第61話 失われた時代の記憶
瓦礫の中で、アルトは息もできない。
肺が焼けるような痛み。心臓が規則正しく鼓動するたびに、体中の筋肉が悲鳴を上げる。だが、最も苦しいのは体ではない。心だ。
五人のヒロインたちとの約束の鎖が、絡まり、縺れ、断裂しかけている。リリアの迷い、シャーロットの葛藤、ニナの怒り、セリアの後悔、そしてエミリアの――
何か、違う。
エミリアの「糸」の色が、他の四人と全く異なる。淡紫、銀色、深紅、蒼白。その四色が、アルト自身の意思と相互補完しようとしている。しかしエミリアだけは違う。黒紫色の糸は、複雑に絡みつきながらも、アルト自身の意思を「読み取ろう」とはしていない。むしろ、観察している。分析している。
いや、違う。操作している。
その瞬間、瓦礫が跳ね上がった。
「咳をしてくれ。お前が死ねば、全ては終わる」
エミリアの声だった。冷たく、乾いた声。だが、その言葉の背後には、深い苦痛が隠されている。
アルトは咳き込み、血を吐いた。砂埃を肺から押し出す。やがて視界が戻る。
半壊した聖堂の地下。天井から光が差し込み、その先にはセリアが倒れている。いや、倒れているのではない。エミリアに押さえられているのだ。
「セリア」
アルトは名前を呼んだ。しかし、セリアは応答しない。意識を失っているのか、それとも――
「心配するな。彼女はまだ生きている。ただ、知らぬ方が幸せな真実を、目覚めさせないようにしているだけだ」
エミリアが立ち上がった。黒い鎧は傷一つない。その美しい銀紫色の髪が、地下室の薄暗い光の中で輝いている。
「お前は、わかっていない。契約者とは何なのか。約束とは何なのか。この世界がどのように形作られてきたのか」
「教えてくれるのか」
アルトは立ち上がろうとした。だが、体が動かない。複数の約束の鎖が、彼の体を拘束している。いや、違う。自分自身の意思が、自分の体を拘束しているのだ。
四人のヒロインたちへの約束。セリアを守る約束。ニナを救う約束。シャーロットを支える約束。リリアの笑顔を守る約束。
その全てが、相互に矛盾している。
「千年前、まず始めがあった」
エミリアは、セリアの体を軽く持ち上げ、古い石の椅子の上に座らせた。その動作は優雅で、しかも暴力的だ。
「人類はこの世界を、自らの手で創造した。違う。創造し直した」
「どういう」
「七千年の歴史。その全てが偽りではない。だが、その全てが真実でもない。契約者たちが存在する前、この世界は混沌していた。約束という概念すら、曖昧だった。人類は、約束を守るという行為さえできなかった。文明は何度も、何度も、崩壊した」
エミリアは、アルトの前に立った。
「それを救うために、最初の『誰か』が、システムを作った。約束を強制実行する魔力。それを。そして、そのシステムを管理するための『契約者』を産み出した」
「七番目の契約者は、僕だけじゃない」
「そうだ。一番目の契約者は、千二百年前に現れた。その者の名は、歴史に記録されていない。だが、その者の行動は、記録されている」
エミリアが、古い羊皮紙を取り出した。それは、アルトが第52話で見たものと同じ形だが、色が異なる。もっと古い。もっと大きい。
「ドレイク帝国の建立。誰が、どうして、あの帝国が三百年も存在できたと思う?」
「わからない」
「第一の契約者が、その皇帝と約束を交わしたのだ。『絶対に裏切らない皇帝』と。その約束は成立した。そして、その皇帝の治世は、確かに安定していた。だが」
エミリアは、羊皮紙をめくった。
「その皇帝が死ぬと、帝国は三年で崩壊した。約束が、皇帝という個人に紐付いていたからだ。第一の契約者は、そこで気づいた。約束とは、個人を超越するものでなければならないと。しかし、その気づきは、遅すぎた」
アルトの脳裏に、光景が浮かぶ。
ドレイク帝国の衰退。内戦。飢饉。そして、無数の人命の喪失。それが、全て一人の契約者の判断ミスによってもたらされたものだったのか。
