第五章 主従談義
「……フィセ殿。どうか、お引き取りください」
己の目の前に跪き、帰るよう促すミョンギルに、ソボンは目を剥いた。
「何を言うのだ。我々と、反正を共にするのではなかったのか」
「そう申した覚えはございません。フィセ殿が、『こちらに大君様がいるのだろう、会わせて欲しい』と仰ったというので、お引き合わせしただけです」
「しかし、大君様の無罪を証明する為にも、反正は必要だ」
「その為に、大君様が王位に就かれる必要はございますまい」
「そなたは、大君様に王位に就いていただきたくないのか」
問われると、ミョンギルは一瞬言葉を途切れさせる。立ち上がったままのシアは、ミョンギルを上から見る位置で二人のやり取りを見ていた為、彼の表情は分からない。
「答えよ、ミョンギル殿。大君様は、王位に相応しい方ではないと?」
ソボンが重ねて問う。ややあって、ミョンギルは「そうですね」と口を開いた。
「まず、王位に相応しいか否かだけを答えるなら、大君様は相応しいとわたくしは考えます。それは、大君様のお生まれやご身分からではなく、大君様の資質によってです」
「ならば」
「しかし、大君様ご自身は、それをお望みではありません」
「血筋から言っても申し分なく、資質も相応しいのであれば、王座に就いていただくしかないだろう。大君様が望まれぬと言うが、それを説得するのも臣下の務めだ」
「ご覧になったはずです。どう宥め賺しても平行線です。となれば、その気のない方を玉座にお迎えしても、我々の望む治世は得られません。仮に大君様を玉座に座らせ、我らが望む政治を行えば、それは大君様を傀儡として扱うことですから、大変な不敬に当たります」
身分を重んじるソボンに、『不敬』という単語が若干響いたらしい。今度はソボンが押し黙り、何度目かで唇を噛んだ。
しばらく反論を待っていたらしいミョンギルが、穏やかに言葉を継ぐ。
「フィセ殿。今更申し上げるまでもないとは思いますが、大君様の誤解を解くために申し上げます。この影契という組織は、元々は我が父が、壬辰倭乱の際に義兵を組織した時の延長にあるもの。よって、フィセ殿の望む反正を成し遂げる為の組織ではございません。そして、我が父が加平へ隠棲した折に、この組織はわたくしが譲り受けました。ゆえに、今はわたくしが指揮を執っております。ですので、この影契の契首として、申し上げます。大君様は我らがしかとお守りし、今後大君様がどのような決断を下そうと、我らは大君様に従います。主君の御心に沿うようお助けするのもまた、臣下の務めですから」
「……おいおい、いーのかよ。それで俺が、何でも『はい、はい』って言いなりになる臣下しか要らねぇって言い出したらどうするつもりだ?」
思わず口を挟むと、ミョンギルはこちらを振り仰いで、ニヤリと笑った。
「言いなりになる臣下しか要らぬと言い出すお方は、左様なことはお訊ねにはならぬかと」
「は、随分買いかぶられたな」
シアが呆れたように肩を竦めるが、ミョンギルは動じた様子はない。
「では、賭でもいたしましょうか。勝てると分かり切っている賭では、面白味もありませんが」
「負けたらどうするよ」
「別にどうもいたしません。ただ、お仕えするのを辞めれば済むことです」
クス、と笑ったミョンギルはソボンへ向き直った。
「フィセ殿」
「……何だ」
「あなた様の選択肢は、三つあります」
ミョンギルは、ソボンの前に、自分の掌を上げ、親指から折り数え始める。
「一つ、綾陽君様の計画される反正に参加される。二つ、我々と共に大君様にお仕えする。この場合、大君様ご自身の決定を尊重するのが大前提です。そして三つ目。反正も大君様にお仕えするのも止めて、隠棲する」
