9. 『水竜と翠色の少女』
家庭教師との勉強を終えた午後、アデリンはノアと一緒にオリビアとのお茶会を楽しんでいた。
「オリビア様、今日のお加減はいかがですか」
「ありがとう。ここへ来てから調子がどんどん良いのよ。今日もアディちゃんに会えるのが楽しみだったわ」
たおやかな微笑みを浮かべ、優雅にカップを傾けるオリビアの様子をこっそりと見やる。
それでも少しお顔の色がすぐれないように見えるわ。
「そういえば、アディちゃんにお礼をしなければと思っていたの」
「お礼ですか?」
「ええ、こちらにきてから、ノアが本当に楽しそうで……毎日たくさん私にお話をしてくれるの。それが本当に嬉しくてね。アディちゃんのお話もたくさん聞いているわ。ノアと仲良くしてくれてありがとう。これからもよろしくお願いしたいわ」
ゲホッゲホッ……ノアが飲んでいたお茶でむせている。
「ノアにはたくさんの刺激をもらっています。ノアはお勉強も魔術や武術も難なくこなすんですよ。私も負けないようにしなくてはっていつも思っています。それに、私は今までずっと一人で何かを学んできたんです。誰かと一緒に学ぶことがこんなにも楽しいとは知りませんでした!私こそ、オリビア様とノアがこちらへ来てくださったことを感謝しています」
横目でみるとノアの耳が真っ赤だった。
「でも、私が行儀作法やダンスの練習の時は、ノアは武術や魔術の鍛錬をしているようで羨ましいです」
「あら、ノアもダンスの練習をしたらいいのに。ちょうどアディちゃんのパートナー役ができるんじゃない? あなたたちも王立学院へ行ったらダンスは必須になるわよ」
「え……ダンスは俺はちょっと……」
「私は、ノアとアディちゃんのダンスが見たいわ。そういえば、夏にこちらでお祭りがあるんでしょう? レイラからお祭りでダンスパーティもあると聞いたわ。ぜひそこに向けて練習しなさいな、ね、ノア」
「……はい」
仕方ないと諦めたような声でノアが答えた。
「王立学院のダンスパーティは毎年あると聞きました。お母様とお父様は在校中ずっとパートナーだったって」
「王立学院では、ダンスのパートナーはもちろん、課題でも男女のペアを作る時は成績順で組み合わせるのよ。中にはお互いの家柄や身分でいろいろなことを言う方もいらっしゃるから」
「そうなんですね。お母様もお父様もずっと1位と2位だったと聞きました」
「そうそう、ずっと男女総合1位を二人で競っていたわ、うふふ懐かしいわ」
「あら、オリビアも首位争いを一緒にしていたのではなくて?」
「お母様!」
「うふふ、お邪魔してごめんなさい。ちょうど時間が空いたの。ご一緒しても良いかしら?」
「ええ、ぜひ。お母様からオリビア様のこと教えていただきたいです」
「あら、レイラ、私は万年3位だっただけよ。二人には及ばないわ」
「オリビアは、勉強や魔術は勿論、芸術の腕もすごかったのよ。歌声も素晴らしいけれど、何より絵の才能が飛び抜けていたわ」
「そうなのですか? オリビア様、今も絵を描いていらっしゃいますか? 是非見せていただきたいです」
「しばらく描いていないのよ。でも、ここの素晴らしい景色を見ると、描きたくなってしまうわね。でもね、レイラ、私よりもノアの方が絵の才能はあるわよ」
「まぁそうなのね、ノアにあなたの芸術の才能が受け継がれているのね。ノア、城に使わない画材がたくさんあるの。よかったら使ってくれない? 好きにしていいわよ」
お母様の提案に、ノアの目が瞬いたあと嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。嬉しいです。是非使わせていただきます」
オリビア様も嬉しそうだわ。
でも、なんだかお疲れのご様子みたい。
「オリビア、大丈夫? そろそろ私たちは失礼するわね。ゆっくり休んでね」
お母様も気がつかれたようで、オリビア様に声をかける。
青白いお顔で、でも優しくにっこりと笑ってオリビア様が立ち上がった瞬間、体がふらつき足元から崩れ落ちた。
「母様!!」
「オリビア様!!」
横にいたノアがしっかりと抱き止めていてアデリンはほっとする。
「ミリー、急いで薬師を!」
お母様の言葉を聞くやいなや、ミリーは飛び出して行った。
ソファに横たわったオリビアは目を閉じ青褪めた顔色で、弱々しい呼吸をしている。
私とノアは少し離れたところで、薬師の診察が終わるのを待っていた。
「母様は魔力欠乏症なんだ」
ノアがぽつりと呟く。
魔力欠乏症は体内の魔力が徐々に減っていき、意識が保ちにくくなり衰弱して死亡すると言われる病だ。
「お薬は……」
「今は完治できる薬も治療法も何もないから、少しでも体調を楽にさせてあげることしかできないんだ」
ノアが辛そうに掠れた声で言葉を吐き出す。
下におろした両手は色が変わるほど握りしめた拳となって震えている。
──私に何かできることは……何がある?
