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第三章 彼女たちの事情と、ミョンギルの裁断

「――ねぇ、大丈夫?」

 ミョンギルが退出するのを、首を巡らせて見送ったカオンが、シアに視線を戻して口を開く。

「何が」

「だって……」

「聞き耳許可が不安だったら気にすんなよ。あれで吹聴すべきことか否か、わきまえてない男じゃないから」

「それより、カオン」

 カオンがシアに対して何か言う前に、カランが娘に厳しい目を向ける。

大君テグン様に対して、何という口の利き方。言葉を慎みなさい」

 表情を硬直させるカオンのほうへ、気持ち顔を近付けたシアは、内緒話をするように声をひそめた。

「慎まなくっていいぜ。俺今、公式には庶人ソインだし、朝廷とかに見付かったら逃亡罪人だから」

「大君様!」

 フィギルとは、大分性格が違うらしい。

 潜めた声を聞き付けたカランが柳眉を逆立てるあいだに、シアは申し訳程度に足下にあった掛け布団を、脇へ押しやった。

「……大君様?」

「……悪い。こないだやっと起き上がれるようになったばっかりなんでな。本当なら正座してしかるべきなんだけど、これで許してくれ」

 言いながら、胡座を掻いて姿勢を正すと、シアは両膝の横へ拳を突いて、頭を下げる。

「シア?」

「テッ、大君様! お顔を上げてくださいませ、何を……!」

「……すまなかった。あんたたちから家族を奪ったこと……もっと早く謝罪したかったけど」

 養父フィギルことを思い出すと、未だに涙が出そうになる。

 まだ、心の整理が付いていない今、本音は養父を話題にするのは避けたかった。

 しかし、養父かれの妻や、子の一人に出会った以上、そして彼女らがフィギルとシアの関係について知っている以上、知らぬ振りでやり過ごすことはできない。

「奪ったって……」

「大君様、どうか、お顔を上げてくださいませ。夫が亡くなったことはチャギョム殿から伺っておりますが、大君様の所為だなどとは思っておりません」

 カランにそう言われても、シアはかたくなに「いいや」と首を横へ振った。

「……俺の所為なんだ。俺を助けたりしなければ、あの人は――」

 言葉が、続かない。

 またたに、涙の膜が目を覆って、外へと溢れ出る。唇を噛んで、思わず目を瞑ると、雫が頬へと転がり落ちた。

(俺を、助けなければ)

 フィギルは、家族を捨てずに済んだ。

 シアを見殺しにしていれば、永昌ヨンチャン大君暗殺のめいまっとうしていれば、消息を絶つ必要もなく、最期にシアを庇って死ぬこともなく、死んだ時に遺体を野晒しにもせずに済んだ。そして今も、本当の家族と――カランやカオンと、普通の、武官としての生活を続けていただろう。

「――……俺がッ……!」

 突いた拳を、キツく握り締める。

(俺が、殺した)

 そもそも、自分さえ生まれていなければ、彼が暗殺の任を請け負うことさえなかった。

 それだけではない。

 記憶が戻ってから、見て見ぬ振りをしていた事実が、脳内に渦を巻く。

 永昌大君シアさえいなければ、貞淑チョンスク姉は娘の一人を失わず、イクソン義兄あには無期限謹慎しなくて済んだ。貞正チョンジョン姉は、夫と胎の子を失わずに済んだ。

 母も貞明チョンミョン姉も、身分降格や幽閉という憂き目に遭わずに済んだし、暗殺されるかも知れない恐怖も味わわずに済んだだろう。

 仁城君インソングンの逆恨みは知ったことではないが、貞愼チョンシン姉の娘であるミセンも、夫を失った被害者だ。

 これまでシアは、自分が殺されなければならないほどの、何をしたのかとずっと思って来た。

 けれど、考えてみれば皮肉なことに、仁城君の言ったことが意外にまとを射ていることに、今になって気付いた。

(生まれて来た、だけで)