ソボンは、目を見開いて、中指まで折ったミョンギルを見つめた。そしてまた唇を一瞬引き結び、シアを見上げる。
「大君様に一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だよ」
「誠に反正は起こされないと仰いますか」
「主導して王座に座る気がねぇだけだ。協力しないとは言わない。母上たちのこともあるしな」
シアは腕組みして、ソボンのほうへ身体の向きを戻した。
「いかなる意味か、伺っても?」
「そこまであんたに喋ってやる義理はない。俺はまだ、あんたのこと全然信用してねぇんだよ。こっちに無断でヒトの素性、ベラベラ喋りやがって」
「それに関しては、何卒ご容赦を」
ソボンもまたシアに向き直り、胡座を掻いた膝の脇へ拳を突き、頭を下げる。
「しかし、さすがに鳥に文を付けるなどする迂闊な報せ方はしておりません」
開き直るような言い分に半ば呆れながら、シアはそれとは違う言葉を口にした。
「じゃあ訊くけど、俺の素性、ほかに報せた奴は?」
「今は影契の――ここにいる者のみです」
「あんたはあんたの情報筋から俺のことを突き止めたって言ったな。その情報筋が誰のことか、教えてもらおうか」
「睡蓮楼の行首、シム・ギウォンです」
「やっぱりか」
ふん、と鼻を鳴らして、シアはうなじを掻き上げるように手を添えた。
「じゃあ、あんたが今のとこ配下にしてるのは?」
「配下……というのは語弊があります。我々はあくまでも同志ですが、そんなに数の多い集団ではありません。キウォンと金瑬殿――冠玉殿と朴東善殿……仲間内と呼べるのは、わたくしを含めて四名くらいでしょうか」
キム・リュという者を字で呼んでいるところを見ると、リュはソボンより年上なのだろう。
「で? あんたがここへ来たのは、頭数が欲しかったからか」
「当初の予定としては、大君様をお迎えに上がりました。大君様をお守りしているということは、影契も大君様を王殿下と戴くつもりがあると判断いたしましたし、綾陽君様の軍勢と比ぶれば、わたくしたちは個人に等しいので」
「ふーん。でも繰り返すようだけど、俺は王位に就くつもりはない」
「しかし、反正を起こすおつもりはある?」
「これもくどいようだが、あんたに答える義務はない。俺のヒトに対する信頼基準、教えてやろうか?」
「……何でしょうか」
「ヒトに訊かずに、そいつが秘匿してることを暴露する奴と、あくまでも身分を基準に、ヒトに頭下げる奴は信用ならねぇって思ってる。そーいう奴は、相手の中身を見てねぇってことだからな」
温度の感じられない声音に、ソボンの拳を握ったままの手が、かすかに震える。ややあって、彼は一言も発さず、ただ深々と頭を下げて立ち上がった。
ソボンの姿が消えたあとの集会場は、シンと静まり返っていた。
「――さて」
ミョンギルが、パンと一つ手を打ち鳴らし、立ち上がる。
「ひとまずこの場は解散とする。尚、ここで見聞きしたこと、大君様の素性は一切他言無用だ。この場にいる者には当面、この拠点への逗留を命ずる。以上だ」
「はい、契首」
その場にいる全員が斉唱し、ミョンギルとシアに黙って会釈して、一人、また一人とその場をあとにする。
やがて、ミョンギルとシア、シベクの三人だけが室内に残ると、ミョンギルとシベクも、シアに向かって頭を下げた。
「大君様。今少し、お時間よろしいでしょうか」
口を開いたのは、ミョンギルだ。
「ああ、構わないけど」
何? という含みを持たせ、首を傾げる。
「まずは、キウォンの不祥事について、お詫び致します。申し訳ございません」
不祥事とは、シアの素性をソボンに暴露したことだろう。
