第127話:黒い彗星
いつものアパートから、歩いて1キロほどの“スポーツジム”──
ミコトは軽く身体を動かしたあと──
大浴場の湯船に、肩まで浸かっていた。
足を悪くしていても、身体を動かすことが好きなミコトにとって、
“スポーツジム”は最も適した施設だった。
それも、今日は区切りの日。
(5日後に異世界──ルナティアに転移するからね)
──退会手続きをしに来たついでに、最後の利用を味わっている。
白い湯気がゆるやかに立ちのぼり、
天井の照明が水面に反射して、揺れる光が肌を滑っていく。
(やっぱり、足を延ばして浸かれるのはいいね~)
いつもは、アパートの狭いユニットバス──
背の高さと股下の長さから、その浴槽は余計に狭い。
(転移したら、しばらく風呂はお預けだし……)
──ルナティアは生活スキル『浄汚』を誰もが持つため、風呂という文化がない。
湯の温かさが肩に染み込む。
開放感から、ミコトはふと視線を横へ流す。
縦2メートル、横10メートルほどの大きな浴槽。
他には誰の姿もなく、静かな水面が鏡のように広がっている。
(誰もいない……子供の頃だったら泳いだり潜ったりしてたかも……)
思わず口元が緩む。
だが──もう大人だ。
胸の奥にふっと湧いた悪ふざけの衝動は、
“良識”という名の見えない蓋が、そっと押し込めていく。
退会を済ませた帰り道──
ミコトは、秋の夜風の流れる歩道をゆっくりと歩く。
(今日は乾燥してるのか──風が気持ちいいな)
──まだ湯冷めするほどの寒さはない。
右側には車道がまっすぐ伸び、
ヘッドライトの光が細い帯を描いていく。
左側には線路沿いの金網フェンスが続き、
街灯の光が一定のリズムで落ちる──長い一本道の歩道。
ミコトは遠くの夜空を視界に入れながら、ふと思う。
(転移先は海の近くだから、すぐに泳げるよな──)
(収納スキルに空気を入れておけば、水中でも息できるかな?)
思いついた瞬間、ミコトはアンナへ心話を送った。
(「チョットイイデスカ?」)
すぐに、明るい声が返ってくる。
(「はいっ、喜んで!」)
もう、心話のやり取りはすっかり慣れて自然になっていた。
ミコトは夜空を見たまま、思考をそのまま流し込む。
(「収納スキルに空気を入れておいて、水中で息をするのに使うってできる?」)
アンナは一拍置き、慎重に言葉を紡ぐ。
(「水中で空気が漏れない“何らかの袋”に空気を入れて収納しておき──」)
(「それを取り出して呼吸する方法があります」)
ミコトは小さく息を漏らす。
(「そうだね、空気だけ取り出しても──」)
(「吸う前に浮いてっちゃうから、道具は必要だね」)
アンナの声が続く。
(「はい、そして通常は──」)
(「その袋の空気が汚れれば、新たに“綺麗な空気の袋”を取り出す必要があります」)
ミコトは視線を落とし、歩幅を少しだけ緩めた。
(「なるほど……1つの“空気袋”で数回息できたとして、」)
(「それが幾つも必要になると……あまり実用的じゃないね」)
そして、ふと気づく。
(「でも、“通常は”ってことは?」)
アンナの声が、ぱっと明るさを帯びた。
(「はい、私なら空気だけを──汚れた空気と綺麗な空気を入れ替えられますので、」)
(「空気袋は1つで大丈夫です」)
ミコトは思わず顔を上げ、目を見開く。
(「おぉ、凄い! それならずっと息してられるね!」)
アンナは嬉しそうに返す。
(「お役に立てそうですね!」)
(「それはもう!」)
ミコトの心は少年のように弾んだ。
(軽装備で長く水に潜れるって、やっぱり夢だよな~)
(転移したらすぐに、空気をたっぷり収納しよう)
見上げると、雲ひとつない夜空に──
秋の星々が静かに瞬いていた。
自室に戻ったミコトは、玄関の灯りを落とし、
そのままリビングへと歩いた。
