーングラード学園は、勉学に勤しむために必要なありとあらゆる施設が整えられている。


 術式があみやすく作られた神殿【野外儀式場】。

 実際にテーブルマナーをともなって学べる【教養実習室】。

 リスリアのありとあらゆる権威からそろえた【大図書館】。

 各種、運動器具が取りそろえられた【室内運動場】。


 そして【森林区画】から採取した薬草を調合するための場所【錬成実験室】。


 今日の授業は『錬成』。

 実際に錬成をしていくために、施設の使用許可を取りました。

 授業に合わせて、いちいち申請を出さなきゃいけないあたり面倒だと思ったが、なるほど、初めて【錬成実験室】に入って、そんな考えは消し飛びました。


 フラスコ。ピペット。蒸留器。すり鉢。試験管。スクロールに反応炉。錬成に必要な道具が一通りそろっている。しかも最新式。各種、試験用の薬剤まで揃えてある。


 ……金がかかっているなぁ。これだけで小さな村くらい買えそうだ。


 これだけ金がかかった施設を自由に使わせるわけにはいかない。

 申請も当然だ。管理している側からすれば盗られたりすることに警戒して然るべきだ。


「原材料となるものの一部分を抽出し、より純度の濃い物体に変える。

最終的には【究極の純粋】となりうる物体を作りあげること」


 【錬成実験室】は大きく分けて二つの部屋で構成されている。

 一つは地表部の建物部分。コンクリートで出来た民家みたいな外見に窓が少ない様子はどこか刑務所を思い起こす。

 そして、もう一つは実際に錬成を行う地下室だ。


 地下で行う理由は簡単。

 フラットな気候条件にするためだ。

 ワインセラーのように一定した湿度、温度、空気の対流しない地下での実験は不確定要素を少なくするためなのだろう。


 天井に備え付けられた三つの術式ランプが、室内を照らしている。

 どこかおどろおどろしい室内の空気の中、自分は備えの黒板に要点を書きこんでから生徒たちに振り向く。


「これが要するに、【錬成】という学問の目指すべき目標であり基本でもあるわけです」


 弧状に曲げられたテーブルに集められた生徒たち。

 席順はもちろん、教室でのものと変わらない。


 右から、いつも元気なマッフル君。天上天下クリスティーナ君。小動物ちっくなセロ君。無口でドライなエリエス君。第一種不思議生命体リリーナ君。


 懸命に黒板内容を書き込んでいく生徒たちの中、微動にしてない影が一つ。


「クリスティーナ君。聞いていますか?」

「………」


 両腕を組んで、石像のように動かない少女。題名をつけるなら『プライドをこじらせた少女』。

 ウンとかスンとか言ってくれ。泣きそうだ。

 ガン無視ですよこの子。本すら開けてくれない。


 うわ。感じ悪っ!


「おーい、クリスティーナ君?」

「………」


 つん、とした感じで、そっぽ向いている。聞く耳ナッシングだ。


 どうしたらいいものか。

 いきなり授業をボイコットとは。しかし、ここまで来ているクセにボイコット。何考えてんだよコイツ。


「ほっとけばー?」

「ッ!?」


 この二日で、クリスティーナ君の犬猿の仲となったマッフル君の一言に青筋を立てたものの、やっぱり無視する方向のようだ。


「やる気ないヤツは何をしたって、何も学ばねーってオヤジも言ってたし。ほっといて授業進めたら?」

「そうもいかないのが教師という仕事でね」


 本当、どうしてだよ。こんな面倒くさいお話になったのは。


「一体、何がどうしたっていうんです?」


 マッフル君以外の生徒たちが、皆、クリスティーナ君を見ている。

 セロ君はオドオドと、エリエス君は面倒くさそうに、リリーナ君は……、なんで楽しそうなんだ?


 ゆっくりと伸ばす手。コラ! 勝手に教材に触るんじゃありません。

 嗜められて、リリーナ君は手を伸ばすのを諦めました。油断も隙もねぇ。


「口を開けば【タクティクス・ブロンド】だの教師交代だの……。うざっ!マジうざいヤツ」

「うるさいですわね愚民。あなたこそが鬱陶しいと気付きなさい」

「うざフリル」

「ウツ下郎」


 バチバチと火花が散る地下室。

 うわーい。こんな教室、初めて見るよ! 助けてよ!


