第五章 時雅《シア》vs介屎《ケシ》
「――わたくしは八年前、女官見習いとして宮中へ来ないかと、提調尚宮様にお誘いを受けた者です」
「……何……?」
ケシが、唖然と口を開いた。ここまで具体的に言えば、ケシにも思い当たることがあったのだろう。見る見る険しくなる彼女が何か言うより早く、シアは畳み掛けた。
「ところで、先程お会いになっておられた男性のことで、お話したき義がございます。お時間を頂けますでしょうか」
「何のことだ」
「イ・イバン様とお話していた内容を、伺えるだけでよいのですが」
「無礼な!」
声を上げたのは、ケシの後ろに付いていた内人だ。
「いくら昔、提調尚宮様に目を掛けて頂いたとて、今は直接教えを受けてはおらぬのだろう! どこの内人だ。名を名乗れ!」
「ハン内人」
ケシが、スッとしなやかな指先を立てた手を挙げ、ハン内人と呼んだ女官を制した。
(……ハン内人? ってことは、コイツが父さんの……)
二番目の娘か、と脳裏で呟き、チラと彼女にやった視線を、ケシに戻す。
「よい。下がっていなさい」
「ですが」
言い募ろうとしたハン内人に、ケシが静かな目線を投げると、ハン内人は目を伏せ、会釈するようにして後ろに下がった。
それを確認したケシもまた、シアに視線を戻す。
「……生憎だが今は忙しい。言う通り、イ・イバン様と話してはいたが、それは重大な内容だ。すぐ様、王殿下に注進に参らねばならぬ」
「黙っていて頂く訳には参りませぬか」
「何?」
ケシは、今度は眉根を寄せた。
「そなたは、イ・イバン様の話した内容を、知っているというのか。まさか……」
「誤解のないように申し上げますが、中心にいるのはわたくしではありませぬ。関わってはおりますが」
「なるほど。では、共に参ろう。あのような怪しからぬ内容、関わっているとなれば今すぐそなたも捕らえねば」
「王殿下が、わたくしをすぐに捕らえるとは思えませんがね」
「何だと?」
「王殿下は、わたくしの素性をご存知です。わたくしが生きていることも、誰にどのような目に遭わされたのか、も」
「提調尚宮様」
押し問答が続くと思ったのか、またもハン内人が口を開く。
「尚正様を呼びますか?」
普通の内人なら、尚正の名を聞くだけで震え上がるだろう。
何しろ尚正は、品階こそ従八品と決して高くはないものの――全部で十八品階ある中の、下から三番目だ――、後宮中の全女官の監察を担っている。尚正の評価は、すなわち出世に大きく関わるのだ。
評価が低ければ、最悪、宮中から追放されることも、有り得なくはない。
だが、シアは涼しい顔だった。少なくとも、尚正の一人とは顔見知りだし、そもそも女官ではないので、追放処分も怖くはない。
シアは構わず、言葉を重ねる。
「嘘だとお思いなら、ご確認くださって構いません。今から共に、煕政堂へ参りますか? 殿下の御前で、あなた様が十五年前、先王殿下になさったこと、申し上げてもよろしゅうございますか?」
十五年前――つまり、万暦三十六〔西暦一六〇八〕年にケシが、シアの父である先王にしたことと言えば、答えは一つだ。
「……バカな……何のことだか、わたくしには分からぬ」
「公然の秘密のようですゆえ、分からぬことはありますまい」
「そなたっ、重ね重ね……!」
「よい」
食って掛かりそうになったハン内人を、やはり挙げた手で制すると、ケシはシアに向かって返す。
「そなたの言いたいことは、恐らくは誤解だ。百歩譲って事実であったとしても、証拠はないであろう」
「ええ、証拠はない。ですが、証人はおります。よしんば、証人もいなかったとしても、王殿下のお耳に入れば、疑惑は芽生えるでしょうね」
