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第三章 彼女の決断

「わたくし、明国先帝・泰昌帝タイチャンディが第一皇女・懐淑ファイシュ公主ゴンジュいみなジュ・徽娟フェイジェンと申します」

 顎を引いたカオンが告げた事実に、ただ驚く。

「先帝の皇女……だって?」

「はい。但し、国でのわたくしは、六歳ですでに逝去したこととなっております。公主としての拝命も、異母弟である現皇帝陛下・天啓帝チィェンチーディによって、諡号として追贈されたもの」

「……続きは座って話せよ。何でお前が、公式に死んだことにならないといけなかったんだ?」

 クイ、と座るように立てた人差し指を下へ下ろす仕草をすると、フェイジェンは腰を下ろし、居住まいを正した。

「……家の恥を晒すようで誠お恥ずかしい話なれど……我が祖父である先々帝・万暦帝ワンリーディは、亡き父・泰昌帝ではなく、寵愛する側室の産んだ第三皇子を皇太子に立てたいと、ずっと望んできました。ですが、長幼の序を重んずる当時の皇太后陛下であったひいお祖母様のご意向と、それを支持するご自身のご正妃や臣下の意見もあり、祖父は仕方なく、長男である父を皇太子に立てた、という経緯があります。第三皇子の生母である側室・ヂォン皇貴妃ファングゥイフェイは、祖父よりももっと我が子を皇太子にという思いが強く、幾度となく父の暗殺を企てました」

 皇貴妃とは、明国皇帝側室の最高位だ。正妃である皇后がいない場合、正妃同然の地位でもある。

「祖父も、ご自身の長男である父が、巧く死んでくれればと思っていたのでしょう。鄭皇貴妃の陰謀を、知っていて黙認していた節がありますし、時に表立って庇ってもいたそうです」

 生まれ順と、父帝の寵愛が絡み合った後継争い――それはどこか、朝鮮での現国王が、世子セジャであった時の状況に似ている。

「ある時、父へ向けられた刃が、母とわたくしにも飛び火し、母とわたくしは瀕死の重傷を負いました。それ以上、幼いわたくしが権力争いの害を被るのを恐れた両親は、わたくしがその傷が元で死んだものとし、皇宮から逃がしたのです。それが、六歳の頃のことでした」

「……そのあと、……母上は?」

 その問いに、カオン――フェイジェンは目を伏せる。

「母は……本当にその時の傷が元で亡くなりました。もっとも、傷の療養で、長く伏せた末のことだと聞き及んでおりますが」

 あまりのことに、とっさに掛ける言葉も見つからない。

「……現皇帝は、あんたの異母弟だって言ったよな」

「……うん。由校ヨウジャオが即位したのは、去年のことよ」

 フェイジェンは口調を戻して頷く。ヨウジャオ、というのが、現皇帝のいみななのだろう。

「ちょっと待てよ。今年、朝鮮は天啓チョンギェ元年で、去年は万暦マンリョク最後の年だ。あんた、父親は何て言った?」

「泰昌帝……朝鮮こっちの発音だと、年号は泰昌テチャンになるかな。でも、父は即位してから、たったひと月で崩御された。明国内では、去年お祖父様が身罷みまかられたあとの年内を泰昌年としたけど、朝鮮には伝わってないかも知れないね」

 そこまでの経緯を鑑みれば、泰昌帝の死因は間違いなく暗殺だろう。亡き皇帝の側室による陰謀が、ついに結実した、と見るのが自然だが、泰昌帝のあとを継いだのは、フェイジェンの異母弟だ。つまり、先々帝の第三皇子ではない。

