第108話 ヴァルデスの贖罪
灰色の空が広がる北の辺境地。かつての帝国軍の要塞だった建物は、今では廃墟と化していた。その地下牢の奥深くで、一人の男が壊れた柱に身を寄せていた。
ヴァルデス。かつてアルトに敗北した男。奴隷商人より大きな力を持ち、何千人もの人命を自らの野心のために踏み躙った張本人だ。
彼の顔は痩せこけ、左目は潰れ、右腕も自動操作の魔力装甲でしか動かなくなっていた。アルトとの最終決戦で受けた傷は、五年経った今でも完全には癒えていなかった。
「チッ……」
ヴァルデスは唾を吐き、壊れた鏡に映った自分の姿を見た。そこにいるのは、かつての野心的な青年ではなく、獣のように衰えた老人だった。
彼はここに五年間、誰にも見つからないよう身を隠していた。帝国の衛兵に見つかれば処刑。アルトの陣営に見つかれば、おそらく同じこと。いや、奴隷たちに見つかれば、もっと遅い死が待っているだろう。
だから、ここで静かに朽ちることを選んだ。
その時だった。
懐かしい足音が階段を下ってくる音が聞こえた。ヴァルデスは身を硬くする。だが、現れたのは意外な人物だった。
「お前か……セリア」
蒼い髪をした魔術師女性が、懐中魔灯を持って現れた。彼女の顔には、五年前と変わらぬ冷徹さが残っていた。
「まだ生きていたのね。珍しい」
セリアは鼻で笑い、ヴァルデスの前に立つ。彼女の手には、何か古い巻物が握られていた。
「何の用だ。来るなら早く殺してくれ。この苦痛から解放してくれ」
ヴァルデスの声は、かつての傲慢さは微塵もない。ただ、疲弊と諦念に満ちていた。
「まず、情報を教えてもらうことにする。あなたがシステムについて知っていることを。すべて」
セリアはヴァルデスの前に座り、冷たい目でにらんだ。
「システム……そんなものは……」
「あるのよ。そして、あなたはそれを知っていた。帝国の皇帝と接触していたから」
セリアの言葉に、ヴァルデスは静かに笑った。
「そうだな。俺は知っていた。帝国の権力者たちは皆、『上位の存在』の存在を信じていた。目に見えない力。超越的な法則。それが『システム』だと呼ばれていた」
ヴァルデスは唾を吐き、続けた。
「俺はな、セリア。そのシステムの一部になりたかったんだ。人間のような取るに足らない存在ではなく、世界を支配する側に立ちたかった。だから、帝国に取り入った。だから、奴隷を集めた。だから、力を求めた」
セリアは無言で、ヴァルデスの話を聞き続けた。
「だが……違うんだ。その力を握った時、初めて気づいた。支配することの空虚さを。人を踏み躙ることの醜さを。俺がアルトに敗北した時、初めて……本当の意味で、人間になれた気がした」
ヴァルデスは右手を握ろうとして、装甲の音が悲しく響いた。
「新しい世界では、俺のような奴は必要ないんだろう。それは分かる。だから、ここで死ぬ。それが……俺の贖罪だと思っている」
セリアは静かに立ち上がった。その顔には、予想外の感情が浮かんでいた。
「違う」
単語が、彼女の唇から漏れた。
「え……?」
ヴァルデスは顔を上げた。
「贖罪は、死ぬことではない。生きることよ。そして、自分がした悪行のために、残りの人生を捧げること。それが本当の贖罪」
セリアはヴァルデスの前に、古い契約書を置いた。
「これは、新しいシステムの『改革契約』よ。あなたが北大陸の鉱山開発を指揮する。奴隷ではなく、賃金労働者として。給料は全額、被害者の補償に充てる。寿命が尽きるまで」
「セリア……お前は何を言っている」
ヴァルデスは震えながらその契約書を見つめた。それは、死よりも辛い道だった。
「アルトは、あなたを殺すことよりも、生かすことを選ぶと思う。人を変えることを信じる者だから。だから、私も同じように選ぶ。あなたを殺すのではなく、変わる機会をあげる」
セリアは懐中魔灯を置いた。その光が、ヴァルデスの顔を照らした。
「契約は相互的よ。あなたが『生きて償う』ことを選べば、新しい社会があなたを『生きた者として』認める。それだけ」
ヴァルデスは、その契約書に手を伸ばした。
装甲された右手が、ぎこちなくペンを握った。署名する瞬間、彼の頬に涙が落ちた。
「俺は……許されるのか……」
「許しは、被害者たちが与えるもの。私ではない。あなたが償う過程で、いつか、誰かが『あなたは十分に償った』と言うかもしれない。その日まで、生きろ」
セリアはそう言い残すと、懐中魔灯を持って階段を上った。
ヴァルデスは、署名済みの契約書を握り締めた。その時、彼は初めて、『死よりも難しい道』を選んだ。
次の朝、北大陸の鉱山地には、一人の老いた男が現れた。かつての敵ヴァルデスだ。彼は、シャベルを握り、石炭の粉塵にまみれながら、黙々と働き始めた。
獣人労働者たちは彼を認識すると、牙をむく者もいた。だが、ニナが現れると、彼らは静かに引いた。
「あの男は、新しい社会で生きることを選んだ。その過程を、お前たちは見届けるんだ」
ニナの言葉に、獣人たちは頷いた。
ヴァルデスは、その視線を感じながらもシャベルを握り続けた。
夜、彼は小さな小屋に帰り、その日に得た賃金を被害者基金へ送った。
人生の終わりに初めて、彼は「人間らしい」ことを始めていた。
そして、遠い南の王都では、アルトがグレッグから一枚の報告書を受け取っていた。
『北大陸より報告。かつての敵対勢力指導者ヴァルデス、自発的に贖罪活動を開始。被害者基金への寄金、月額平均三万オーゴ。独房生活から労働生活への転換が確認される。新体制下における『敵の変化』の初例となる見込み』
アルトは、その報告書をゆっくり読み直した。
敵を許すことは簡単ではない。だが、敵を変えることができれば……
彼の視線は、窓の外の城下町に注がれた。そこでは、新しい世界がゆっくり、静かに、確実に根付こうとしていた。
だが、ニナからの別の報告も、同時に届いていた。
『北東地域の獣人自治区より。新たな反乱勢力の組織化が確認。「セリアの魔力理論は人間の道具であり、獣人には適用されない」と主張する過激派が増加傾向。対応の指示を求む』
アルトは、その報告書をゆっくり閉じた。
新しい世界では、新しい問題が生まれていた。
完全な『解放』と『幸福』は存在しない。あるのは、永遠に続く『選択』と『調和の模索』だけだ。
そして、その過程こそが、本当の意味での『人生』なのだという認識が、アルトの中で深くなっていった。




