第33話 獣人奴隷の発見
北方への迂回ルートに入ってから三日目のことだった。
アルトが斥候として先行していた時、その現場を目にした。
灰色の石造りの建物が三つ、谷間に隠すように建てられていた。普通なら見落としてしまいそうな場所だったが、風に乗る悲鳴が聞こえなければ、アルトはここに気づかなかったはずだ。
「これは……」
近づくにつれて、アルトの目が固くなった。
建物の周囲には粗末な柵が巡らされており、その中で数十人の獣人たちが働かされていた。狼族、猫族、牛族――異なる種族の獣人たちが、人間の監督官の鞭に怯えながら、石を運んでいた。中には子どもの姿も見える。
「チッ、うるさいな」
監督官の一人が、倒れた狼族の少女に鞭を振るった。その子は痛みに呻いたが、すぐに立ち上がろうとしている。アルトは瞬時に判断して、陰から声を張った。
「そこまでだ」
三人の監督官が一斉にアルトの方を向いた。最初は困惑の顔だったが、すぐに嘲笑に変わった。
「何だ、お前。こんなガキが何の用だ」
最も太った監督官が、こづかれたように近づいてくる。アルトは慌てず、その場にしゃがんで、倒れている少女に手を差し伸べた。
「大丈夫か」
少女は警戒する目でアルトを見つめていた。狼族の耳は潰れ、身体には無数の傷がある。だが、その瞳には確かに知性が輝いている。アルトは直感で理解した。この子は、ただの奴隷ではない。何かを失った者の目をしている。
「え、えと……」
少女が口を開きかけた瞬間、太った監督官がアルトの肩を掴んだ。
「何してんだ。この娘はこの施設の奴隷だ。触るな」
「奴隷か」
アルトは立ち上がって、監督官の目を見つめた。その刹那、アルトの内側で何かが変わった。最初の時と同じだ。奴隷商人が所有する少女たちを見た時と、全く同じ感情が蘇った。
怒り。無視できない、純粋な怒りだ。
「お前、その子たちをどうするつもりだ」
「どうするも何も、働かせるに決まってるじゃないか。帝国直轄の採掘場だ。文句あるか」
アルトは周囲を見渡した。明らかに栄養不良の獣人たち。筋肉が落ちた身体。希望の光を失った目。だが、その中でも少女――さっき倒れていた狼族の子――は、アルトを見つめていた。
期待と恐れが混在した、複雑な瞳で。
「リリア、シャーロット、ニナ。来てくれ」
アルトが心の中で呼びかけると、ほどなく三人が谷を駆け下りてきた。リリアは驚愕の表情で、シャーロットは戦闘態勢を、ニナは――ニナだけは、その場で足を止めた。
目を大きく見開いて、動かなくなった。
「ニナ?」
アルトが声をかけると、ニナは震える声で言った。
「これは……帝国の獣人奴隷採掘場。聞いたことがある。私たちの仲間たちが、ここに……」
そこで初めて、アルトは理解した。ニナが何を感じていたのか。
狼族の少女は、ニナと同じ耳の形をしていた。同じ茶色い瞳をしていた。そして――ニナの足を見たとき、アルトは愕然とした。ニナの狼族としての足には、わずかな疤痕がある。古い傷だ。
「ニナ、お前も」
アルトは言葉を失った。
ニナは静かに歩き始めた。奴隷たちが収容されている柵の方へ。監督官たちは、獣人に対する人間の優越性に酔いしれて、ニナの姿を見ても警戒しなかった。大きな間違いだった。
ニナが柵に手をかけた瞬間、その手の力で鉄製の柵が歪んだ。
「何をしやがる!」
太った監督官が剣を抜こうとした。だがアルトは既に動いていた。契約なしではアルトの直接戦闘能力は極めて低いが、この状況では関係ない。アルトは単純に、監督官の腕を掴んで振り回した。その勢いで監督官は吹き飛び、壁に叩きつけられた。
「くっ!」
他の二人の監督官が、今度はアルトに剣を向けた。だが――
「邪魔するな」
ニナの声が響いた。狼族の少女が立ち上がった。その身体は見違えるほど変わっていた。かつての奴隷としての萎縮した姿勢は消え、立ち上がった狼族は、獣族本来の威圧感を放っていた。
「ニナ、わかってるな」
アルトは短く言った。
「ああ。ここは私たちの仲間たちの場所。帝国からの奪還だ」
ニナが吠えた。その声に応じて、柵の中の獣人たちが一斉に動いた。長い間の隷属から解放されたその瞬間、彼らの本能が目覚めたのだ。
「待て、待て! 逃げるんじゃない!」
監督官たちの悲鳴が響き渡った。だが、もう遅い。シャーロットが自分の短剣を抜いて、監督官たちの逃げ道を塞いだ。リリアは即座に子どもたちを集め始めている。
そしてアルトは、あの狼族の少女の前に膝をついていた。
「お前の名前は?」
少女は恐る恐る答えた。
「ニ……ニナ」
アルトは呆然とした。
後ろのニナが、同じ名前だった少女に気づいた。二人の狼族の少女は、似たような容貌をしていた。年齢は違うが。
「ニナ」
狼族のニナが、年下の少女に近づいた。そして、その子の頭を優しく撫でた。
「私もニナだ。同じ名前の仲間がいるんだな。これも何かの繋がりなのかもしれない」
少女の目から涙が流れた。
「私……私、死ぬと思ってた。ずっと、ここで死ぬんだと」
「もう大丈夫だ」
アルトが言った。彼は立ち上がり、少女ニナに手を差し伸べた。
「お前たちは自由だ。約束する」
その瞬間、アルトの周囲に青い光が灯った。それは第一次の時とは異なる光だった。より深く、より複雑な光。複数の契約が同時に成立していく音が、アルトの耳に聞こえた。
五十七人の獣人たち。
一人一人に対して、アルトは約束を交わしていた。
「お前たちは、もう誰の奴隷でもない。自由だ」
その言葉と共に、青い光の鎖が、各獣人とアルトを結んだ。
「これ以上の契約負荷は危険です。主人」
突如、白い光が現れ、グレッグの姿がアルトの前に浮かんだ。その表情は、初めて見るほどに深刻だった。
「何だ。何か問題があるのか」
アルトが問いかけると、グレッグは首を横に振った。
「問題ではなく、警告です。主人の契約負荷は既に限界に近い。これ以上増やせば、精神が破断する可能性があります」
シャーロットが駆け寄った。
「アルト、大丈夫か?」
アルトの顔は蒼白だった。脳裏には、新たに結ばれた五十七の契約が同時に存在している。その重みが、彼の意識を押し潰そうとしていた。だが、アルトは歯を食いしばった。
「問題ない。この子たちのために」
ニナが側に立った。もう一人のニナも、少女ながら立ち上がった。
「アルト。私たちも手伝う。お前一人に背負わせるつもりはない」
リリアも近づいた。
「みんな、力を合わせるんです。こういう時こそ」
アルトの目がはっきりした。彼は深く息を吸った。
「そうだな。一人じゃない。契約は約束だ。そして、約束は最後まで守るんだ」
谷間の採掘場は、その夜のうちに帝国の施設としての機能を失った。五十七人の獣人たちは、その場を去った。その中には、二人の名前が同じニナを含む、新しい同志たちがいた。
だが、アルトの契約負荷は確実に限界を超えていた。次の朝、彼は高熱に襲われることになる。そして、その熱の中で、アルトは初めて理解することになるのだ。
自分の能力には、必ず代償がある。絶対に履行される約束の力は、同じ重さで、自分の身を蝕むのだということを。




