第四章 金介屎《キム・ゲシ》、再び
南陽の農荘を任せていた影契から、ソボンが手の者を引き連れて姿を消したという報せがもたらされたのは、翌日、ミョンギルとナギョン、そして数人の影契が、拠点を離れた直後のことだった。
続報が着くまで、拠点では全力警戒が続いていたが、その後、ソボンの行方を追っていた影契から届けられたのは、意外な情報だった。
「――フィセ殿は、都付近の拠点である睡蓮楼に、手勢と共に入り、そのあと、李厚源様と仰る方に、王位に就いて頂くようご説得され、承諾を得たようです」
「イ・フウォン?」
誰だそれ、と言わんばかりに眉根を寄せたシアに、シベクが、「王族の方です」と答え、先を続ける。
「イ・フウォン様は、第四代王・世宗大王殿下の第五王子・廣平大君様の七代孫に当たるそうです。それゆえ、大君様の子孫、すなわち嫡流という位置付けで、王位に相応しいとされたとか」
「……最早、大君なら誰でもよさそうだな」
クッ、と投げるような嗤いが漏れる。
やはりソボンは、身分だけを見て仕える人間だったようだ、と思うと、安堵と呆れが綯い交ぜになった苦笑で、唇が歪んだ。
「でも、何でその、イ・フウォンだったの?」
素朴な疑問を呈したのは、同じ室内にいたフェイジェンだ。
「あー、言われてみりゃ、そうだよな。『嫡流』って一点だけで見れば、ほかにも候補はいそうだけど」
揃ってシベクへ目を向けると、彼は顎を引くようにして答える。
「フィセ殿は、イ・フウォン様のお父上、李郁様が亡くなられた際に、墓碑銘を書かれたそうです。そのご縁かと」
「なるほどな」
フッと溜息を吐いた直後、「大君様」と部屋の外から声が掛かった。
「チェ・ミョンギルでございます。今、宜しいでしょうか」
「ん、入れよ」
軽く促すと、ミョンギルは「失礼致します」と断りを入れて、障子戸を開ける。
「ただいま戻りました」
一礼したミョンギルは、室内へと足を踏み入れ、障子戸を閉じた。
「一人か?」
「はい。ナギョン嬢は、貞淑翁主慈駕が、ご自身付きの侍女として、お預かり下さることになりました。当面、シン家の屋敷を抜け出すことも、都とその近辺を調べ回ることも、翁主慈駕が固くお禁じに」
「へぇ……よくあの女が承知したな」
「翁主慈駕のご説得には、逆らえなかったようで」
覚えず、微苦笑を浮かべたミョンギルが語ってくれたのは、およそ次のような話だった。
『――なるほど。話はよく分かった。では、これから王宮へ参ろう』
ナギョンと共にシン家を訪れた理由を話すと、貞淑翁主は、うっすらと微笑して言った。こういう、所謂不敵な笑みは、どこか弟の永昌大君を思わせる。
母親違いとは言え、やはり姉弟だと、ミョンギルは内心で苦笑した。
『えっ、王宮……ですか?』
戸惑ったように問うナギョンに、貞淑翁主は頷いた。
『左様だ。そなたは、恐れ多くも先王殿下の王女たるわたくしに向かって、「王女であることなど信じられぬ。納得いくように証明せよ」と申す。なれば、わざわざチュルランやキェの手を煩わせることも、ウィの意に反して二人にウィの生存を報せる必要もない。今すぐに参内し、王殿下へ謁見を申し入れる。そなたはなぜか疑っているようだが、王殿下は、間違いなくわたくしの兄上だ。妹であるわたくしが会いたいと言えば、すぐに応じてくれよう』
ナギョンは、沈黙した。
まさか、偽者かも知れない王女が、すぐに参内し、王に謁見を申し入れると言い出すなど、思ってもみなかったのだろう。
相手が仮に十割偽者で、すぐにナギョンが『分かった』と言えば、相当困るに違いない。ナギョンだって、現在の正宮である昌徳宮の場所は知っているから、違う場所へ行って、偽の王を仕立てることはできない。
よしんば、仕立てるにしても、不意打ちのような今の間合いで、ナギョンがすぐに王宮へ行くことを承知すれば、都合よく偽者を用意する時間もない。
――と言ったことから、疑り深いナギョンも納得せざるを得なかったらしい。