告げた途端、ケシの顔が初めて、少しだけ動いた。
「まだ、ここで話を続けますか? 女官の目がございますが……まあ、無実の自信がおありなら、構わぬでしょうけれど」
挑発するようなシアの物言いに、ケシは唇を噛み締めていたが、やがて「入るがよい」と言ってきびすを返す。
「提調尚宮様!」
ハン内人が不満を訴えるように、ケシの背に追い縋る。しかしケシは、もう一度ハン内人と、もう一人の内人を振り返った。
「しばし、この者と話してくる。そなたたちは、ここで待ちなさい」
「ですが」
「大丈夫だ」
ケシが、二人を抑え付けるように、だが小さく頷いて見せる。ハン内人ともう一人の内人は、瞬時目を見交わし、ケシに向かって会釈するように頭を下げた。
「当面、人払いせよ。誰も、宮の中へ入れてはならぬ」
背を向けて告げるケシに、「はい、提調尚宮様」と返事をしたハン内人たちが、今一度頭を下げる。
階を上がるケシに続くシアに、当然のようにフェイジェンも続こうとしたが、ハン内人が「そなた」とフェイジェンを呼び止める。
「何か」
フェイジェンが静かに答えた声に、シアは彼女のほうへ目を向ける。
「提調尚宮様のお指図が聞こえなかったのか。人払いせよ、その者と話をする、ということは、提調尚宮様とその者以外、宮に入ってはならぬということだ」
フェイジェンは、微かに唇を引き結び、シアに視線を投げた。シアは小さく頷いて見せ、「いい。ここで待ってて」と早口で告げると、ケシのあとを追う。
脱いだ靴は、靴脱ぎ石に置いて上がるような、愚かな真似はしなかった。いつ、何が起きるか分からない。ここは、適地も同然なのだ。
女官たちの目に奇異に映るのを承知で、脱いだ靴は両手に引っ掛け、室内へ入る。
ケシは、当然のように上座へ腰を下ろした。彼女の対面へ座ると、シアは顎を引いて彼女を見据える。
「……改めて、お久し振りです。――大君様」
「ふん。やっぱり気付いてたんだな」
誰の目も耳も気にしなくていい空間に籠もると、二人の言葉遣いは逆転した。もっとも、宮廷で長く過ごしている者、王宮で生まれ育った者は、宮殿には壁にも目と耳があると思え、と誰からともなく教わる。
今この瞬間だけは、ケシも聞かれたくない話が出るのを恐れたのだろう。女官たちに釘を差すのを忘れていなかった。
「八年前は、物騒な挨拶どーも。ガキだったからもう何日も怯えたよ。特に、あんたの見えない武器にはな」
「恐縮でございます」
「褒めてねぇから。早速だけど、本題に入るぞ。あのイ・イバンに何を吹き込まれた?」
すると、ケシはうっすらと微笑した。
「それが、大君様に何か関係が?」
「今から光海兄上んトコに注進に走ろうってんなら、やめとけよ」
「わたくしが殿下に何を申し上げようと、大君様には関係のないことです」
「じゃ、言い直す。あんたが兄上に、イバンから聞いたことをチクるつもりなら、俺も一緒に行って、兄上にチクってやるよ。あんたが父上を殺した張本人だってな」
彼女は、顔色を変えはしなかった。ただ、表情がなくなる。まるで、大道芸人がかぶる、あの面のようだ。
「……先刻もお訊ねしましたが、証拠がおありで?」
シアは思わず吹き出した。
「女官の間で噂になってたぜ。もっとも、去年の中頃の話だけど」
「それだけでは、殿下はお信じにはならぬかと」
「さっきも言ったけど、それでも疑惑は芽生えるよな。一度疑念が沸いたら、兄上のあんたに対する信用はガタオチだ。ま、証拠のある悪事がお望みなら、キム・ヂャジョムから面白い帳簿、預かってるぜ」
キム・ヂャジョムの名を口にすると、ケシの顔色は、先刻とは比べものにならないほど、はっきりと変わった。
「あんた、奴からたっぷりもらってんだろ? コレ」
