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第四章 想愛と宣誓

 今度こそ一礼して退出したミョンギルを見送ったカオンは、苛立った様子でシアを振り返った。

「ッもう! あんた、正気!?」

「何の話だよ」

 握っていた手首を振り払われ、シアは不快感を隠そうともせず、カオンを睨む。

「だって……あんたがあたしたちを庇う義理なんて、それこそないでしょ!?」

「あるさ。父さんのこと、差し引いてもな」

「どういう意味よ」

 シアは、即答しようとした口を、あやうい所で噤んだ。

 カランの存在を思い出したからだ。自然、チラリと視線を投げた先にいたカランのそれと、否応なく噛み合う。

 瞬時、目をまたたかせた彼女は、苦笑と共に吐息を漏らした。

「では、わたくしも席を外します」

 即座に告げたカランもまた、一礼して退出する。

 カオンは止めようとしたようだったが、彼女が手を伸ばした時には、カランは障子戸の向こうへ消えていた。

 しばらく唖然としたカオンは、ノロノロと伸ばした手を下ろし、シアに向き直る。

「――でっ? どういう意味よ。どんな義理があるって言うの」

彩映楼チェヨンルでも散々世話になったけど……今回、河に落ちたあと、助けてくれたの、お前だろ」

「ッ、」

 途端、カオンは息を詰めたように唇を引き結んだ。その唇に、なぜか手を当てて、どこか薄赤い顔をする彼女に構わず、シアは続ける。

「……それに……ソジョンさんに聞いた。ここに担ぎ込まれてから、俺、結構ヤバかったらしいな」

「そっ……そうだけど、それが何よ」

「そん時、必死で俺の蘇生してくれたのも、お前だって聞いてる」

「あっ、あれは……! 単なる人命救助よ! 目の前で死にそうになってる人がいたら、誰だって」

 勢いでそこまで言った、という表情で、カオンはまたハタと自身の口を押さえた。

「……誰だって、あれくらいはする(・・・・・・・・)、ってか?」

「ひっ、人を尻軽みたいに言わないでよ、失礼ね!」

 シアもさすがに、詳しいところは口に出せない。ただ、内容はソジョンが看病してくれた時に聞いて知っていた。


大君テグン様は一時いっとき、出血多量による低体温で、あぶのうございました。カオン様が直接(・・)あたためてくださらなかったら、どうなっていたことか――』


「……誰が相手でもそう(・・)する、ってんなら、ちょっと面白くないけど……まあ、俺が命助けられたのは事実だからな」

「だからっ、誰が相手でもできるわけないじゃない!」

 ひそめた声音で言い返すカオンの顔は、真っ赤だ。当然だろう。

 男女のコト(・・)はなかったとは言え、それに近いことをしたのだ。それこそ、人命救助の為とは言え――

「――ってことは、相手が俺だからって思っていいのか?」

「うっ、自惚うぬぼれないでよ、誰が」

「どっちだよ」

「~~~~……!!」

 火照ほてった頬に指先を当てたカオンは、チラリとシアのほうを見て、また目を伏せるように視線を逸らす。

「……カオン」

「なっ、何よ!」

「……ありがとな」

 静かに礼を告げると、カオンはシアから逸らしたままの目を見開いた。シアは、彼女の横顔をジッと見つめて、謝意を重ねる。

「……ありがとう。父さんが繋いでくれた命を……今また、お前が繋いでくれた。今回、お前だけが助けてくれたんじゃないのは分かってるけど……お前が最初に河から助け上げてくれなかったら、焼死の代わりに溺死してたところだ。どれだけ感謝してもし切れない」

「……だからまた、恩返しのツケにでも付けるつもり?」

 ノロノロと頬から手を下ろしたカオンは、相変わらず目を伏せている。そんな彼女を、瞬時、キョトンと見つめたシアは、覚えず苦笑した。

「……そうだな。一生掛かっても返し切れない借りができたってことか」

「ッ、そんなの、返してもらわなくたっていい!」

 途端、カオンは歪めた顔を、勢いよくこちらへ向ける。更に何か言おうとしたようだったが、それを呑み込むように口を噤んだ。

 深呼吸した彼女は、またのろい動作で俯く。

「……カオン?」

「……そうよね。貸し借りでしか、あたしたちは本来、繋がってちゃいけないんだもの」

「はあ? どういう意味だよ」

「だってあんた、反正パンジョンには加わらないとしたって、いずれ自分の汚名は晴らすつもりでしょ? そうでないと、大妃テビ様と公主コンジュ様の、身分と名誉も回復できないから」