『申し訳ございませんっっ!!』
と早々に叫んでその場へ平伏した。
『知らぬこととは言え、数々のご無礼、平にお許し下さいませ!』
お決まりの謝罪をするよりほかなかったナギョンに、貞淑翁主は、今度は鷹揚に笑い掛けた。
『気にせずともよい。今そなたが申した通り、そなたは何も知らなかったのだから』
クス、と漏れた笑いは、勝ち誇ったそれだった。
『では、どうする。予定通り、チュルランとキェをここへ呼ぶか? わたくしとしては、できればそれは避けたい。呼び出して面通しさせれば、そなたの疑念は完全に晴れるが、二人はそもそもなぜ、わたくしの顔の確認に呼び出されたのかという疑問を抱くだろう。そうなれば、ウィの生存について、話さざるを得なくなる。決起が近い今、綻びが生じる可能性は排除しておきたいのだが……』
『いえっ! それはもう……お取り下げ下さいませ』
平伏したまま、ナギョンはブンブンと首を横へ振っている。それを見下ろしながら、貞淑翁主は、『よかった』と心から安堵した声を出した。
『なれば、そなたはこのまま、ここへ留まってもらえるな?』
『はい?』
話が明後日の方向へ向いた所為か、ナギョンは間の抜けた声と共に、顔を上げた。そして、慌てたようにまた視線を下げる。
『分かったであろう。計画の破れ目を繕う面倒は、できるだけ掛けたくない。そなたがこれからミョンギル殿と、都の内外をあちこち彷徨けば、それだけでイチョムの目に付く。できればそうなる可能性は、排除したいのだ』
『……あ……ですが……』
『そなたの懸念は、わたくしにも理解できている。今し方ミョンギル殿が説明したのを、そなたも聞いていたであろう。反正が成った暁には、わたくしがそなたの父君を含む家族を、責任持って弁護しよう。新しき国王殿下も、宣祖大王殿下の娘であり、実の叔母であるわたくしの願いを、無碍にすることはあるまい』
『ですがっ、……わたくしが望んでいたのは、そもそも父が誠に罪を犯していたのか、それを唆したのは誠に広昌府院君様なのかを、わたくし自身が納得するように調べることです。永昌大君様の身許を確認したのは、その過程に過ぎませぬ。どうか、そのご命はご撤回を』
すると、貞淑翁主は、表情を曇らせた。
『それは困る。そなたがどうしても行動に移すとなれば、わたくしも考えねばならぬ』
そう貞淑翁主が口にした途端、ナギョンは下げていた目線を上げた。
『翁主慈駕も、結局は王族権限で、下の者を意のままにするのがお好きなのですか』
『何だと?』
どこか棘のある言葉に、貞淑翁主も険のある声を返す。しかし、ナギョンも怯まなかった。
『違うと仰るのなら、穏やかな言葉だけで、わたくしを説得してみて下さい。もし、見事わたくしがぐうの音も出ない状況になれば、わたくしは翁主慈駕の要求を受け入れましょう。ですが、わたくしが納得できなければ、その時は勝手にさせて頂きます。それを翁主慈駕は、いくら先王殿下のご息女と言えど、わたくしを殺す以外に阻む術はないと、お心得下さいませ』
眉間にしわを寄せていた貞淑翁主は、ややあってから『その前に、一つ訊くが』と口を切った。
『何故、そなたは今、その調査をすることに拘る? 反正が成ったあとでなら、もっとゆっくり調べられよう』
『恐れながら、申し上げます。すべてが終わったあとでは、その前の記録は改竄、もしくは廃棄されて、二度と見られないかも知れませんので』
いつしかナギョンは、俯けていた顔を上げ、真っ直ぐに貞淑翁主を見ていた。この国では、それは非礼とされているにも拘わらず、だ。
だが、貞淑翁主はそれを特に咎めることはせずに、ナギョンに問いを重ねる。
『しかし、今記録されていることこそ、偽りだ。それは、ウィが陥れられ、挙げ句その死が病に拠るモノと記されていることからも明らかであろう』
