20話 生き延びるために
朝のトルカーナには、湿った風と魚の匂い、そして人々の喧噪が漂っていた。
窓越しに外を眺めながら、ゼノフォードはカップに口をつける。ふんわりと泡立ったカプチーノの泡が、薔薇色の唇にそっと触れた。
(苦くない)
ゼノフォードは、あまりコーヒーが得意ではない。単純に苦いからだ。
だが今口にしたそれは、驚くほどに甘かった。
大人が飲むには甘すぎるそれは、少なくとも外見上は子供であるゼノフォードのために、砂糖を沢山入れて作られたものなのだろう。
「……」
そこはかとなく胸が熱くなって、その飲み物を淹れてくれた人物を見る。
その本人は、向かいで「うめぇうめぇ」と満足そうにブリオッシュ――クロワッサンにも似た菓子パン――を頬張っているところだった。
彼は見た目も年齢も立派な「おじさん」と呼べるだろうし、実際、身体も大きく頼りがいもある。
けれども無邪気にブリオッシュをかじる様子は純粋な子供のように見えて、面白いとさえ思えた。
「ん?」
ゼノフォードの視線に気がついたロレンツォは、顔を上げた。
「もしかして、足んなかったか?」
と、ブリオッシュが大量に入っているバスケットをぐいと押して寄越してきた。
「ほらよ、好きなだけ食え」
「……もう充分だよ」
「そんな小鳥の餌くらいしか食わねェから、オメェは痩せっぽっちなんだ」
「この美しい僕が、痩せっぽっちだって? 華奢と言ってくれないかい、華奢と。
だいたい、何が小鳥の餌だい。もうブリオッシュを五個も六個も食べさせられているんだから充分だよ」
ロレンツォの笑い声が、けらけらと明るく響く。その無邪気な調子にペースを乱された気がして、ゼノフォードは一度口をつぐんだ。
――平和だ。
昨日の尋問と逃亡劇が、まるで嘘だったかのように。
(紆余曲折あったけど、これで僕は、皇位継承争いから外れることができた)
第一皇子暗殺計画を首謀した反逆者。
その汚名と引き換えに、ゼノフォードは安泰を手に入れたというわけだ。
この世界の原作『ライオライト帝国記』における物語――本編終了後に、ゼノフォードが皇帝に即位し、暴君となって殺害されるという悲劇。
その道筋を辿ることは、もうないだろう。
たとえ今後、第一皇子が暗殺されるようなことがあったとしても、それは変わらない。
(――これでよかったんだ)
なのに、尋問前に目が合ったときの、ヒルデガルトやアルノーの心配そうに歪む表情が脳裏にちらつく。
彼らが自分を信じ、庇ってくれた世界線があったからだろうか。
喉に刺さった魚の骨のように、どうしても飲み込めず、気になり続けてしまう。
もしかしたら彼らは、自分の味方になり得たかもしれない。そんな考えても仕方のない『たられば』に、つい想像を巡らせてしまうのだ。
(だけど、僕は彼らの思いを踏み躙った)
自分が『第一皇子の暗殺を企てた』と口にした時点で、彼らを裏切ったようなものだ。
それに、彼らはもう一生関わることのない人々である。気にしたところで、どうにもならないのだ。
新聞か何かを通して活躍を知ることはあるかもしれないが、それまでだ。
「――そうだ、新聞。新聞はあるかい」
ゼノフォードが問い掛けると、ロレンツォは立ち上がり、ソファの上に乱雑に置かれていた新聞を手に取って渡してきた。
「新聞なんか見たって、ロクなこと書いてねェぜ」
「僕にはその、ロクでもない情報が必要なんだよ。何せ僕は逃亡犯なんだからさ」
新聞を受け取ったゼノフォードは、それに目を落とした。開くまでもなく、一面に大々的に報じられている。
《速報・第二皇子、暗殺の企てを認め逃亡》
昨日行われた尋問で、ゼノフォード・フォン・ライオライト第二皇子が、マフィアと共謀し兄マリウス第一皇子の暗殺を企てていたことを認めた。
皇子には極刑が科される見通しだったが、その後行方をくらました。
皇室と警察当局は「国家の威信を揺るがす事態」として、現在行方を追っている――。
さらにコラム枠には、怒りが爆発していた。
《コラム:「国民の怒り」》
国を支えるべき皇子が、兄を謀り、罪を認めながらも逃げ去った――。
この裏切りを前にして、国民の怒りは沸騰している。
「血筋があれば何をしても許されるのか」「皇族がこのような醜態を晒して国は立つのか」と、市井では憤激の声が渦巻く。
誰もが問うている。もしこのまま捕らえられぬなら、帝国に正義はあるのか、と。
ゼノフォード皇子はもはや皇族ではない。ただの罪人である。
民の怒号を受け止めることなくして、この国に未来はない――。
「……悲しいね」
ゼノフォードは溜息を吐いた。
世界を敵に回してしまった。
いっそのこと尋問前に時間を巻き戻して、もう一度『僕は暗殺計画なんて立てていない、嵌められたんだ』とでも主張してみるか。
(――いや。そんなことを言ったって、誰が信じてくれるっていうんだ)
現に消し飛ばされた過去において、誰一人として信じてくれなかったではないか。
ああ、生きにくい世の中だ。
「――普通に生きたいだけなのに、そうは問屋が卸さないってか」
とりあえず、肩から『第一皇子暗殺計画の実行犯を突き止める』という荷が下りたのは幸いだ。
この先第一皇子が死のうがどうなろうが、罪人ゼノフォードの皇位継承権が繰り上がることはなく、もう自分が皇帝になる心配はないのだから。
そう。もうゼノフォードは、『皇帝となり、主人公に殺害される』という運命から、逃れられたということなのだ。
(当面の目標はただ一つ、『息を潜めて静かに生きること』だ)
生きていることに、気付かれてはならない。
誰にも見つからないように。
正体を知られないように。
死人のように、ひっそりと生きよう。
もはや皇子でも英雄でもない。
ただの一人の人間として、物語の外縁に立ち、静かに歩きたい。
(そして、目指す先は今も昔も変わらない。
――『生き延びること』だ)
□□□
「――これは酷い」
呟いたのは、飲食店の店主だった。
濡れて黒く光る石畳の上に横たわる、小さな人影。つい先程、引き上げられたばかりだ。
その肉体は水を含み、顔は判別できないほどに歪んでいる。
そして少年の明るいブロンドの髪は――この帝国の第二皇子、ゼノフォードのそれに酷似していた。
哀れなことに、ここに倒れる少年は。
――既に、死んでいた。