「――その辺り、どうなってんだ?」

「あたしの推測だけど……多分、ウェイ・忠賢ジョンシェンが原因だと思う」

「ウェイ・ジョンシェン?」

太監タイジェンの一人よ。朝鮮こっちで言うと、内官ネグァンに当たるかしら」

 ただ、朝鮮の場合、一口に『内官』と言っても、そのすべては内侍府ネシブに所属し、品階によって呼ばれ方も違う。

 他方、明国では、太監がすなわち内官全体を指し、特に違う呼び方はしないようだ。

「権力欲の権化みたいな人でね。ヨウジャオの……現皇帝の幼少期に、あの子の母上の食事係になったのを切っ掛けに出世を重ねて、今は批答ピーダー代理の役職も兼任してる」

「ピーダーって、こっちで言う批答ピダプのことだよな」

 確認すると、フェイジェンは眉をひそめて頷いた。

「姉のあたしが言うのも何だけど……ヨウジャオはまつりごとにあんまり関心がないみたいなのよね」

 批答とは、臣下の上奏に対する王の回答文書のことだ。

 それを、政に無関心な皇帝の代わりにおこなっているとなれば、ウェイ・ジョンシェンは最早、事実上の皇帝と言ってもいい。

「現皇帝は、泰昌帝の長男か?」

「ええ」

「なるほどな……皇太孫と見込んで取り入った相手だったら、何が何でも帝位に就けようとして当然か」

 つまり、相手が先々帝の第三皇子だとしても、皇太孫の即位の邪魔立てはさせないだろう。

「そーゆーことね」

「けどお前、よくそんなこと知ってるな。皇宮の外で育ったんだろ?」

 問うと、フェイジェンは瞬時言葉を詰まらせた。

「何だよ」

「……うん、えっと……ごめん」

 バカの一つ覚えのように謝罪が先に来て、シアは眉根を寄せた。

「……なーんで『ごめん』なんだよ」

「……彩映楼チェヨンルの近くに、あたしが出入りしてる商団があったでしょ」

「ああ」

ペク商団って言ったんだけど……女将さんは、あたしの母方の祖母なのよ」

「それで?」

「商団の先代のおさだった母方の祖父は、商売の為にあらゆる情報を綿密に仕入れてたから、あたしも皇宮の情報は耳にできたの。幸い、って言っていいか分からないけど、父方の祖父は、ご自分が嫌ってらした長男の娘だからか、あたしが死のうがどうしようが、あまり気になさらなかったみたいだけど……」

「それとお前が出入りしてたペク商団とやらと、そこの女将がお前の祖母ばあさんだったことと、『ごめん』がどう繋がるんだよっ」

 本題に入るのを待っていたら、話が見えなくなりそうだったので、シアは苛立った声で要点を纏めた。すると、フェイジェンは、またばつが悪そうに目をウロウロさせる。

「……つまり……お祖父じい様は行商の途中で、強盗に殺されたのよ」

「はあ?」

 またも話が逸れたように思えた。が、

「事件が起きたのは、万暦マンリョク四十一年〔西暦一六一三年〕の五月。現場は、鳥嶺チョリョン峠よ」

 と続いた言葉に、シアは目を見開いた。

「……まさか……七庶獄事チルソオクサの被害者……?」

「あんたもそうでしょ?」

 フェイジェンは、肩を竦めて、静かな目でシアを見遣みやった。視線はしばらく絡み合っていたが、やがて彼女のほうがフッと目を伏せた。

「……話、戻すけど……父方のお祖父様は、あたしが死んでようがいまいがあまり気になさらなかった。だけど、ウェイ太監は違った。錦衣衛ジンイーウェイを刺客に、あたしたちを追い始めたの」

「ジンイーウェイってのが何なのか分からないけど……要は、追っ手から逃げてるってことか?」

「錦衣衛は、こっちで言う体探人チェタミンみたいなものかな。厳密に言うと違うけど、武術と情報収集と隠密行動に長けてるってトコは一緒。あと、政府の公的な裏組織ってトコも」