「いいとは言えねぇけど、あんたの責任じゃないだろ。あんたが気にするこっちゃない」
「恐れ入ります」
ミョンギルは、また小さく会釈して言葉を継ぐ。
「キウォンとは、金自點という者を通じて知り合い、反正の計画について話しておりました。ただ、わたくしとしては、反正などという大それたものでなく、せめて大北派を一掃できればと思ってはおりましたので……」
「キム・ヂャジョム?」
初めて聞く名だ。
「俺は会ったことないよな?」
「はい。チャジョム殿も、廃母論に反対して官職を逐われております。その関係で知り合いまして」
チャジョムに関して、簡単に語ったミョンギルは、一度言葉を切り、シアを静かに見つめた。
「大君様に一つ、お伺いします。もっとも、わたくしが信用できないのであれば、答えられないと仰せられても結構です」
「何だよ」
「大君様は……反正計画について、どのようにお考えでしょう。改めてお聞かせいただくことは、可能でしょうか」
つまり、身体状態がすっかり回復したあとのことを訊かれているのは、シアにも分かった。シア自身、考えなくてはならないことだからだ。
というより、意識がしっかり戻ってからは、ずっと考えていた。
「……答える前に、一ついいか」
「何でしょう」
「あんた、さっきソボンに言ってたよな。あんた以下、影契は俺に従うって」
「はい」
「あれ、本気か?」
眉根を寄せて問うと、ミョンギルは一瞬キョトンと目を丸くし、次いで苦笑した。
「冗談か、フィセ殿を追い払う為の方便だとでも?」
「生憎だけど、そこまで自意識過剰じゃないつもりだし、王子だったら当たり前に助けてもらえるとも思ってねぇからな。それに、今は逃亡罪人だって自覚くらいある。それ、助けた奴は逃亡幇助に問われるってトコもな」
はあ、と吐息を漏らして無意識にまたうなじに手をやる。
「で?」
「と仰いますと」
「あんた以下、影系は俺に従うって言ったの、本気かって訊いてんだけど」
ミョンギルが口を開いたのは、少しの沈黙を挟んだのちだった。至極、真剣な表情でシアを見据えたミョンギルは、片膝を立ててその場へ跪く。
立てた片膝の上へ片手を乗せたミョンギルは、空いた手を拳にして床へ突き、頭を下げた。
「わたくし、チェ・ミョンギル。本日只今より、大君様を主君としてお仕えいたします」
「はあ?」
「但し、これはあくまでわたくし一人のこと。影契全員の総意は、まだ出揃いませぬが」
「わたくしは、ミョンギルに同意しますよ」
横から告げたシベクもまた、ミョンギルと同じように片膝を立てて跪き、頭を垂れる。
「わたくし、イ・シベクも、本日只今より、大君様を主君としてお仕えします」
「……あんたら、本っ当に本気か?」
呆れ半分、またも深い溜息が漏れる。
「これ以上ないくらい、大真面目の本気ですが?」
傾けるように斜にシアを見上げたミョンギルの目と、視線が絡んだ。
「わたくしもですが」
シベクも、気持ち顔を上げつつ追随する。
それにまた唖然としたが、シアは必死で言葉を継いだ。
「分かってると思うけど、俺は今、公式には大君でも何でもない。どころか、逃亡罪人だぞ。庇ったって肩入れしたって旨味なんかないし、見返りもないトコ、本っ当に理解してんのか?」
「御意」
と答える二人の声がかぶる。
「じゃ、何で」
「ハキとした理由がなければなりませんか?」
問うたのは、ミョンギルだ。
「ないと怖すぎるだろ」
淡々と返すシアを前に、跪いた大人たちは、顔を見合わせた。
「さっきも言ったけど、俺は元・大君だからって、当たり前に助けてもらえるなんて思ってない。無償で助けてくれる奴がゴロゴロいるほどユルい世の中だって思い込めるよーな、甘い半生歩いてねーんだよ。自分で言うのもなんだけどな」