コレ、と言いながら、シアは右手の人差し指と親指で、円を作って見せる。
シアは未だ、チャジョムに会ったことはない。だが、ミョンギル経由でその帳簿の存在は知らされていた。
「いざという時の為の口止め料みたいだな。それと、証人がいる悪事もあるぞ。たとえば、俺の下の姉上を殺したのはあんただ……とかな」
「違う!」
これも、今日初めて、ケシが冷静さを失った声を上げた。攻め込む隙を見つけた気分で、シアはうっすらと不敵な笑みを浮かべる。
「何が違う? 俺も最近知ったんだけどな。俺にはもう一人、同母の姉上がいたらしいじゃねぇか。生後すぐに亡くなるのは、乳幼児にはありがちだって、当時はそれで片付けられたみたいだけど、あんたが姉上の寝ていた部屋から出て来たのを見たって人がいるんだよ。そのあと部屋に入ってみたら、赤子だった姉上が亡くなってたってさ」
すべて、その頃宮中に勤めていたというソジョンから聞いた話だ。ちなみに、ソジョンは、シアの下の姉を死なせた責を問われ、内医院から追放されている。
「違う、それだけは……確かに、わたくしは第二公主様を亡き者にしようとした。だが、わたくしが行った時にはもう、息を引き取られていたのだ、それで……」
「それで? ほかはやったけど、それだけは違うから許せって?」
シアは片膝を立て、そこへ肘を突いてケシを睨め付ける。
「ふざけてんのか?」
実のところ、シアの下の姉を手に掛けたのは仁城君だということは、本人から聞いたので知っている。そのあと、療養生活を送る間の世間話に一つ、ソジョンが目撃したという話を聞いていたのだ。
だが、シアは追撃の手を弛めなかった。
「今上げた二件には、しつこいようだが証拠と証人がある。さすがに兄上も信じるだろうな。仮に、姉上の死については気にしないって言ったとしても、贈収賄やってた件なんて、ほかにも叩けば埃がいくらでも出そうだし、そしたら父上の死については証拠がなくたって、確実に信用失くすと思わねぇ?」
返す言葉も思い付けないのか、ケシは唇を噛み締めていた。しかし、次第にその顔から表情が消えて行く。
無表情になったのは一瞬で、やがてその厚い唇が、不気味な上弦の月のように歪んだ。
肩先を小刻みに震わせ始めたケシは、クックッと声を漏らし始める。次第にその声は、笑いの形を取り、やがて高笑いに達した。
完全に意表を突かれ、シアは眉根を寄せたまま、呆然と目を見開く。
「……何が、そんなにおかしい」
「……おかしいとも。これが笑わずにいられると?」
クスクスと耳障りな笑いを挟みながら、ケシは顎を引いてシアを見据えた。
「お甘いですね、大君様。まさか、それしきの脅迫で、わたくしが、このキム・ゲシが、口を噤むとでも?」
「何?」
「ええ、どうぞ。王殿下に申し上げたければ、お好きになさって下さいませ。ただ、わたくしも使命を果たすだけです」
「使命だと?」
「はい、大君様。わたくしの使命は、何としても王殿下をお守り申し上げること。その結果、わたくし自身が殿下の信頼を失ったとて、何の後悔もございません」
舌打ちと同時に立ち上がる。シアは、チマに隠してあった刀を鞘ごと抜き出し引き抜いた。
「交渉決裂だな」
最早、反正まで彼女を黙らせておくには、この場で殺すよりほかにない。
「わたくしと交渉可能だと思った大君様が、甘いと申し上げているのです!」
同じく立ち上がったケシは、袖口から何かを引っ張り出した。
あの時の糸だ、と考えるより早く、シアは障子戸を蹴り開け、素早く庭先へ転がる。そのあとを追うように、何かが爆発するような音がした。
何とか靴を履きながら振り返ると、やはりあの時と同じように、障子戸に面した壁に、真っ直ぐに切れ目が入っている。
