■ 第1話「流れのはじまり」
水は、ただ流れているだけやない。
雲が形を変えながら巡るように、水もまた、かたちを持たずに巡っていく。
人も、同じやと思うている。
宇治の朝は静かや。
川霧がうっすらと立ち、山の端からの光が揺蕩い、水面をやわらかく撫でていく。
茶畑は露をまとい、まだ何も語らんまま、そこにある。
せやけど、この静けさは長うは続かん。
都では争いが絶えず、道は塞がれ、関は閉じられる。
人も物も、思うようには届かへん。
あるのに、届かへん。
それが、この頃の世や。
物はある。
人もおる。
せやのに、流れてへん。
そこに、歪みがある。
わしは、その歪みを見ていた。
正しく考えるいうのは、難しいことやない。
ただ、偏らずに見ることや。
目の前の形やのうて、その奥にある流れを見る。
そうすれば、道は見えてくる。
その日、わしはひとつ試してみた。
宇治の茶に、甘味を合わせる。
それ自体は珍しいことやない。
けど、大事なんはそこやない。
どこで渡すか。
誰に渡すか。
どないに広がるか。
それがすべてや。
最初に来たんは、ひとりの女子やった。
痩せた顔。
せやけど、目は死んでへん。
黙って、差し出す。
子は少し迷うて、それでも受け取った。
ひと口、食べる。
沈黙。
「……なんや、これ」
か細いその足は、止まっていた。
それでええ。
「うまいんか?」
別の者が声をかける。
「……よう分からんけど、ええ」
その一言で、またひとり。
人が、寄ってくる。
人は、味だけでは動かへん。
人の言葉で動く。
それが、流れや。
やがて、小さな輪ができる。
笑いが生まれ、
言葉が交わされ、
人が人を呼ぶ。
それは、作ったもんやない。
生まれたもんや。
「……流れやなくて」
最初の子が言うた。
「人、寄せてますな」
その言葉に、わしは思わず笑うた。
――せやな。
流れいうのは、水やない。
人や。
「名前、あるんか?」
そう聞かれて、少し考える。
この乱れた世で、流れを正すもん。
「……正水や」
「しょうすい?」
「正しく流れる水、いう意味や」
子は小さくうなずく。
「ええ名前やな」
その日、小さな流れが生まれた。
――数日後。
流れは、ゆっくり広がっていった。
伏見へ向かう船頭が足を止め、
商人が言葉を持ち帰り、
噂が都へ届く。
けれど――
「……よう出来てますな」
背後から声が落ちた。
振り向くと、ひとりの男が立っていた。
身なりは整い、言葉も静かや。
ただの客やない。
男は正水を手に取り、口にする。
しばしの間。
「……悪うない」
そして、こちらを見る。
「これは、菓子か?」
「どう見えます?」
男は、わずかに笑うた。
「人を集めてますな」
その目は、流れを見ている。
「どこへ流れます?」
わしは、川の方を見る。
「止めへん限り、どこへでも」
その答えに、男の目が細くなる。
「それは、困るな」
空気が、少し変わった。
「流れは、ひとつでええ」
静かな声やった。
わしは首を振る。
「混ざるから、広がるんやないですか」
男は言う。
「混ざれば、濁る」
しばしの沈黙。
やがて男は、小さくうなずいた。
「……面白い人や」
去り際に、ひとこと。
「また来る」
その背を見送りながら、わしは思うた。
あれは――流れを握る側の人間や。
横で、子が言うた。
「京の人やな」
わしは、うなずく。
流れは、広がるほど、ぶつかる。
その先に何があるのか、まだ分からん。
せやけど、ひとつだけ分かっていることがある。
流れは、止められる。
そして――
歪められる。
それを思い知る日が来る。
――そう遠くない先に。




