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第一章 惠民署《ヒェミンソ》への襲撃

 退出していく兄王と、シアとのあいだで視線を左右させたクァルは、やはり無言で兄王の背を追った。

 扉が閉まると同時に、姉が振り返る。

「ウィよ。このままお兄様を帰していいの?」

 気遣わしげに肩先に手が載せられ、シアは覚えず、クッと喉の奥で嘲笑わらった。

「いいも何も……だったら追い掛けて、本当に殺しますか? 私は構いませんし、そのほうが安心ですけどね」

 見上げた視線の先で、姉の顔色が何度目かで変わる。

 姉もまた、長いこと葛藤していたに違いない。長女を殺されたこと、その下手人げしゅにんが腹違いとは言え実の弟であること、せめて法の裁きを望んでいただろうにそれもかなわなかったこと――それらはきっと今も、姉の心の底に、澱となって沈んでいるのだろう。

 シアならとっくに、仁城君インソングンを殺して逃亡している。彼に対しては、兄だという認識すら、未だに芽生えていない。『兄』という名が付いた、赤の他人に等しい。

 自分はまだ、おおやけには死んだことになっているし、兄を二、三人手に掛けたところで逃亡すれば済む。

 しかし、姉の立場では、そうはいかない。夫がいて、ほかに子どもたちもいる。何より、貞淑チョンスク姉と仁城君は、一つしか違わないから、異母姉弟(きょうだい)と言っても、幼い頃は普通の姉弟らしく、睦まじく過ごした思い出もあるのかも知れない。

「……姉上」

「ん?」

「申し訳ありませんが、今日は姉上もお帰りください」

「でも」

「大丈夫です。腕の立つ見張りがいてくれるのは、姉上もご存じでしょう」

 あの日、仁城君邸になだれ込んで来たのが右捕盗庁ウポドチョンだったことから、シアの病室には右捕盗庁から派遣された武官が、交代で二人ずつ見張りに立ってくれている。

 それに、今は一人になりたかった。一人で、色々と頭の中を整理したい。と思っている時に限って、またも扉を叩く音がする。

「シア。起きてる?」

 カオンの声だ。

「ああ」

 返事をすると、彼女は入って来た。その手には、いつものように膳と、その上に薬の入ったうつわが載っている。

 それを見た姉は、カオンが付いていてくれるなら安心と思ったのだろう。

「分かった。わたくしはこれで失礼するわね。カオン。あとお願いできる?」

「……はい」

 平板な声と無表情で返事をしたカオンは、形ばかり頭を下げた。どこか、『あたしはあんたの小間使いじゃないんだけど』と言っているのが手に取るように分かったが、先日の恩がある為か、姉はその態度を咎めなかった。

