第77話 エミリアの最後の警告
古い館の地下室。暖炉の火が揺らぎ、影が壁に踊る。
アルトは机に両手をついて、眼下の地図を睨みつけていた。帝国軍の動きを示す赤い印が、三つの大陸を蜘蛛の巣のように覆っていく。北大陸ではニナとの通信が途絶えて四時間。東大陸ではリリアからの報告が途切れがちになった。そして帝国首都ソルネイアの中央広場では、皇帝の軍勢が地下遺跡へ殺到しているという。
シャーロットは窓際に立ったままで、帝国の夜景を眺めていた。王族としての優雅さは欠片も見えず、その表情は一人の女性戦士のそれ。唇を一文字に結んでいる。
セリアは肩の包帯を気にしながら、発見した古い石板の文献を読み続けていた。肌は蒼白で、明らかに無理をしている。だが、彼女の目は燃えていた。
その時だ。
「来たな」
エミリアの声が暗くつぶやかれた。
彼女は地下室の奥――暖炉の脇にある古い書棚の前に立っていた。三百年以上生きた身体は、いま明らかに緊張に包まれている。顔には深い皺が刻まれ、蒼い瞳は何かを見つめていた。虚空ではなく、何か確かな『何か』を。
「何です?」
セリアが身を起こす。石板から目を離さない。
「皇帝だ。帝国中枢から魔力の波動が出ている。あれは……」
エミリアの言葉が途絶えた。彼女の手が震えている。三百年の時を生きてきたこの女性が、震える。それだけで、この状況がどれほど深刻であるかが伝わってくる。
アルトが顔を上げた。
「何が起きているんですか、エミリア」
質問というより、命令に近い。この数日で、アルトも変わった。少年のような迷いは消えていなかったが、責任感だけが一段階深くなっていた。
エミリアが振り返る。その動作はゆっくりで、しかし目に映るすべてが絶望を宿していた。
「お前たちは知らんだろうが……」
彼女は深く息をついた。
「今起きようとしていることは、過去のサイクルで何度も起きた『最悪のシナリオ』だ」
シャーロットが窓から身を翻した。
「最悪のシナリオとは」
「システムの支配だ。完全なる支配」
エミリアの言葉が重く落ちる。
「皇帝マクシミリアンは『システム守護者の会』の後継者だと聞いた。つまり、彼は古い知識を保有している。そして、その知識は……」
エミリアが机に近づいた。地図を見つめる。赤い印が次々と動いている。
「お前たちが想像する以上に危険だ。マクシミリアンはシステムの中核――中央コアにアクセスしようとしている。もし、あの男が中央コアを掌握すれば……」
彼女の言葉が止まった。しかし、言わずとも理解できる沈黙があった。
アルトが立ち上がる。
「世界が終わる」
「そうだ」
エミリアが頷いた。
「システムそのものは、人類を守るために古い時代に創造された装置だ。しかし、それは同時に『完全なる支配装置』でもある。もし一人の人間がそれを支配すれば、全世界の人間が、その意思の下に置かれることになる」
セリアが立ち上がった。石板を握ったまま。
「絶対支配。個人の意思による、全人類の強制支配」
「そういうことだ」
エミリアが二人の少女に目を向ける。
「お前たちは幸運だった。アルトが現れるまで、システムは単なる『背景』に過ぎなかった。誰もが『運命』と呼び、その存在さえ知らなかった。しかし、アルトが契約者として覚醒した瞬間から、状況が変わった。システムが活性化し始めた」
アルトが首を横に振った。
「それは……俺のせい、ということですか」
「いや。お前のせいではない。それは必然だ。システムは定期的に『契約者』を選出する。過去の六代の契約者たちも、同じように現れた。そして、彼らはすべて……」
エミリアが言葉を選ぶ。
「失敗した」
シャーロットが前に出た。
「失敗とは何ですか。六代の契約者たちが、何をしたというのですか」
「彼らは、すべて世界を『良くしよう』と思った」
エミリアの声が冷たい。
「最初の契約者は、奴隷制度を廃止しようとした。素晴らしい目標だ。しかし、その過程で大陸戦争が勃発し、三百万人が死んだ」
シャーロットが息を飲む。
「二番目の契約者は、貧困を消そうとした。彼女は経済システムを根本から変えようとした。その結果、帝国経済は崩壊し、飢饉が起きた。死者は五百万人」
セリアの顔が蒼白になっていく。
「三番目は疫病を消そうとした。四番目は戦争を禁止しようとした。五番目は……」
エミリアが言葉を切った。
「五番目は何も考えずに、ただシステムを純粋に使おうとした。その結果、人類は一度、絶滅しかけた」
アルトが机に手をついた。
「なぜ……なぜそんなことが」
「『相互選択』という概念がなかったからだ」
エミリアが目を閉じた。
「彼らは皆、自分の『正義』を強制しようとした。契約システムの力を使って、世界を自分たちの理想に合わせようとした。そして、その度にシステムは彼らを『排除』した」
「排除?」
「消滅させた。歴史から、世界から。誰もが忘れるように」
長い沈黙。
暖炉の炎が、ぱちぱちと音を立てる。
「そして、今、七番目の契約者が現れた。それはお前だ、アルト。そして、その直後に皇帝マクシミリアンが動き始めた。これは……」
エミリアが目を開く。その瞳には、三百年の歴史が凝縮されていた。
「これは『最悪のシナリオ』の始まりだ。もし、マクシミリアンがシステムを支配すれば、お前たちが築こうとしたもの――ニナの自由、リリアの選択、シャーロットの改革、セリアの理想――すべてが、一人の皇帝の命令で無に帰る」
アルトが両拳を握った。
「なら……なら俺たちは何をすればいい」
「戦うことだ」
シャーロットが声を上げた。
「世界全体を巻き込む戦いに」
エミリアが頷いた。
「そうだ。もう逃げられない。お前たちが戦わなければ、この世界は終わる。しかし、お前たちが戦っても、世界が終わるかもしれない」
セリアが呟いた。
「矛盾している」
「それが現実だ。セリア。お前が研究していた『相互選択』というのは、理論的には完璧かもしれん。しかし、実現するには、まず、この危機を乗り越える必要がある。そして、それは……」
エミリアが、アルトとシャーロットを交互に見つめた。
「極めて危険な賭けになる」
その時だ。
地下室の壁が揺れた。微かだが、確かな地震が。
シャーロットが窓に駆け寄った。
「皇帝が動き始めました。帝国軍が複数の地点から同時に進撃しています」
アルトが立ち上がった。
「ニナとリリアには」
「まだ通信できていません」
セリアの声に、焦りが混ざっていた。
その瞬間、館全体を揺るがす爆発音が響いた。壁から土埃が舞い上がる。
エミリアが静かに言った。
「来たな。地下道を通じて」
アルトが顔を上げた。
「何が」
エミリアの目が、単なる警告ではなく、予言のようなものを宿していた。
「皇帝の刃だ。そして、それは……」
彼女が言葉を切った。
次の瞬間、地下室の入口が爆発した。
黒い煙が立ち上り、その中から影が浮かぶ。数人ではない。十人。二十人。いや、それ以上。帝国軍の精鋭部隊だ。
シャーロットが剣を抜いた。
セリアが魔力を集める。
しかし、その時、一人の人影が煙から歩み出た。
長身。黒いコート。そして、その瞳には、システムと同じ蒼い光が宿っていた。
エミリアが呟いた。
「来たのか……『選別者』が」
アルトは、その言葉の意味を理解できなかった。
しかし、確かなことは一つ。
この戦いは、もう後戻りできない場所へ入った、ということだ。