空いた穴から悠然と姿を現したケシの手許が、すでに沈み始めた陽の光を弾いて、一瞬煌めいた。と思った直後には、彼女は再度手を振り抜く。風切り音が彼女の動きに続き、その場にあるものを寸断し、切り裂く。
上がった悲鳴の先へ目を向けると、フェイジェンがハン内人を庇うように抱えて地面へ飛び込み、その上へ覆い被さっていた。
「やめろ、ケシ!」
「やめて欲しければ、お前がすぐに死ねばいいだけのこと!」
シアは鋭く舌打ちすると、ケシに向かって突っ込んだ。
あの日、ケシの持っていた武器――鋼線について養父に聞いてから、あの武器との戦い方も、養父から叩き込まれている。養父が亡くなったあとは、ミョンギルやシベクに乞うて、影契の中から遣い手を捜して鍛錬した。
それでも、反応が遅れれば文字通り輪切りになるのは避けられず、対鋼線の鍛錬をしていない人間にとっては、対峙さえ難しい。
ケシの放つ鋼線を弾きながら、手摺りに突いた手を軸に、彼女の首筋を狙って蹴りを繰り出す。だが、爪先が彼女の首筋に届くより早く、彼女は側転でそれを避け様、シアの足を彼女自身の足で弾いた。
庭先へ逆戻りするように降り立つと、彼女との間合いが開く。なり、鋼線が飛んで来る。
(キリがねぇ!)
またも舌打ちした。
『あの武器は、間合いを詰められると弱い』
そう言っていた養父の言葉が、思い出される。
『鋼線が動き始めると見え辛いし、見失ったら切り刻まれるのを待つばかりだ。一見打つ手がないようにも思えるが、間合いを詰めたらどうなると思う?』
当時、十歳前後だった幼いシアは、しばし考えた。
『……近すぎて、狙いが付け辛い?』
試しに言ってみると、養父は満足げに微笑した。
『正解だ。つまり間合いを詰めてしまえば勝てる。相手が、ほかに武器を持ってさえいなければ、相手は徒手空拳で敵と戦わざるを得ない。こちらが刀に類する武器を持っているか、相手より徒手空拳での戦闘技量が上なら、勝ったも同然だ』――
(……但し、相手に間合いを取らせなければ、か!)
シアは、フェイジェンとハン内人の前に、彼女たちを守るように立ちはだかりながら、ケシの繰り出す鋼線を必死で弾き続ける。間合いを詰められない今は、それしかできることがない。
「……ッ、何でそんなに光海兄上に執着する!?」
「何だと?」
問い掛けが意外だったのか、僅かに鋼線の威力が弛んだ。
透かさず、鋼線の軌道を逸らすように捌き、切断を試みるが巧く行かない。
「兄上の王位がそんなに大事かよ! もう兄上の治世は長くねぇぞ!!」
「黙れ!!」
飛んで来る鋼線の威力が増す。
「あの方の王位は大事だが、それだけではない。殿下は、私のすべてだ!!」
「どういう意味だよ! あんた、父上の承恩尚宮だったクセに――」
「承恩が何だ!!」
ケシの目が、カッと見開かれ、はっきりとした殺意と共に鋼線が放たれる。それを避けるのは容易いが、シアが避ければフェイジェンとハン内人の命がない。
歯を食い縛り、腰を落として、全体重を掛けるようにしながら、すべての鋼線を叩き落とす。そのまま、地面へ落ちた鋼線を素早く切り刻んだ。
使い物にならなくなった鋼線を前に、ケシが先程とは別の意味で瞠目する。
上がった呼吸を整えながら、ケシは憎悪の混じった目でシアを睨み据えた。
「……王なら、気に入った女を玩具にしても許されるとでも言いたいのか」
「何だと?」
シアが眉根を寄せると同時に、ケシの目から膨れ上がった涙が、頬を伝った。
「アイツは……先王は、嫌がる私を権力尽くで犯し、無理矢理承恩尚宮にしたのだ」