「じゃあ、ウィ。また来るから」

 抱き締められて、不意に涙が出そうになる。全力でそれをこらえながら、

「お気を付けて」

 と、辛うじて絞り出した声は掠れていた。


***


「まーったく、役立たずだよねぇ、仁城叔父上も」

 惠民署ヒェミンソの裏手から、人目を気にするように出て来る叔父王を物陰で見つめながら、チョンは小さく嘲笑わらった。

「あとちょっとだったのに」

 あと少しでウィにとどめを刺せた――もっとも、チョンはそれをじかには見ていない。仁城君の私兵の中にもぐり込ませた手の者から、報告を受けただけだ。

 自分で手を下したくないチョンは、その瞬間を見たいとも思っていない。見ていたら、うっかり庇い立てして、事態を複雑にしそうだった。

綾陽君ヌンヤングン様」

 声を掛けたのは、一緒にいたキョンジンだ。

「うん?」

何故なにゆえ、奇襲を掛けないのです。惠民署にいるのは分かっているのに」

「だーって、迂闊に今奇襲なんかしたら、また犯人捜しで面倒になるじゃない。そもそも『暗殺』の意味って、キョンジンおじ上分かってる?」

「……高貴な方を密かに殺すこと、では?」

「そう、そこ。肝心なのは『密かに』ってトコだよ。目立って公式な捜査がこっちに及んで来たら意味ないでしょ」

 ビシッとキョンジンを指さしたチョンは、惠民署の裏口へ視線を戻す。叔父王と、それに付いて来ていた右捕盗庁の大将テジャンは、すでにそこから姿を消していた。

「では、毒薬などをどこかへ忍ばせては」

 懲りずに『暗殺』の提案を続けるキョンジンに、チョンは若干苛立って振り返る。

「あのねっ。惠民署で死人が出たら、それだって朝廷に届かない保証がないでしょ!」

「……失礼しました」

 すまなそうに頭を下げるキョンジンを、呆れた吐息と共に見つめ、伸びをした。

「……さーて。じゃ、次の手に行きますか」

 キョンジンはまた、黙って会釈するように頭を下げる。何をするか、という無言の伺いだ。

「おじ上」

「はい、綾陽君様」

左捕盗庁チャポドチョン伝手ツテってある?」


***


 兄王が訪ねて来てから、三日が経っていた。

 あのあと、チュンホ夫妻からやっと身体を動かす許可を得たが、まだ気持ちがモヤモヤとしていて落ち着かない。

 こんなに気持ちが乱れている時に鍛錬すれば、また怪我をし兼ねないので、結局シアは、与えられた病室でぼんやりと過ごしていた。

 畳んだ布団に背を持たれ、立てた片膝に頬杖を突くシアの着衣は、カオンが持って来てくれた男物の服だ。平民が着るような、簡素な上衣チョゴリ下衣パジ〔ズボン〕で、前腕部は軽くまくってある。

 シアを陥れ、死に追いやろうとしたのは、兄王の意志ではないことだけは、はっきりした。ただ、その不正を正したり、阻んだりする気概もなかったことも分かった。

 兄王の優しさは、そのまま重臣や兄弟の暴走を赦す優柔不断さに繋がっている。

 あるいは、そんな振りをしているだけで、先日の謝罪も口先だけかも知れない、とも思える。気弱な王を演じていれば、片付けたい人間を、自分の手を汚さずに排除できることもあるだろう。

 もっとも、その辺りはシアの邪推で、本当の本当は、やはり兄王は、困った優柔不断なだけかも知れない。

 シアは溜息をいて、布団を敷いていない寝台へ横向きに転がった。目を閉じ、視界を遮断する。

(……バカみてぇ。考えたって仕方ないのに……)

 せっかく兄王に、図らずも『ウィ』として会ったのに、あれもこれも言いそびれた、という思考が、最近は脳内を回っている。

 大抵は、苦情だ。兄王の意志ではないとは言え、こちらは殺され掛けた上に、髪の色までくし、日常が若干煩雑になっているのだから、いくら言っても言い足りない。イチョム以下をもっと兄王が毅然と制してさえくれれば、フィギルだって死なずに済んだし、母と貞明チョンミョン姉だって十年近くも暗殺の危機に晒されなくてよかった。

(……クッソ、あのバカ兄貴が……!)

 けれども、何分の一かの文句を吐き出したあの時でさえ、兄王の反応はあまりにも薄かった。ただ『すまない』だの『それは』だのと言うだけで、弁明するつもりもないのか、シアの指摘が図星だから口先だけの謝罪をするしかないのかが、やはり分からない。

「……ああー、もうっっ!!」

 叫んでガバリと起き上がった、その時だった。

「シア!!」

 扉を叩くという前置きもせず、カオンが飛び込んで来た。彼女の左手には、刀が携えられている。

「どうした?」

 彼女の纏う空気が臨戦態勢になっているのに気付いて、無意識に自分も刀を手に取った。

「詳しいことはあとで! 逃げるわよ」

 シアは、寝台の下にあった靴を引っ掛け、カオンに無言で続いた。うなじで纏めただけの白銀が、シアの動きに合わせてひるがえる。染め粉の成分が傷に障るからというソジョンに従い、このところずっと髪を染めていなかった。

 部屋を出ると、扉の両隣にいるはずの見張りの姿がない。

 その疑問に気付いたのか、カオンが「武官と武官は、ホ先生とカム医女を保護しに行ったわ」と告げた。

「彼らは彼らで脱出するはずよ」

「分かった」

 ホッと安堵しながらカオンの背を追って、通路を小走りに駆ける。

 あと少しで建物の扉へ辿り着く、というところでその扉が外側へ自動的に開いた。外には、武官の姿がある。

「いたぞ! 捕らえろ!」

 前にいたカオンが走る速度を上げ、相手が刀を抜く前に、その顎先を蹴り上げる。むねの外へは、シアは出たことがない。だが、扉のすぐ外は狭い通路になっているらしく、カオンの攻撃をまともに食らった武官は自身の背後にあった壁に激突し、跳ね返って出入口へ勢いよく倒れ伏した。

 カオンはそれを容赦なく踏み付け外へ出ると、次の兵士を蹴倒す。

 彼女に続いて外へ出ると、むねに沿って人一人が通れるくらいの幅の通路があり、そこにカオンが蹴倒したと思しき兵士たちが数人、仰向けに折り重なっていた。

 シアも彼らを遠慮なく踏み付けながら、ひらけた場所へ出る。

 シアが寝起きしていた棟は、惠民署ヒェミンソ敷地内の奥、階段を経て辿り着く高台のような場所にあった。階段のすぐ横に別の建物の屋根が見え、その前が広々とした庭のようになっている。