薬師の診断が終わり、ノアと一緒にオリビアの部屋を出ようとした時、お母様から声をかけられた。
「ノア、今はアディと一緒にいなさいね。オリビアは大丈夫。あなたのお母様を信じてあげて。私もアイザックもできる限りあなたのお母様の治療に力を尽くすわ」
ノアは青白い顔で見事な一礼をした。
廊下でお母様を見送ったあと、横に佇むノアを見ると宙を睨み青白い顔で拳を強く握りしめている。
アデリンは優しくノアの握りしめた拳を両手で包んだ。
ノアの前髪から覗く瞳がアデリンに焦点を合わせ、瞬く。
アデリンは冷たくなっているノアの拳をゆっくりと解いた。
そして、そのまま手を握り歩き出した。
アデリンは手を引いて、ノアを図書室に連れて行く。
ちょうど今から美しい琥珀色になる時間帯だ。ノアの瞳の色の空。お気に入りの湖に面したウィンドウベンチに、手を繋いだままノアと一緒に座った。
どのくらい時間が経っただろう。
「なぁ、よかったら、あんたが好きな水竜の話を聞かせてくれないか?」
言葉なく外を眺めていたノアが、掠れた弱々しい声でアデリンに頼んできた。
物語を誦じれるほど、幼い頃から繰り返し読んでいる優しくて強い異国の竜の物語。
幼い頃よりアデリンの心を突き動かしてきた『何か』を持っている大切な物語。
物語が、少しでもノアの心の琴線に触れることができたら……
「もちろんよ」
アデリンは繋いでいるノアの手を想いを込めてぎゅっと握り、ふんわりと微笑んだ。
そして、透き通った穏やかな声で物語を紡ぎ始めた。
『水竜と翠色の少女』
両親から愛情を注がれて大切にされていた、賢く美しい翡翠の少女。
流行病で両親を突然失い、親戚の家に引き取られる。
親戚の家では従兄弟達から虐められ、使用人として誰よりも多くの仕事をした。
辛く孤独な日々だったけれど、誠実で清廉な心は失わなかった。
「いつか、あなたの唯一が見つかるといいね」
両親がよく言っていた言葉が彼女の夢であり、支えでもあった。
広い世界を見たい、知りたい。そして唯一を探しにいきたい。
ある日、少女は親戚の家を出るチャンスを得て一人で旅に出る。
途中、イングルス国のシャノン湖畔に立ち寄った時に火山が噴火する。
シャノン湖で眠りについていた水竜は火山噴火の衝撃で目覚める。
そして、少女に出会った。
水竜は自分の姿をみても恐れない翠色の少女に興味をもった。
悠久の時の中で生きる水竜は孤独だった。
面白そうだからと、少女の唯一を探す旅に水竜も付き合うことにする。
唯一とは何なのか。
人でも物でも場所でも思い出でも・・・なんでもいい。
自分にとって生きる希望であり糧であり、幸せを感じるものが唯一。
水竜と翡翠の少女は街から街へ、国から国へと大陸中を旅した。
二人は相手の体温を感じながら夜を過ごす安らぎや、言葉で互いの気持ちを伝え合い共有する喜びを知った。
1匹と1人は長い時を一緒に過ごした。
時が流れて、かつての翠色の少女は年を重ね穏やかな最期を迎えている。
翠色の少女は自分の唯一を既に見つけていた。
水竜こそが少女の唯一。出会ってから一緒に過ごした日々は幸せでかけがいのない宝物だったと水竜に告げ、女神様の元へ旅立った。
水竜も気がつく。
翡翠の少女こそが自分の探し求めていた唯一だと。
水竜は唯一を失い嘆き悲しむ。
そして女神に再度少女を生まれ変わらせてほしいと願う。
見目形がどれだけ変わろうとも、唯一の魂を水竜は見つけ出せるから次の生でまた出会いたいと。
生まれ変わった翠色の少女と出会うため、水竜はまた長い眠りについた。
アデリンが語り終えた後も、ノアはじっと窓の外に目を向けていた。
夕陽で琥珀色に染まった空とグレン湖が美しい。
繋いだままの手からノアの温かさを感じる。私より少し骨ばった大きな手。剣術の鍛錬を頑張っているのだろう、剣だこがあるのがわかる少し固い掌。
伝わる温かさが心地よい。
「あんたはその水竜に会いたいのか?」
不意に、琥珀色の瞳がこちらに向く。
「ええ、水竜に会いたいわ」
──ずっと小さな頃から憧れていたもの。
「なぜ会いたいんだ?……自分が翡翠の少女だと思っているのか?」
眉を寄せているのがわかった。
「……正直そうだといいなと夢を見たこともあったわ。うふふ、子供っぽい憧れでしょ」
アデリンは自嘲気味に微笑む。
「でも私にはソーラス家の娘として責任があるの。領民と領地を守る使命があるのよ。私は魔の森の魔獣と共存して、この地を守りたい。ね、……私、前に浄化することができるって話したわよね」
「ああ」
「私、風属性の他に、光の属性も持っているの。女神様から与えられた力をこの地のために使って生きていかないといけないのよ」
「……自分の好きなように、自由に生きようとは思わない?」
ノアが掠れた声で問いかける。
「……色々な物語を読んでいると確かに自由には憧れるわね。いろんな国を見てみたい。ワイバーンに乗って冒険もしてみたい。海も見てみたい。知りたいことやりたいことはたくさんあるわ。
も、この地を守りたいのも私の願いなのよ・・・
だからこのお話が好きなのかもしれないわね。
唯一を見つけて自由に生きた水龍と翡翠の少女が好きなの。
私には持てない世界を見せてくれたから。
「水竜に会いたいのは……きっと憧れからね」
アデリンは静かな口調で答えた。
水竜に会えたなら、私はこの先のどんなことも耐えられると思えるほどに、私は物語に囚われているのかもしれないけれど……
「私もいつか唯一を見つけたいわ。見つかるかしら」
そっとアデリンはつぶやいた。
グレン湖の奥にある山の稜線が夕陽で赤く染まり空が暗くなってきた頃、ミリーが呼びにきた。
離れた手が少し寂しく感じた
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