『それは、大君様が仰ったことで、わたくしは直に見ておりませぬ。わたくしは、今ある記録が偽りであろうと、それを直に見、関係者から直に話を聞いておきたいのです。反正を起こすには、大君様には大君様の思いがおありでしょうが、それは反正を起こすほかの者と同じとは限りませぬ。ゆえに、反正が成った暁に、大君様や、ほかの王族の方を陥れたとされる者たちは捕らえられるでしょうが、拷問などで、証言が歪められないという保証はありませぬ。それは、わたくし自身、補盗庁の茶母として勤めていた経験から、断言できます』
この時ミョンギルは、思わず『ほう』と小さく呟いてしまった。
茶母と言っても、処分上の名ばかりのそれで、実際はヌクヌク育った両班令嬢と変わらないと、内心侮っていたのだ。意外にも、ちゃんと仕事をしていた部分もあるらしい。
他方、それを凪いだ表情で見つめていた貞淑翁主は、しばらくの沈黙を挟んで、『ならば』と改めて口を開いた。
『こうしよう。反正が成ったあと、記録が改竄、もしくは廃棄されるとそなたは言った。だが、実際にそうなるまでには、間があろう。反正による代替わりとなれば、直後には混乱しているだろうから、先王時代の記録や書類が整理されるのは、恐らくある程度日時が経って、落ち着いてからになる。その間に、わたくしの権限で、そなたが見たいと言った記録を、わたくしと共に見て回ることにしてはどうだ?』
『っ……』
ナギョンは、息を呑むように言葉を詰まらせた。そして、反論を探して随分長いこと黙り込んでいたが、ついに何か言葉を発することなく、白旗を揚げた。
「――なーるほど! 結局、ぐうの音も出ない状況になっちまったわけだ」
聞き終えるなり、シアは盛大に吹き出してしまった。
途中、『今ある資料を、手を入れられる前に見ておきたい』とナギョンが言った下りでは、正直ヒヤリとしたものだ。その場にいたのがシアなら、そこで折れていただろう。だが、貞淑姉は一枚上手だった。
考えてみれば、ナギョンもシアより一つ年上なだけだ。対して貞淑姉は、今年の誕辰〔誕生日〕が来れば三十六になる。娘ほど離れた少女を相手に、舌先三寸で一捻りにするくらい、造作もないのかも知れない。
ひとまず、貞和姉とキェにも、無駄に生存を暴露さずに済んだのはよかったが、貞淑姉には益々頭が上がらなくなりそうだ、と複雑な気分になった直後、「大君様!」と室外からけたたましい叫び声が飛び込んで来た。
「何事だ!」
即座に立ち上がったシベクが、障子戸を勢いよく開く。
通路には、影契の構成員と思しき男が一人、上がった呼吸を整えながら膝を突いていた。
「申し訳ございません。都の仲間より、急ぎの報せです」
答えつつ、男はシベクに、小さく折り畳まれた紙片を差し出す。
受け取ったシベクは、シアにチラリと目配せした。開けて見ろ、という意を込めて頷くと、頷き返したシベクは紙片を広げる。
中身に目を通すシベクの顔は、たちまち険しくなった。
「……何があった」
「大君様」
シベクは、持っていた紙をミョンギルに渡す。受け取ったミョンギルもざっと中に目を通すと、それをシアに差し出した。
中身は文だった。フェイジェンが横から覗き込んだので、彼女のほうにも書面を向けながら、文字を追う。
顔が自然、強張るのが自覚できた。思わず、舌打ちが漏れる。
「大君様」
「如何なさいますか」
「決まってるだろ」
手にしていた文を、グシャリと握り潰す。
「ソッコー、都に向かう」
***
都から来た報せは、とんでもないモノだった。
コトの発端は、ソボンが次期王にと推戴したイ・フウォンが、同じ廣平大君の系流で、親戚に当たる李而攽に、是非反正に加わるようにと声を掛けたことらしい。
反正の目論見を知らされたイバンは、選りに選って、即座に王宮へ注進に向かったという。それを見届けた影契が、シアたちに寄越した文を持って駆け付けたので、その後のことははっきりしない。
「……ったく、余計なことを……!」
都へ向けて馬を並足で歩かせながら、シアは馬上で独りごちる。
