第10話
ふとリリアの表情が歪み、見る見るうちにその目に涙を溜めた。ヒスイが狼狽える間に、大粒の涙が零れ落ちた。
「あ、あの……! 俺……」
かける言葉など見つからない。
泣かせてしまった罪悪感と、どう宥めていいのかわからない焦燥とで胸が引き絞られるように痛んだ。
「ごめん……俺……」
声が震えていた。何だか無性に泣きたくなった。
リリアははっとしたようにヒスイを見て、勢いよく頭を振った。
淡く輝く金の髪が、音を立てそうなほどさらさらと揺れた。
「違います」
リリアが、小さくもはっきりと言葉を口にした。
その柔らかく透き通る声は、ヒスイの耳に心地よく染み入った。
何度声をかけても答えてくれなかった、言葉を発しても聞こえてこなかったリリアの声が、今はしっかりと耳を打つ。
「違うんです。あなたのせいではありません」
そう言いながらも、リリアはポロポロと涙を零した。
「でも……泣いてる」
なぜ泣いているのかはわからないが、ヒスイを見て泣きだしたのだから、原因はヒスイにあると見て間違いない。
「ごめん。驚いたんでしょう? 勝手に入ってきたから。俺、怪しい奴じゃないから」
リリアは、わかっている、というふうに、今度は首を縦に振った。
「あなたは私の呼びかけに答えてくれた人。ここまで来てくれた人」
語尾を震わせ、また表情を歪めた。そしてとうとう両手で顔を覆って、本格的に泣き出した。
「あ、あの! ごめん。ごめんね」
ヒスイは訳がわからないまま、とりあえず謝った。
「どうした、リリア?」
狼狽えるヒスイの後ろから、低い、静かな声がかかった。
ヒスイは驚いて飛び上がった。
背の高い、冷たい目をした男だった。透けるような白い肌とは対照的な、漆黒の髪を背に流している。簡素な白っぽい服を着ていたが、大きな黒いマントを羽織ってその体を包んでいた。
「何を泣いている? これに虐められたのか?」
視線で指し示されて『これ』呼ばわりされたことより、リリアを虐めて泣かせたなどという思い違いをされたことの方にヒスイは抗議の声を上げた。
「虐めてない! 俺は何もしてない!」
「ではなぜ泣いているのだ? お前の目の前で泣いているが?」
「うっ……そ、それは何とも言い訳ができないけど……」
たじろぐヒスイに、男はさらに追い打ちをかける。
「お前が原因なのだろう? 何をしたのだ? なぜ泣かせた?」
「え……っと……俺、何した?」
自分では答えが出せず、ヒスイは直接泣いているリリアに訊ねた。
リリアはただ首を横に振るだけで、泣き声しか発しない。
男はヒスイの横を音もなくスッと通り抜け、泣いているリリアの頭を撫でた。
「泣くな。お前が泣いていると胸が痛い」
そうしてリリアを胸に抱き、子供をあやすようにその背をトントンと叩いた。
そうされることで落ち着きを取り戻したのか、リリアはすぐに泣き止んだ。
置いてきぼりを食らったヒスイは、仲睦まじい二人の姿に少々焼きもちを焼いた。
「あのー、ところであんた誰?」
二人の世界に水を差すと、男は相変わらず無表情だったが、リリアは照れ笑いをして涙を拭った。
愛らしいその表情にヒスイの胸は高鳴り、思わずにへらと笑い返した。
「私はリリアです。えっと……」
「俺はヒスイ。ヒスイ・ロシュ・クランフォード」
「クラノールの王子か」
男は静かに、だが的確に言い当てた。
「俺を知ってる?」
驚いてそう訊き返すと、男はやはり何の表情も見せずに言った。
「お前を見ていた」
「……意味わかんないんだけど?」
ヒスイは怪訝な顔つきで眉を顰めるが、男は解釈する気などさらさらないとでも言うように黙っていた。
「イル様は何でも知っているのです」
リリアが代わりに、得意げに胸を張って答えた。
「イル……様?」
「イルローゼ・ハイト様です。素敵な名前でしょう? 私の国の言葉で『夜空の月』という意味です」
「じゃあ、この人も一緒にこの城に?」
リリア一人が犠牲になったものとばかり思っていたが、実際は供の者を連れていたのかもしれない。
ちらりとそう思ったが、リリアはあっさりと否定した。