「だいたい、先生は【タクティクス・ブロンド】なんだろ? なら素直に授業を受けたらいいのにさ」

「自称でしょう。そう嘯いて、騙していないと誰が証明してくれるのです」


 どうしてそこまで疑い深い。誰かに手痛く騙された過去でもあるのだろうか。まったく。


 証明するための身分証もあることはある。

 ちゃんとバカ王から証にもなる【印】を刻んだ指輪(末端価格で下手な貴族領くらい買える価値アリ)、バカ王印の承認がついた韻書もあります。


 問題は自宅に置いてきたことだろう。


 つまり、自分の手元に【タクティクス・ブロンド】だと証明する証がない。今から誰かに頼んで持ってきてもらうとしても、手紙で一ヶ月、輸送で一ヶ月。合計二ヶ月の計算。早馬を使えば一ヶ月くらいか?


 約二ヶ月間、最速で一ヶ月間、この調子だということだ。


 気が重い。

 どうして置いてきたのかと問われれば、こう答えよう。


 いや、だってこんなことになると思ってなかったし。


 軽く過去の自分の迂闊さを呪ってみた。


「あの……、セロはよくわからないですけど……。【タクティクス・ブロンド】って、すごく偉い人のこと、なの、です……、よね?」


 口調を安定させなさい。

 

「そうだね。リスリア王国では唯一、国王とタメ口聞けるくらいは偉いと思いますよ」

「ちょっと貴方。仮にも教師ならもっと詳しく説明してあげたらどうです。それとも、騙っているから詳しくもいえないとでも?」

「今は【錬成】の時間だからです。【タクティクス・ブロンド】については歴学のときにしましょう」


「……ふん!」


 いちいち突っかかる子だな。そんなに自分が嫌いか?

 自分で出した疑問にちょっと憂鬱になりました。


「貴方は、どうして【タクティクス・ブロンド】にこだわるの?」


 意外なところから意外な切りこみが入った。優等生のエリエス君だ……、あれ?


 無表情の中に、ちょっとだけ柳眉が上がっている。


 もしかして:怒ってる?


「それはラヴであります!」

「はい。そこリリーナ君。突然立ち上がって、毅然と戯言をほざかないように」

「一本いっとく?」

「君はテンションのまま適当に喋るのをやめなさい」


 あと空気を読みなさい。


「何がラヴですか。バカバカしい」


 さすがに空気を読まない王族でも、この場の空気に当てられたのか口を開く。


「王族たるものは、常により高みを目指す。高みとは誰よりもまず、優れているということですわ。その高みに到達するにはまず、高き者の薫陶を受けるのが最善かつ最短だと思ったからです。貴方たちと違って、私は真剣なのです」

「真剣なら、真面目にやって」


 即答だった。間に一秒もなかった。


 うわぁ、怖い。こわいこわいこわいこわい。

 どうして女の子ってそんな空気を平気で漂わせることできるの?


 無表情でその台詞は、心の温度を下げますから。ほら、室内も液体窒素くらいの温度に下がってるし。ガチワインセラーです。

 あーあー、セロ君が白目剥きそうな顔で涙目ですよ。


「な! この私を不真面目だというのですか!」

「少なくとも、今までの態度を真面目と評する人間は、眼が腐っているか貴方の身分に追従したいものだけ」


 言いたい放題です。容赦ないなー、エリエス君もっとやれ!


「ッ!? なら貴方は! この男が王族たる私を高みに導くものに見えましょうか!」


 本人を目の前に言いたい放題だな。こっそり減点してやる。


「ゆるい性格! しまりのない顔! 自宅で子供二人くらい飼いならしてハァハァ言いそうな幼児虐待犯罪者の顔ですわ!」


 落ち着け自分。大人は理性。男は我慢。

 それがある意味、真実でも怒るな自分。


 つか我慢できなくたって……、いいですよね? 神様だって許してくださりますよね? ここまで言われてるんだからさ? 人の尊厳逆撫でにされりゃこっちもキレますよ!


 しばきてー!