「……まあ、そうだな」

 言われて考え込みそうになるが、カオンはシアの思索を続けさせてはくれなかった。

「あんたが汚名を晴らすってことは、いずれ王子の地位に戻るってことじゃない」

「公式に生き返る気はねぇけどな、今んトコは」

 シアの訂正を聞かなかったような間合いで、「そうしたら」とカオンは言葉を継ぐ。

永昌ヨンチャン大君様の暗殺に加わった父が、どうなるか分かるでしょ? 父の家族の、あたしたちも」

 この指摘には、シアも沈黙した。

 シア個人は、とっくにフィギルの罪など、ないものにしてもいいと思っているが、もし反正か、ほかの何らかの要因で、七庶獄事チルソオクサでっち上げだと証明されれば、公的機関は、目論んだ人間を無罪放免にはしないだろう。

 もちろん、暗殺の場にいたフィギルも、その家族もだ。

 フィギルはすでに亡くなっているが、この国には、死んだ人間に位を追贈するのと同じ感覚で、逆に罪を問うというトンデモ法律もある。

 連座の罪が及ぶ親族の範囲は、時の権力者の胸先三寸、といったところもある為、一概には言えない。しかし、罪人本人とその配偶者、子ども当たりまでは間違いないだろう。

 つまり、カオンも例外ではない。

「……なら、俺が証言する」

 先刻、振り払われた手を伸ばし、再度彼女の手を握る。

 反射的にこちらを見た彼女の視線を、しっかりと捉えて口をひらいた。

「父さんは……ハン・フィギルは、思い直して永昌大君おれを助けた。連れて逃げて、身を挺して八年も俺を守り抜いた。その四女の、ハン・ガオンも同様だ。もし、身分を取り戻したら、俺が絶対に、フィギルとその家族を、罪になんか問わせない」

「……それは、公式に生き返る気になったってこと?」

 ただされて、一瞬考え込むが、「必要ならな」とほぼ即答した。

 すると、刹那、目を瞠った彼女は、やはり唇を噛み締めるように引き結ぶ。

「……何で、そこまでしてくれんのよ」

「そこまでって?」

「公式には生き返りたくないんでしょ? あたしたちの為にそこまでしてくれる理由は何?」

「……理由……って言われても」

 理由などない。ただ、彼女を理不尽な目に遭わせたくないし、そんな理由で死なせたくないだけだ。

 けれど、泣き出しそうな表情で、目を伏せたカオンは、震える声で続ける。

「……そこまでされたら、……あたしが自惚れちゃうじゃない」

「どんな風に?」

「あたしたちが……あたしが、あんたにとって特別なんじゃないかって」

(……特別)

 ふと、脳裏で呟く。

 ああそうか、と唐突に腑に落ちた。

「……そうだな。自惚れろよ」

「はあ!?」

 カオンは、泣き出す寸前と唖然とした表情を程よく混ぜた、器用な顔で、あんぐりと口を開けた。

「……かえがえすも、あんた正気?」

「……どうだろな。こんな状況になって長いから、とっくに正気なんて失ってるかも」

 クス、と自嘲の笑みを浮かべ、空いた手を彼女の頬へ伸ばす。

「シア、」

「嫌?」

「……ってわけじゃ、ないけど」

「俺は、好きだ」

 気付いたら、口に出していた。

 それを聞いたカオンは、またその大きな目を一杯に見開く。

「……好き……って……」

「……あー……悪い。言うべきじゃなかったのは、分かってる、けど……」

 言葉尻が、小さくなる。

 本当は、傍にいるべきでもない。好きなら、愛しているなら、余計に一緒にいるべきではない。けれども、今は彼女から目を離すと、彼女がどうなるか分からない状況でもある。

 傍にいるべきだった、という後悔もしたくないし、言っておけばよかったという後悔をするのはもっと嫌だった。――思えば、感謝も好意も、養父には告げたことがなかった。彼に告げたのは、彼が死んだあとのことだ。

