第六章 そして、また一人
「先程の話題に戻っても宜しいでしょうか?」
そう訊ねたのは、シベクだ。
「……先程の話題って?」
綾陽君の件を先延ばしにしたいシアは、敢えてその話題転換に乗る。
「先程、大君様は仰っていましたね。『左補盗庁のチョン・ハン大将と同程度か、それ以上の強さの者が、影契内にいないか』と」
「……ああ、そういや、そんな話してたな」
「わたくしでよければ、お相手いたしますが」
サラリと言ったシベクに、シアは眉根を寄せた。
「……自信があるってのか?」
「自信と仰いますと」
「チョン・ハンと戦り合ったことがあんのか、って訊いてるんだ」
「そうですね」
フッ、と彼の口から漏れた笑いは、苦いものを含んでいる。
「わたくしが右補盗庁で譏校〔探偵捜査担当官〕をしていた折、あの者が一時右補盗庁に勤務していたことがありました。その時には幾度か」
「……それ、何年前の話だ?」
「あー……そうですね。確か、大妃様がお輿入れされた頃ですから……わたくしが二十一の頃かと」
「……あんた、今いくつだよ」
「四十一です」
「二十年も前の話が当てになるかっつーの!」
思わず、力一杯ツッコミを入れてしまうが、シベクは苦笑を深くしただけで動じない。
「お言葉ですが、わたくしも六年ほど前までずっと譏校をしておりました。譏校の仕事の内容は、大君様はご存知で?」
「……補盗庁の捜査担当官だろ」
「左様です。場合によっては犯罪者相手に立ち回りもしますし、当然勝利しなくては降格の憂き目に遭います」
「じゃ、あんたが今中枢府にいるのは、ドジったからか?」
「そのほうが億倍マシでございましたね」
クス、と漏れた笑いには、今度は自嘲が含まれていた。どういう意味かを問う前に、シベクは独り言のように続ける。
「わたくしが中枢府に飛ばされた際に、肅川府使として在職中だった父が、冤罪事件に巻き込まれましてね」
「冤罪事件?」
「はい。当時、崔沂という方が、七庶獄事に関わったとされ、海州で投獄されておりましたのですが」
「はあ!?」
七庶獄事、という単語に、シアは過敏に反応した。
「さっき、あんたが中枢府に飛ばされたのは六年前って言わなかったか!?」
「はい、申しました」
「ちょっと待てよ。七庶獄事って、俺が流刑にされた事件だろ!? 六年前ってことは、事件から三年も経ってるのに、まだ投獄される人がいたってことか?」
「左様です。その方と懇意だった父は、チェ様に面会に行っただけで、同罪として職を逐われ、伊川に流刑にされました」
「そんな」
愕然とした。
自分が陥れられた事件は、自分の知らない所にまで及んでいる、と思うと、無意識に握った拳に力が入る。
「まあ、そんなわけで、わたくしが中枢府に左遷されたのは父の連座です。父が流刑にされたのを思えば、都内に置いておいてもらえただけありがたいかも知れませんが」
「……あんたの父上は、まだ伊川に?」
恐る恐る訊ねると、シベクは「いいえ」と首を横へ振った。
「今から三年ほど前に放免されました。翁主様のご誕生祝いの恩赦でね」
「……そうか」
思わず、ホッと息を吐く。
「ま、それはともかく、一度お試しになればはっきりしますよ」
「何が」
「チョン・ハンとわたくしの力の差です」
そう言えば、最初はそんな話だった、と気付いて、シアは瞬時息を呑んだ。
「……そう言や、あんたは何で俺に手ぇ貸す気になった」
「何で、と仰いますと?」
「あんたも察するに、身分に頭下げる性分じゃなさそうだからな」
シベクは、キョトンと目を瞠り、次いで苦笑する。
「……そうですね。強いて申し上げれば、大君様のそのご性分に惹かれたから、でしょうか」
「俺の性分だ?」
「ええ」
「俺の何を知って、惹かれたとか軽々しいこと言うわけ」
「確かに、わたくしは大君様とはつい先程お会いしたばかりです。しかし、その前に、無作法でしたが、ミョンギルとの会話は一通り聞かせて頂きましたよ」
「それで俺の全部を総括できた気になってるのかよ」
「無論、ミョンギルとのやり取りで垣間見えたことが、大君様のすべてではないでしょうね。ですが、この年になれば、欠片でも見れば、人となりは判断できます。加えてあの時、大君様は誰かミョンギル以外の者が聞いていることまで想定して話してはおられなかったでしょう」