「ヨシュアン先生」

「はい。なんでしょう?」


 エリエス君が仲間になりそうな冷たい瞳でこちらを見ている。こっち見んな。


 自分が冷静に対処しているように見える人は眼科にいってもらいたい。

 足元、よく注目してほしい。


 ガクガクですよ?膝が笑ってます。

 エリエス君、目がこわい。非常にこわい。


 助けて故郷のお母さん! 妹でもいい! 父はどうでもいい。


「エス・プリム」


 指を鳴らす音。一瞬にして浮かび上がる赤い陣がエリエス君の目の前で展開する。

 音を媒介にノーモーションで発生する火球が、自分に迫ってくる。


 え?


「とじろ!」


 ほとんど条件反射のように、術式に介入して消去の術式を走らせる。

 パン、と小さな音とともに火球を消し去る。


「え、エリエス君? 何か先生、気に触ることしましたでしょうか? 先生、こわかったよ? ごくごくフツーに、ナチュラルに身の危険を感じましたけど……、言ってくれれば直す努力はしますから。人には口がついていますからね。会話をしましょう。平和的な話し合いが一番です」

「申し訳ございません」


 謝って済む問題じゃないよ!

 なんでこんなところまで来て、命の危険にさらされているんだよ! むしろ生徒から命を狙われるなんてハプニング、発生しようもないから予想もしてなかったよ!


 本当に初級の術式でよかった。

 アレがもっと複雑な術式だったら解析することもできなかっただろう。


「ですが、先生ならば。何事も無く対処すると固く信頼しておりました」


 そんな信頼、ドブに捨てて欲しい。ぜんぜん、うれしくない。


「なななな、何をなさっているのですか! 貴方は! アタマがおかしいのではなくって!?」


 誰もが思っているだろう。お前が言うな、と。

 クリスティーナ君が動揺している。いや、動揺してるのは全員なんだけど……、いや違った。

 一人だけ動揺していないヤツがいた。


「黒コゲ……、見たかったであります」


 さりげなく不吉なことを言ったねリリーナ君。先生全部、聞こえてますよ?


「え、エリエスさぁん……」


 いつも自分に子犬のように同情してくれるセロ君は、やっぱり泣きそうだ。

 しかし今だけは苦言を呈したい。泣いてないでこの殺戮マシーンを止めて欲しい。クラスメイトでしょ!? ねぇ?


「あのタイミングはまさに必殺でした」


 必ず殺すつもりだったのか。末恐ろしい娘だ。


「しかし、先生は難なく、しかも周囲に被害もなく事を納めました。数多くの修羅場をくぐってきた証だと私は思います」


 こんな修羅場、くぐりぬけたくない……。命がいくつあっても足りない。


「相殺するわけでもなく、中和でもない。術式そのものに干渉し、なかったことにした手並は音に耳する【タクティクス・ブロンド】級に匹敵すると予想します」


 この説明に、顔色を変えたのはクリスティーナ君。


 さすがに術学の知識を持っていれば顔色の一つも変えそうな話だ。

 いや、自分じゃそんな大それたことやってるつもりはないんだけどね?


「先生。ワケわかんねー。どういうことか説明してよ」

「あぁ、そうだね」


 冷静に。深呼吸一回分の時間をおいて……よし、もう大丈夫。動揺から回復完了。

 何事もなかったように、ふるまおう。


「一般的に、術式に対して抗う方法は大きく三つ。反発する術式同士をぶつけて、相殺する方法。例をあげるなら、赤属性のエス・プリムに青属性のリオ・プリムをぶつけるって感じかな? 赤と青は反発するからね」


 イメージするなら水で火を消した感じに一番、近い。


「次に、同じ術同士による中和です。固有色、赤、青、黄、緑、白、黒の六属性ですね。この属性の術を、より強い固有色属性の術式で防ぐ方法だね。これを正式名称で固有色結界、俗には防御結界やただ単に結界って言ったりするね。術式は攻撃よりも防御のほうが素早く、簡単で、強いから。術式戦では、どれだけ強い結界を張れるかで勝負が決まる」


 というより先に覚えるのが防御術式だったりするのが世の常です。

 なのに最近、攻撃の手しか見ていないのはどういうことなのか。


「そして最後は、儀式によって術を構成する方法。色々セッティングして、色々長い形式を突破してようやく使うことができる術だね。その分、いろんなことができる。さて。セロ君」