 苦笑に近い笑みを浮かべ、フェイジェンは続ける。

「ご指摘の通り、あたしたちは逃げてた。最終的に、国外逃亡になったから、朝鮮国内で何かあっても、公的機関に訴えることはできなかったの」

「それにしちゃ、結局訴え出たみたいだな」

 確か、義禁府ウィグムブで確認した記録では、被害者の奴婢が訴え出たことになっている。お陰で事件自体が明るみに出て、イチョムに利用されることになったのだ。

「あたしたちは、……お祖母ばあ様とあたしは、訴える気はなかった。でも、身許を誤魔化す為に朝鮮で雇った使用人が、地元の役所に届け出ちゃったのよ」

 フェイジェンの祖母――つまり、ペク商団の女将とフェイジェンは、当然慌てた。だが、役所が話を聞きに来るのを待つ選択肢はなく、使用人が訴え出たのを把握した時点で、明国から引き連れて来た商団員だけを連れて、その地を離れたと言う。

「でも、相手を野放しにする気はなかった。色々、独自に調べる内にあんたに辿り着いて」

「って、ちょっと待て。それじゃ、彩映楼で俺と出会ったのは」

 偶然じゃなかったのか、と続きそうな言葉尻を察しているのか、フェイジェンはもう何度目かでばつの悪そうな顔になる。

「……ごめん。あんたの素性も分かってたから、保護して王殿下に訴えればもしかして、強盗への正当な処罰を期待できるかと……」

 シアは唖然としたのち、疲れ切った溜息をいた。

 素性が分かっていたということは、性別も初めから知られていたのだ。妓生キセンや見習いに絡まれていたのを助けてくれていたのも、単に彼女がお人好しでやっていたのではなかったわけだ。

「ごめんなさい。許してなんて言えないけど」

「……いーよ。見返り抜きで助けてくれたなんて思える程、頭めでたくできてねぇし……寧ろ、半分くらいホッとしたかも」

 クス、と自嘲気味の笑いが漏れる。

「ホッとしたって」

「ヒネくれてるって自覚くらいあるよ」

 また一つ、自嘲の笑みを浮かべ、シアは肩先を上下させた。

「ただ、一つだけ言っとくぜ。お前も分かってると思うけど、あの優柔不断な光海クァンヘ兄上に訴えたトコで、正当な処罰は望めねぇな。俺を保護して連れてったところで、俺がとどめ刺されるだけだと思うけど」

 正確には、光海兄はそこまで非情ではない。優しさが時に優柔不断に転ぶだけだ。

 フェイジェンも、「分かってる」と言うように、小さく首肯した。

「――で? そろそろファベク兄上と繋がってた事情は話してもらえるのか?」

 チラリと彼女を見遣ると、彼女は何度目かで一瞬唇を引き結ぶ。

「……あんたと、フィギルおじ様が彩映楼を離れたあと、商団も刺客に襲撃されたの。戦いでお祖母様は亡くなって……あたしは何とか逃げ延びた」

 彼女の、膝に置かれた手が、握り締められるのが分かる。

 彼女と、彼女の祖母の末期の別れがどんなものだったのかは分からないし、訊いていいことでもない。だが、祖母の傍を離れるのは、きっと身を斬られるより辛かったに違いないことだけは、シアにも理解できた。

 嫌というほど、覚えがある。

「綾陽君と出会ったのは、そのあとよ。彼は、義州ウィジュにいる奥方の父親を訪ねた帰りだったらしいわ。ペク商団が派手に燃えた事件を、都への道すがら聞いたらしくて……調べる内に、商団も、それを襲った強盗団も、明国から来たことを突き止めたらしいの。あたしの素性も……」