今度は、シアが瞠目する番だった。一瞬では理解の難しい、あまりにも残酷な内容に、愕然と言葉を失うシアに構わず、ケシは先を続ける。
「あの頃、私はまだ世子様だった殿下付きの女官だった。いつしか殿下に惹かれ、あの方の為なら何でもしようと決めていた。殿下も同じ気持ちで……次期王になった暁には、側室に娶ってくださる約束まで交わしたのに――それを先王が、無惨に引き裂いた!!」
叩き付けるように言ったケシは、失った得物の代わりに、目だけでシアを睨み続ける。まるで、視線で殺せればいいのにと言わんばかりだ。
「先王が憎い! 幾度殺しても足りぬほどだ!! だからお前を殺す策略にも関わった! 先王の寵愛したお前も、どれだけ憎んでも足りぬ!!」
シアは、何も言い返すことができなかった。
たかがそんなことで、などとは言えない。口が裂けてもだ。
なぜなら、つい先日まで少女として過ごしていたシアは、知っている。
こちらを、性的対象としてしか見ない男たちの、不躾で不快な視線を――それを向けられ、あまつさえ、床入りを強要される底なしの不快感を、嫌というほど理解している。
実際に身体を奪われる恐怖は、本当の女ではないシアには想像することしかできないが、先日、慶平兄がフェイジェンを襲った件は、今思い出しても心底ゾッとする。兄が想いを遂げていたら――一歩間違えば、フェイジェンだってケシのように歪んでいたかも知れないし、その前に自ら命を絶っていた可能性もある。
「だから私は、私の操の仇を討っただけだ。そして、あの男が死んだあとは、権力に振り回されない為に、権力を手に入れただけだ。何が悪い?」
クスクス、と挟まれた、先刻は耳障りに思えた笑いは、どこか哀しく聞こえた。その笑いを、シアには跳ね返すことはできない。
「……悪くないさ」
自分の行動を、肯定するようなことを言われたからか、ケシの表情が一瞬無になる。
「その件に関しちゃ、俺が謝らなきゃなんねぇ。クソ父上の代わりにな」
それまで落としていた腰を、ゆっくりと伸ばす。背筋を正し、手にしていた刀を左手で逆手に持つと、シアは深々と頭を下げた。
「……ウチのクソ父が、申し訳ないことをした。謝る言葉もない。あんたの精神を殺した父を、許せなんて言えないし、父の顔を知らない俺を巻き込むなとも言えない」
憎しみは波及することも、シアは知っている。
一度底なしに憎んだなら、相手を何度殺したって足りない気持ちも、痛いほど分かる。その足りない気持ちが、血の関わりのある肉親に及ぶのも、無理はない。
憎悪は、自分の気持ちでありながら、時に制御できずに暴れ出すこともある。叫ばなければやっていられない。
叫んでも足りない。その気持ちを鎮めるにはどうしたらいいかは、シアにだって分からない。
「キレイゴトを言う気は更々ない。だけど……頼む。一度だけ、見逃してくれないか」
「……何を?」
「さっき、イバンから聞いた話を、光海兄上に伝えるのはやめてくれ」
「お前は、殺されるかも知れない時に、座して待てるの?」
シアは、息を呑む。考えるまでもなく、その問いの答えは『否』だ。
座して待たずに、間違いなく人を殺して、その果てにシアは、今ここに生き延びている。それは否定できない。だが――
「……何で、あんたが殺されるって話になる?」
鈍い動作で、上体と顔を上げると、そこには元通り、シアを嘲るような笑みを浮かべたケシがいた。
「あの方は、私の命だもの。イバンの話を殿下に申し上げなかったら、私はきっと殿下を失うわ」
シアは、またも息を呑んだ。
確かにケシは、シアを陥れた。ありもしない罪を捏ち上げ、最終的には死へ追いやろうとした。
けれども、そんな彼女をもう、『人の心を忘れた、鬼畜以下の生物』と思うことはできない。シアと同じ、人間だ。