 自覚はまったくなかったが、カオンには多分、随分前からいつからともなく、惚れていたのだろう。それを、皮肉にも彼女の言葉で自覚してしまった。

「……ごめん。これで気まずいって思ったら、……お前の好きにしてくれていい。でも、せめてここをつ時は」

 一言知らせてからにして欲しい、と続けようとしたが、できなかった。

 彼女の両掌がシアの頬を捉え、唇を彼女のそれで塞いだからだ。もっとも、口づけられていた、と把握したのは、唇からぬくもりが離れてからだ。

「カオ、」

「好きにしていい、って言ったわよね」

 見える位置にまで離れた顔の中にある彼女の瞳が、どこか据わっている。

「好きにしろってのは、そういう意味じゃ」

「じゃ、どういう意味よ」

「だから」

「惚れてる男相手じゃなきゃ、いくら人命救助だからって、あんなこと(・・・・・)までできるわけないって、そろそろ理解して欲しいんだけど」

「えっと」

「貸しとか借りとか、関係ない。そんなの、……考えられなかった……」

 形のよい眉尻が、ヘニョリと下がり、綺麗な黒い瞳が潤む。

「……ごめんね」

「何が」

仁城君インソングンの屋敷に投げ文したのも……あたしなの」

 シアは、静かに彼女を見つめた。ミョンギルと話していて、予測できていたということもあるが、彼女の口から聞いても、特に驚きはない。

 苛立ちも、憎しみも湧かなかった。

 シアから言葉の反応がない為か、カオンはまた俯いたまま、必死の勢いで捲し立てる。

「その時は、シアが標的だなんて知らなかった。あの人、シアとあたしとの繋がりにも気付いてなさそうだったし……ただ、睡蓮楼スリョンルであそこを通り掛かったのは本当に偶然だったの。シアがいて、しかも仁城君がどうこうって話をしてたし、人の命が掛かってるって聞こえたから、それで……」

「仁城兄上の屋敷まで道案内買って出てくれたわけか」

 言葉尻を掬うように言うと、カオンは小さく頷いた。

「でも、左補盗庁チャポドチョン大将テジャンへの垂れ込みの時は、はっきり、大将に直接言う言葉を指示されたの。『慶運宮キョンウングンの放火犯が、惠民署ヒェミンソで療養してるって伝えて来い』って。それはシアのことだってすぐ分かったけど――」

 シアは続きを遮るように、彼女の上腕部を掴んで引き寄せた。彼女の頬に空いた手を添えて、その唇を、自分のそれで塞ぐ。

「……シア」

「もう、いいよ」

「だけど」

「どうしようもなかったって分かってる。立場が逆なら、俺だってお前と同じことしたよ。……人質カランと俺、どっちも助ける方法を考えてくれたんだろ」

「ごめ、」

 謝罪を続けそうな彼女を抱え込むように抱き締めて、その唇をもう一度塞ぐ。一度口づけてしまうと、理性のタガは簡単に飛んだ。彼女を黙らせるだけのつもりが、つい、夢中になってしまう。

