第1話 水音
——ずるずる。ぬちゃぬちゃ。
粘着質な何かを引きずる音。走る圭子を追い立てるそれが鼓膜を打つたび、毛をむしられた鶏のように肌が粟立つ。
古い板張りの床を踏みしめると、ぎしぎしという悲鳴が廃校の廊下に響いた。今にも破れそうな木造の校舎が恨みがましく「お前を下の階に落としてやろうか」と叫ぶ。
窓から入る月明かりだけを頼りに、暗い廊下を駆け抜ける。板切れの声など圭子の耳には届かない。コレがお化け屋敷だったなら、雰囲気は抜群だっただろうなんて、馬鹿らしいことが浮かんで消える。
「はぁ、はぁ……っ!」
——ずるずる。ぬちゃぬちゃ。
息はもはや途切れかけている。しかし、足を止めるわけにはいかない。あの音に追いつかれるわけにはいかない!
圭子は彼我の距離を確認しようと、身にまとう嫌悪感を振り払い首を回した。
――その拍子に彼女自身の長い髪が視界を塞ぐ。あげくの果てにその毛が汗で濡れた頬にまとわりついた。
自慢のストレートヘアであったけれども、今この時は疎ましいものでしかない。
——ずるずる、ぬちゃぬちゃ。
何も分からぬまま前に向き直り、髪を乱雑に流した。頬を伝うのはもはや汗だけではない。
圭子を追う音はだんだん大きくなっていく。まるで速さなんて感じさせない間抜けな音なのに。
心臓が跳ねる。飛び回って圭子を置き去りにしてしまうのではないか。
――こんなに怖いのに、どうでもいいことを考えてしまえるなんて。
そんな知りたくも無い新事実にあてられながらも、圭子は必死に走った。
曲がり角が見える。その奥には確か階下への階段があったはずだ。逃げろ、逃げろ。今にも崩れ落ちそうな身体に鞭打ち、圭子はなお走る。
スニーカーのラバーが軋む。曲がり角。ほとんど直角に走りぬけた。
「……ッ!?」
曲がりきったと思った瞬間、パーカーの裾を何かに強く引かれた。ぞわりと悪寒が背筋を駆け上る。
そんなものは錯覚だと自身に言い聞かせ、振り払うように足を速め――ようとし、繊維が引き裂かれる音がした。勢いそのまま、圭子は前に倒れ込む。
「ひっ……!」
喉が引きつる。痛いなど感じもしなかった。
——ずるずるぬちゃぬちゃ。
粘着質な水音は、すぐそこまで迫っていた。
圭子は恐怖にかられながら、おそるおそる背後を振り返る。
だが、そこには何もいない。圭子が恐れていた何かは、まだ圭子を捕らえてなどいなかった。
視線を壁にやる。頭が飛び出した釘がそこにあった。
「あ、あは……」
思わず安堵が漏れる。ひくひくと強張った笑みが自然浮かんだ。
幸運なんかではないはずなのに、圭子は己の裾を掴んだのが釘だった事を名前も知らぬ神に感謝していた。
——ずるずる、ぬちゃ、ぬちゃ。
だが、音は止まらない。我に返る。益体の無い思考は霧散し、壊れかけた笑みも消え失せた。立ち上がろうとし、横腹の辺りを強く引かれた。
そこに、また釘がいた。見れば壁や床を問わずチラチラと釘の頭がはみ出て見えている。
「こんな雑な作りで学校なんて!」
思わず叫ぶが、叫んだところで釘は外れない。圭子はなおも無為にパーカーの裾を上下させる。ならば破ってでもと、力任せに布を引っ張るが、思いのほか圭子の服は頑丈らしい。あるいは、既に服を破る力すら残っていなかったのか。
「引っかかるときはあっけなかったのに!」と、先ほど感謝を捧げた神を呪う。
——ずる、ずる、ぬちゃぬちゃ。
迫る。焦る。
ぐいぐいと力を入れて布を引っ張ると、わずかに破れる音がした。
——ずるずるぬちゃぬちゃ。
足を踏ん張りパーカーを引く。角度を変えた綱引きのようにして、渾身の力を込めた。
「きゃあっ!」
びりと派手な音を立て、ついに釘とパーカーが離れる。勢い余った圭子はそのまま後ろへ倒れ込んでしまった。尻から床に落ち、頭を軽く壁にぶつける。
——ずるずるずるずるずるずるぬちゃぬちゃぬちゃぬちゃぬちゃ。
粘着質な音は既にそこまで来ていた。
立ち上がりながら、圭子は身体を前へ進ませようと、
「——え?」
足が、冷たい液体のような何かに、掴まれているような、気がした。
軋む首を無理矢理に振り返らせる。
——そこには、月明かりに妖しく照る、巨大な粘液ともゼリーとも言えないような塊が鎮座していた。
「ひ、ぎぃ」
せっかく立ち上がったというのに、圭子は再び床に尻餅をつく。透明な触手が足首に絡みついていた。
股間に生暖かい感触が広がる。圭子のジーンズからは吸収しきれなかった水分が染み出し、床に水たまりを作った。
それでも圭子は身体を捻り、必死に前へ前へと進もうとする。
掴まれた足は動かない。そんな現実は認めないというように、ただひたすらに這いつくばって、無様に床を掻いた。
けれど、ついにはその手にも冷たい感触が降る。
足を掴むのと同じゼリー状の触手。それが、圭子の腕を包み込んでいた。
「い、いや……」
触手は粘液へと姿を変え、ずぶずぶと圭子を足から包み込む。
ゼリーの出来損ないのような中は、外側の冷たさからは想像も出来ないほど生暖かい。ふいに肉食動物の口内を連想した。
「やだ、やだあ……!」
食べられる。殺される。死んでしまう。
空になったと思った膀胱の中身が、じわりと再び染み出てくる。
「あ、あは、あはは……」
自然に笑いがこぼれる。
――これは、夢だ。目を覚ませば、きっと、明日香やつぼみちゃんと、いつもの部活が待っていて。
体の半ばまでが、粘液に抱擁された。布団のなかにいるような微睡みさえ覚える。
そして、圭子は、
「あ、は」
夢見心地のまま、意識を——、
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