食事はジムの帰りに済ませてきたため、
今はただ、座椅子に腰を下ろして足を伸ばすだけで、
身体の力がゆっくり抜けていく。
ローテーブルの上には、いつものノートPC。
画面の青白い光が、薄暗い部屋に静かに広がった。
(あと、呼吸と言えば──アレを確かめたいな)
(特に、魔族も同じなのかどうか……)
ミコトは腕を組み、少しだけ息を整えてから、
アンナへ心話を送った。
(「ちょっと確かめたいことがあるんだけど──」)
すぐに、明るく澄んだ声が返ってくる。
(「はい! 何なりとお申し付けください!」)
ミコトは画面を見つめたまま、思考を言葉に変えていく。
(「呼吸って、空気中の酸素を身体に取り込むためにするんだけど、」)
(「酸素の少ない空気を吸うと、いきなり意識を失ったり、動けなくなったり──」)
(「この現象というか症状は、ルナティアの人類は知ってるかな?」)
アンナは少しだけ間を置き、慎重に答えた。
(「いえ、そういった知識はないと判断します」)
(「そもそも、酸素という概念がありません」)
(「そっか、それだと、魔族も同じかどうかも分かってないか~」)
(「はい……」)
ミコトは腕を組み、視線を落として一拍考える。
(「試そうとしたら、俺がルナティアで──魔族を生け捕りにする必要がある?」)
(「えぇと……腐敗の進んでいない死骸でも大丈夫です」)
ミコトはぱっと顔を上げ、声に明るさを宿す。
(「そっか、それなら入手は比較的楽そうだね!」)
(「はい!」)
だが、この直後──
アンナは、自身が受け入れがたい“ある提案”を耳にすることになる。
ミコトはノートPCの光に照らされながら、
ふっと少年のような笑みを浮かべた。
その表情には、好奇心がそのまま形になったような無邪気さがあった。
(「低酸素の症状がホントにそうなのか試せないかな?」)
その言葉に、アンナの気配がわずかに揺れる。
返ってきた声は、戸惑いを隠しきれていなかった。
(「それは可能ですが──試すために“生物のマホ仮想体”が必要になります」)
ミコトは明るい声で続ける。
(「俺の身体を解析してソレを作れば試せるよね!」)
(!!)
アンナの反応が一瞬止まった。
心話越しでも分かるほど、息を呑んだ気配が伝わる。
そして、声のトーンが落ちる。
(「ミ、ミコトさんのお身体で実験するのは避けたいです……」)
ミコトは驚いたように眉を上げた。
(「えっ!? 何か問題あるの?」)
アンナは言い淀む。
(「いえ、何も問題は……ないのですが……」)
ミコトは軽く肩をすくめ、あっけらかんとした声で言った。
(「なら構わないよ──やっちゃお~」)
(「他の人の身体は、勝手に解析できないしね」)
アンナは小さく返す。
(「はい……」)
そして、何かを思いついたように声が跳ねた。
(「あっ!」)
次の瞬間、明るい声が弾む。
(「では、近くの──“黒くて素早い虫”で試すのは如何でしょうか?」)
ミコトは急に固まった。
警戒からか表情が強張っていく。
(「え……?」)
少しの沈黙──
(「……」)
アンナは不思議そうに首を傾げる気配を送ってくる。
(「??」)
ミコトは不安そうな声で、ようやく言葉を絞り出した。
(「それって……Gじゃないの!?」)
部屋の空気がひやりと止まる。
ミコトは椅子から半ば跳ね上がるようにして、
急に声を大にした。
(「どこどこ!? どこにいるの?」)
アンナの心話が、明らかに戸惑いを帯びて揺れた。
(「えっ? えっ??」)
ミコトはノートPCに覆い被さるように──
身を乗り出して見回す。
(「近くってこの部屋の中だよね!?」)
アンナも慌てた気配を返す。
(「い、いえ──隣の隣の部屋ですが……」)
ミコトはその場で大きく息を吐いて──
(「と、となりの隣……っすか、良かった……」)