この緊急事態だ。本当は全力で駆けさせたいが、実は馬という生き物は、進む速度によって、一日に歩ける距離が決まっている。逸る気持ちに任せて、うっかり全力で駆けさせたが最後、目的地に着く前に馬は力尽きてしまうのだ。
「っていうか、元はソボンの責任だろが」
「と言いますと?」
馬の速度に合わせるように、のんびりと言ったミョンギルにも、八つ当たりと分かっていても苛立つ。
「だってそうだろ。相手見極めずに、血筋だけで口が軽い人間、引き入れちまったんだからな。王に推戴するんじゃなくても有り得ねぇ」
腹立ちのままに吐き捨てると、ミョンギルは苦笑した。
「……まあ、無理もございません。イ・イバン様は、元々小北派に名を連ねていた、李惟弘様のご子息ですから」
「そのイ・ユホンって男は、今?」
「七庶獄事の際に流刑に処され、その後死罪を申し付けられております」
つまり、すでに亡くなっているのだ。
「七庶獄事に限らず、大北派に煮え湯を飲まされた者は、大半が大北派に対し、恨みを抱いておりますが……たまに、イ・イバン様のような方もおられます」
「イバンみてぇなって」
「長いものには巻かれろ、的な生き方を選ぶ方です」
身も蓋もない。
「大君様はお考えが違うと思いますが、イ・イバン様はイ・イバン様なりに、思う所がおありなのでしょう。彼の方は、お父上が、小北派に属していたという、ただそれだけの為に、流刑にされた果てに殺されております。大君様は、ご自身の身を賭しても、真実を突き止め、仇を討とうと、少なくとも故人に報いようと動いていらっしゃる。ですが、イ・イバン様は、恐らくお父上の死に様を見た結果、何がなんでも己の身を守るほうへと考えが傾いておられるのかと」
シアは、思わず息を呑んだ。
直線的にそう言われたわけではない。ただ、ミョンギルの言葉には、『自身の価値観を他人に押し付けるな』という戒めが含まれているのは分かった。
シア自身、ソボンにそうされて、反発を感じているはずなのに、自分は無意識に人にされて嫌だと思うことを他人にしようとしている。
「……悪い」
一瞬、手綱を握り締め、チラリとミョンギルを見ると、彼は無言でニコリと微笑した。
「……ただ、……それとこれとは話が別だ。譲った結果、俺だけじゃなく周りが命落とすようなら、……それを止める為に必要なら、悪いが俺は手段を選ばない」
それが仮令、相手の命を絶つ行為であっても、という含みがあるのは分かったのだろう。今度は凪いだ無表情になったミョンギルは、一言、「承知しております」とだけ告げて顎を引いた。
***
都へ――正確には、ミョンギルが新しく開設したという、都の郊外にある妓楼へ辿り着いたのは、都と南陽の中間地点にある拠点を発ってから、二時辰半〔約五時間〕ほどのちのことだった。
時刻は、申時の初刻〔午後三時頃〕になっている。
ここで、シベクの異母妹であるイェスンに迎えに来てもらい、シアは女官に変装して王宮へ潜り込むことになった。
イェスンに連絡を取り――この点で、まずシアが猛烈に、彼女に頼ることを拒否したのだが、『今は何より時間がないのでは?』という一言で一蹴されてしまった――、イェスンが来るのを待つ間に、支度をするシアとフェイジェンの間でも、フェイジェンを伴って行くかどうかでしばらく揉めた。が、イェスンが到着するより早く、フェイジェンにシアが捩じ伏せられる形で決着した。
「ついこないだ、うっかりちょっとのつもりで離れたばっかりに、結局安否も分からないまま、ふた月も離れ離れだったのよ!? シアは本当に平気だったのね!!」
と半泣きで言われては、白旗を揚げた上に、『何があっても二人で戻る』と肚を括るしかなかった。
かつて、化粧師だった際に、シアも使用していた女官用の通用口から、イェスンの持つ身分証で昌徳宮の敷地へ入ると、シアとフェイジェンは、そこで待っていた影契の構成員――今はどうやら尚正〔品階は従八品。女官の監察役〕の地位にいるらしい――に引き渡された。