人間だからこそ、愛おしく想う、大事に思う相手がいる。シアだってもう、フェイジェンがいなくては今度こそ生きていけない。彼女は、自分の命だ。
ケシが光海兄を大事に思い、彼を『命』と言い切る彼女の気持ちも、今は痛いほど分かってしまう。
「……あんたが父上にされたことは、残酷なことだ。父上があんたにしたのは、男として最低以下の行為だって分かってる。息子としても、同じ男としても、許せない。これがもし、一家庭の話なら、俺はあんたを見逃した。いくらでも、憂さを晴らせばいいって放って置いた。でも、ッ……」
まるで、自分に言い聞かせるような言葉は、身を斬るように辛い。それでも、自分がもし分裂して、その分身が暴走したら、説き伏せるしかない。
「……あんたが後宮で、権力尽くで憂さを晴らせば、それは下手すれば、民に影響が波及するんだぞ」
その影響たるや、決して小さくはない。理由はどうあれ、理不尽に命を奪われ、不利益を被る民が、尋常ではない数、出ることになる。
その一人一人に、大切な誰かがいるのだ。
大規模な憂さ晴らしの代償は、第二第三のケシ自身を作り出してしまうことにほかならない。
けれども、その意を含んだ言葉に、ケシは瞬時、目を瞬いただけだった。その頬にはすぐにまた、嘲笑が浮かぶ。
「やっぱり坊ちゃんね。キレイゴト、ホザいてるじゃない」
「あんたらのお陰で、坊ちゃん育ちじゃないつもりだけどな」
ケシが丸腰のまま構え直すのを見て、シアもまた利き手に刀を構え直し、足を引く。
「……話しても無駄か」
「私を止めたければ、この場で殺せばいいわ。但し」
彼女は、ピクリと右手を動かした。その手に、何らかの武器は握られていない。だが、彼女がしなやかな指先を唇に当てる動作が、ひどく鈍いものに映る。
瞬間、甲高い指笛が響いた。その音に導かれるように、それまで姿を隠していた衛兵が駆け付ける。
「曲者だ。この者を捕らえよ」
尚宮然と命じたケシの言葉に、しかし衛兵は動かない。
「何をしている、さっさと――」
「彼女を、拘束しとけ。まだ外には気取られないようにな」
「はい、大君様」
シアの淡々とした命令に、衛兵の長と思しき男が、キビキビと頭を下げ、配下に命じる。
「この女を捕らえよ!」
「はっ!」
「何をする!」
衛兵が素早くケシに駆け寄り、両脇から彼女の腕を捕らえる。ケシは拘束から逃れようと身を捩るが、それは叶わない。
「貴様!」
「悪いな。下っ端の衛兵は、ほとんどもう影契の戦闘員――つまり、俺の配下と入れ替わってる」
もっとも、実行したのはシアではなくミョンギルなので、さも自分が作戦を実行したかのように告げるのは、何とも気が引けるが。
「放せ! 貴様、こんなことをしてタダで済むと思うの!?」
「あんたには、心底同情するよ。父上があんたに仕出来したことは、男としては万死に値する。俺があのまま、この年まで王宮内で成長して、真実を知れば、俺が父上を断罪してたかも知れない。だけど、後宮から朝廷腐敗させてちゃ、あんたも父上と大差ない水準だよ。つっても、あんたがそこまで堕ちたのは、結局父上の所為だと思うと、あんたを処罰するのは理不尽なような気もするけど」
冷えた流し目をくれて、肩を竦めるシアに、ケシは歯を剥き出さんばかりにしながら、懸命に首を乗り出す。
「私が……提調尚宮である私が後宮から消えたら、どうなると思ってるの!?」
「さあな。それこそ、後宮全体がひっくり返るかもだけど、そこはもう、あんたが心配するこっちゃねぇよ。平穏無事に過ごしてたとしても、あんたも近々、ここから叩き出されるはずだからさ」
©神蔵 眞吹2026.