 結局、彼女が甘く呻くような声を漏らして、シアの胸元の衣をキツく握るまでむさぼってしまった。

「……ッ……も、シア……」

「……悪い。嫌だった?」

 今更訊くなバカ、と言いたげな表情をした彼女は、息を乱したままだ。口づけによって潤んだ目でめ上げられても、迫力などないに等しい。それどころか、余計に欲しくなる。

 欲望に任せて、再度啄もうとしたその時、聞こえよがしな咳払いと共に、障子戸がスッと滑った。

「……そろそろ宜しゅうございますか、大君様」

「あ」

 出入り口に立っていたのは、仁城君との一戦以降――というよりは、幼少期の火傷の頃から世話になっている医女ウィニョ・ソジョンだった。

「お取り込み中、失礼いたします。包帯交換のお時間ですので」

 さすがは年の功と言うべきか。若い者の睦み合いの最中さなかに踏み込んだ割には、顔色一つ変えずに、ソジョンは胸に抱えた道具と共に一礼した。


***


 ようやく薬の種類が変わり、チュンホ夫妻に身体を動かす許可をもらって、庭先で歩くところから慣らし始めたのは、更に十日後だった。

 何しろ、碌々身体機能回復の訓練をしない内に襲撃を受け、再度重傷を負ったものだから、運動の許可が下りるまで随分掛かってしまった。

 ここまで結局、シアもカラン・カオン母娘おやこも、なし崩し的にこの里に世話になり続けている。

 現状維持の条件として、互いに保留にしていた回答を、シアのほうがミョンギルに先に突き付けたのも、この前後のことだ。


「ぶっちゃけ、カランのほうは悪いが大半、どうでもいい。ただ、カオンは好きな女だから守りたい。っていう理由じゃ不足か?」


 率直にそう告げると、普段涼しい顔をしているミョンギルが、また珍しく思い切り、比較的整ったほうである容貌を、難しげに歪めていたのは、ちょっとした見物みものだった。

「――では、ハン夫人のほうは、突き出しても宜しいのですか?」

「駄目に決まってるだろ。俺にとってはどうでもよくても、カオンにとっちゃ母上だし、まあ、俺からしても好きな女を生んでくれたかただし、フィギルの奥方だしな」

「……後付け感満載な理由ですね」

「否定しねぇよ。で?」

「……わたくしの基準で合否を決めてもよいと?」

「だーって、ここの管理人、あんただろ? だったら、俺の意見は関係ない。俺が完治するまで里に置くかどうか、決めるのもあんただ。カオンたち母娘おやこの去就もな」

「仮にわたくしが、大君様のこちらへの逗留を拒否したら、どうなさいますか?」

「歩けるようになり次第、二人を連れて出て行くさ。それまで世話になんなきゃいけないのが、すっげぇ心苦しいけど」

 苦笑して肩を竦めると、ミョンギルはまた鳩が豆鉄砲を食ったような表情で、シアを見つめた。その表情の裏に、どんな感情が隠れていたのか、シアには分からなかったが。

「その代価が欲しかったら、何でも言って。俺で支払えるなら支払うし、不可能なことなら妥協案を探らせてもらうけど」

 そう続けると、ミョンギルは目を一杯に見開き、益々表情を硬直させてしまう。

「……ご本心ですか?」

「本心じゃなかったら、何だよ」

 キョトンと問い返すと、ミョンギルはやがて硬直していた表情を、ユルユルと弛めた。やがて、その表情は、徐々に苦笑の形になる。

「何?」

「……ああ、いえ……」

 クス、と苦笑いを漏らしたミョンギルは、居住まいを正し、シアに会釈するように顎を引いた。

「……分かりました。では、わたくしの答えを申し上げます」

「あんたの答え?」

「はい。大君様のお世話をするのはなぜか、そして大君様のご回答を、是とするか否とするか――」

 気持ち、上げられたミョンギルの顔からは、残っていた笑いは消えていた。代わりに、至極真剣な表情でシアを見据える。

「わたくし、チェ・ミョンギル。本日只今より、大君様を主君としてお仕えいたします」

「はあぁ?」

 シアにとってみれば、まるで明後日の言葉に、今度はシアの目が丸くなる。だが、ミョンギルは構わず、胡座を掻いた両膝の脇に、両の拳を突いて続けた。

「主君のご意向に添うのは、臣下としては当然の責務。よって、すべて大君様の御心みこころのままに」

 しばし、唖然としていたシアは、「念の為に訊くけど」と口をひらいた。

「何でしょうか」

「まさかあんた、俺を王に担ぎ上げて、今度こそ反正とか、考えてねぇよな?」

「今し方、申し上げた通りです。何事なにごとも、大君様の御心のままに。つまり、大君様がお望みにならぬことは、わたくしもいたしません。ただ、大君様の望まれることに手を貸し、お支えいたします」