「……本っ気でヒネくれてますね……」
半ば感心するような声で、シベクがポソリと呟く。
「聞こえてるし、その自覚くらいあるんだけど」
半眼でシベクを見下ろし、溜息を吐いた。
「わたくしのほうは、以前にも申し上げたと思いますが」
言いながら、ミョンギルが先に立ち上がる。
「以前って……あんたの場合は、父親の汚名返上と、姉上の死の真相を晒す、だったか? あと、朝廷にウンザリしてるから大北派を引き摺り下ろしたいって言ってたな」
「はい」
「それと忠誠と、どういう関係になるんだよ」
「それはまあ……大君様ご自身の資質に惚れたから、ということでご納得下さいませんか」
シアは、ピクリと眉尻を跳ね上げた。
「……悪いが、俺は同性と恋愛する指向はねぇんだけどな。女装だって、好き好んでしてるわけじゃねぇし」
「ご安心を。恋愛観としての『惚れた』とは別の意味合いですし、わたくしにも歴とした愛妻がおりますれば、あくまで分かり易い喩えとして挙げたまでです」
目が笑っていない笑顔で返されたが、シアも「あっ、そ」とあっさりと肩先を竦めた。しかし、次の瞬間にはもう、その顔から表情を削ぎ落としてミョンギルを見る。
「……分かった。じゃ、今後はもう、何も考えずに色々頼らせてもらうけど、構わねぇんだな」
「御意」
「あとから『色々と貸しがありますので、お支払いを』とか言われても、無理だからな?」
「結構でございます。わたくしは、あくまでわたくしの意思で、大君様にお仕えするまでですので」
シアは、息を呑んだように沈黙した。
ここまで言われても、まだ心を決め兼ねているのは、偏に養父の死のことがあるからだ。
そして、厄介なことにミョンギルは、こちらの沈黙の意味を察せられないほど鈍い男ではなかった。
「……何か、まだご不明なことがおありですか」
「……不明じゃねぇよ。ただ……」
「何でしょうか」
「……本当に、甘えちまっていいのかって、自問してる」
クス、と自嘲の笑いを漏らして、シアは前髪を掻き上げた。
「状況は分かってるつもりだよ。事態はもう絶対的に、俺の手に余ってる。信用できる人間の手でも借りねぇと、次は死ぬかも知れねぇってな」
都へ戻ってから数えると、かれこれ四月ほど経っている。その短い間に、地方を流浪していた八年間よりも、色々なことがあった。
都へは、自分の殺され掛けた理由と、養父があんな風に死ななくてはならなかった理由を突き止めて、それらの元凶を叩きに来ただけのつもりだった。なのに、ここまでですでに、事態はシアの手を大きく放れてしまっている。
加えて、都へ来てみたら、当初の目的を達するだけでは済まなくなっていることも分かった。
「――そこまでお分かりなのに、わたくしの援護をお受けになるのを躊躇われる理由を、お訊きしても?」
「……怖いんだよ」
また一つ、自嘲の笑いを零したシアは、独りごちるように続ける。
「父さんを……フィギルをあんな風に亡くした時に、もう誰にも頼れねぇって肚括ったつもりだった。都に来て、一旦やること整理したあとも、絶対誰にも頼らねぇって決めてたんだ」
「何故です」
「……俺に、手ぇ貸してくれた人間を……もう、フィギルみたいに死なせたくないから。あんな風に、……俺の所為で死ぬ人間、もう出したくねぇんだよ」
今度は、ミョンギルのほうが息を呑むように沈黙した。
シベクも、何も言わない。彼は、跪いた体勢に疲れてしまったのか、すでに床へ胡座を掻いて座っているが、こちらを淡々とした目で見上げているだけだ。
彼らの沈黙の意味は、シアには分からない。ただ、できれば、『手を引く』と言って欲しかった。