 彼女の眉根に、苦しげなしわが寄る。

「アイツは……綾陽君は、あたしを脅迫した。明国皇室にしらされたくなかったら、自分の手足になれって」

「ファベク兄上に何の利があったんだ? 仮にお前が明国皇女だからって、そっとしといたってよかっただろ」

 見過ごしたところで、綾陽君に損はない。寧ろ、下に置いて面倒を見るほうが、後々(あとあと)厄介なのではないか。

 だが、フェイジェンは首を横へ振った。

「もし、殺され掛けた皇女を保護したのを、機を見て明国朝廷へ報せれば、後々自分が王になった時、有利に働くから、損にはならないって。それに、あたしの情報網と戦闘力も欲しかったらしいわ。逆に見放したり、殺したりしたのが露見したら、自分が王になった時、『明国皇女を守らなかった』って明国朝廷から威圧される隙を作るからって」

 戦闘力、と言われて、シアは惠民署ヒェミンソを脱出した時の、彼女の身のこなしを無意識に脳裏に浮かべた。確かに、武装官庁の茶母タモ並だ。

 ちなみに茶母とは、各官公庁で下働きをする女性を指す。

 賤民チョンミンの就く業種ではあるが、特に武装官庁に於けるそれは、武術を身に着けていることが必須とされる。補盗庁などの、犯罪捜査が絡む官公庁の茶母は、共に捜査に加わることもある。

「じゃ、右補盗庁ウポドチョンにツテがあったのは?」

「綾陽君の意向よ。キョンジンのツテで紹介を経て、茶母になった。それから、キョンジンの差し金で、茶母としての諜報活動と称して、あちこちの妓楼の下働きをしてたのよ。まあ、正式なとしてじゃないけど、上の妓生キセンに見咎められなきゃ、入り込んで働いてても文句言われないから」

「なるほど」

 睡蓮楼スリョンルにいたのも、そういう経緯だったわけだ。

「……それにしちゃ、ミョンギルには存在を認識されてるみたいだったけど?」

「チャギョムさんに限っては、彼の観察力と洞察力を甘く見てたわ」

 自嘲するような表情で、フェイジェンは肩を竦めた。

「知らない内に色々調べられてた。あの人の組織って、体探人並に情報収集力が高いのよ。あたしも大概それには自信があるほうだと思ってるけど、自分が調べられる側になると守りが隙だらけだってよく分かった」

「組織?」

影契ヨンギェって言うらしいわ。ここ、その隠れ里の一つみたいなんだけど」

「ふーん……」

 ちゃんと意識が戻ってからも、ミョンギルとは詳しい所を話す余裕がなかった。

「ミョンギルがお前を一緒に保護した理由って聞いてるか?」

「素性を知ったら、放置すると逆に面倒になるからってことらしいわ。綾陽君の考えと、似たり寄ったりってトコかしら」

「……確かにな」

 シアは、無意識に握った拳を口許へ当てた。

 多少なり関わってしまった以上、彼女が仮令たとえ、一般の明国人だったとしても、明国人であるという事実だけで、粗雑に扱えば明国から朝鮮の朝廷が圧力を受ける理由になってしまうことは、シアにも分かる。朝廷だけが害を被るなら放っておいてもよさそうだが、明国が相手となると、最早それは外交問題で、延いては国全体に影響が波及するのは時間の問題だ。

 放置して綾陽君に預けても良かったが、それではまた、こちらをいいように攻撃されてしまうことが予想されるのが、ひとまず保護した理由らしい。

「……話、逸れまくったけど」

 不意にフェイジェンが口をひらいたので、シアはいつしか伏せていた目を上げた。

「本当に……申し訳ないことしたと思ってる。でも、謝って済むことじゃないのも分かってる。あたしはシアを殺し掛けたんだから……」

 いつの間にか居住まいを正したフェイジェンは、膝へ置いた手に視線を落として続ける。

「謝罪だって、あたしの自己満足だから……あたしをどうするかは、シアが決めて。あたしの素性は関係なく」

 瞬時、唖然とする。すべて聞いたら尚更、シアにはフェイジェンを責めることなどできなかった。

 聞けば聞くほど、彼女の境遇は、シア自身と似通っている。

 追っ手の考えは分からないが、皇室の出であること、公式には死んだ者となっているにも拘わらず、逃げ回らなくてはならないこと――そして、彼女の場合は、逃亡劇の終着点がない。生きている限り隠れひそまなくてはならない点は、シアよりも過酷だ。