 普段ならそこで、診察を待つ患者のあいだを、医官と医女が行き来しているのだろう。が、今は兵士たちが暴れ、患者と医官・医女が逃げ回っている。

 庭の向こうに正門が見え、その少し手前に立っている指揮官らしき男と目が合ってしまった。その細面と、鋭い三白眼には見覚えがある。

 ヒョロリとした長身が、足を踏み出し、刀を抜いた。無意識に一歩下がった時、横合いから名を呼ばれる。

「シア、こっち!」

 先程までいた建物の陰から、手招くカオンのほうへ駆け寄り、彼女に従って棟の裏手へ回った。

 飛べるか、と訊くように、彼女は塀の上を指で示す。小さく頷いて、膝を軽く屈伸すると、そのまま跳躍した。身体が思ったより重くなっているのに気付くが、何とかいただきへ着地する。

 外側を見て、思わず息を呑んだ。塀の周りを、兵士たちがウロウロしている。

 ふと上を見上げた一人と、またも目が合ってしまう。

「おい!」

 その一人は、彼の任務に忠実に、甲高い声を上げ、塀の上にいるシアを指さした。その時、シアを追ってカオンが頂へ着地し、目を見開く。

 シアは、彼女の指示を最早待つことなく、兵士の群のど真ん中へ飛び降りた。直後には抜刀して、目の前の兵士を逆袈裟懸けに斬り上げている。

 返り血から目を守るように相手を蹴り付け距離を取り、振り向きざま、後ろから斬り掛かって来た相手の刀をなして返す剣で相手の脇腹を突いた。

 相手から剣を引き抜いた瞬間、ゾワリと背筋からうなじへ寒気が走る。その元へ顔を巡らせ、振り仰いだ先に、三白眼の男――チョン・ハンが塀の頂に立っていた。

 目を逸らせない。逸らしたら、死ぬ。

 初めてこの男と対峙したのは、江華島カンファドから出たあの日だ。当時、シアはまだ九歳だった。あれから七年も経ったのに、この男には相変わらず勝てる気がしない。

 おまけに今は、身体状態が万全ではない。だからと言って、ここで死ぬのもごめんだ。

 唇を引き結んで下がろうとするが、周囲にいる兵士が向けた切っ先が背に当たる。退路を造る為、チョン・ハンに背を向ける形で、シアは背後の相手を斬り付けた。同時に背中を熱が滑り、背が勝手に仰け反る。

 倒れそうになるのを、どうにか足を踏ん張ってこらえ、ハンに向き直った。

 通路を挟んで向かいにあった壁を、素早く背にする。けれど、そこまでだった。

 背中の安全を確保する頃には、半円をえがくように兵士が周りを囲み、その中央に立ったハンが、刀の切っ先をシアに突き付けている。

 無意識に左手を背に当て、シアも握った刀の刃先を相手に向けた。病み上がりに、背に受けた傷も追い打ちとなったのか、ここまでですでに息が上がっている。

(くっそ……! いつもならこれくらいで、息が上がるなんて有り得ねぇのに……)

 半月ほどのわずかな空白で、ここまで体力が落ちるものかと、シアは唇を噛み締めた。

 左手を後ろ手に壁へ突いて身体を支え、何とか呼吸を整えようと必死になる。そのあいだにも、ハンは油断なくシアを見据えた。

 捕らえるよう配下に指示を飛ばさないところを見ると、この場で殺すつもりだろうか。それも、充分に考えられる。

 先日まで指名手配されていて、そのその手配がどうなったかは知らない。でなくても、シアは公式にはもう死んでいる。だから、この場で息の根を止めたとしても、どこからも文句は出ない。

(だからって、おとなしく殺されてたまるかっつの)

 どこか突破できる隙はないかとハンを観察するが、どこにもそんな弛みはない。

 囲みを抜けることだけならできそうだが、その為にハンから目を離すほうが怖過ぎる。視線が逸れた途端、恐らく急所を突かれて終わりだ。

(~~~~ッ……隙、なさ過ぎだろ……!)