 罪を犯していた、のかも知れない――思考の幅が、程よく狭くなった頃、固く握った拳の上に、そっとカオンの手が触れる。

「カオン?」

 カランが娘を呼ぶ声を遠くに聞きながら、シアはハッと目を見開いた。

 涙に濡れた顔を上げることはできず、俯いたままのシアの手を、カオンは両手で柔らかくつつむ。

「……何、考えてたの」

「……な、に……って……」

 問い掛けられて、答えざるを得ず、仕方なく出した声は、みっともなく涙に濡れていた。

 しかし、カオンは容赦ない。

「大方、ウチの父を殺したのは自分だ、とか、そんなこと?」

 綺麗に図星を指され、誤魔化す言葉も出ない。

「挙げ句に、自分が死んでればよかった、とか、下らないことまで考えてたでしょ」

「……うるせぇ、よ」

 だって本当のことだろ、と続けることはできなかった。それより早く、カオンがそっと、シアの肩先に腕を回したからだ。

「カオ、」

「……ねぇ。ウチの父の最期がどんなだったか、訊いていい?」

 耳許で囁くように問いを重ねられ、息を呑む。

 今度は、カオンも、無理矢理答えを促しはしなかった。

「まだ言えなかったら言わなくていいよ。ただ……あんたがそんな風に思うってことは、父はあんたを守って亡くなったんでしょ。違う?」

「ッ……~~~~……」

 息が詰まる。

 彼女の言葉に引きずり出されるように、フィギルの最期が、何度目かで脳裏をよぎった。何とか収めたと思った涙が、否応なくぶり返す。

(……んで、そんな、見て来たみたいに)

「……あたしね。父様のご遺体は、綾陽君ヌンヤングンの手引きで確認したの」

「な、」

「カオン!? それは本当!?」

 それまで黙っていたカランが、叫ぶように娘にただした。反射で身体を起こすようにして、彼女の顔が見える距離まで離れたシアの視界に、カランに向かって頷くカオンが映る。

 カオンは、瞬時、彼女の母に向けていた視線を、シアに戻した。

「何で、そんな……ファベク兄上が、どうして」

「父様が亡くなったのは、義州ウィジュの森の中、だったわよね」

「あ、ああ……多分」

「実は、今の都元帥トウォンス様が、綾陽君の奥方のお父上……つまり、お舅様に当たるのよ。それで、綾陽君はそっちにも情報網があったみたい」

 都元帥というのは、臨時任命職であり、国防対策に於けるおさを指す。ただ、壬辰倭乱イムジンウェラン以降、常設職とあまり変わらなくなっていると、シアはフィギルから聞いた覚えがあった。

 都元帥の通常任地は、国境沿いの義州なので、確かに現職の都元帥なら、そこにいても不思議はない。それに、自身の任地で起こったことなら、あの火事の後処理を差配しているのも当たり前だ。

「……情報収集の為だとしても、ファベク兄上が義州そこまで出向く意味が分からねぇんだけど」

「……父様が失踪したあと、あたしと母様は官婢クァンビになった。父様が、職務を無断放棄した罪の連座でね」

 クス、と自嘲気味な笑みを浮かべたカオンは、シアと視線を合わせないまま、言葉を継ぐ。

「別々の官庁に配属されて、あたしは十歳の時に母様と離ればなれになったけど、それまでの生活習慣から、武術の鍛錬は怠ってなかった。十四の時に、同じ官庁にいる官奴クァンノに犯され掛けたから、相手を返り討ちにして、そのまま逃亡奴婢になったわ」

 カオンがペク姓を名乗るようになったのは、その頃かららしい。

彩映楼チェヨンルからあんたがいなくなったあと、程なくあたしもあそこを出奔する羽目になったのは、前にも言ったよね。そのほとんど直後に、綾陽君が訪ねて来たのよ。母様を保護したから、一緒に都へ帰ろうって」

