第9話 恐れていたこと
倫太郎が「人間を殺すな」という最も困難な教えを根気強く伝え、ゴブリンたちが不器用ながらもその教えを理解し始めた頃だった。
ゴブリンたちは、倫太郎が教えた簡単な道具をせっせと作ったり、倫太郎が作った柵を補強したりしながら、「ミズ」「ニク」「イイ」といった言葉を復唱し、時には「コ・ロ・ス・ナ」という言葉を真剣な顔で繰り返していた。
彼らの集落は、倫太郎の指導によって、まさに「文明」の産声を上げ始めたかのようだった。
その日の夕暮れ、倫太郎は集落の入り口で、完成しつつある木製の見張り台に登り、周囲の森を見渡していた。空は茜色に染まり、森の木々がシルエットとなって浮かび上がっていた。
その時だった。
遠く、集落の東にある小高い丘の頂に、チカリ、と小さな光が瞬いた。
「……ん?」
倫太郎は目を凝らした。光は、一瞬だけ強く輝き、すぐに消えた。しかし、その輝きは、自然の光ではない。まるで、何かを覗き込むように、特定の場所に焦点を合わせて動いたかのような……。
倫太郎の背筋に、冷たいものが走った。あれは、間違いなく望遠鏡の反射光だ。
人間の集落は、モスパッドの言葉によれば、この丘の向こう、東にあるはずだった。つまり、そちらの方向にいるのは、人間だ。そして、彼らが光を反射させたということは、こちらを見ているということ。
――見つかった。
倫太郎の胸に、警鐘が鳴り響いた。これまで作り上げてきた防衛設備も、倫太郎が懸命に教えてきた「暴力をしない」「人を殺さない」というルールも、所詮はまだ始まったばかりの、浸透しきっていないものだ。人間がゴブリンを「害獣」と見なしている以上、いつ襲撃されてもおかしくない。
倫太郎は、見張り台から飛び降りると、せっせと作業を続けていたゴブリンたちに駆け寄った。彼らは、倫太郎の焦った表情に気づき、不安そうに顔を見上げた。
「お前たち、全員すぐに隠れろ! 人間が来る!」
倫太郎は叫んだ。日本語だから当然、言葉は通じていないだろう、しかしその緊迫した声と表情から、ゴブリンたちもただ事ではないことを感じ取ったようだった。彼らの間には、瞬く間に緊張が走った。
遠くの丘の光を見た倫太郎の心臓は、激しく脈打っていた。見つかった。このゴブリンたちが築き上げてきた、ささやかな文明の灯が、今まさに危機に瀕している。だが、倫太郎は狼狽しなかった。むしろ、明確な戦略が頭の中に構築されていく。
「お前たち! 全員、洞窟の奥へ! オク! ナカ! マテ!」
倫太郎は、ゴブリンたちに大声で指示を飛ばした。手で強く奥へ奥へと押しやる。ゴブリンたちは、倫太郎の鬼気迫る表情と、切羽詰まった声に、これまで感じたことのない恐怖を覚えたようだった。彼らは、互いに押し合いへし合いしながらも、懸命に洞窟の奥深くへと身を隠していく。倫太郎は、最後の一匹が姿を消すのを確認すると、彼らに藁で編んだ敷物をかけ、洞窟の入り口を塞いでいた大きな石を、さらに手厚く積み重ねて補強した。
そして、倫太郎は松明を手に、洞窟の入り口の前に一人、立ち続けた。
煌々と燃える松明の炎が、倫太郎のイケメンゴブリンボディを照らし出す。その姿は、周囲の闇夜と、洞窟の奥に潜むゴブリンたちとの間に、明確な境界線を引くかのようだった。倫太郎は、燃え盛る松明を高く掲げ、遠くの丘からでもその光が見えるようにした。
人間は、この集落のゴブリンを「害獣」と見なし、これまで通り襲いかかるかもしれない。だが、倫太郎には確信があった。
「今晩は、攻めてこないはずだ……!」
倫太郎が教え込んだ「清潔」な生活。簡易的ながらも築き上げた「防衛設備」。そして、何よりも倫太郎自身が放つ、ゴブリンとはかけ離れた「知性」と「異質な存在感」。
人間の軍隊は、偵察の段階で、普段のゴブリン集落とは明らかに異なる「何か」を感じ取ったはずだ。彼らは、目の前の光景が、これまでのゴブリンの常識とはかけ離れていることに気づいただろう。松明を掲げて見張り番をするゴブリンなど、いままでいなかったはずだ。そして、その「未知」の存在に対して、人間は警戒する。闇雲に突撃するような無謀な真似はしないだろう。
松明の炎は、倫太郎の覚悟の光でもあった。それは、人間に対する無言の問いかけだ。「我々は、ただのゴブリンではない」と。
静寂な闇の中、倫太郎は松明の炎を見つめ、夜が明けるのを待った。
静かに燃える松明の炎だけが、倫太郎の疲れ切ったゴブリンボディを照らし続けていた。東の空が白み始め、夜明けが近いことを告げる頃、倫太郎の体は極限まで疲弊していた。まぶたは重く、視界はかすむ。徹夜で松明を掲げ続けた腕は、もうほとんど感覚がなかった。
そこに、『彼ら』はやってきた。
森の奥から、複数の気配が同時に倫太郎に迫っていた。倫太郎が疲労困憊の体でなんとか反応しようとした時には、すでに遅かった。
「そこを動くな、ゴブリン!」
複数の声が、冷徹な響きで倫太郎を包囲した。反射的に松明を構えようとした倫太郎の腕を、左右から伸びた強靭な手が掴む。わずかに火を残していた松明が地面に落ち、ジュッと音を立てて消えた。周囲は、急速に明るくなりつつある夜明けの光と、兵士たちの甲冑が擦れる音に包まれた。
倫太郎は、視界が定まらない中で必死に目を凝らした。そこにいたのは、金属製の兜と胸当てに身を包んだ兵士たちだった。彼らの手には、鋭利な剣や槍が構えられている。そして、その兵士たちの中心には、ひときわ威厳のある騎士が立っていた。
全身を輝く銀色の甲冑で覆い、その手には重厚なロングソードが握られている。兜の隙間から覗くその眼光は鋭く、倫太郎を射抜くかのようだった。
「貴様がこの集落のゴブリンか。一体何者だ? 我々の知るゴブリンとは、随分と趣が異なるようだが」
兵士たちのボス――騎士らしき人物が、低い声で倫太郎に問いかけた。声色からすると、どうも女性のようだ。彼女の声には、警戒と、わずかな好奇心、そして何よりも冷徹な殺意が混じり合っていた。
倫太郎は、ゴブリンたちの姿を脳裏に思い浮かべた。
洞窟の奥で、倫太郎の帰りを待っている彼ら。
この場で自分がどう行動するかで、彼らの運命が決まる。
倫太郎は、疲れ切った体と、思考の鈍りを感じながらも、懸命に頭を回転させた。