第三章 第10話 「水が変えるもの」
京の空気は、重かった。
東山に漂う戦の気配は、日に日に濃くなる。
だが、その奥――
誰にも知られぬところで、もう一つの変化が起きていた。
「……間に合うか。」
清継が静かに言う。
対面に座るのは、曲直瀬道三。
その目は、医師のものだった。
「間に合わせるのではない。」
道三は答える。
「整えるのだ。」
机の上には三つの品。
正水紅。
抹茶きなこのわらび餅。
そして、見返りうさぎの芋羊羹。
「これは、良い。」
道三が正水紅を見て言う。
「腹に負担が少ない。」
「水が生きている。」
「わらび餅は力になる。」
「芋は、気を落ち着かせる。」
清継は頷いた。
「伏水です。」
道三は短く言う。
「それが効く。」
場面が変わる。
近江・穴太。静かな屋敷の奥に横たわる男。
足利義晴。
その呼吸は浅く、重い。
すでに“終わり”が近いと、誰もが感じていた。
そこへ――道三が入る。
「失礼つかまつる。」
制止の気配を押し切り、傍らへ。
脈を取る。目を閉じる。
そして言う。
「水を変える。」
正水紅を差し出す。
「これを。」
側近が戸惑う。
「菓子、にございますか……」
道三は一言で断つ。
「薬だ。」
沈黙。
やがて、ほんの少し口に運ばれる。
静かな時間。
誰も息を詰める。
やがて――呼吸が、わずかに変わる。
浅かったものが、ほんの少し深くなる。
道三は続ける。
「次を。」
わらび餅。
ゆっくりと飲み込まれる。
その瞬間――義晴の眉が、ほんのわずかに動く。
「……軽い……」
かすかな声。誰もが顔を上げる。
さらに、芋羊羹。
見返りうさぎ。
その形を、義晴の視線が追う。
ほんの一瞬。だが確かに。
そして――唇が、わずかに動いた。
「……まだ……終わらぬか……」
誰にも聞こえぬほど小さい。だが、そこに意思があった。
道三の目が細くなる。
義晴はさらに、かすかに続ける。
「……流れ……は……戻る……」
沈黙。
その言葉は、理ではない。
記憶でもない。
もっと奥――
“生きようとする意志”だった。
道三は静かに言う。
「戻る。」
それは診断ではない。宣言だった。
場面が切り替わる。
京。
宗歓が杯を止める。
「……妙ですな。」
影の男が問う。
「何が。」
宗歓は言う。
「崩れぬ。」
一拍。
「そろそろのはずでしたが。」
影の男が答える。
「遅れているだけでは。」
宗歓は首を振る。
「違う。」
そして、静かに笑う。
「流れが、変わった。」
その声には、わずかな違和が混じる。
初めての“読み違え”。
伏見――
清継は空を見上げる。
弥七が問う。
「どうなる。」
清継は短く言う。
「巡る。」
水は巡る。命も巡る。
そして――終わるはずだった流れさえ、引き戻す。
伏見の水は、ただの水ではない。
歴史に触れる水へと、変わり始めていた。