 加えて、彼女にはもう味方がいない。綾陽君がこのまま、彼女を放置しておくとも思えない。

「……お前を糾弾する理由も権利も、俺にはねぇよ」

「だけど」

「立場が逆なら、俺だってお前と同じように立ち回るしかなかった。自分が生き延びる為にな」

 ジッと目を向けた先にいる彼女は、上げた視線をまた、気まずげに伏せる。

 彼女の握り締められた手に、そっと手を置いて、シアは言葉を継いだ。

「……だから、もう気にするな」

「気にするなって」

「殺され掛けた本人が気にするなっつってんだから、気にすんなよ」

「お人好しにもほどが」

「そりゃ、お前もだろ」

「はあ?」

「一つ間違えば、自分が死ぬかも知れないのに、……河から俺を引き上げてくれたろ」

「それは、」

「そのあとだって、……ソジョンさんから聞いてる。俺の、蘇生措置してくれたって」

 フェイジェンは、これまでとは違う様子で、言葉を詰まらせた。頬を真っ赤に染めて、口をパクつかせたあと、落ち着きなく視線を泳がせる。

「……ありがとな。礼が遅くなったけど……」

「そんな」

「心の底から、感謝してる。だから……今度は俺に助けさせてくれ」

「見返りが欲しかったんじゃない!」

 叩き付けるように言ったフェイジェンは、見る間にまた目を潤ませた。

「見返りなんて、要らなかった……あたし……あたしは、ただ……あんたに、死んで欲しくなかったから……」

 口にした言葉が、取った行動と矛盾しているのが分かったのか、フェイジェンは何度目かで目を伏せ、沈黙した。その拍子に、彼女の頬に転げ落ちた雫を拭ってやりながら、シアは言葉を継ぐ。

「俺が、そうしたいんだ」

「えっ……?」

「お前と、同じだよ。別に見返りなんか要らない。ただ、お前に死んで欲しくないし、死ぬのを見てられない」

「……だったら、見てなきゃいいじゃない」

「お前ならそうするのか?」

 痛いところを突かれたのか、フェイジェンは呻くようにまた言葉を詰まらせた。

「今回のことだけじゃない。お前は、彩映楼でも助けてくれた。俺が男だって知れたあとも、それを触れ回ることもなく、何かと庇ってくれてた。それに関しても、すっげぇ感謝してる。思惑があったって知った今じゃ、繰り返すようだけどホッとしてるくらいだし」

「じゃ、あんたが今、あたしを助けたいって言ってくれたのも、思惑があるの?」

 一瞬、考えるように口を閉じてしまうが、「いや」と挟んで続ける。

「……単純に、俺の利になるような思惑とか、策とか、そう訊かれると、……それはねぇよ。さっきも言ったけど……今お前を助けたいことに理由はない。理由を言うとすれば……俺が、後悔しそうだから」

 言葉にして、ハッとする。

 もしかして、シアを炎から助けた養父も、こんな気持ちだったのか。

 目の前に、敵に囲まれて二進にっち三進さっちも行かなくなっている人間がいて、誰かが手を差し伸べれば相手の目の前の危機は回避される。そして、手を差し伸べられるのが自分しかいなかったら、手を差し伸べなかったことを後々後悔するくらいなら――