フェイジェンのことにしてもそうだ。
すべてに決着を付けるまでは、一人で戦い抜くべきだと分かっている。だから、彼女が傍を離れた今、本当はもう、彼女を追うべきではない。
けれども、彼女を捜したい理由も、皮肉なことに『後悔したくない』からだ。
傍にいて、巻き込んで死なせても、目を離して死なせても、どっち道後悔するという恐ろしい矛盾に、胃が捩れそうになる。
そして、今は分かった、守るべき家族の存在も――どうしたら守れる、どうしたら一人で守って戦い抜ける、という自問に、答えは出ないままだ。
不意に、肩先にミョンギルの手が触れて、シアはビクリと身体を震わせた。
「……本当に……そういう所ですよ」
苦笑交じりの声が降って来て、シアは俯けていた顔を上げる。
「どういう意味だよ。また崖に向かって駆けてく赤ん坊、か?」
斜に睨め上げるようにしながら訊くと、ミョンギルは声と同じ苦笑を浮かべて答えた。
「……まあ、それも分かり易い喩えに過ぎません。……大君様は、今の状況を、十二分に理解しておいでです。そして、こうなっても、当たり前に助けを求めようとなさらない。こちらから差し伸べた手さえ、握るのを躊躇される。元・王族権限で『助けよ』とご命じになっても、この国で生まれ育った民なら、恐らく大多数は、反発など覚えずに従うでしょう。しかしそれさえ、発想の土台にも乗っていないのかと疑うくらい、最初からなさらない。……だから、却って手をお貸ししたくなってしまうのですよ」
呆然とミョンギルを見つめ、シアは目を伏せた。
何をどう言うべきか、言葉を見付けられない内に、「では、わたくしからも」と言ったシベクが立ち上がる。
「大君様は、先程の話題を覚えておいでで?」
「……先程の話題って?」
ミョンギルの言い分に、きちんと答えていないままの気持ち悪さはあったが、すぐに答えも見付かりそうにない為、シアはシベクの問いに訊き返す。
「先程、大君様は仰っていましたね。『左補盗庁のチョン・ハン大将と同程度か、それ以上の強さの者が、影契内にいないか』と」
「……ああ、そういや、そんな話してたな」
「わたくしでよければ、お相手いたしますが」
サラリと言ったシベクに、シアは眉根を寄せた。
「……自信があるってのか?」
「自信と仰いますと」
「チョン・ハンと戦り合ったことがあんのか、って訊いてるんだ」
「そうですね」
フッ、と彼の口から漏れた笑いは、苦いものを含んでいる。
「わたくしが右補盗庁で譏校〔探偵捜査担当官〕をしていた折、あの者が一時右補盗庁に勤務していたことがありました。その時には幾度か」
「……それ、何年前の話だ?」
「あー……そうですね。確か、大妃様がお輿入れされた頃ですから……わたくしが二十一の頃かと」
「……あんた、今いくつだよ」
「四十一です」
「二十年も前の話が当てになるかっつーの!」
思わず、力一杯ツッコミを入れてしまうが、シベクは苦笑を深くしただけで動じない。
「お言葉ですが、わたくしも六年ほど前までずっと譏校をしておりました。譏校の仕事の内容は、大君様はご存知で?」
「……補盗庁の捜査担当官だろ」
「左様です。場合によっては犯罪者相手に立ち回りもしますし、当然勝利しなくては降格の憂き目に遭います」
「じゃ、あんたが今中枢府にいるのは、ドジったからか?」
「そのほうが億倍マシでございましたね」
クス、と漏れた笑いには、今度は自嘲が含まれていた。どういう意味かを問う前に、シベクは独り言のように続ける。
「わたくしが中枢府に飛ばされた際に、肅川府使として在職中だった父が、冤罪事件に巻き込まれましてね」
「冤罪事件?」
「はい。当時、崔沂という方が、七庶獄事に関わったとされ、海州で投獄されておりましたのですが」