「保護って……」

 無意識に頬を拭いながら、カランに視線を転じると、カランは小さく頷き、居住まいを正した。

「はい。綾陽君様に保護されたのは、誠のことです。あの日、わたくしは、配置された官庁の下っ端役人に犯されそうになって、つい返り討ちに……」

「つい?」

 母娘おやこして、自分を犯し掛けた相手を返り討ちにしたと聞かされると、シアは自身の姉の事例もある為、それは女性に普通にできることかと勘違いしそうになる。

 そんな思考を顔色から読み取ったのか、カオンが気持ち顔を近付け、そっと耳打ちした。

「ウチの母様、実は補盗庁ポドチョンの元・行首ヘンス茶母タモなのよ」

「あー……なるほどな」

 茶母とは、各官公庁で下働きをする女性を指す。

 賤民チョンミンの就く業種ではあるが、特に武装官庁に於けるそれは、武術を身に着けていることが必須とされる。補盗庁などの、犯罪捜査が絡む官公庁の茶母は、共に捜査に加わることもある。

 更に、頭に『行首』と付くと、所属官公庁の茶母すべてを統括する地位にあったことを示している。ということは、カランは相当腕が立つ女性なのだろう。そのカランと、左補盗庁の元大将とのあいだに生まれ、武術教育を受けていたカオンの腕は、言うに及ばずだ。

 カオンとシアの内緒話は、しっかりカランの耳にも入ったらしい。カランは、咳払いを一つすると、口をひらいた。

「たとえ下っ端でも、相手は役職のある人間ですから、官婢が逆らえば当然、命がありません。しかしその頃、大北テブク派に煮え湯を飲まされた者を探し出し、慰撫しておられた綾陽君様が、その活動の一環で、わたくしをその官庁から救い出してくださいました」

(慰撫、ねぇ……)

 シアは内心、眉をひそめた。慰撫と言えば聞こえはいいが、要するに実際には、反正パンジョン軍に加える為の人員を集めているのだろう。

 その副産物的に助けた女性などは、彼女らの家族を戦力として取り込む為の餌に過ぎないに違いない。

 しかし、シアのそうした、苦々しい思いには気付かぬまま、カランは先を続ける。

「直接助けてくださったのは、綾陽君様の配下の方ですが」

「助けたってのは、どういう意味だ?」

 シアが問う頃には、カランの表情はもう真顔になっている。彼女は、目を伏せたまま言葉を継いだ。

「はい。大君様もご存知の通り、綾陽君様は先年、シン・ギョンフィの獄事オクサで処罰された綾昌君ヌンチャングン様の兄君ですが、綾陽君様ご自身は特別何か、処罰を受けたわけではありません。現時点でも王族の方が、『官婢をもらい受けたい』と申し出れば、大抵は通りますので、娘共々、綾陽君様の私婢サビとして、事実上は保護される運びになりました。先日までは、綾陽君様の奥方である、淸城縣夫人チョンソンヒョンブイン様と共に、綾原君ヌンウォングン様のお宅へお世話になっておりました」

 縣夫人とは、王族の夫人に与えられる称号の一つだ。

「綾原君……って、ポ兄上のことだよな」

「左様です」

 綾原君、ことイ・は、綾陽君のすぐ下の弟で、シアにはやはり甥に当たる。

「ただ……綾原君様のお宅で、縣夫人様付きとして生活していた所為か、外部の情報が耳に入りづらくて……娘の人質として使われていたことは、お恥ずかしながら、先日初めて知りました」

「保護されてから、カオンと顔を合わせたことは?」

「ございません。都には戻ったから安心するように、とだけ伝え聞いておりまして……」

 それを受け、シアはカオンに視線を戻す。カオンは目だけで頷くと、肩を竦めた。

「あたしも、直接母様と会わせてもらったことはなかった。遠くから、無事な姿を少し、確認させてもらっただけ」

「何で兄上は……お前を配下にしたがったんだ?」

「十四の時に、逃亡奴婢になったって言ったでしょ?」

「ああ」

「それから丸三年、一人で朝廷から逃げおおせたあたしの手腕を買った、とか言ってた」

 シア自身、逃亡生活をしていたから分かる。単純に『逃げる』と言っても、それは口で言うほど簡単なことではない。

 毎日、常に情報に注意を払い、少しでも危険を感じたら即その場を離脱する。万が一、下手を打って追っ手と遭遇した場合、生き延びたければ戦って退しりぞける、あるいは殺す武術の腕が必要となる。