「は、はひ!」

「この三つ。それぞれの術式の大きな違いはなんだと思う?」

「え、えー、えっとです……」


 セロ君は突然、話を振られて驚いたようだが、なんとか頭は回っているようだった。

 何度か色んな場所へと目をやり、ある程度、落ち着いたら意を決するように両手をぎゅっと握りしめる。


「……えいしょうじかんのながさ、ですか?」

「正解」


 ぱっと花が咲くようにほころぶ顔。あぁ。学園始まって以来、初めて教師らしい行動ができた。


「速さの観点から言わせてもらえば、『防御>攻撃>儀式』の公式が成り立つ。だから、攻撃の術を儀式術式で防御しようとすると即死するからね?」


 敵を目の前にして、踊っているようなものだ、とも付け加えておこう。


「ですが、先生はそれをやってのけました。干渉は儀式にのみ、使える術式です。一体、何をしたのですか」


 初日にも似たようなことを聞かれたなぁ。

 どうやらエリエス君は、自分の術式に興味があるようだ。


 うーん。どうするかな。そもそも、言っても問題ないんだけど。そのうち習うお話だし。


「それは術学の授業のときに話をしよう」

「………」


 あ、納得してなさそう。

 漆色の目は恨みがましさ全開です。怖っ!


「……わかりました。話を元に戻します」


 とりあえず引いてくれたようだ。この子は何をしでかすかわからない怖さがあるなぁ。


「少しですが、お見せしてもらった授業内容とさきほどの術の腕前。総合した結果、一流以上のレベルと推定します。よって、先生の授業を師事することは【タクティクス・ブロンド】あるいは法務院クラスの導師の薫陶を授かるものと同じかそれ以上と、判断しました」

「ありがとう」


 どんな形であれ生徒に認められるということはいいことだ。

 なんだか上から目線なのが気になるが、初日の時と比べれば大きな進歩だ。


「しかし、クリスティーナ君が納得しなければエリエス君の判断が正しいとも限らないんじゃないのかな?」


 いくら信用に足る証拠と、実力があっても【タクティクス・ブロンド】以外から師事は受け付けないと、そう決めている彼女自身の問題なのだ。


 横から槍を入れたって動くかどうかは彼女次第。


「その場合、彼女に見る眼がない、ということです」

「なんですって!!」

「なんですか?」


 はっきり言うなぁ。

 というかエリエス君。結構、キツい性格してるなぁ。


「………っ!」


 クリスティーナ君は苦虫でも噛み潰したかのような顔を伏せてしまう。

 迷っているのが誰の目にも見て取れる。


 彼女自身も気がついているのだ。


 そもそも、王族といえども国が決めた決定に逆らうにははっきりとした力技が必要だし、今現在、家督も継いでいない。彼女自身は王族でありながら、貴族の娘となんら変わりない。


 何の力も持たない、ただの小娘なのだ。


 その小娘のワガママが的外れで、事態にプラスどころかマイナスでしかないことくらい、彼女も良くわかっているのだ。

 それでもこのワガママこそ最良だと、意味もない根拠で固めてしまっている。


 それにベルベールさんは言った。


 学習意欲のある者だけを選定した、と。

 彼女自身、勉強したいという気持ちはある。


 意地を貫き通して、二ヶ月を無為に過ごすか。

 ありのままを受け入れ、勉学に励むかは彼女の選択次第だ。


 きっとここで何かをしないと、クリスティーナ君は一歩も前に進めない。

 はぁ……、本当に面倒な職業だ。教師なんて仕事は。


「人が何かを学ぶということ。その姿勢に、間違いはないと思っています」


 イニシアティヴを、取ってやらなければならない。


「意地を張ったり。信用してみたり。楽しんでみたり。笑ってみたり。甘えて見せたり、ね。人それぞれ、なんだ。間違いなんてあってはいけない」


 アピールしてやらねばならない。


「何かになりたい。何かのためにこうありたい。そのために、歩いていこうとする。だから、そのための方法に後悔だけはしちゃいけない。納得して胸を張って進んでいこうとする意思こそが重要なんだよ」