「はあ!?」
七庶獄事、という単語に、シアは過敏に反応した。
「さっき、あんたが中枢府に飛ばされたのは六年前って言わなかったか?」
「はい、申しました」
「ちょっと待てよ。七庶獄事って、俺が流刑にされた事件だろ? 六年前ってことは、事件から三年も経ってるのに、まだ投獄される人がいたってことか?」
「事件当時に投獄されたお方だったというだけです。その方と懇意だった父は、三年前にチェ様と面会しただけで、同罪として職を逐われ、伊川に流刑にされました」
「そんな」
愕然とした。
自分が陥れられた事件は、思った以上の所まで飛び火している、と思うと、無意識に握った拳に力が入る。
「まあ、そんなわけで、わたくしが中枢府に左遷されたのは父の連座です。父が流刑にされたのを思えば、都内に置いておいてもらえただけありがたいかも知れませんが」
「……あんたの父上は、まだ伊川に?」
恐る恐る訊ねると、シベクは「いいえ」と首を横へ振った。
「今から三年ほど前に放免されました。翁主様のご誕生祝いの恩赦でね」
「……そうか」
思わず、ホッと息を吐く。
「ま、それはともかく、一度お試しになればはっきりしますよ」
「何が」
「チョン・ハンとわたくしの力の差です」
そう言えば、最初はそんな話だった、と気付いて、シアは瞬時息を呑んだ。
「……そう言や、あんたは何で俺に手ぇ貸す気になった」
「何で、と仰いますと?」
「あんたも察するに、身分に頭下げる性分じゃなさそうだからな」
シベクは、キョトンと目を瞠り、次いで苦笑する。
「……そうですね。強いて申し上げれば、大君様のそのご性分に惹かれたから、でしょうか」
「俺の性分だ?」
「ええ」
「俺の何を知って、惹かれたとか軽々しいこと言うわけ」
「確かに、わたくしは大君様とはつい先程お会いしたばかりです。しかし、その前に、無作法でしたが、ミョンギルとの会話は一通り聞かせて頂きましたよ。たった今、すぐそこでの彼とのやり取りも、ですが」
「それで俺の全部を総括できた気になってるのかよ」
「無論、ミョンギルとのやり取りで垣間見えたことが、大君様のすべてではないでしょうね。ですが、この年になれば、欠片でも見れば、人となりは判断できます。加えてあの時、大君様は誰かミョンギル以外の者が聞いていることまで想定して話してはおられなかったでしょう。ついさっきも」
確認ではなく断定され、シアは上手く反論できずに唇を噛んだ。
「逆に伺いますが、大君様は何故、ご自身をそう卑下なさるのですか?」
「……卑下ってわけじゃ……」
「状況はお分かりなのですよね?」
問われて、ピクリと眉尻が跳ね上がる。だが、シベクは構わず続けた。
「事態はもう、圧倒的にご自身の手に余っている。誰かの手を借りないと、次は死ぬかも知れない。そこまでお分かりなのに、差し伸べられた手を取るのも躊躇なさるのは――」
「ああああ、もう分かったよっっ!!」
自分が言ったことを丁寧に反芻され、シアは大声でシベクの言葉を遮る。
無表情に口を閉じたシベクは、やがてうっすらと笑った。
「――ミョンギルも申しましたが、あなた様がそういうお方だから、却って手をお貸ししたくなるのですよ。困ったことにね」
「……後悔しないか」
言葉とは裏腹に、全然困ったように見えないシベクの微笑を睨め上げる。
「どんな風にですか」
「このあと、俺が勝つとは限らない。もちろん、負ける気は微塵もねぇけど、俺に手ぇ貸したことで、あんたたちは寿命縮めることになるかも知れねぇんだぞ」
類似の言葉を口にする度、フィギルの最期が脳裏をよぎる。最早習慣化したような、苦い記憶の再生に、シアは眉根を寄せた。
