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亡霊は、鎮魂歌を唄わない  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
第三幕 もう一人の亡霊
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第二章 かの人の真意と、彼女の素性

 落ちた高さが高さだったからか、水へ落ちたはずなのに、固いものに叩き付けられたような錯覚を覚える。受け身は取ったつもりだったが、ほとんど意味がないように思えた。

 体調が体調だけに、まったくと言っていいほど息が長続きしない。ヤバい、と思った瞬間には、口を開いて空気を求めてしまう。代わりに口腔内へ入って来たのは水だ。

(くっそ……! 焼死の次は溺死かよ、冗談っ……!)

 水中では咳き込むこともできない。必死で水を掻いて、水面を目指す。

 あと少しで水面に出られる、という所まで来て、シアの意識は急速に遠退いた。


***


 意識が浮上するまでにどのくらい経ったのか、シアには分からない。

 唐突に胸元から何かがせり上がった、と思った直後には、意思とは無関係に咳き込んでいる。吐き出した液体には、鉄錆びた匂いが混ざっているのが自覚できた。

「……大丈夫?」

 咳の発作が落ち着いた頃合いを見計らうように、そっと声が掛かる。同時に、肩先に柔らかな指先が触れた。

 相手がカオンだということは分かったが、名を呼ぶこともできない。

「シア」

「……ッ、いや……さすがに、……大丈夫じゃねぇ、かも」

 浅い呼吸をしながら、シアは無意識に一層、身体を丸めた。無自覚の内に、負傷した胸部と腹部へ手を当てると、ヌルリとした嫌な感触が、掌を撫でる。

「ごめん、もう少し頑張って。立てる? どこかに隠れなくちゃ」

「ああ……」

 いたわるように掛けられた言葉に、最早惰性で頷きながら、差し伸べられた腕に縋るように起き上がる。

「ねぇねぇ、ちょっと」

 膝が崩れそうな足を叱咤し、やっと立ち上がったところで聞こえた聞き覚えのある声に、シアの意識は否応なく急速に焦点を結んだ。

「とどめ刺すどころか、助けてどうするのさぁ」

 平時の倍以上、重く感じられる頭をどうにか動かして顔を上げるが、出血で霞んだ視界は、意識と違って中々焦点を結ばない。

「お言葉ですが、綾陽君《ヌンヤングン》様」

 その前に、意外なことに、カオンが『声』に答えた。

(……綾陽……ファベク、兄上……?)

 脳裏でぼんやりと反芻する内に、カオンが続けて口を開《ひら》く。

「あなた様がわたくしに命じられたのは、左補盗庁《チャポドチョン》へ密告せよという一点のみ。それさえ遂げれば、わたくしの身の安全を、今後も保証くださると」

「いやいやいや、だって、ここまでの流れでさすがに理解できてるでしょ? 僕の本当の望みはさぁ」

「わたくし如きが、綾陽君様の深いお考えを忖度するなど、恐れ多いことです。とにかく、あなた様ははっきりとわたくしに申しました。左補盗庁への密告が成功すれば――」

「なら、はっきり言うよ。今すぐウィを楽にしてやって(・・・・・・・)」

 楽にする――その言葉の意味することは、明らかだ。

(……けど……ファベク兄上が本当にそんな……何の、為に……?)

 そもそも、そこ(・・)にいるのは、本当に綾陽君なのか。声のよく似た、別人ではないのか。

 シアの考えが纏まらない内に、綾陽君は「さあ、早く」とカオンを促す。

「あと、十《とお》数えるまで待つよ。その間にウィを楽に(・・)しないなら、僕は君の所在を南別宮《ナムピョルグン》へ通報する」

 南別宮とは、元々は、シアにとって亡き異母兄に当たる義安君《ウィアングン》の使う別宮として、亡き父王が建てたと聞いている。奇跡的に壬辰倭乱《イムジンウェラン》をやり過ごした為、その戦乱の中で破壊されてしまった太平館《テピョングァン》に代わり、明国の使節団が来朝している時は、使節団の宿泊施設として使われることもある。

「今、ちょうど明国の使節団が来てるのは、君も知ってるよね。そこに君の素性を垂れ込んだら、ちょっと面白いことになると思わない?」

(……どういう意味だ)