 クリスティーナ君に目を合わせると、サッと避けてしまった。

 なんだコノヤロウ! と、怒るほど自分は人間止めてません。

 失敗して意固地になっている少女を怒鳴りつけるつもりなんてない。


「誰から教わるか。誰の言うことを聞くか。そして、何を信じるか。それは君たちが決めるべきだ」


 ただ、自分たちはその手伝いしかできない。

 情報を与え、見るべきことを教え、顔をあげることを教えてやらなければならない。


「だからクリスティーナ君」

「……なんですの」

「君がそんなに先生の授業を受けたくないというのなら。受けなくてもいい」


 それはきっと、最後通牒に聞こえただろう。

 みるみるウチに肩を震わせている。プライドが侮辱的な言葉と認識して溢れ出すのも時間の問題だ。

 彼女の我慢が破裂する前に、ちゃんと語りかける。


「だけど君の教師になる人間がどんな人間で、どんなことができるのか。様子を見ても、いいんじゃないかな。それくらいのチャンスをくれてもいいはずだ。結果、君の高み? を目指すに相応しくない人間なら勉強をボイコットしてもいい。それが君の学ぶ姿勢なんだよ」

「………」


 顔をしかめたままのクリスティーナ君に自分の言葉はどう聞こえているだろうか?

 施されたとされ、誇りが傷つくのか。嗜められたとして意欲を失ってしまうのか。

 それとも……。


「それ以上にまだ文句があるなら教師替えの提案を学園長に申請すると約束する」


 チャイムの音がする。授業も終わりだ。


 ……あ! 授業全然進んでないじゃないか! うわ! なんてこった!


「そ、それじゃ…今日はここまで」


 笑顔が引きつっているのを、自覚する。


 あ~あ。

 最後を説教で終わる教師って、鬱陶しく見えるっていうのに。先生としての好感度が下がっただろうなぁ。


 もしかして、自分。教師に向いてないんじゃないか? いや、向いてないに決まってるじゃないか。何を落ちこむ要素があるよ。大体、好き好んでやってるわけじゃないんだ。


 精一杯、アイデンティティを支える自分だった。


 その日の夜は、ベットの上であぐらを組んでずっとひっきりなしに唸っていたものだ。

 たとえ今日に何が起きても明日は必ずやってくる。


 さて次の日の話をしよう。


 授業の用意を整えて、教壇に立つ。教鞭を伸ばして、教科書を開く。

 それに合わせて生徒たちも教科書を開く音をさせる。

 この顔ぶれも三日もすれば、慣れてくる。


「………」


 そんな中、クリスティーナ君の顔色は優れない。

 まるで徹夜でもしたかのような顔付き。目の下に隈でもあれば、きっとそうなんだと思ってしまっただろう。

 きっと今日も教科書を開かず、そっぽを向いているだろうと思われた。


「………?」


 クリスティーナ君の教科書が開いていた。

 その不思議な光景を自分は何かの冗談じゃないかとさえ、思いながらも。

 どこか安心したような気がした。


「なんですか。早く授業を始めたらどうです?」


 それだけじゃなく、こんなことまで言い出した。


 彼女は選択したようだ。

 自分にとって、何をすればいいのか。

 何をすれば一番、良いのかを。


「べ、別に貴方の師事を受けるつもりはありません。このまま無為に過ごすよりもずっと実りがあると判断したからです。勘違い、しないように」


 と、慌ててしなくていい言い訳を始めた。


 やれやれ。自分は少し大きく物を考えすぎていたのかもしれない。

 クリスティーナ君は14歳、蝶よ花よと育てられた貴族の娘なのだ。

 その女の子が誰も知らない見知らぬ地で、見知らぬ男に教育される。

 不安だってあったはずだ。【タクティクス・ブロンド】云々に関しても本気だったのだろうが、どちらかというと不安を紛らわせたくて声を大きく張り上げただけに過ぎなかったのかもしれない。


 もしもここに、頼りになる先生が居て。

 もう声をあげる必要がないというのなら、彼女は不安に思うこともない。

 気のまま、生のまま、気ままに学ぶ意欲に没頭できる。


「もしも貴方が私の教師に相応しくないと判断した場合、教師交代してもらいますから」


 あー、やれやれ。


 素直じゃない生徒だなぁ。


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