第99話 選択
インターホンが鳴ったのは、黒田との電話を切ってから四十分ほど経った頃だった。
蓮はすぐには玄関へ向かわなかった。
テーブルの上には、あの黒いカードが置かれている。
『お待ちしております』
たったそれだけの言葉が、何度見ても気味が悪かった。
黒田と調べ始めてから、自宅の住所を誰かに教えた覚えはない。
そもそも。
エクストラバレットから帰ってきて以来、自分がどこで暮らしているかを知っている人間は限られている。
なのに。
切手も消印もない封筒が、郵便受けへ直接入れられていた。
もう一度、インターホンが鳴る。
「神谷、俺だ」
黒田の声だった。
蓮はようやく玄関へ向かい、扉を開けた。
「早かったですね」
「カードは?」
「挨拶より先にそれですか」
「見せろ」
「はいはい」
黒田を部屋へ通す。
テーブルまで来ると、黒田はカードへ直接触れず、まず周囲を確認した。
「封筒は?」
「これです」
「他に何か入っていたか?」
「ないです」
「郵便受けに気づいたのは?」
「黒田さんに電話する少し前」
「誰か見たか?」
「誰も」
「車は?」
「分かりません。外を見た時には、それらしいのはいませんでした」
黒田は封筒を手に取る。
表。
裏。
角度を変えながら確認していく。
「……本当に何もないな」
「でしょう?」
差出人。
会社名。
住所。
電話番号。
そのどれもない。
書かれているのは、神谷蓮という宛名だけ。
「カードも見せろ」
蓮が黒いカードを渡す。
黒田の目が止まった。
「……この店だな」
「はい」
二人が数日前から調べていた会員制の店。
表向きはバー。
その実態は、まだ分かっていない。
黒田はカードを裏返した。
日時。
そして。
数字の一。
「一人で来い、という意味だろうな」
「でしょうね」
「行くな」
「早いな」
「当たり前だ」
黒田はカードをテーブルへ戻す。
「俺たちがこの店を調べていることを、向こうは知っている」
「そうみたいですね」
「それだけじゃない」
黒田の目が蓮へ向く。
「お前の住所まで把握している」
「…………」
「郵便ではない。誰かがここまで来ている」
その言葉にすると。
改めて不気味だった。
自分がこの部屋にいた間にも。
すぐ近くに。
エクストラバレットと繋がる誰かがいたかもしれない。
「警察に持っていきます?」
「何と言う」
「怪しいカードが届いたって」
「それだけだ」
「ですよね」
「犯罪を示す内容もない。脅迫ですらない」
書かれているのは。
『お待ちしております』
ただそれだけ。
だからこそ、厄介だった。
「……向こう、分かっててやってますよね」
「ああ」
「俺たちが警察に持っていけないように」
「おそらくな」
黒田は椅子へ座る。
蓮も向かいへ腰を下ろした。
「神谷」
「はい」
「ここから先は、今までとは違う」
「何が?」
「今までは俺たちが追っていた」
黒田の指が黒いカードへ向く。
「これが届いた時点で、向こうもこちらを認識している」
「…………」
「下手に動けば、お前だけじゃない」
蓮の表情が変わる。
「佳子や七瀬」
「…………」
「水野もだ」
「葵も?」
「今回の生還者全員が対象になってもおかしくない」
蓮は黙った。
自分だけなら。
そう思ってしまう。
だが。
詩織。
佳子。
葵。
黒田。
ようやく日常へ戻ろうとしている人間まで巻き込むとなれば、話は違う。
「……だから行くなって?」
「そうだ」
「でも、放っておけば安全なんですか?」
黒田が黙る。
「向こうは俺の家を知ってる」
「ああ」
「俺たちが調べてることも知ってる」
「ああ」
「だったら、今さらカードを無視したところで」
「安全になる保証はない」
「でしょう?」
「だからといって、一人で乗り込む理由にはならん」
「じゃあどうするんです?」
「俺が調べる」
「またそれですか」
「何だ」
「黒田さん、一人で抱え込みすぎですよ」
「元警察だ」
「元でしょう」
「お前よりはましだ」
「それは……否定しにくいけど」
黒田が小さく息を吐く。
蓮はもう一度カードを見る。
指定された日時まで。
まだ数日ある。
「黒田さん」
「何だ」
「これ」
カードを指す。
「罠だと思います?」
「罠だろうな」
「即答ですか」
「何を目的にした罠かが分からないだけだ」
「俺を殺すため?」
「それなら、こんな回りくどいことをする必要はない」
「……確かに」
「お前の住所を知っている時点で、やろうと思えばもっと簡単にできる」
蓮は背もたれへ身体を預けた。
「じゃあ、会いたいってことか」
「可能性は高い」
「誰が?」
「それを知るために行こうとしてるんだろ、お前は」
「分かります?」
「顔を見ればな」
黒田は呆れたようだった。
「止めても行く顔だ」
「じゃあ一緒に」
「カードには一人とある」
「外まででも」
「…………」
「俺が中に入る。黒田さんは近くで待つ」
「簡単に言うな」
「でも、それが一番現実的でしょう?」
黒田は答えない。
蓮も急かさなかった。
しばらく。
時計の音だけが部屋に響く。
「……条件がある」
やがて黒田が言った。
「行っていいんですか?」
「まだ決めてない」
「条件って?」
「中で無茶をするな」
「それは努力します」
「努力じゃない」
「分かりました」
「相手を挑発するな」
「向こう次第です」
「神谷」
「……分かりました」
「勝手に奥へ入るな。飲み物も口にするな。何かがおかしいと思ったらすぐ出ろ」
「はい」
「連絡手段を切られた時点で帰れ」
「分かりましたって」
黒田はまだ納得していない顔だった。
「それから」