「先程、イ・イバン様は、キム・ゲシ提調尚宮様の許へ向かわれたそうです」
「ッ……!?」
尚正の報告に、思わず大声で、「はぁ!?」と言いそうになったシアは、慌てて自分の手で自分の口を押さえた。
「どういうことだよ」
潜めた声で問うと、尚正は、「どうぞ」と促しながら、先に立って歩き出す。
「イ・イバン様は最初、煕政堂〔王の私的な居所〕に向かわれたそうです。それを見ていた、内官として潜り込んでいる者からの報告ですが、イ・イバン様は、王殿下に人払いを頼み、『反正の恐れあり』と直接訴えたそうです。しかし、今王宮では、翁主様のお誕生日祝いと冊封祝い、加えて、翁主様のお母上の昇格祝いを兼ねた宴の準備に忙しく、『根拠のないことで煩わせるな』と軽くあしらわれたようです」
「翁主?」
「王殿下のご側室の一人、尹永新貴人様のお産みになった王女様です。この誕辰で、御年四歳におなりです」
貴人は、王の側室の内、上から二番目の地位で、品階は従一品だ。
「……で、諦めずに今度は提調尚宮のトコに注進に行ったわけか。マメなことだぜ」
すべての女官を取り纏める長である提調尚宮は、通常であれば後宮の長たる王妃の居所・大造殿の近くに居所を構えている。が、実質王妃として振る舞う現・提調尚宮であるケシは違う。
彼女の場合、居所は王の私的な居所・煕政堂のすぐ近くだ。
逸る心のまま、駆け足になりそうになるのをどうにか抑え、それでも怪しまれない程度の早足で歩く。
しかし、シアたちがケシの居所付近に辿り着いた時、遠目に一人の男性が宮から出て来るのが見えた。宮から出て来たのだから、ケシとの面会を終えたのは明白だ。
舌打ちして駆け出すのに、尚正とフェイジェンが続く。男とすれ違い様、尚正が、「恐れ入ります」と男に声を掛けた。
男のことは尚正に任せ、シアとフェイジェンは、宮を囲う塀に設えられた門を潜った。敷地に入った途端、宮から尚宮と分かる衣――濃緑色の唐衣と濃紺のチマ――を身に着けた女性が一人、階を降りて来た。
その容貌に既視感を覚え、シアは一瞬息を呑む。
面長の輪郭に、長い鼻筋、ぽってりとした赤い唇――一つ一つを取れば悪くはないが、全体的にあまりパッとしない顔立ち。取り立てて不細工とも言い切れない十人並みの容貌の中で、どこか際立つ、考えていることがよく分からないその瞳――
『そなただ。名を何と言う』
あの時――ほぼ初めて彼女に会った際の、年齢の割に重みのある声が、脳裏に蘇る。
『わたくしの名は、キム・ゲシと言う。改めて、そなたの名を訊ねてもよいか?』
『明朝早く、わたくしと共に宮中へ参ろう』
『わたくしはこの子が気に入りました。この度胸ならきっと、宮中でもやってゆけましょう』――
今思えば、明らかにシアを殺す為にその場から連れ去ろうとしていたであろう彼女の声音が、脳裏で尾を引く。頭の中で遠ざかる言葉尻に合わせるように、階を降りて来た女性の上げた視線と、目が合った。
最初、思わぬ所に人がいた、という単純な驚きに瞠っていた印象的な瞳が、何かを思案するような色を宿す。
シアは、唇を引き結び、ゴクリと喉を鳴らした。薄く開いた唇から空気を出し入れし、下腹部に揃えた手を当て、女官然としてケシの前へ歩む。
彼女から少し離れた所で足を止め、恭しく頭を下げた。
「提調尚宮様」
「見たことのある顔だな。どこの内人だ?」
「八年ほど前に、一度だけお目に掛かりました」
顔を俯けたまま告げると、ケシは「面を上げよ」と命ずる。シアは、彼女から見える程度に顔を上げ、目線を彼女に向けた。
彼女はまだ、何かを考えるように、眉根を寄せている。
「……八年前に、会ったことがあると?」
「左様です。巫女見習いとして修練に励んでいたわたくしは、就任したばかりだった提調尚宮様に、女官見習いとして引き抜いて頂けるところでした」
薄く笑って言葉を継ぐと、ケシは、やっと思い出した、と言わんばかりに目を見開いた。
©神蔵 眞吹2026.