 明国の使節団が来ていることと、そこにカオンの素性とやらを垂れ込むことがどう繋がるのか、さっぱり分からない。

「……どうやって、垂れ込むと?」

 回らないシアの思考を置き去りに、カオンがソロリと、慎重に足を踏み込むように訊ねる。すると、ぼやけた視界の中で、綾陽君は身体を開《ひら》くように足を引いた。

 その背後に、赤々と燃える松明を持った者がいるのが、何となく分かる。

「狼煙《のろし》を上げる用意くらいはできてるよ。君が首を縦に振らなかったら、即座にこれを打ち上げる。僕の手の者が今、南別宮近辺で待機してるって言ったら、あとの展開は分かるでしょ?」

 瞬時、息を詰めたカオンは、

「やりたければ、あなた様がご自分でどうぞ!」

 と金切り声を上げた。

「わたくしは、……彼に、何の恨みもございません」

 静かに続いた彼女の声音は、やはり切羽詰まっている。彼女一人ならどうにかしているだろうが、今彼女は、シアを支えるだけで手一杯だ。

 他方、綾陽君と思しき人物は「関係ないよ」とクスリと嘲笑混じりに答え、制限時間の勘定を開始する。

 シアは一瞬目を閉じ、その間《ま》に一つ深呼吸した。

 目を上げ、何とか視界に焦点が戻ったのを確認すると、歯を食い縛ってカオンを突き飛ばすようにして地を蹴る。名を呼ばれた気がしたが、構うことなく、一足飛びに綾陽君の背後へ回り込んだ。

 完全に不意打ちを食った格好になった、綾陽君の背後の男の持つ松明を蹴り飛ばし、男には足払いを掛ける。

「あっ!」

 思わず声を上げた男は、派手な水飛沫を上げて浅瀬に尻餅をついた。シアは手を弛めず、相手の鳩尾《みぞおち》に踵《かかと》を叩き込んだ。

「そこまでだよ!」

 だが、相手の意識がなくなるのを確認するより早く、綾陽君の声がシアの動きを止めた。

 振り向くと、彼がカオンに刀を突き付けている。

「……ファベク……兄上」

 やっとはっきり焦点が合った視界に映ったのは、間違いなく綾陽君だった。彼は、一見おっとりとした笑みを浮かべ、カオンの首筋へ刃を押し付ける。

「僕は、自分の手を汚さないで君を殺せればそれでいいんだ。彼女の命が惜しいでしょ?」

「……つまり、俺にどうしろって?」

「簡単さ。河へ逆戻りしてくれれば、それで片が付く。決心する間《ま》が欲しいなら、十《とお》数えるくらいは待ってあげるけど?」

「……何が、目的だ」

「何?」

「俺を、殺して、あんたに、何の得がある。……本当は、俺が、憎かったのか。生還を、泣いて、喜んでくれたのに……あの涙は、嘘だったのか」

 浅くなる呼吸で、不自然な場所で言葉が途切れる。が、問わずにはいられなかった。

「……そう、だねぇ……」

 くくっ、と、綾陽君は、喉の奥で嗤《わら》う。

「別に、憎くはないよ。再会した時には『生きていてくれてよかった』って思ったのもホント。だけどねぇ、直後にはもう『死んでてくれたらよかったのに』って思ったのも確かさ」

 クス、と自嘲するような笑いを挟んで、綾陽君は穏やかに言葉を紡いだ。

「先王殿下の孫って言っても、僕の父は所詮、側室腹の王子だからね。血筋的には君のほうが王位に就くのが正しいってことも、分かってる。だから正直、君の『嫡流』って血統は、今の僕には邪魔でしかない。君が王位を狙うなら、死んでもらうしかないんだよ」

「……俺は……別に、王位なんか、要らない」

「じゃあ、君が都でなすべきことって何?」

「カオンを、半永久的に解放しろ。そのあとで、なら、教えてやる」

「そっか。もういいよ、キョンジンおじ上」

 綾陽君が告げるのと、背後にヒヤリとした殺気に近い気配を感じるのは同時だった。とっさに背後を仰ぎ見ると、拳を振りかぶった男が逆光の中に映る。

 歯を食い縛り、背中から倒れ込みながら、飛んでくる拳を蹴りで往《い》なす。瞬間、とんでもない目眩がして、シアは奥歯を強く噛み締めた。

(……ヤバいッ……!)