「……その理由を訊いてもいいか?」

「その、と仰いますと」

「あんたが、俺を『主君』とやらに決めた理由だよ。前にも確認したと思うけどな。俺が元・王族だからか? それとも、貞淑チョンスク姉上の命令だからか?」

 冷ややかに問うと、ミョンギルは、口許にうっすらと微笑を浮かべた。

「どちらも『いいえ』です。わたくしも以前申し上げたかと思いますが、大君様が、元・王族という出自の上に胡座を掻くお方でしたら、とっくに見限っております」

「じゃ、あんたとあんたの父上の名誉を回復する為か?」

「それは否定いたしません。ですが、その為に、大君様を単なる手段として使うつもりなら、最初からわざわざ忠誠を誓うような宣言はいたしません。こう申し上げては不敬ですが、身分こそ大君様のほうが上ですが、わたくしから見れば大君様は、息子と言ってもいい年齢です。言いくるめる方法は、いくらでもございますゆえ」

「……あんたもはっきり言うな」

「恐縮です」

「褒めてねぇ、っつってんだろ」

 シアは若干苛立った気分で、側頭部を掻き上げた。伏せた目線を、瞬時ウロウロさせてから、ミョンギルに向き直る。

「――で、ちゃんとした回答はもらえねぇわけ?」

「申し訳ございません。こればかりは、ハキとした理由が申し上げられないので……まあ、言うなれば、これも大君様と同じと思って頂ければ」

 シアは、ピクリと眉根を寄せた。

「……悪いが、俺は同性と恋愛する指向はねぇんだけどな。女装だって、好き好んでしてるわけじゃねぇし」

「ご安心を。わたくしにもれきとした愛妻がおりますれば、あくまで分かり易い喩えとして挙げたまでです」

 目が笑っていない笑顔で返されたが、シアも「あっ、そ」とあっさりと肩先を竦めた。しかし、次の瞬間にはもう、その顔から表情を削ぎ落としてミョンギルを見る。

「……分かった。じゃ、今後はもう、何も考えずに色々頼らせてもらうけど、構わねぇんだな」

「御意」

「あとから『色々と貸しがありますので、お支払いを』とか言われても、無理だからな?」

「結構でございます。わたくしは、あくまでわたくしの意思で、大君様にお仕えするまでですので」

 シアは、息を呑んだように沈黙した。

 ここまで言われても、まだ心を決め兼ねているのは、ひとえに養父の死のことがあるからだ。

 そして、厄介なことにミョンギルは、こちらの沈黙の意味を察せられないほどにぶい男ではなかった。

「……何か、まだご不明なことがおありですか」

「……不明じゃねぇよ。ただ……」

「何でしょうか」

「……本当に、甘えちまっていいのかって、自問してる」

 クス、と自嘲の笑いを漏らして、シアは前髪を掻き上げた。

「状況は分かってるつもりだよ。事態はもう絶対的に、俺の手に余ってる。信用できる人間の手でも借りねぇと、次は死ぬかも知れねぇってな」

 都へ戻ってから、四月よつきほど経っている。その短いあいだに、地方を逃亡していた八年間よりも、色々なことがあった。

 都へは、自分の殺され掛けた理由と、養父があんな風に死ななくてはならなかった理由を突き止めて、それらの元凶を叩きに来ただけのつもりだった。なのに、ここまでですでに、事態はシアの手を大きく放れてしまっている。

 加えて、都へ来てみたら、当初の目的を達するだけでは済まなくなっていることも分かった。

「――そこまでお分かりなのに、わたくしの援護をお受けになるのを躊躇われる理由を、お訊きしても?」

「……怖いんだよ」

 また一つ、自嘲の笑いを零し、シアは立てた膝の上に肘を突いて、独りごちるように続ける。

「父さんを……フィギルをあんな風に亡くした時に、もう誰にも頼れねぇってはら括ったつもりだった。都に来て、一旦やること整理したあとも、絶対誰にも頼らねぇって決めてたんだ」

