世界大戦
世界が、ついに大きな炎に包まれた。
始まりは、国境地帯における些細な小競り合いだった。しかし、長年燻っていた周辺諸国の複雑な思惑と領土的野心がそれに引火し、事態は瞬く間に制御不能な『世界大戦』へと発展した。
王都の空には連日、重苦しい軍靴の音と、出征を告げる教会の鐘の音が鳴り響き、平和の仮面を被っていた街は濃密な血と鉄の匂いに覆われていった。
そんな未曾有の喧騒から完全に隔絶された、王都の大教会の最奥。
神聖な乳香の匂いが立ち込める荘厳な『円卓の間』では、教会の最高権力者たちによる緊急会議が開かれていた。
「未曾有の国難において、次代の聖王を選定するコンクラーベ(教皇選挙)など開いている場合ではない。教会もまた、国家の危機と共にあるべきだ」
円卓の上座。有力な大貴族を後ろ盾に持つ保守派の筆頭枢機卿が、たっぷりと脂肪のついた顎を揺らし、白々しい憂国の表情を浮かべて宣言した。
「よって、状況が落ち着くまでは特例とし、教会の運営は我々枢機卿による合議制とする」
その決定が下された瞬間、円卓を囲む神官たちの視線が、末席に座る一人の少女へと一斉に集まった。
エリアナ。
スラム出身の平民でありながら、圧倒的な魔力と奇跡の御業、そして裏社会のアレンと結託した水面下の冷酷な権力闘争によって、聖女王の座に最も近い位置まで登り詰めていた次期聖女候補。
枢機卿の宣言は、国家の危機を大義名分にした、エリアナに対する決定的な『封じ手』だった。
枢機卿は、勝利を確信したようなねっとりとした視線をエリアナへ向ける。
「そして、今この瞬間も、我が軍の兵士たちは血を流し、前線で神の救いを求めている。……エリアナよ。次代を担う誉れ高き聖女候補として、そなたには是非とも最前線の野戦病院へと赴き、傷ついた兵士たちをその手で癒していただきたい」
ざわめきが起きた。
それは事実上の『都落ち』であり、死と隣り合わせの戦場への厄介払いだった。
中央の権力闘争から完全に引き剥がし、不潔で危険な最前線へ送り込む。あわよくば、流れ弾か疫病で命を落としてくれれば御の字だという、貴族派閥のむき出しの悪意。
周囲の神官や貴族出身のシスターたちが、ハンカチで口元を覆いながら、哀れみと優越感の入り混じった嘲笑の視線を向けてくる。
だが、その無数の悪意を浴びながら、エリアナは静かに立ち上がった。
一切の動揺を見せず、ステンドグラスの光を一身に浴びるその姿は、絵画から抜け出したかのように神々しかった。
「神の御心のままに」
澄み切った声が、円卓の間に響き渡る。
エリアナは深く目を伏せ、胸の前でゆっくりと十字を切った。
「すべては、この国と民のために。傷ついた兵士たちの魂に、どうか安らぎがあらんことを」
慈愛に満ちた、完璧な悲劇の聖女の微笑み。
そのあまりにも美しく、自己犠牲に満ちた受諾の姿に、彼女を嘲笑っていた者たちでさえ息を呑み、圧倒されて言葉を失った。
数十分後。
会議を終え、自室の重厚なオーク材の扉を閉めた瞬間――エリアナの表情から、完璧な『聖女の仮面』がスルリと抜け落ちた。
慈愛に満ちた瞳は、獲物を狙う極寒の冷たさへ。
祈りのために組まれていた手は、ドレスの裾を無造作に払う荒々しい仕草へ。
「……馬鹿な古狸ども」
誰もいない部屋の中で、エリアナは嗤った。
怒りでも、悲しみでもない。そこにあったのは、盤面を読み違えた対戦相手を嘲る、底知れぬ野心と歓喜だった。
「私を中央から遠ざけたつもりでしょうけど、好機を自分から手放したことにすら気づいていないのね」
戦時下において、王都の奥深くで祈りを捧げているだけの権威に何の意味があるのか。
戦争が始まれば、国家の真の主役は政治家でも枢機卿でもなく、血を流す『軍部』と『民衆』へと移り変わる。
最前線へ赴くということは、死地へ追いやられることではない。国中の兵士たちと、その帰りを待つ何百万という平民たちの命と心を、直接この手で掌握できる最前列の特等席を与えられたということだ。
(血筋ばかりを誇る温室育ちの貴族たちには、永遠に分からないでしょうね。人が泥の中でどうやって死んでいくのか。そして、すがるものを求めている人間が、どれほど容易く操れるかということを)
スラムの泥水の中で、明日の命すら保証されない極限状態を生き抜いてきた彼女にとって、この未曾有の混乱は恐怖の対象ではない。自らを聖王の座へと押し上げるための『最大のチャンス』に他ならなかった。
窓の外、出征していく兵士たちの軍靴の音が響く。
エリアナは窓辺に立ち、戦火に染まりゆく王都の空を見つめながら、これから自らが軍部へと持ち込む『医療改革』の構想を頭の中で組み上げ始めていた。
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