安堵の息が漏れた直後、
彼の瞳は僅かに涙ぐみ──
(「……たまにベランダにGの死骸があって……心臓が“キュ”ってなってたのは……」)
(「隣の隣の部屋の人のせいなのかなぁ……勘弁してくれぇぇ……」)
その時、従魔ウィンドウの中から、
ミカドが強めの語気で割り込んできた。
(「ミコト! ゴキ程度デ、ガタガタ言ウナ!」)
ミコトはビクッと肩を跳ねさせ、
眉を寄せて反論する。
(「ちょっ! ハッキリ呼ばないで! せっかくぼかして言ってるのに!」)
ミカドはさらに語気を強める。
(「ハッキリ言ッテナイジャロ! 半分ジャイ!」)
ミコトは弱々しい声で返す。
(「そ、それはそうかもしれないけど……」)
アンナが、少し警戒した声で口を挟んだ。
(「あの……特に何の危険もない虫だと思いますが……?」)
そう言いながら、
アンナは“Gのマホ仮想体”を生成し、
その表──裏──左右──前後と──全体をくまなく確認している。
(「表にも裏にも……どこにも毒針などはありません……」)
ミコトは目をぎゅっと閉じ──
(「裏とか言わないで~……」)
(「怖いとか、危ないとかじゃなく──単に見た目が苦手なだけだから」)
アンナはようやく納得したように息をつく。
(「そ、そうなのですね、承知しました!」)
そして胸元をそっと押さえ、
心の中で小さく安堵の声を漏らした。
(危なかったです……)
(もう少しで、詳細な映像をお見せして──)
(危険性の無さを説明する所でした……)
──ミコトは、本当に危なかった。
部屋の空気が、しばらくの間ひんやりと張りつめていた。
ミコトは突然、何かに気づいたように息を呑んだ。
(!!……)
そして勢いよく従魔ウィンドウへ向き直る。
(「ミカド!」)
(「オウ!」)
ミコトは、猫なで声を全力で作り上げる。
(「ミカドちゃ~~ん♪」)
その急な声の変化にミカドは、
ウィンドウの中で──ふさふさと身体を揺らした。
(「チュ? ゥヒュヒョヒュヒュ??」)
身を乗り出し少し必死なミコトは──
(「ルナティアに行って、Gが出たら──追い払ってくれる?」)
ミカドは胸を張るように、力強く答えた。
(「オウ! 任セロ!」)
さらに誇らしげに続ける。
(「ナンナラ、食ッテヤロッカ?」)
ミコトは思わず声を弾ませた。
(「おー! そこまで平気!? やった!」)
だが、すぐに眉をひそめる。
(「でも……食うのはちょっと……」)
(「ゥヒュヒョヒョ」)
ミコトは視線を泳がせながら、さらに不安を漏らす。
(「でも、部屋の中だったらどうしよ……」)
(「新聞紙ソードでプチっとやるのはできるけど……」)
すると、アンナが冷静な声でやり取りに混ざる。
(「その程度の死骸なら、生活スキル『浄汚』で消せますよ」)
ミコトはぱっと瞳を輝かせ、声を明るく弾ませる。
(「おおぉ!! やった! ルナティア最高!」)
そして──
その勢いのまま、ノートPCを操作し始めた。
画面には“防虫スーツ”の検索結果が次々と並ぶ。
(Gもあれだけど、サバイバルの動画で“大量の蚊”に集られるのを見たことがある……)
(追い払うのも退治も無理なほどだったら、身体に触れさせないように防御するしかない……)
(なるべく丈夫なのを……)
スクロールしていくと、
宇宙服のように重厚な防虫スーツが目に飛び込んできた。
(これにしよう!)
防虫スーツの注文を終えると、
ミコトは布団に潜り込み、
静かな夜の中でゆっくりと瞼を閉じた。
(これで……安心して……ルナティアに行ける……)
Gが“部屋にいない”と聞いた安心感が──
眠りを優しく引き寄せていった。
しかし──
その“宇宙服のような重厚な防虫スーツ”が、
後に面倒な事態を引き起こすとは、
思いもよらなかった。