確認ではなく断定され、シアは上手く反論できずに唇を噛んだ。
「逆に伺いますが、大君様は何故、ご自身をそう卑下なさるのですか?」
「……卑下ってわけじゃ……」
「状況はお分かりなのですよね?」
問われて、ピクリと眉尻が跳ね上がる。だが、シベクは構わず続けた。
「事態はもう、圧倒的にご自身の手に余っている。誰かの手を借りないと、次は死ぬかも知れない。そこまでお分かりなのに、差し伸べられた手を取るのも躊躇なさるのは――」
「ああああ、もう分かったよっっ!!」
自分が言ったことを丁寧に反芻され、シアは大声でシベクの言葉を遮る。
無表情に口を閉じたシベクは、やがてうっすらと笑った。
「――ミョンギルも申しましたが、あなた様がそういうお方だから、却って手をお貸ししたくなるのですよ。困ったことにね」
「……後悔しないか」
言葉とは裏腹に、全然困ったように見えないシベクの微笑を睨め上げる。
「どんな風にですか」
「これから俺が勝つとは限らない。もちろん、負ける気は微塵もねぇけど、俺に手ぇ貸したことで、あんたたちは寿命縮めることになるかも知れねぇんだぞ」
類似の言葉を口にする度、フィギルの最期が脳裏をよぎる。最早習慣化したような、苦い記憶の再生に、シアは眉根を寄せた。
「物好きなだけなら本当にやめとけよ。手ぇ引くなら今だぞ」
「これもミョンギルが申しませんでしたか? 自分と父の名誉を回復する為だと」
「……つまり、あんたもそうなのか」
「それもないとは申しませんがね」
フッと溜息を挟んで、シベクは腕を組むと、うなじを掻きながら続けた。
「あの者たちが朝廷にのさばっていると、いつまた彼らの気に入らないモノに触れて処罰されるか案じつつ、下げたくもない頭を下げて生きることになる。それはもう、御免なのですよ」
「それは、大北派の断罪だけが目的ってことか?」
「不正が正しく裁かれる政が行われるなら――政敵を捏ち上げで始末するような朝廷でなくば、わたくしは何も申しません。仕える人間を選ぶ権利くらいはあると思っていますが」
言いながら、シベクはチラリとシアに目を向けた。
「……俺に玉座に座れって言うなら、あんたはお役御免だぞ」
「とんでもない。大君様にもそれを選ぶ権利はありましょう。わたくしはただ、主の意思に従うだけです」
クス、と苦笑すると、うなじにやっていた手を下ろしたシベクは、流れるような動きで頭を下げた。
「……それは、下げたくない頭か?」
「いいえ」
苦笑めいた声音で否定したシベクは、片膝を突き、臣下の礼を取った。
「わたくし、イ・シベク。本日只今より、わたくし自身の意思で、大君様を主君としてお仕えいたします」
跪いた彼の頭部を見ながら、シアはもう一度拳を握り、唇を噛み締める。
本当に甘えていいのか、頼ってしまっていいのか、という自問が、何度目かで脳裏に浮かんだ。
言うまでもなく、彼らは彼らで、自分の身は自分で守れるだろう。だが、シアにはどうしても、フィギルの死の記憶がついて回る。
自分に関わることで、本来なら続くはずの彼らの寿命を縮めてしまいはしないか――頼った中の誰かに、不意に襲い掛かるかも知れない死を、自分は防ぎ切れるのか。こんなこと、独りで戦えれば悩まずに済むのにと思うと、自分が不甲斐なさ過ぎて涙が出そうだ。
「――大君様」
そっと掌が触れた肩先を、シアは小さく震わせた。
反射で上げた目線の先には、立ったままだったミョンギルの顔がある。
「大丈夫です」
「……何がだよ」
「もし、どうしても何か引っ掛かるのでしたら、我々は我々の目的の為に、大君様に手をお貸しするのだと、そうお考えください」
「ッ……」
息が詰まる。何か言おうとしても、何を言えばいいのか分からない。視線を落とし、しばらく逡巡したあと、探るように言葉を紡ぐ。
「……だから、後々もし、この行動の過程であんたたちが死んだとしても、それで割り切れってのか」
「大君様」
「割り切れねぇよ。あんたたちにも影契の構成員にも、命は一つしかないんだぞ。それにあんた、さっき言ってたよな。奥方がいるって」
「それは」
「シベクだってそうだろ。奥方がいて、子どもがいて、そうでなくても父親が生きてる。あんたたちに何かあったら、泣く人間がいるってことだろ」
