第39話 ニナの決意
夜明け前の獣人領域は、静寂に包まれていた。
焚火は既に消え、冷えた灰だけが黒く残っている。アルトは眠れぬまま、領域の外れにある崖っぷちに座り、遠く地平線を眺めていた。胸の奥底に、重い石が沈んでいるような感覚。昨日のニナの言葉が、何度も何度も蘇る。
「約束や契約は本当の自由ではなく、別の形の支配だ」
あれは正しい指摘だった。自分は何か大切なものを見落としていたのだ。力で救う。契約で束縛する。その二つの行為が、本質的には同じ支配の論理だということを。
足音がした。振り返ると、ニナがそこに立っていた。
昨夜のような怒りは消えている。だが瞳には、何か決然とした強さが灯っていた。獣人らしい、迷いなき戦士の表情。アルトは立ち上がる。
「おはよう、アルト」
ニナの声は、静かだった。昨日の激怒と打って変わって、落ち着いている。だからこそ、その言葉の重みが増す。
「ニナ。昨日は俺の不甲斐なさを……」
「聞け」
ニナが手を上げて、アルトの言葉を遮る。彼女は崖っぷちの隣に腰を下ろす。アルトも再び座った。二人の間には、一人分の空間がある。
「昨夜、ずっと考えていた。一人でな」
ニナの声は、まるで自分自身に聞かせるようでもあった。
「アルト、お前を見ていると腹が立つ。それはお前が悪いからじゃなくて、お前の力が強すぎるからだ。その力があれば、誰もが頼ってしまう。頼られたいと思う」
アルトは何も言わず、ニナの言葉を聞く。
「俺たち獣人は、数千年間、人間に支配されてきた。戦争で敗れて、法律で下等と定められて、採掘場で魔力を吸われてきた。その間、独立した選択をする自由なんて、ほぼ失ってた」
ニナの拳が、わずかに震えている。
「だからこそ、アルトが現れて『解放する』と言った時、俺たちの何人かは、その言葉に依存してしまった。新しい支配者か、新しい救い主か、その違いを判断する力をなくしてた。それはお前の責任じゃない。でも、それが現実だ」
地平線の向こうに、薄っすらと夜明けの気配が見える。
「昨日、お前が『獣人評議会の意思を最優先する』と言ったのを聞いた時、俺は思ったんだ。お前は学んでいるんだ、って」
ニナがアルトを見る。その瞳には、昨日の怒りはない。代わりに、静かな認めがある。
「グレイシャもそう言った。『あの若き契約者は、やっと気づき始めた』ってな。見上げられるのを辞めたお前の姿勢が、評議会に認められたんだ」
「だが、ニナ」
アルトが呟く。
「俺が心の底から謝罪しても、お前たちが被った傷は消えない」
「そうだ」
ニナが淡々と言う。
「でもな、アルト。そこからが重要なんだ。お前が失った自信を取り戻すためにじゃなく、これからどう進むかを決めるために」
ニナが立ち上がる。アルトも続く。
「昨夜、評議会の長老たちと話した。そして、決めた。俺は、アルト、お前と共に行動する。だが、それは『契約』じゃない。『約束』じゃない。単純に、俺が独立した獣人戦士として、お前の仲間として選んだ行動だ」
ニナの言葉が、アルトの心に響く。
「お前の力が必要だ。だが、それでお前に依存するわけじゃない。お前も俺たちの声を聞く。俺たちもお前の知恵を活かす。そうやって、対等に進む。その関係なら、俺は共に歩める」
「ニナ、それは……」
「つまりな」
ニナが手を差し出す。その手の表情は、奴隷時代の項垂れた姿勢ではない。戦士の、対等な者同士の手。
「お前と俺は、もう『契約者と被契約者』じゃない。ただの、一緒に戦う仲間だ。あるいは……」
ニナの頬が、わずかに赤くなる。
「時には、もっと深い関係になるかもしれねえが、まずはそこからだ」
