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燐の話



「……って、そもそもさ。あの世にあるアジトに行くなんて、それこそタイムリープでもしなきゃ絶対に無理だろ!?」




 激しい混乱のあまり、春人は声を荒らげた。


 その手は心なしか震えており、必死に現実を繋ぎ止めようと、自分の知る限りの知識を総動員している。春人は大の読書好きで、特にSF小説やファンタジーにおける『タイムリープ』の設定には人一倍詳しかった。彼にとって、現在の状況はまさにそれらのフィクションを超える異常事態だった。




 そんな春人の様子を、燐は呆れたように小さく首を振って見つめた。その仕草には、大人の余裕というよりも、あまりに世間知らずな子供を諭すような、どこか突き放した冷ややかさがあった。




「何を言うか。そんな芸当、生身の人間ができるはずがなかろう。お主らは今、自分がどれほど脆い境界の上に立っているかを理解しておらん。だからこそ、お主はまず『現世うつしよ』で修行を積まねばならんのだ」




 燐はくわえた筆の端を指先で器用に直し、墨の香りを微かに漂わせながら、諭すように言葉を続ける。その声は低く、しかし逆らいがたい重みを持って部屋の空気を支配していった。




「焦るでない。とりあえず、今の段階のお主らではまだ簡単なことしかできぬのだからな。この現世で基礎から少しずつ、高難易度のレベルに向けて霊力の扱いを学びなさい。……命が惜しければ、な」




 最後の言葉に、部屋の温度がさらに数度下がったかのような錯覚を覚える。


 燐の冷徹な視線が、春人の隣で小さく丸くなり、ガタガタと小刻みに震え続けているさきへとゆっくりと移った。彼女は恐怖のあまり、言葉を失ったまま、ただ二人のやり取りを見つめることしかできていなかった。




「当然さきにも修行をしてもらうぞ」




「え、ええっ!?  わ、私も!?」




 突然名前を呼ばれ、さきが裏返った悲鳴のような声を上げる。


 自分がこの異常な事態に巻き込まれているだけでも悪夢のようだったのに、さらに『修行』などという非日常の渦中へ引きずり込まれるとは思ってもみなかったのだ。




 さきの潤んだ瞳が燐を捉えたが、燐の瞳に宿る青いオーラは、一切の容赦なく二人を射抜いた。その光は、彼らの甘えや拒絶を拒むように冷たく輝いている。




「当たり前だ。あの世の門が開いた以上、現世に溢れ出す化け物どもはお主らを容赦なく襲う。異界の存在を認識してしまった者に、もう安全な隠れ家などないのだ。お主が足を引っ張れば、福田の小僧もろとも共倒れよ。生き残りたくば、死に物狂いでついてくるが良い」




 燐の言葉は冷酷だったが、同時に絶対的な事実を含んでいた。


 春人は唇を噛み締め、震えるさきの肩をそっと庇うように前に出た。




「待ってくれ、燐。さきは関係ないだろ……! 巻き込んだのは俺たちの都合だ。さきまでそんな危険な目に遭わせる必要は――」




「関係ない、だと?」




 燐は鼻で笑った。くわえた筆を机に置き、二人に近づく。その足音は全く響かない。まるで幽霊のように滑らかに移動し、春人のすぐ目の前で立ち止まった。




「福田の小僧、お主はまだ分かっておらん。あの世の門から漏れ出す『穢れ』は、一度でも触れた者を決して逃さぬ。そこのおなごの魂には、すでにあの世の住人たちの標的となる『印』が刻まれておるのだ。お主がどれだけ守ろうと、お主自身に力がなければ、二人揃って化け物の胃袋に収まるのが関の山よ」




「印……!?」


 黒い影に出会うと体に印が刻みこまれる。




 さきは思わず自分の両手を見つめた。何も変わらない、ごく普通の女子高生の手だ。しかし、燐の言葉が真実であることを、彼女の防衛本能が告げていた。先ほどから肌を刺すような悪寒は、気のせいなどではなかったのだ。




「そんな……私、普通の女子高生だよ?  なんでこんなことに……」




さきの目から涙がこぼれ落ちる。春人はその涙を見て、無力感に拳を強く握りしめた。


 読書で得た知識の中では、主人公たちは覚醒し、すぐに格好良く敵を倒していく。だが現実の自分は、超常の存在を前にただ立ち尽くすことしかできない。タイムリープどころか、一歩を踏み出すことすら恐ろしいのが現実だった。




「泣いても喚いても、現実は変わらん」




 燐は冷淡に言い放ち、部屋の古い畳を足でトントンと叩いた。すると、畳の隙間から微かな青い光の粒子が立ち上り、部屋の中に不思議な幾何学模様の陣を描き出す。




「これが霊力……」




 春人は息を呑んだ。ただのオカルトではない、明確な『力』が目の前に具現化している。




「まずは、その凝り固まった頭をほぐすことから始めよ。お主らの言う『科学』や『常識』は、あの世の理の前では塵に等しい。今からお主らに教えるのは、己の内に眠る魂の熱量を、外へと引き出す術だ」




 燐は二人に正座を促した。有無を言わせぬその威圧感に、春人とさきは吸い込まれるように床に膝を突く。




「目を閉じよ。そして、胸の奥にある、普段は意識せぬ『呼吸のさらに奥』を感じるのだ。そこに、すべての人間が持つ霊力の源泉がある」




 春人は言われた通りに目を閉じた。最初は暗闇の中に、自分の激しい心臓の鼓動と、隣で小さく鼻をすするさきの気配しか感じられなかった。しかし、深く息を吸い込み、吐き出していくうちに、次第に自分の中心部に、奇妙な『温かさ』があることに気づき始める。




(これが……霊力なのか? 確かに、何かがある……)




 それは、小説で読んだ『魔力』や『気』の描写に似ていたが、もっと生々しく、自分自身の命そのものが燃えているような感覚だった。




「ほう、福田の小僧は勘が良いな。読書馬鹿かと思ったが、多少は使い道がありそうだ」




 燐の微かな感心の声が聞こえた。しかし、すぐにその声は険しさを増す。




「だが、喜ぶのは早い。その火種を制御できねば、内側から焼き尽くされるぞ。さあ、次はそこのおなごだ。怯えを捨てねば、力は引き出せん」




 さきは必死に目を閉じ、恐怖を抑え込もうとしていた。春人は隣にいるさきに向けて、心の中で「大丈夫だ」と何度も呼びかけた。


 




 ただもっとすごい家系なのは黒崎壮介の家柄だった。……。

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