「……何かあった時に泣く者がいる、という点は、大君様も同じでは?」
あっさりと盲点を突かれ、シアは瞬時唇を引き結んだ。フィギルが亡くなってから、すっかり天涯孤独のような気がしていたが、都へ戻れば、母や同母姉を始めとした家族がいたことを思い出す。
「……それは……否定しない、けど」
ただ、母と貞明姉には、生存自体を伝えていない。シアに何かあった時に、泣く人間がいるとしたら、貞淑姉と、(思いっ切り自惚れて考えるなら)カオンくらいだろうか。
「……それとこれとは、話が別だろ」
「同じですよ」
溜息と共に立ち上がったシベクが、立てた親指をクイッと外へ向ける。
「まあ、大君様のお気持ちの整理は、あとでごゆっくりどうぞ。とにかく、外へ出ましょう。一つ、手合わせ願います」
***
一言で纏めれば、勝負は惨敗だった。
言われた通り、棟のすぐ外の庭先で、木刀を手にシベクと向かい合ったシアだったが、実際には刀を交えることなく白旗を揚げざるを得なかった。
全然、まったく、さっぱり、それこそ一分の隙もないとはこのことだという手本のような構えだった。殺気があるかないかの違いだけで、チョン・ハンと力量の差がないことは、否応なく分かった。
挙げ句、「これで、大君様の配下として、本当に合格点を頂けたでしょうか?」などと訊かれては、素直に頷くより先に歯軋りするしかない。
養父のほうがまだ、稽古の時に隙があったくらいだ、などとつい零すと、「そんなの、先の大将様が手加減してくれてたに決まってるじゃないですか」と、口でもとどめを刺されてしまった。
「ま、次から『降参』は聞き入れませんから、お覚悟くださいね」
というシベクの恐ろしい宣告と共に、翌日から鍛錬と移動が開始された。
それまでいた里を放棄することになったのは、偏にその前日の、ソボンの来訪が原因だ。
ソボンに見付けられた、ということは、同等の情報網を持つと思われる綾陽君にも早晩、見付かる危険性が増したからだ。
「――悪いな。拠点一つ、無駄に捨てさせることになって」
その日は野宿する中、この日の鍛錬で負った傷の手当てを火の傍で受けながら、シアはミョンギルに謝罪した。
「お気になさらないでください。大君様と皆の身の安全を思えば、無駄ということもございません。必要な戦略です」
「ところで大君様。一つ伺っても?」
話題を転換するように問うたのは、シベクだ。
「何だよ」
「何故、チョン・ハンと同等の使い手をお望みだったのです?」
「アイツに勝たないといけないから」
もういいわよ、とカオンに小さく言われ、剥き出しにしていた上半身に服を着直しながら続ける。
「アイツ以上の使い手に勝てれば、それが可能になるだろ」
「……またあっさりと仰いますね」
「あっさりだろうが重々しく言おうが、目標は変わらないからな」
上衣に挟まった髪を引っ張り出そうとして、うっかり上げた腕が傷に響く。小さく身体が跳ねるように震えたのを目敏く捉えたのか、カオンが無言でシアの髪の毛をそっと着衣の外へ出した。
「それは、チョン・ハンを殺す、という意味合いで間違いございませんか?」
ミョンギルの確認に、シアは静かにミョンギルを見つめ返した。
「……最終的にはな」
多くは語らずに、シアは目を伏せる。
シアの認識として、シアがチョン・ハンと初めて会ったのは、江華島でのことだ。潜伏先だった寺院で、見習い巫女として過ごしていたシアの前に、提調尚宮キム・ゲシが現れた時、共にその場に赴いて来ていた。
その後、調べた事件記録の中にも、捜査関係者として、チョン・ハンの名は載っていた。七庶獄事の件を覆すに当たって、どうしても避けて通れない相手だ。今度相対したら、その場で殺すつもりで掛からないといけないのは確かだろう。
(……だけど、まだ敵わない)
たった今、ハンがこの場に現れたら、恐らくシアのほうが死ぬだろう。瞬殺だ。足掻きは死までの時間稼ぎでしかないことは、よく分かっている。
(だから、もっと強くならないと)
心底からそう思ったのは、多分初めてだ。
今までは、力量が下の相手としか戦ったことがなかったし、そうでない時でも養父が守ってくれた。明確に意識したことはないが、心のどこかで、自分より強い者がいるとしたら、養父だけだと思っていたのかも知れない。