アルトは、ゆっくりニナの手を握った。その手は温かく、力強く、何の魔力も感じない。ただの人間同士の、手と手の繋がり。
「ありがとう。ニナ」
「礼を言うのは早い」
ニナが苦笑する。
「これからの戦いは、お前一人の力じゃ足りねえ。俺たち獣人の力も必要だ。グレイシャも、評議会の戦士たちも、お前と共に動くことにした。ただし、評議会の最終的な判断を尊重することが条件だ」
「わかった」
アルトは頷く。
「それから」
ニナが続ける。
「リリアとシャーロットも、昨夜ずっと話し合ってたらしい。あの二人、お前にはいろいろ複雑な感情を持ってるらしいが、それでも一緒に進むことにしたらしいな」
「そうなのか」
「ああ。つまりな、アルト」
ニナが再び地平線を眺める。夜明けが近い。空が、紫色から薄紅色に変わり始めている。
「お前は、もう一人じゃない。何人かの女が、その力も含めて、お前を信頼することにした。だから、その信頼を裏切るなよ。自分の力に溺れるなよ。常に、『約束すること』の危険性を思い出せ」
「ニナ……」
「それが、俺たちがお前に課す試練だ。別の言い方をすれば、お前の成長を見守るってことだ」
ニナが振り返る。その瞳には、複雑な感情が混在している。怒り、感謝、不安、期待。それらが全部、一つの瞳の中に共存している。
「昨日、お前を殴ったことは後悔してない。だが、その後のお前の答え方は評価する。だから、一緒に進む」
獣人領域の向こうから、朝焼けが迫ってくる。
「ただし、な」
ニナが、アルトの胸を人差し指で指す。
「お前がこれからも何か間違った判断をするのは目に見えてる。俺たちは『それでも進む』ことを選んだ。だから、その時が来ても、崩れるなよ。俺たちに甘えるなよ。自分の過ちを自分で乗り越える力を持て」
「わかった」
アルトは真摯に頷く。
「最後に一つ」
ニナが言う。
「シャーロットが、お前に会いたいって言ってる。それからリリアも。朝飯の後で、テントに来いと」
火が灯り始める。東の空が、薄い黄色になった。
「わかった」
アルトはもう一度、ニナの手を握った。握り返してくる力は、強く、確実で、何の依存も含まない。
「ニナ。俺は、お前たちの信頼を絶対に裏切らない」
「言うな。行動で示せ」
ニナが言い、朝焼けの中で笑う。その笑顔は、昨日までの獣人奴隷のそれではない。戦士の、対等な者の、選択をした者の笑顔だった。
領域の中から、誰かが朝の合図を告げるラッパを吹く。その音が、崖の上まで響き渡る。
ニナがアルトに背を向ける。
「来いよ。メシだ」
その後ろ姿を見ながら、アルトは思った。
自分が『約束の力』で得られるものは、相手の行動の強制であり、契約による束縛である。しかし、ニナが与えてくれたものは、それとは異なる。自由な選択から生まれる、本当の信頼。
自分は、今までの自分の力を、もう一度見つめ直す必要がある。
【契約成立】という能力は、相手の自由を奪う危険性を常に孕んでいる。それならば、自分がなすべきことは、その力を使わずに相手を信頼すること。力なしで相手を動かすことの難しさを学ぶこと。
アルトは、ゆっくり領域の中へ歩き始めた。朝日が、彼の背を照らしている。
テントの中に、リリアとシャーロットが待っているのだろう。二人は、昨夜どんな話をしたのか。二人は、これからアルトに何を求めるのか。
その全てが、アルトの進むべき道を形作っていくのだ。
ニナの言葉が、もう一度蘇る。
「約束や契約は本当の自由ではなく、別の形の支配だ」
その言葉を胸に刻んで、アルトは仲間たちの下へ向かった。