 呼吸をするのさえ、こちらの隙になりそうで恐ろしい。正直、イ・ヂョンピョと対峙した時さえ、これよりは恐怖感が下だった気がする。

 剣を合わせてさえいないのに『勝てない』と思うのは、どちらも一緒だが――

(……ごめん、父さん。そっちに逝くのが、思ったより早くなるかも)

 脳裏でフィギルに謝罪すると、不思議と覚悟が決まった。軽く深呼吸して傷の痛みを意識から閉め出すと、刀を持つ手に力を込める。

 その直後。

「ぅわっ……!?」

 右手から声が上がり、反射でそちらへ顔を振り向ける。ハンもさすがに同様だった。シアとハンだけでなく、恐らくその場にいた全員がそちらを注視する。

 誰も乗っていない馬が、兵士を踏み付け囲みを突破して来る。

「シア! 乗って!!」

 どこからともなくカオンの声がする時には、馬は間近に迫っていた。素早く刀を左逆手に持ち替え、目の前を駆け抜ける馬の手綱を捕らえる。

 地を蹴り馬に飛び乗って、いた右手だけで手綱を操った。

「誰か! 馬を引け!!」

 背後から、ハンの声が聞こえる。速度を上げるに、後ろから馬の蹄が地を叩く音がしたが、振り返らずに必死に馬を駆る。

(……確か……惠民署からなら、南大門ナンデムンが近かったはず)

 馬が一足進むごとに、いちいち先刻受けた背中の傷に響くが、それを意識の外へ追いやりながら、都の立地を脳内に描く。

 惠民署から南大門までは、直線距離にして南西へ三里〔約一・二キロメートル〕。シアは最短距離へ進路を取った。

 平時、人が通る為の道は人通りがそれなりにあるものと思っていたが、今は幸いなことに人は少ない。それはシアの逃走を容易にするだけでなく、その追撃をも助けた。

 追い縋るハンとの距離は一町〔約百九メートル〕ほどで、中々(ひら)かない。

「門を閉じよ、早く!」

 南大門が見え始めた時、ハンがシアの後ろから怒鳴った。しかし、距離がありすぎる所為か、見張りの兵士に声が届かなかったらしい。

 ハンは、シアの後ろを駆けながら、「門を閉じよ!」と叫び続ける。

 ようやく見張りの兵士が指示に従い始めた時には、シアは南大門を抜けていた。

 城門を出て、南大門市場前を通り過ぎると、一気に周囲は閑散となった。民家はポツポツと点在しているが、遮蔽がまったくなく、隠れるところがない。

 この先、七里半〔約三キロメートル〕ほど南下すれば睡蓮楼スリョンルがあるが、シアは最初から頼る選択肢には入れていなかった。

 安易に頼れば、そこへ迷惑を掛けるし、ミョンギルは元々シアの配下でも何でもない。ミョンギルは自身と父親の冤罪を晴らしたいらしいが、だからと言って、こちらから助けを求めることは、筋が通らない。

 協力してくれるのは有り難いが、もう自分の都合に他人を巻き込むのも避けたかった。ミョンギルが父親の汚名を晴らしたいのなら、シアの件とは別に、シアの目に触れないところでやればいい。

 城壁から少し離れたと思えた所で、シアは南東へ進路を変えた。

 以前、都へ着いた際に通った森がある。そこまで行けば、どうとでも撒けるはずだ。

 だが、あとわずかの距離で森へ入れるという所で、馬がいなないて前足を折った。

「うわっ!」

 思わず悲鳴を上げる。前のめりになった馬から放り出され、シアは右手を手綱から放した。その手を地面へ突いて一回転し、何とか着地する。

 馬の後ろ足の付け根に、矢が突き立っているのを確認した直後、左肩先を押されたような錯覚を覚えた。そのまま地面へ叩き付けられる。

 歯を食い縛って何とか起き上がる頃には、左肩に矢が刺さっているのは嫌でも目に入っていた。何とか矢を引き抜き、森へ向かって走り始める。

 相手は馬に乗ったままだが、森に入ってしまいさえすれば、機動力はこちらが有利になる。相手もそれを分かっているからか、無数に矢を放ちながら追って来る。

 手にした刀で矢を振り払いながら走るが、何本かは身体を掠め、背中に一本命中した時は一瞬息が止まった気がした。

 着矢ちゃくしの衝撃で前方へ投げ出される。そのはずみで、シアの身体は森の中へ飛び込んだ。

「くっ……!」

 懸命に立ち上がって、また走り出す。

(ここまで来て、死んでたまるか!)