 血を流し過ぎた。早くこの場の決着を付けなくては、こちらの意識が先になくなりそうだ。

「シア!」

 呼ばれるのと前後して、襟首を後ろから強く引っ張られる。否応なく上げた視界に、刀の切っ先が迫るのが見えた。

「大丈夫だよ。なるべく苦しませないようにしてあげるから」

 銀の直線に見える何かが胸部へ肉薄する様《さま》が、ひどく鈍《のろ》い動作に映った。身体さえ万全なら、避《よ》けるのは容易《たやす》いように思える程――

「じゃあね」

 どこか楽しげな中にも憂いを含んだ微笑を浮かべた綾陽君の唇が、あまりにもあっさりとした別れの挨拶を象《かたど》る。

 シアも、それこそあっさり殺される気はない。歯を食い縛り、必死で相手の態勢を崩そうとするが、最早身体のどこにどう力を入れればいいのか、分からない。

 終わりか、と半ば覚悟したその時、視界が明るくなる。迫って来ていた刀が何者かに蹴り飛ばされ、円を描くように飛んで行くのが分かった。

 綾陽君から刀を弾き飛ばした何者かは、次いで綾陽君を蹴り倒し、シアを軽々と肩先へと担いだ。

 何かを問う間《ま》も、口を開く隙《すき》もない。浮遊感を覚えた、と思ったすぐあとには、明らかに馬の上にいると分かる揺れを認識する。

「……待て、カオンが、」

「ご心配なく」

 振り絞った声に応《こた》えたのは、聞き覚えのある声音だ。

「カオン嬢は、別の者が保護しております」

 ミョンギル、と相手の名を無意識に口にし掛けたが、音にならない。そこが限界だったかのように、シアの意識は、今度こそスルリと滑り落ちて行った。


***


 パチッ、と何かが弾《はじ》けるような音がして、シアは無意識に目を開《あ》けた。

 いつの間に移動したのか、そこは床に敷かれた布団の上だった。

(……どこだ、ここ……)

 ぼんやりと、視線だけで周囲を見回す。それは、どこかの山小屋のようだった。少し離れた場所には囲炉裏があり、そこには赤々と炎が燃えていいる。

 炎の上には鉄製の鍋が掛けられ、中からは湯気が上がっていた。

 起き上がろうとして走った痛みに、小さく呻く。それを切っ掛けに、一気に記憶が巻き戻った。

(……生きてんのか、俺……)

 呼吸を乱しながら、呆然と脳裏で呟く。今度ばかりは八割方、死を覚悟したのに。

 その時、足下に誰かの気配がした。

 反射でまた起き上がり掛けるが、やはり痛みに遮られる。身体が、ひどく重い。

「シア?」

 声で、気配の主《ぬし》がカオンだと分かる。

「よかった、気が付いたんだ」

 安堵の色を宿した声で言った彼女が、囲炉裏とシアとの間《あいだ》に腰を下ろす。

「……ここ、どこ」

「ごめん。あたしにもよく分かんない。チャギョムさんとそのお仲間に連れて来られたから……どこかの隠れ里みたいだけど」

 なぜ、彼女は綾陽君を知っているのか。彼との会話の内容から推測するに、カオンは綾陽君の配下のように行動していたと判断できるが、それはどうしてなのか。

 疑問は次々に脳裏に浮かぶ。今になって、彼女が睡蓮楼《スリョンル》にいたのはどうしてなのかも気になり出したが、どれも上手く言葉にならない。

 無理をしようとしているのを察したのか、動かそうとした唇に封をするように、彼女の指先がそっとシアのそこへ触れる。

「……今は休んで。ソジョンさんとチュンホ先生もすぐいらっしゃると思うから」

 その手を反射で掴んで、必死に彼女を見上げる。

「お前も、まだここにいるよな?」

「えっ」

「逃げるなよ。訊きたいことが、山程あるんだからな」

 目を丸くしたカオンは、やがて苦笑しながら、無言でシアの額《ひたい》に、空《あ》いた手の指先を這わせた。その温度が心地好くて、シアは目を伏せる。途端、重くなる瞼に抗《あらが》う余力はない。

