第37話 共存の可能性への問い
獣人領域の中心部にある古い石造りの集会所は、薄暗い照明の中で静寂に包まれていた。
ニナの祖母である老狼族・グレイシャが上座に座り、その周囲には十数人の獣人評議会のメンバーが円形に配置されている。アルトはその中央に立たされていた。
「では、改めて聞こう」
グレイシャの低い声が集会所に響き渡る。
「お前は、我々獣人をどのように救うつもりか。その『約束』とやらで」
アルトは深く息を吸った。複数の契約による負荷はまだ残っているが、高熱からの回復により思考は明晰になっていた。この場面に臨む前に、シャーロットとリリアと何度も話し合った。
「三つの案があります」
アルトは落ち着いた声で答えた。
「一つ目は、獣人領域の完全な独立です。帝国の支配から逃れ、獣人たちだけの自治区を確立する。契約の力で帝国軍の進攻を防ぎ、東大陸の複数王国と同盟を結んで国際的な地位を得る」
ニナの祖母は頷いた。その隣にいる中年の雄獣人が身を乗り出す。
「続けよ」
「二つ目は、段階的な権利獲得です。帝国内での獣人の地位を徐々に向上させ、まずは採掘場などの強制労働を禁止し、次に教育機会を与え、最終的には参政権を獲得する。長期的なアプローチですが、大規模な戦争を避けられます」
その言葉に、複数の獣人から低い唸り声が漏れた。
「三つ目は、人間との共存です。奴隷制度そのものを廃止し、獣人と人間が法的に対等な存在として共に暮らす社会を構築する。これが最も根本的な解決ですが、最も実現が難しい」
アルトは各評議会メンバーの表情を観察していた。期待の色は見えたが、同時に何か別の感情も浮かんでいるように思えた。
その時だった。
「すべてが人間中心的な発想だ」
ニナの声が冷たく響き渡った。
彼女は集会所の壁に身を寄せていたが、アルトの提案を聞くと、顔を上げた。その瞳には明らかな怒りがあった。
「一つ目の『独立』にしろ、お前は『帝国軍の進攻を防ぐ』と言った。つまり、防衛であり、受動的だ。我々獣人が五百年間、採掘場で苦しめられてきた怨嗟を晴らすことはない」
「二つ目の『段階的な権利獲得』は最悪だ。人間が許可してくれるのを待つ?奴隷制度を廃止するのに、なぜ人間の同意が必要だ。それは被害者が加害者を許す順番を待つようなものだ。不平等の中で『段階的に』平等を求める愚かさを理解しないのか」
アルトは口を開こうとしたが、ニナは続けた。
「三つ目の『人間との共存』は甘ったるい理想主義だ。数千年間、獣人を下等種族と定義してきた人間社会が、契約一つで変わるはずがない。お前は『約束』の力を使えば世界が変わると信じている。だから、獣人を『助ける』立場でしか考えられない」
その言葉は、アルトの胸に鋭い痛みをもたらした。
「ニナ、それは違う。僕は――」
「違わない」
ニナが身を乗り出す。
「お前は五十七人の獣人と『自由を約束する契約』を結んだ。だが、お前の『約束』が本当に自由か?採掘場から逃げ出した彼らは、どこへ行った?お前の契約に縛られて、お前に『感謝』しなければならない心理に陥っていないか」
グレイシャが静かに頷いた。その動作を見て、アルトは自分の推測が正しいことを理解した。
「採掘場から逃げた獣人たちは、評議会に報告された」
グレイシャが語った。
「彼らは『助けてくれたアルトのためなら働ける』と言ったという。それは奴隷状態の延長ではないか。鎖が帝国のものから、お前のものに変わっただけ」
その言葉に、アルトは返す言葉がなくなった。
確かに。確かに、複数契約を結んだとき、五十七人の獣人たちから感じた『感謝』は、本当に自発的なものだったのか。契約の強制力が彼らを『正しい選択』へ導いたのか、それとも『アルトへの依存』を新たに生み出したのか。
「わかっているのか」
ニナが一歩、アルトに近づいた。
「お前の『万能感』の危険さを。お前は『奴隷たちを解放する』という快感の中にいた。だから気づかなかった――お前の力が、新しい形の支配を生み出す可能性に」
リリアが声を上げようとしたが、シャーロットが静かに彼女の腕を押さえた。
アルトは深く息を吸った。自分の契約能力の弱点――『相手の自由意志を奪う危険性』――が、ここまで露骨に突きつけられたことはなかった。
「では、どうしろと」
アルトが問い返した。
「獣人たちは、何を望むのか」
その問いに対して、グレイシャが答えた。
「それは、我々が決めることだ。お前ではない」
「わかりました」
アルトは頷いた。
「ニナの言う通りです。僕は自分の力で相手を『助ける』ことに酔っていた。でも、本当の解放は、他者から与えられるものではなく、自分たちで勝ち取るものなんだ」
その言葉を聞いて、ニナの表情が若干和らいだ。
「だから、提案を変えます」
アルトが続けた。
「僕は『獣人を助ける』のではなく、『獣人たちの意思を尊重する』パートナーになりたい。採掘場の獣人たちを解放する時も、戦うなら戦う。交渉するなら交渉する。すべての決定を、獣人評議会に委ねます。僕の『約束の力』は、その決定を実現するためのツールとしてだけ使う。決定権は、絶対にお前たちにある」
集会所に沈黙が降りた。
グレイシャは無表情で、しばらくアルトを見つめていた。
「お前は、本当にそれを実行できるのか」
その問いは、単なる質問ではなく、試験のようなものだった。
「できるか、できないか、わかりません」
アルトは正直に答えた。
「でも、今まで僕は、その可能性に気づかなかった。だから、ここから始めるしかない」
ニナが横から見つめている。その瞳には、まだ疑いがあるように見えた。
グレイシャが身を起こした。
「では、まずはその誓いを『約束』にしろ」
その言葉を聞いて、アルトは理解した。これは試験ではなく、本当の意味での契約の申し出だった。
グレイシャが指を立てた。
「お前がこれより先、獣人の意思なくして独断的な決定をしないこと。獣人評議会の意思を、すべての判断において最優先すること。これを『約束』できるか」
アルトは一瞬、躊躇した。
その『約束』を結べば、自分の判断の自由が失われる。帝国との戦いの最中に、獣人評議会の合意を取る時間があるだろうか。効率は著しく低下するだろう。
だが、その躊躇こそが、自分が犯した過ちの証拠だった。
「約束します」
アルトが膝をついた。
「獣人評議会の意思を最優先する。それを誓います」
グレイシャの手が、アルトの額に触れた。
その瞬間、赤い光が閃いた。
複数の『約束の鎖』がアルトの中に刻み込まれた。それは五十七人の獣人たちとの契約とは違う――より重く、より複雑で、より厳格な『約束』だった。
同時に、アルトは理解した。
自分の『万能感』に亀裂が入ったのだ。
「アルト」
ニナが声をかけた。
彼女の表情は、まだ厳しいままだった。だが、その中に、わずかな信頼の光が灯り始めていた。
「本当に、それができるなら。僕たちは、一緒に戦える。ただし、お前は『助け主』ではなく、『同志』になることだ」
「わかりました」
アルトが立ち上がった。その時、体から力が抜けたような感覚があった。
複数契約の負荷は、さらに増していた。