「……ごめん。俺自身が元々こんな状況だから、お前から見たら、自分の状況に加えて、俺の事情に巻き込まれるかも知れないって危惧はあるんだろうけど」

「それが怖かったら、最初っから綾陽君のいぬでいるわよ」

 シアはまばたきして、いつの間にか伏せていた視線を上げる。

 刹那、絡んだ視線は、フェイジェンが俯いたことでほどけた。俯けたままの視線を、またウロウロと泳がせた彼女は、やがて無言のまま立ち上がる。

「カオ……フェイジェン」

 きびすを返した彼女は、一瞬動きを止めたように見えた。

「今のどういう意味だよ」

「……そのままの意味よ。他意はないわ」

 障子の取っ手に手を掛けたフェイジェンは、それ以上何か言うことなく、今度こそ部屋を出て行った。


***


 何とか扉を閉じた途端、引っ込んだと思っていた涙がポロリと頬を伝うのが分かる。

 掌で乱暴に頬を拭って、視線を出入り口のほうへ向けると、少し先に立っているミョンギル――チャギョムと目線が合った。

 だが、務めて無表情を装い、フェイジェンは足を踏み出す。

〈公主様〉

 すれ違い様、チャギョムは明国語で話し掛けて来た。

〈……何?〉

 母国語を使うのは、久し振りだ。

 無意識にそう思いながら、簡潔に返事をする。

〈くれぐれも、短慮を起こされませんように。この里にいれば、我々が公主様もお守りします〉

〈恩着せがましいこと言わないでくれる? 結局、自分たちの利益になることしかしないクセに〉

 投げるように返すと、フェイジェンは、チャギョムに何を返す暇も与えず、自身がこの里で棲まっている住居の棟へ向けて、歩き出した。

 シアが療養している棟を出ると、考えるともなく脳裏に彼と交わした会話が蘇る。


『俺自身が元々こんな状況だから、お前から見たら、自分の状況に加えて、俺の事情に巻き込まれるかも知れないって危惧はあるんだろ』

『見返り抜きで助けてくれたなんて思えるほど、頭めでたくできてねぇし……思惑があったって知った今じゃ、寧ろホッとしてるけど――』


(……違う)

 フェイジェンは、内心で訂正した。

(違うわ。危惧なんてない。思惑なんて――)

 多分、シアと深く関わっていなければ、どこかの機会で容赦なく彼を見殺しにしていただろう。いみじくもシアが言った通り、自分が生き延びる為にだ。

 けれど、シアの環境は、あまりにも自分と酷似している。謂わば、もう一人の自分とも言うべき相手を、どうして簡単に見捨てられようか。

 何より、理屈ではない。彼を失いたくないと、自分でも驚くほど強く思っている。

 いつの間にか胸に生まれてしまった感情を、もう認めざるを得なかった。

 無視できないほどに育ってしまった彼への思慕がなかったなら、いくら人命救助とは言え、躊躇いもなく人工呼吸したり、一緒の布団に入ったりはできないだろう。

 けれども、一度彼を失い掛けたにも関わらず、この想いを告げるのは躊躇われた。自分たちの場合、一歩間違えば外交問題に発展してしまう。

 その上、そこを弱みに綾陽君に絡め捕られた自分は、シアの足を引っ張るだけでしかないのも分かっている。かと言って、自死もしょうじゃないし、そんなことをすれば祖父母や両親の死を無駄にするだけでしかない。

 目的を遂げる――何が何でも生き延びて、天寿を全うするまで逃げ切るか、さもなければ国へ戻って両親の仇を討つか。

 どちらにせよ、ここからは自分一人で立ち向かうしかない。

(……愛してるわ)

 無意識に、浮かんだその言葉の先にいる少年の顔を、思うともなく脳裏に描く。

 愛している――だからこそ、これ以上巻き込めない。

 母方の祖父母も、両親も巻き込んだ。自分を守る為に彼らは死んだのだ。

 これ以上、誰一人、自分の都合に巻き込んで死なせられない。心を寄せた彼は、特にだ。

 可能なら傍にいたい。だが、その未練を振り切るように、フェイジェンはいつしかまた濡れていた頬を拭った。


©神蔵 眞吹2025.

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