 ついさっきは、半ば死を覚悟した。けれども、生への道が目の前に提示されると、やはり人間は――いや、生き物ならば、それに縋り付きたくなるものらしい。

(それに――)

 養父とも、約束した。何をしても、生き延びると。

 こんなに早く――あれからたった三ヶ月であちらに逝ったりしたら、フィギルに会わせる顔がない。万が一、うっかり彼に会うようなことになったら、『私の死を無駄にしおって』とか、『だから都へ近付くなと言っただろう』とか、散々説教されるに決まっている。

 呼吸するたびに、背中に負った刀傷と矢傷がズキズキと疼く。いっそ気絶したほうが楽になれると分かっているが、のんびり倒れていたらとどめを刺されてしまう。

 ただ、いい加減少しでいいから休みたい。そう思って足を動かしながら隠れられる場所を探す。しかし、木が生えているばかりで追っ手の目を眩ますような隠れ場所は、相変わらずない。

 森という立地の特性上、確かに馬を全力で駆けさせるのは難しそうだから、多少は距離を稼げそうだが、それ以上の利はない。

 ザザッ、という音が頭上からしたのは、その時だ。反射で足を止めると同時に、すぐ目の前へあの長身が舞い降りて来る。

 とっさに後ろへ飛ぶのと、刀が振り下ろされるのとは、ほとんど同時だった。

 息の上がったシアと、二(けん)〔約三・六メートル〕ほどの間合いを置いて対峙したハンが、一つも呼吸を乱さずにユラリと立ち上がる。

「――イ・ウィ」

 彼の唇が、シアのいみなかたどり、それを音にする。

「一瞬分からなかった。そんな髪だからな」

 無表情に言ったハンは、刀の切っ先をシアに向けた。

「もう足掻くな。そうすれば、苦しませずに終わらせてやる」

「……にを、勝手なことをッ……」

「お前は八年前に死んでいるはずだった。元いた運命の道へ戻してやるだけだ」

「ふざけんな! んなの、全部そっちの都合だろ!?」

 出し抜けに沸いた怒りで、一瞬傷の痛みも忘れる。

「あんたたちにはとこっとん、人間の感情が欠けてるらしいな。あんたにだって、家族はいるんだろ!」

 その家族が、シアと同じ目に遭っても何とも思わないのか。そう含んだシアの言葉に、ハンの表情は動かなかった。

「関係ない。今から死ぬお前にはな」

 言い捨てるなり、ハンは地を蹴る。一足飛びに間合いを詰められ、振り下ろされた刀を鍔元で受けて無理矢理捌いた。

 間合いを取る隙も与えられず、すぐ様また刀が振り下ろされる。左右へ必死に捌く剣は、一打一打がひどく重い。体格差の所為だ。

 仮にシアが万全の身体状態であったとしても、ハンとの体格差は大きい。体格差はすなわち、筋肉量の差だ。

 シアは元来、同年代の少年と比べても小柄なほうで、これまでは身の軽さを武器に戦いをくぐり抜けて来た。こんな間近で、しかもこれほどの体格差の男を相手に打ち合う戦いは経験したことがない。

 体重差で圧倒されたら、遠からず潰れる。

「っ、く……ッ!」

 幾度目かで剣を捌いた直後、シアはハンが剣を握った手を思い切り蹴り上げた。

 しかし、相手は刀を取り落としもしない。少し体勢を崩しただけで、反動を利用し、間髪入れずにやいばを振りかぶる。

 それが身体に届くまでの間隙かんげきに、シアは間合いを取るように後ろへ飛び、跳躍した。頭上の木の枝へ飛び付き、どうにか枝の上へ身体を引き上げ、隣の枝へと移動を開始する。

 振り切れるかどうか分からないが、今はそうするしかない。

(やっぱ、今はかなわねぇ)

 今はまだ、ハンとの体格差を埋めるだけの武術の力量が、シアには足りない。

 だが、いくらも行かない内に感じた殺気に、シアは思わず足を止めて、その源へ目を向ける。それが、失敗だったかどうか分からない。

 飛んでくる苦無を視界に捉え、反射で弾き落とした直後、身体の均衡が崩れる。自分で下手を打ったと思ったが、違った。

 右胸部から矢が生えている、と認識する頃には、シアは枝から落下している。空中で無理矢理身体を捻って着地体勢を整える。そして瞠目した。

(――嘘だろ!?)

 着地すべき地面がない。いつの間にか崖際に追い込まれていたと悟った時には、さっきまで足の下にあった地面より下方へ投げ出されていた。

 それでも必死で、目の前を高速で流れる壁面に、刀を突き立てる。

 落下は辛うじて止まったが、ここからがまた問題だ。と思うに、目の前にハンが上から現れた。再度目を見開いた直後、腹部に軽い衝撃が走る。

 何かが、腹の底からこみ上げる。鉄錆びた味が口腔に広がる。それが血だと認識するより早く、腹の内部をおぞましい感触が走り、思い切り突き飛ばされる。

 刀の柄を握っていられず、浮遊感が身体を包んだ。


©️神蔵 眞吹2025.

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