「第二の契約者は、八百年前に現れた。その者は、第一の契約者の失敗を知っていた。だから、別の方法を試みた」
「社会構造そのものを、約束の対象にしたのか」
「そうだ。法律、制度、道徳。全てを、約束の枠組みに組み込もうとした。その時代は、確かに栄えた。でも」
エミリアの眼差しが、変わった。悲しみ、怒り、後悔が混ざった複雑な表情。
「そのシステムが完成したとき、第二の契約者は消滅した。システムそのものに吸収されたのだ。なぜなら、彼の約束と、彼の意思が、完全に一致してしまったからだ」
「それは、支配だ」
「そうだ。契約者が個人として存在することをやめたのだ。その代わり、彼は『社会そのもの』になった」
アルトは、その意味を理解しようとしても、できない。
個人であることをやめる。意思を失う。システムの一部になる。
それは、死と同じじゃないか。
「その後、六百年前に第三の契約者が現れた。その者は、同じ過ちを避けようとした。約束は、社会全体ではなく、特定の集団に限定しよう。そう考えた。だが、その結果は」
エミリアが、別の羊皮紙をめくる。
「内戦。階級の固定化。人間不信。三百年以上続く泥沼の戦争。第三の契約者は、その戦いの中で自らの約束が矛盾していることに気づき、自殺した」
「自殺」
「そうだ。約束の鎖に拘束されたまま、自分の手で自分を終わらせた。その光景は、壮絶だった」
エミリアの声が、震えている。それは怒りではなく、悲しみだ。
「お前が知らない、七番目の契約者は、この者たちを全て見守ってきた。一番目、二番目、三番目、そして四番目、五番目、六番目。全員が、失敗した」
「エミリア、お前は」
「七番目の契約者の監視者だった。その次の時代の管理者になるはずだった者だ。だが、私は、この責任から逃げることを選んだ」
エミリアは、自分の腕を見つめた。その腕には、何か見えない鎖のような印があるような気がする。
「沈黙を選んだ。契約者としての力を手放し、ただの人間として、ただ見守ることにした。五百年間、そうしてきた。そして、お前が現れた」
「僕は、違う」
「違う、か。本当か。お前は、四人のヒロインと約束を交わした。だが、その約束は、既に矛盾を生じている。セリアは、帝国皇帝に情報を流した。リリアは、商人ギルドの統領として、アルトの指示に従うことと、自身の商売上の利益が相克している。ニナは、獣人としての独立と、人間への信頼の間で揺れている。シャーロットは、帝国の王女としての責任と、アルトへの愛情の間で、引き裂かれている」
「それでも」
「それでも、何だ。お前も、失敗するのだ。第七の契約者よ。お前も、やがて消滅する。その時、この世界は、再び混沌へ堕ちるか、またはシステムに完全に支配されるか、どちらかの道を辿る」
アルトは、拳を握った。
複数の約束の鎖が、痛むほどに締まる。
「だから、沈黙を選べ。契約者としての力を手放せ。そうすれば、全ての矛盾は、消える。四人のヒロインも、自由になる」
「それは」
「逃げだ。お前が責任から逃げることだ。だが、それ以外に道はない」
エミリアの言葉が、アルトの心を揺さぶる。
もし、本当にそうなら。もし、契約者として生きることが、必ず破滅へ通じるなら。
その時、声がした。
「嘘だ」
それはセリアの声だった。
セリアが、目を開いた。その瞳には、激しい光が宿っている。
「エミリア、お前は嘘をついている。その証拠に」
セリアは、身体を起こし、エミリアを見つめた。
「お前は、今、アルトを殺そうとしていない。なぜだ。本当に沈黙がアルトの救いなら、お前は迷わずアルトを消すはずだ」
エミリアが、動きを止めた。
その瞬間、約束の鎖ネットワークが、激しく明滅する。
四人のヒロインたち――リリア、シャーロット、ニナ、そしてセリア自身の心が、同時にアルトと同期する。
その光景は、壮絶だった。