 追っ手側とて、掛かる費用はただではないから、絶対に失敗しないくらいの追っ手を用意するだろう。相手の武術の腕は、決して自身に都合よく見積もってはならない。

 それらをすべてくぐって、約三年の間、少女の身で、たった一人で逃げおおせたカオンの力量は、確かに賞賛に値する。

(だけど……それを捜し当てた兄上の情報網も、全然甘く見られねぇ)

 シアは、微かに眉根を寄せ、唇を噛んだ。

 それはつまり、今この隠れ場所も、早晩捜し当てられる危険の可能性を意味している。

「……で、睡蓮楼スリョンルにいたのは、どういう経緯で?」

「あの人、反正にどうしてもチャギョムさんを引き入れたいらしいの。なびかせる為に、何でもいいから彼と、周辺の情報が欲しいって言われてね。紹介状は、玉聲楼オクソンルの行首様から出してもらったらしいけど」

「ミョンギル。そこにいるんだろ」

 戸口に向けて呼ばわると、静かに扉が開いた。

 障子戸を細く開けたミョンギルは、廊下に膝を突いて、頭を下げている。

「……お呼びでしょうか」

「ああ。あんたは何で、カオンに不審を持った?」

「強いて言えば、彼女にではなく、彼女を監視していた者が露骨に怪しかったので、その者の動きに注意を払っただけです」

「監視していた?」

「はい。チョ・殉愛スネと言う女です。カオン嬢と前後して、睡蓮楼へ入って来ました。カオン嬢共々、裏取りは慎重にしたつもりだったのですが……申し訳ございません」

「別に、俺に謝らなくってもいいよ。それに、相手はファベク兄上だ。三年も逃げおおせたカオンを見付けられるくらいの情報網持ってる相手じゃ、見破れなくても仕方ない」

 肩先を上下させ、カオンに視線を戻す。

「お前、チョ・スネって知ってるか?」

「全然」

 カオンは、即答に近い間合いで首を横へ振った。

「綾陽君の配下って言っても、その全員が一堂に会した所なんて、見たことないもの。『腕を買った』なんて言ったって、あたしはいつでも切り捨て可能な、無数の足の一本に過ぎないと思う」

「そこは同感だけど……」

 ただ、そんないつでも切り捨て可能な足の一本に、カオンほど優秀な間諜を据えるなど、見る目があると言うべきか、贅沢な王族らしいと言うべきかは、判断に迷う。

(それに……)

「だからと言って、この先、ハン夫人とカオン嬢に、追っ手が掛からないとは言い切れません」

 シアが脳内で考えたことと、まったく同じことを、ミョンギルが口に出す。

「ここって、何かの隠れ里らしいな。秘匿性とか防御とか、どうなってるんだ?」

「はい、大君様」

 会釈するように顎を引くと、ミョンギルはしゃがんだ姿勢のまま室内へ滑り込み、静かに障子戸を閉めて続けた。

「申し遅れました。ここは、影契ヨンギェの里の一つでございます」

「ヨンギェ?」

 耳慣れない言葉に、首を傾げる。

 『キェ』というのは、何らかの社会組織で、契の上に付く言葉は、各組織で異なる。

「簡単に言えば、地下武装組織のようなものです。大元は壬辰倭乱イムジンウェランの時に創設された義兵組織の一つで、発足当時は父が契首キェス〔契のトップ〕でしたが、今はわたくしが契首を務めております」

「へぇ……」

「綾陽君様の組織の情報網がどれくらいの規模か、未だ把握し切れておりませんゆえ、そこは保証致し兼ねますが、守りは万全にしております。ご安心を」

「立地としては?」

「申し訳ございません。大君様のご容態のこともあり、都からあまり遠い場所へは移動し兼ねました。この里は、大君様たちを拾った河原近くの森から、更に七里半〔約三キロメートル〕程南東へ行った場所にあります。大君様が自力でお動きになれるまでは、何とか情報漏洩のないようにします」