「いいえ。イル様はずっと前からここにいます」
「ずっと前から……」
リリアが囚われるよりも前に夜の王の犠牲になった人のようだ。
それは気の遠くなるような年月だっただろう。この男とリリア、そしてヒスイの間にはそれぞれ違った時間の流れがある。ヒスイにはその時間の感覚がつかめなかった。
「名前がないと言うので、私が付けて差し上げました」
「……は?」
拾った犬に名前を付けました、というような無邪気な言葉だったが、おかしいことこの上ない。
「だって、呼ぶときに困るでしょう?」
リリアはヒスイの反応に戸惑って言い訳のように言ったが、問題にするところが少々ずれているようだ。
「いや、そこじゃなくて、名前がないって……」
ヒスイの方が戸惑ってそう言うと、リリアは納得して笑って言った。
「イル様はずっとお一人だったので、名前が必要ではなかったのですって。でも私が呼ぶときには不便なので、素敵な名前を付けたのです」
言っていることはわかるが、意味がまったくわからない。
「親は? 両親は名前をつけてくれなかったのか?」
「私に親はない」
リリアにイルローゼと名付けられた男は静かに淡々と言う。
遥か昔のことであるせいか、寂しいとか切ないとか、恨めしいとか憎いといった、恐らくは赤ん坊の内に捨てた親に対しての感情がまるで見られなかった。
さすがのヒスイも、個人的な込み入った話を根掘り葉掘り訊くのは憚られたので、それ以上は訊けなかった。
だが、リリアがまた無邪気に付け加えた。
「イル様のご両親はお星様なのです」
リリアの言うことはどれもヒスイには理解し難かった。
「えーと、それは亡くなったってこと?」
「違います。本当にお星様なのです。ね、イル様?」
イルローゼを見上げて問うリリアは、今度は父親に甘える娘のように見えた。
「それはお前が想像した物語だろう? 私は私がどこでどうして生まれたのか知らない。何のために生きて何をすべきなのか知らない」
幼い時に連れ去られ、長い年月をここで過ごしているのだ。自分の生に疑問を持ちたくもなるだろう。
夜の王は何のために人を要求し、何のために長い時間を生かしているのだろう?
「わからないのだから、お星様の間で生まれたお月様ってことにしましょう、って言ったのに」
少々拗ねたようにリリアは言った。
だから『夜空の月』を意味する、イルローゼ・ハイトと名付けたのだろう。
肝心のイルローゼはそれを嫌がってはいないようだが、特別喜んでもいないようだった。リリアのしたいようにさせている。そんな様子だった。
「星は地図、月は力だ」
諭すようなイルローゼの言葉もまた、ヒスイには要領の得ないものだった。
「何の地図? どんな力?」
そう訊ねれば、イルローゼは簡潔に答えてくれた。
「城を移動させる地図。闇を支配する力」
簡潔すぎてヒスイにはイマイチわからなかった。
「何で城を移動させるんだ? 何の目的があるんだ?」
城が近くを浮遊するたびに、ヒスイは子供の頃からリリアの夢を見ていたらしいのだ。それに何か意味があるのだろうか?
「地上に夜の眷属がいる。彼らを見守っている」
静かなイルローゼの答えに、ヒスイは目を輝かせて詰め寄った。
「夜の眷属!? やっぱりいるんだ! 俺もだろ? 俺もその眷属なんだろ?」
「そうだ。お前が生まれた時からずっと見ていた」
だからヒスイがクランフォードの王子だと知っていたのだ。ようやっと初めの言葉の意味が理解できた。
「何で俺なんだ?」
「わからない。月の気まぐれだ」
その辺りは胸のもやもやが解消されず、がっかりした。
「じゃあ、子供の頃から同じ夢を見るのも夜の眷属だから?」
「夢?」
怪訝な表情――何となくそんな気がした――のイルローゼとは逆に、リリアは花が開くようにぱあっと笑った。
「眷属の方には特別な力があると聞いて、時々お月様に祈っていました。誰かが気づいてくれますように、ここへ来てくれますようにって」
繰り返し見たあの夢は夜の王から発する信号ではなく、リリアの強い思いだったのだ。それを受け取れるのが夜の眷属であり、唯一答えたのがヒスイだったというわけだ。