「物好きなだけなら本当にやめとけよ。手ぇ引くなら今だぞ」
「これもミョンギルが申しませんでしたか? 自分と父の名誉を回復する為だと」
「……つまり、あんたもそうなのか」
「それもないとは申しませんがね」
フッと溜息を挟んで、シベクは腕を組むと、うなじを掻きながら続けた。
「あの者たちが朝廷にのさばっていると、いつまた彼らの気に入らないモノに触れて処罰されるか案じつつ、下げたくもない頭を下げて生きることになる。それはもう、御免なのですよ」
「それは、大北派の断罪だけが目的ってことか?」
「不正が正しく裁かれる政が行われるなら――政敵を捏ち上げで始末するような朝廷でなくば、わたくしは何も申しません。仕える人間を選ぶ権利くらいはあると思っていますが」
言いながら、シベクはチラリとシアに目を向けた。
「……俺に玉座に座れって言うなら、あんたはお役御免だぞ」
「とんでもない。大君様にもそれを選ぶ権利はありましょう。わたくしはただ、主の意思に従うだけです」
クス、と苦笑すると、うなじにやっていた手を下ろしたシベクは、流れるような動きで頭を下げた。
「……それは、下げたくない頭か?」
「いいえ」
苦笑めいた声音で否定したシベクの、下げられたままの顔を見ながら、シアはもう一度拳を握り、唇を噛み締める。
本当に甘えていいのか、頼ってしまっていいのか、という自問が、何度目かで脳裏に浮かんだ。
言うまでもなく、彼らは彼らで、自分の身は自分で守れるだろう。だが、シアにはどうしても、フィギルの死の記憶がついて回る。
自分に関わることで、本来なら続くはずの彼らの寿命を縮めてしまいはしないか――頼った中の誰かに、不意に襲い掛かるかも知れない死を、自分は防ぎ切れるのか。こんなこと、独りで戦えれば悩まずに済むのにと思うと、自分が不甲斐なさ過ぎて涙が出そうだ。
「――大君様」
そっと掌が触れた肩先を、シアは小さく震わせた。
反射で上げた目線の先には、立ったままだったミョンギルの顔がある。
「大丈夫です」
「……何がだよ」
「もし、どうしても何か引っ掛かるのでしたら、我々は我々の目的の為に、大君様に手をお貸しするのだと、そうお考えください」
「ッ……」
息が詰まる。何か言おうとしても、何を言えばいいのか分からない。視線を落とし、しばらく逡巡したあと、探るように言葉を紡ぐ。
「……だから、後々もし、この行動の過程であんたたちが死んだとしても、それで割り切れってのか」
「大君様」
「割り切れねぇよ。あんたたちにも影契の構成員にも、命は一つしかないんだぞ。それにあんた、さっき言ってたよな。奥方がいるって」
「それは」
「シベクだってそうだろ。奥方がいて、子どもがいて、そうでなくても父親が生きてる。あんたたちに何かあったら、泣く人間がいるってことだろ」
「……何かあった時に泣く者がいる、という点は、大君様も同じでは?」
あっさりと盲点を突かれ、シアは瞬時唇を引き結んだ。フィギルが亡くなってから、すっかり天涯孤独のような気がしていたが、都へ戻れば、母や同母姉を始めとした家族がいたことを思い出す。
「……それは……否定しない、けど」
ただ、母と貞明姉には、生存自体を伝えていない。シアに何かあった時に、泣く人間がいるとしたら、貞淑姉と、(思いっ切り自惚れて考えるなら)フェイジェンくらいだろうか。
「……それとこれとは、話が別だろ」
「同じですよ」
溜息と共に立ち上がったシベクが、立てた親指をクイッと外へ向ける。
「まあ、大君様のお気持ちの整理は、あとでごゆっくりどうぞ。とにかく、外へ出ましょう。一つ、手合わせ願います」
©神蔵 眞吹2025.