 額にあったカオンの指先が、そっと髪を掻き上げてくれる感触に追い打ちを掛けられるように、シアの意識は再度、闇の中へ沈んで行った。


***


 やっと意識がはっきりしたのは、それから十日後。起き上がれるようになったのは、更に十日ほどした頃だった。

 ――という日付のあれこれは、あとで聞いたことで、シア自身の認識としては、日付の感覚さえ疾《と》うに消し飛んでいる。

「今日ですか? 七月五日ですが」

 その日、そう答えたのはミョンギルだ。

 どうぞ、という彼の声と共に差し出されたのは、やっと先日縁が切れたと思っていた煎じ薬である。

 ハンと戦《や》り合った際に負った傷は、はっきり言って仁城君《インソングン》との戦いのそれと甲乙付け難《がた》い――いや、ハンにやられた傷のほうが深かったようだ。

 治療が始まってからの数日については、シアはよく覚えていない。その間《あいだ》に、チュンホ夫妻が合流し、ミョンギルと懇意らしい張《チャン・》維《ユ》という、医術に精通している男と協力し合っての治療態勢になったようだ。

 意識がはっきりしてからの治療は、チュンホ夫妻に主導権が渡った為、シアの認識としては、ユとは一、二度しか顔を合わせたことがない。

(……それに、……カオン……)

 受け取った薬の器へ口を付けながら、ぼんやりと彼女のことを思う。

 意識がちゃんと戻ってから、彼女とも顔を合わせていない。

「お口直しです」

 いつの間にか空《カラ》になった器が持って行かれ、小さな砂糖菓子の載った盆が差し出される。彼女のことを考えていた所為か、薬の苦みも感じていなかった。

 盆の上を、やはりぼうっと眺めながら、つい、「カオンは?」と訊いてしまった。

「は? カオン嬢ですか?」

 聞き返されて、しまったと思ったが、あとの祭りだ。

「え、あ、えっと……」

 慌てて目線をウロウロさせるが、あの貞淑《チョンスク》姉が信頼し、認める男だ。簡単に誤魔化されてはくれない。どころか、ミョンギルは盆を一旦、シアの枕許へ置くと、居住まいを正した。

「カオン嬢は、隠れ里の一角に幽閉しております」

「……は? え、何、幽閉?」

 途端、シアは彷徨《さまよ》わせていた視線を、反射的にミョンギルへ向けた。

「どういう意味だよ。カオンが何したってんだ?」

 自然、口調は詰問の色を帯びてしまう。けれど、ミョンギルは動じなかった。

「大君《テグン》様。仁城君《インソングン》様と左捕盗庁《チャポドチョン》のチョン大将《テジャン》様。此度《こたび》、このお二方が、不意打ちで大君様を襲うことが可能だった理由は、何だとお考えで?」

「何……?」

 シアは、眉根を寄せる。

「調べたところ、左捕盗庁には垂れ込みがあったようです。『慶運宮《キョンウングン》への放火犯が、惠民署《ヒェミンソ》にいる』と」

「……まさか……俺が療養してるのを知ってた誰かの密告……?」

 つまり、惠民署で療養していた頃、シアの病室に出入りしていた者か、右捕盗庁《ウポドチョン》の兵士か――

「それとも、……もしかして、仁城兄上か?」

 あの兄なら、充分に考えられる。何しろ、あんな利己的な理由でシアを逆恨みしていたのだから。

 しかし、ミョンギルは「いいえ」と静かに否定した。

「仁城君様が密告したと仮定した場合、かのお方ご自身が大君様の居場所を嗅ぎ付けた理由が説明できません。かのお方は今、右補盗庁が護衛と称して厳しい監視下に置いておりますゆえ。そしてそれは、惠民署で大君様の病室に出入りしていた者が密告犯と仮定した場合にも同様です。一人を除いて(・・・・・・)」