「分かった。期待せずに勘戻す鍛錬するわ」

「御意」

 ミョンギルの答えの直後、まるで当たり前のようなやり取りに気付いて、シアはハタと口を噤んだ。それに気付いたのか、ミョンギルが気持ち斜め下からシアを見る。

「どうかなさいましたか?」

「ああ、いや……考えてみりゃ、あんた、俺の直属の配下じゃねぇのに、当然みたいな顔して世話になってて、申し訳ねぇなって」

 キョトンと目を丸くしたミョンギルの顔を、見るともなしに見ながら続ける。

「チュンホ先生やソジョンさんはともかく、あんたが世話してくれてんのは、やっぱ貞淑姉上の言い付けだからだろ?」

 ミョンギルは、尚も目をまん丸にしていたが、やがて、吐息混じりに苦笑した。

「……何だよ」

「だから、そういう所(・・・・・)ですよ」

「何が」

「いえ、別に。ご用命は以上で?」

「いや。カランとカオンの処遇について、契首としてあんたはどう考えるか聞かせて欲しいんだけど」

 ミョンギルは、今度は面食らったように顔を上げた。瞬時、ポカンと開けた口を、ユルユルと引き結び、目を伏せる。

「契首として、と仰られれば、何ともお答え致し兼ねます。が、大君様の御身の安全を考えれば、無罪放免とはいかぬかと」

 途端、表情を硬くした母娘をチラと見て、シアは問いを重ねる。

「具体的には?」

「万が一、綾陽君様が襲ってきた時には、差し出します。彼女らは、公式には今も綾陽君様の私婢ですから、身柄をどうするかはあちらが考えるのが筋かと」

「なるほど。だったら俺のことも朝廷に突き出すのが筋なんじゃねぇの? ご親切に回復待たずにさ」

「大君様。それとこれとは話が違います。先にもどこかで申し上げたと思いますが」

「俺も違わねぇって言ったよな。断っとくけど、俺は別に、たった今放り出されたからって文句言わねぇ。そりゃ、武術の勘が戻るまで置いてもらえりゃすっげぇ有り難いけど、義理もないのに厚意に甘えてんのは、明らかに俺のほうだからな」

「待って、その点はあたしたちも一緒でしょ」

 カオンが、二人の会話に割って入って来る。

「あたしたち……ううん、あたしがいることでシアの足枷になってるなら、あたしがすぐにも出てく」

 シアは、今にも立ち上がりそうなカオンの手首を素早く掴んで、ミョンギルを見据えた。

「勝手言ってるのは分かってる。けど、見ての通り、今俺は、自力で歩くのさえ厳しい。せめて歩けるようになるまで置いてもらえると有り難い。掛かった費用は、それこそ睡蓮楼ででも化粧師でも下働きでも何でもして、絶対払う。ただ、カオンたちも置いてやってもらえないか。ファベク兄上が来ても、知らん振りして欲しいんだ、頼む」

「お言葉ですが、綾陽君様がいらした場合、恐らくはハン夫人とカオン嬢より、大君様の首をお望みになるでしょう。わたくしとしては、彼女らをしばしの時間稼ぎに使いたいと思っております。特にカオン嬢がやらかしたことに対しては、充分な代償かと」

「仕方なかったって言ってるだろ。仮に、彼女が彼女自身の意思で俺の命まで狙ったとしても、俺は恨まない。それくらい返して当然の恩は受けてる。あんたは知らないだろうけどな」