何故なにゆえです」

「……俺に、手ぇ貸してくれた人間を……もう、フィギルみたいに死なせたくないから。あんな風に、……俺の所為で死ぬ人間、もう出したくねぇんだよ」

 今度は、ミョンギルのほうが息を呑むように沈黙した。

 その沈黙の意味は、シアには分からない。できれば、『手を引く』と言って欲しかった。

 本当なら、カオンも傍に置くべきでないと思っている理由も、そこにあるのだ。

 すべてに決着を付けるまでは、一人で戦い抜くべきだと分かっている。けれども、彼女を傍から離せない理由も、皮肉なことに『後悔したくない』からだ。

 傍にいて、巻き込んで死なせても、目を離して死なせても、どっち道後悔するという恐ろしい矛盾に、胃が捩れそうになる。

 そして、今は分かった、守るべき家族の存在も――どうしたら守れる、どうしたら一人で守って戦い抜ける、という自問に、答えは出ないままだ。

 不意に、肩先にミョンギルの手が触れて、シアはビクリと身体を震わせた。

「……本当に……そういう所(・・・・・)ですよ」

 苦笑交じりの声が降って来て、シアは俯けていた顔を上げる。

「どういう意味だよ。また崖に向かって駆けてく赤ん坊、か?」

 はすめ上げるようにしながら訊くと、ミョンギルは声と同じ苦笑を浮かべて答えた。

「……まあ、それも分かり易い喩えに過ぎません。……大君様は、今の状況を、十二分に理解しておいでです。そして、こうなっても、当たり前に助けを求めようとなさらない。こちらから差し伸べた手さえ、握るのを躊躇される。元・王族権限で『助けよ』とご命じになっても、この国で生まれ育った民なら、恐らく大多数は、反発など覚えずに従うでしょう。しかしそれさえ、発想の土台にも乗っていないのかと疑うくらい、最初からなさらない。……だから、却って手をお貸ししたくなってしまうのですよ」

「……好きな女を守る為に、まず身分を取り戻すのを目指してるって言ったら?」

 皮肉るように言うと、ミョンギルは目を丸くする。

如何いかなる意味でしょうか」

「単純な話さ。万が一、七庶獄事チルソオクサの真相が暴けた時に、王族権限でフィギルとその家族を免罪にできねぇかって考えてる。そうするって、カオンには口が滑ったけど、よくよく考えたら、王族の権力なんて当てにできねぇのにな」

 クス、ともう何度目かで自嘲の笑いが漏れる。

 ミョンギルが、何か返そうとして、口を噤んだのが分かった。彼にも、シアが何を言いたいかは、理解できたのだろう。

 絶対権力を持つはずの王族でも、下手を打てば、陥れられるのは避けられない。現に、シアはそうして庶人ソインになり、挙げ句に殺され掛けた。

「……それでも、それは……ご身分を取り戻したいと願われるのは、大切な相手を守りたいという思いからでしょう。ご自身の、権力欲の為ではなく」

「自己中には変わりねぇさ。当てにできねぇって分かってるはずのモン、無意識にでも当てにしようとした時点で、俺もクソ兄貴たちと大差ねぇよ」

 自分も所詮、芯からの勝手な王族だ。それを思い知って、シアはほとほと自分に愛想が尽きた気分だった。

 けれども、ミョンギルは、ある意味容赦なかった。

「ご安心を」

「何を」

「大君様がもし、今の謙虚なお心持ちをお忘れになったら、三度目まではわたくしが、責任持ってお助けします」

「……それは、実質三度なのか?」

「いえ、実質は二度ですね。三度目にバカをおやりになったら、もう見捨てますので、そのおつもりで」

「……本っ当、有り難い忠臣だわ」

 「有り難すぎて涙出るね」と投げるように続けると、ミョンギルはいつものように「恐縮でございます」と言って頭を下げる。

「マジで褒めてねぇから。っつか、責任持つんだったら、最後はちゃんと殺してくれよ」

「本気でうけたまわって宜しいので?」

「バカ言え」

 シアは、即答して、ニヤリと唇の端を吊り上げた。

「本当に俺を殺したくなったら、まずカオンに伺い立てろよ」

「カオン嬢に、ですか?」

「ああ。あんたを信用しないわけじゃないけど、今んトコ、後ろから刺されても構わないって思ってんの、アイツだけだから」

「つまりはベタ惚れ……」

「何だよ、不満か」

「ああ、いいえ……」

 ややを置いたのち、ミョンギルはやはり、いつものように「承りました」とだけ言って、再度深々と頭を下げた。


©️神蔵 眞吹2025.

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