イ・ヂョンピョも手強い相手だったが、ハンはもっと恐ろしい。彼が相手の場合、一度目を合わせたら、次に視線を逸らした時が死ぬ時だと思える程だ。
そして、今日初めて剣を合わせたシベクにしてもそうだ。持っている武器が木刀でなければ死んでいる――否、木刀でも当たり所が悪ければ死ぬだろうが。
「――では、すぐに都へ向かわれますか?」
ミョンギルから問いを重ねられ、シアは現実へと引き戻される。
「いや……いずれ戻らないといけないけど、今すぐは無理だな。俺、ハンの野郎に面割れてるし」
「今戦り合ったら、間違いなく死にますしね」
「分かり切ってること、わざわざ言うな」
シベクに痛い所を突かれ、シアは眉根を寄せた。
「……取り敢えず、もう後手に回るのは避けたいけど……」
「それでなくとも、いつまでもこの人数で移動するのも、考え物ですしね」
ミョンギルの呟きに、シアは改めて周りを見回した。
つい昨日までいた里を出てから同行しているのは、カラン・カオン母娘、ミョンギル、シベク、ユ、チュンホ夫妻、そしてシアの、総勢八人だ。
普通の旅なら別に構わないが、シアとカオン母娘は当面、隠れていければならない身だ。現状なら、少人数に別れるのが得策だということは、シアにも分かっているが。
「……つっても、どうやって分ける? 医学的な観点から、チュンホ先生とソジョンさんのどっちかか、ユに付き添ってもらうとしても、それでもう、俺と二人になるだろ。俺の個人的な感情からで申し訳ないけど、今カオンから目ぇ離すのは正直不安だし……カオンは、母上と離れたくないよな?」
カオンに視線を向けると、カオンは「う、んー……」と曖昧な返事をして、目を逸らした。しかし、シアは気にせずミョンギルに目を戻す。
「これでもう四人だ。でも、俺としてはシベクと今離れるのもちょっと厳しい。道中、鍛えてもらえなくなるのはできれば避けたいし……あくまで個人的な意見で悪いんだけど」
自己中な意見だと途中で気付いたシアの言葉尻は、モソモソと尻窄んだ。
「では、平山へ参るのはいかがでしょうか?」
そこへ口を挟んだのは、シベクだ。
「平山?」
平山は、都から直線距離にして、一町〔約百九キロメートル〕弱程北上した場所にある、黃海道の地名だ。
「はい。実は先頃、父が府使として赴任しましたので」
「へぇ」
つい先日まで流刑地にいた割には、官職に復帰するのが早くないか? と訊き掛けたシアは、その言葉を呑み込んだ。
考えてみれば、シベクの父が赦免されたのは、今から三年前だ。三年も経っていて、加えて王の一声でもあれば、復帰も可能なのかも知れない。
「……ただ……父は釈放された頃から、シン・ギョンジン殿と親しくされております」
「悪い、折角の提案だけど却下だ」
キョンジンの名を聞くなり、シアは速攻でシベクの案を退けた。
シン・ギョンジンと言えば、綾陽君と連んでいる男の名だ。キョンジンと繋がる者の許へ行く、ということは、こちらの安否が綾陽君に筒抜けになる、ということにほかならない。
それは、シベクにも分かっていたらしい。ダメ元で言ってみただけだったようで、特に嫌な顔もせずに黙ったまま会釈した。
「……って、ちょっと待てよ」
「何でしょう」
「じゃ、あんたの場合、何もしなくても父上の名誉は回復されてるってことじゃねぇか?」
すると、シベクは苦い笑みを浮かべる。
「官職に復帰している、という一事だけを見れば、そう思えるかも知れませんが、今父が赦免されているのは、あくまでも『恩赦』に拠るモノです。従って、チェ・ギ様の冤罪が晴れたわけでも、父がそれに連座したことがなかったことになったわけでもありません。加えて、わたくしはまだ、中枢府勤務ですゆえ」
「あー……そっか」
シアも思う様、眉根を寄せた。
「……では、当面この面子で行動を続行しましょう」
纏めるように、ミョンギルが口を開く。
「なるべく人目に付かぬように、一番近い影契の拠点へ、できるだけ急いで移動する、ということで」
「ここから一番近い拠点ってことか?」
確かめると、ミョンギルは「いいえ」と首を横へ振った。
「影契には、戦闘訓練に特化した里が、国内にいくつかございます。その中で、ここから一番近い場所へ」
©️神蔵 眞吹2025.