 握った彼女の手首が、小さく震える。シアは、握ったその手に微かに力を込めた。

「恐れ入りますが、大君様のお命を危険に晒すような要求には、お応え致し兼ねます」

「分かった。じゃあ、あんたは何が望みだ」

「は?」

 瞬時、話の方向が明後日に向いたように思ったのだろう。

 ミョンギルは、何度目かで瞠目する。

「……どういう意味か、伺っても?」

「こっちが要求するばっかりじゃ、不公平だからだよ。先にあんたの要求を……そうだな、あるだけ全部聞いてやる。俺ができることならな」

「あるだけ全部、でございますか?」

「そうだ。これも、よく考えたら、あんたからは借りっ放しだからな。今全部聞いときゃ、貸し借りなしになるだろ」

 ミョンギルの口が、またも何度目かでポカンとひらいた。目も、同じように大きく見開かれていたが、やがてまた静かに細められた。それも、思い切り呆れたように、だ。

「……では伺いますが、大君様は何故なにゆえ、そうまでしてカオン嬢とハン夫人を守ろうとされるのです」

「……え」

 一瞬、思考が停止した。

「……何でって……」

 そう言えばなぜだろう、と自問する。そのに、ミョンギルが問いを重ねた。

「ハン元・大将様に恩があるからですか? 恩人の奥方と娘御だからですか?」

 シアは、口を閉じて考え込む。

 フィギルに守り育てられたことに、確かに恩義は感じている。その恩があるから、彼女らを守りたいというのも、間違いではない。

 けれども、それは直接の理由ではないような気がする。

「恐れながら、ご恩返しなら、わたくしたちを巻き込まず、ご自身で勝手になさってください。わたくしは、大君様をお守りすることに注力します。その為に必要なら、ハン夫人とカオン嬢を差し出すのもやむなしと考えます」

「父さんとは――フィギルとは関係ない」

「では、何故なにゆえです」

「……いや、違うな。十割関係ない、って言えば嘘になる。理由の何割かは占めてるけど……カオンを見離せないのは、それが理由の全部じゃない」

「ですから、その理由をお訊ねしているのですが」

「分かんねぇよ」

「は?」

 即答したシアに、ミョンギルは唖然としたが、シアは構わず続けた。

「分かんねぇけど、今コイツを見離したら一生後悔するのだけは分かってる。理由は時間が経てば分かるだろうけど、『たった今、答えられないなら見限れ』ってあんたが言うなら、答えは『否』だ。あんたの厚意には感謝するけど、彼女たちを万が一の時の餌にするってんなら仕方ない。彼女たち連れて、即刻出てく」

「大君様」

「そっちこそ、ちゃんと答えろよ。あんたが俺の面倒見てくれてるのは、貞淑姉上の言い付けだからか? もしそうなら、あとから姉上には、あんたに責任を問わないようにちゃんと言っとくから」

「しかし」

「あ、世話になってたあいだのアレコレも、ちゃんと付けといてくれれば払うし」

「ですから……!」

 珍しく声を荒げそうになったミョンギルは、続きを言う為に吸い込んだと思しき息に、言葉を乗せることなく吐き出す。深く俯いて、息を吐き切ったらしい彼は、もう一度深呼吸して顔を上げた。

「……わたくしが大君様のお世話をしているのは……大君様と同じ理由だからですよ」

「はい?」

「正直、わたくし自身にも分かりません。もちろん、最初の取っ掛かりとしては、貞淑翁主慈駕(オンジュチャガ)のお申し付けだから、でした。ですが、今はそれだけが理由ではございません。翁主慈駕には不敬ですが、それよりももっと重要な理由がある気が、自分でも致しますが……この年になって大変お恥ずかしながら、その理由が、はきとは見付かりません」

 一息に言ったミョンギルは、「ですから」と挟んで言葉を継いだ。

「……分かりました。では、互いに理由が見付かるまでは、ハン夫人とカオン嬢に関しては、保留と致しましょう」

「……つまり?」

「つまり……もし、どちらかの答えが見付かる前に、あるいは大君様のご回復前に、綾陽君様が襲撃して来たとしたら、お二人は引き渡さず、大君様と同様、我々でお守りする。それで宜しいでしょうか?」

 今度は、シアのほうが、息と言葉を呑む。少しの沈黙のあと、シアは漏らした吐息と共に告げた。

「……ありがとう。恩に着る」


©️神蔵 眞吹2025.

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