「まだあるんですか?」
「ある」
「どうぞ」
「俺が止めろと言ったら止めろ」
「…………」
「返事は」
「はい」
「本当だな?」
「たぶん」
「神谷」
「はい。本当に」
黒田は深いため息を吐いた。
*
指定された日の夜。
蓮は一人で繁華街を歩いていた。
人通りの多い場所だった。
居酒屋。
バー。
スナック。
派手な看板。
酔った会社員たちの笑い声。
どこにでもある夜の街。
その中を歩いていると。
本当にこの先にエクストラバレットへ繋がる場所があるのか。
一瞬。
馬鹿馬鹿しくさえ思えてくる。
スマートフォンが震えた。
黒田からだ。
『予定通りの位置にいる』
短いメッセージ。
蓮は返信する。
『了解』
黒田は少し離れた場所にいる。
店へは近づかない。
あくまで。
蓮一人が招待された形を崩さないためだ。
「……ここか」
蓮が足を止める。
古いビル。
外には目立った看板がない。
入口横。
小さなプレートに。
カードと同じ店名が刻まれていた。
蓮はスマートフォンをポケットへ入れる。
扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
中にいたのは。
スーツ姿の男だった。
バーの店員には見えない。
「ご予約のお客様でしょうか」
「……これ」
蓮は黒いカードを見せる。
男の表情は変わらなかった。
「神谷蓮様ですね」
名前を確認する必要すらない。
最初から知っている。
「お待ちしておりました」
また。
同じ言葉。
「こちらへ」
男が奥へ向かう。
蓮はその背中を見る。
「バーじゃないんですか?」
「バーもございます」
「も?」
男は答えなかった。
廊下の奥。
突き当たりに。
エレベーターがあった。
男がカードキーをかざす。
扉が開く。
「どうぞ」
蓮は中へ入った。
階数表示を見る。
地上階。
二階。
三階。
それだけ。
地下を示すボタンはない。
だが。
男が別の場所へカードキーを当てると。
表示されていなかったランプが点灯した。
エレベーターが。
下へ動き始める。
「…………」
蓮は黙ったまま数字を見る。
表示が消える。
どれだけ下がっているのか分からない。
やがて。
小さな電子音。
扉が開いた。
その瞬間。
蓮は。
思わず足を止めた。
広い空間。
柔らかな照明。
深い絨毯。
正装した男女。
テーブル。
ディーラー。
積み上げられたチップ。
カード。
ルーレット。
静かな歓声。
笑い声。
酒。
金。
地上にあった小さなバーとは。
まるで別世界だった。
「……カジノ」
「はい」
男が初めて答えた。
「会員制となっております」
蓮は周囲を見る。
普通ではない。
それくらいは。
すぐに分かった。
客の服装。
振る舞い。
動いている金額。
そして。
何より。
ここにいる人間たちは。
この場所が違法であることなど。
まるで気にしていない。
「神谷様」
男が呼ぶ。
「こちらです」
蓮は歩き出した。
その時。
近くのテーブルから声が上がった。
「五千万」
蓮の足が一瞬止まる。
聞き間違いかと思った。
だが。
誰も驚いていない。
ディーラーすら。
平然としている。
真壁の言葉を思い出す。
『普通のギャンブル好きが遊びに行くような場所じゃない』
確かに。
ここは違う。
男はカジノフロアを通り抜け。
さらに奥へ進んでいく。
「どこに行くんです?」
「お客様をお待たせしております」
「誰が?」
「私からは申し上げられません」
奥には。
また扉。
その前で。
男が立ち止まる。
「ここから先は、神谷様お一人で」
「…………」
蓮はポケットへ手を入れた。
スマートフォンはある。
電波を見る。
圏外。
「……やっぱりか」
黒田との連絡が切れた。
約束を思い出す。
連絡手段を切られたら帰れ。
「帰ります」
蓮が言った。
男は止めない。
「承知しました」
「……止めないんですか?」
「もちろんです」
予想外の答えだった。
「神谷様には、選択する権利がございます」
「選択?」
「はい」
「何を?」
男は。
初めて。
ほんの僅かに笑った。
「それは」
扉へ手を添える。
「中へ入られた方にのみ、ご説明しております」
「…………」
「お帰りになりますか?」
蓮は扉を見る。
帰る。
それが黒田との約束だった。
危険だ。
罠なのは分かっている。
それでも。
父親。
莉奈。
エクストラバレット。
その答えが。
この扉の向こうにあるかもしれない。
「……一つだけ」
「はい」
「神谷智和を知ってますか?」
男の表情は変わらなかった。
しかし。
返ってきた答えは。
蓮の足を完全に止めた。
「もちろん存じております」
「…………」
「神谷智和様も」
男は静かに言った。
「かつて、こちらのお客様でした」
蓮は。
扉から目を離せなくなった。
父親は。
本当に。
ここへ来ていた。
エクストラバレットから生還したあと。
この世界へ。
自分から。
足を踏み入れていた。
「……開けてください」
「よろしいのですか?」
「はい」
男が扉を開く。
その向こうは。
カジノではなかった。
静かな個室。
中央に一脚の椅子。
テーブル。
そして。
その上に。
一通の白い封筒が置かれていた。
蓮は動けなくなった。
見覚えがある。
自宅へ届いたものと。
ほとんど同じだった。
ただし。
今度の封筒には。
差出人が記されていた。
組織名ではない。
会社名でもない。
たった一行。
それを見た瞬間。
蓮の表情から。
すべての迷いが消えた。
『EXTRA BULLET 運営管理局』
半年ぶりに。
その名が。
蓮の前へ姿を現した。