「一人……?」

 眉間に刻んだしわを深くしたシアは、次の瞬間、目を見開いた。

「まさか、カオンが!?」

 ミョンギルは、深刻な表情で頷いた。

「いや、だって――」

「大君様もお聞きになったのではありませんか? 彼女が、綾陽君様の使いをしていたことは」

 シアは唇を噛んだ。

 否応なく、あの時カオンと綾陽君のやり取りしていた言葉が脳裏をよぎる。


『あなた様がわたくしに命じられたのは、左補盗庁へ密告せよという一点のみ。それさえ遂げれば、わたくしの身の安全を、今後も保証くださると』

『あなた様ははっきりとわたくしに申しました。左補盗庁への密告が成功すれば――』


 仕方なかった、とすぐに割り切ることはできなかった。

 けれども、立場を逆にすれば、シアとて脅迫に屈したかも知れない。

 例えば、人質に取られたのが、母か仲のいい兄弟姉妹《きょうだい》の誰かだったら――養父《フィギル》が亡くなった時だってそうだった。

(だけど)

「……ミョンギル」

「はい、大君様」

「カオンと話はできるか」

「えっ、あ……しかし」

「カオンだって悪気があったわけじゃないんだ。あんたにだって分かってるだろ」

「ですが」

「だから(・・・)彼女を幽閉はしても、殺してないんじゃねぇのか」

 肝心な所を突かれたのか、ミョンギルは唇を噛むようにして押し黙る。

「とにかく、彼女をこっちに連れて来るか、それとも俺が出向くか。どっちか選べ」

 その隙に踏み込むようにきっぱりと言って、ミョンギルを見据える。無表情の睨めっこに白旗を揚げたのは、ミョンギルのほうだった。


***


 カオンが、シアの寝起きする部屋に顔を出したのは、程なくのことだった。

 彼女は、シアを見るなり、泣き出しそうに顔を歪ませる。同時に、安堵したような吐息を漏らしたのが分かった。

 彼女が大股にシアの座る布団へ近付くのを眺めたミョンギルは、「それでは、わたくしは外に待機しております」とだけ告げて一礼し、退出して行った。

 腰を下ろしたあと、ミョンギルを見送ったカオンは、やがてノロノロとシアのほうへ顔を戻す。だが、視線は下へ向けられたままだ。膝に置いた手の中で、意味もなくチマをいじりながら、カオンは「ごめんなさい」と一言呟いた。

「……何で謝るんだよ」

 シアが返すと、カオンはまたも長い沈黙を挟んだ末に、「あたしの所為だから」と口を開《ひら》いた。

「仁城君と、左補盗庁に投げ文したの……あたしだから」

「ファベク……綾陽君に言われて、か?」

 カオンは、俯いたままの顔を、部屋に来た時よりももっと泣き出しそうに歪めて、小さく頷いた。

「言い訳しないわ。自己弁護もしない」

「何で」

「あんたにとっては、あたしの密告で殺され掛けたのがすべてでしょ。あたしの事情なんて、あんたには関係ないんだから、仕方なかったなんて言えない」

「訊いてみねぇと分からないだろ。何で密告なんかしたんだ」

 問い詰めると、カオンは俯いた顔の中で視線を泳がせる。シアは、彼女の手首をそっと握って、「カオン」と名を呼んだ。

「じゃあ、質問を変える。何で、綾陽君の下で使いっ走《ぱし》りみたいなことやってたんだ?」

「それは……」

「南別宮に……正確に言えば、明国から来た使臣に、お前の素性(・・)を垂れ込むって、綾陽君は言ってたよな。お前の素性って、何の話だ?」

 彼女はまたも、瞬時唇を噛み締めたが、やがて、シアの手をそっと解《ほど》くようにして立ち上がる。

 部屋をあとにしてしまうのかと、思わず身構えたが、カオンは左手を拳にし、それを右手で包むと、合わせた両手を左の腰へ当てた。そして、軽く膝を折り、浅い辞儀をする。

 朝鮮では見られない礼の仕方は、万福《ワンフー》と呼ばれる、明国式のそれだ。

「この国の大君《テグン》様に、改めてご挨拶いたします。申し遅れました。わたくし、明国先帝・泰昌帝《タイチャンディ》が第一皇女・懐淑《ファイシュ》公主《ゴンジュ》、諱《いみな》を朱《ジュ・》徽娟《フェイジェン》と申します」


©️神蔵 眞吹2025.

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