1-2
茶褐色の液体を飛び散らせ、化け物は巨体を器用に動かし続ける。リリーの死角に素早く回り込み、彼女が化け物の姿を確認する直前に甘いにおいと共に攻撃を繰り出した。
雨で活性化したその身体は力強く、そして機敏であった。
「くそっ!」
左右から飛来する蔦を、何とか長剣でいなす。隙を見て懐に飛び込もうと思案していたリリーだが、その隙が生まれない。
「キリがない!」
攻撃を受けては左に飛び、受けては右に飛ぶ。その繰り返しの中で、彼女の体力は徐々に消耗していった。
灰色に染まっていた空も、今ではどす黒く染まっていた。分厚い雨雲はいくら風が吹いても一向に晴れる気配が無く、雨量は次第に増していった。
ヴォォオオッ!
大きく唸って、化け物が蔦を振るった。逃げようと脚を踏ん張ったリリーだったが、雨でぬかるんだ地面は摩擦を嫌い、バランスを崩した。
小さく、白い右膝が地面につく。泥水がはねる様子が、不思議とゆっくりに感じられた。
「くそっ!」
咄嗟に刀身を盾にする。
しかし、彼女の身体は鈍い音と共に宙に浮いた。
「がぁっ!」
受け身を取る暇さえ無く、派手な音を立てて地面に叩きつけられた。細かい石で所々が切れたみたいだが、そんなことを気にしている余裕は無かった。
後方では化け物が唸りをあげている。
顔を泥をつけたまま、軋む身体に何とか命令して起こす。
「やってくれる……」
化け物を見ると、雨で濡れた全身がぬらぬらと不気味に輝いていた。たっぷり養分を吸った植物のように、全体が活き活きとしているようだ。
「チビがノッポに勝つには……」
そう呟き、リリーは剣を構えて横に走り出した。
化け物は巨体を振ってその動きを追うが、彼女の小回りな動きにやや翻弄されているのか、蔦の狙いをなかなかつけられずにいた。
それまでは攻撃に転じることに重きを置いていたリリーが、行動の目的を変えたことに戸惑っているようだった。
「ちょこまかしてやるっ」
やがて焦れたのか、化け物は低い唸りと共に蔦を振るった。しかし、狙いが甘い。
伸びる蔦と入れ違うようにして、リリーは化け物に直進する。伸びた蔦が戻りきる前に、手近な場所に一撃を入れて再び距離を取る。
「くそ……大した傷はつかないな」
彼女が付けた微かな切り傷も、すぐに水泡に包まれて再生した。
ヴヴヴ……ッ!
ダメージは無くとも気に障るのか、化け物は不機嫌そうに口を歪めた。
それを見たリリーは、右手にしていた手袋を優しく撫でる。
「やるか、相棒」
そう言うと、彼女は手袋を外した。
露見したのは、大まかに言えば人の手と同じ形状のものだった。
しかし細部に至ってはまるで違う造形をしている。
五本の指はそれぞれが一本の細い蔦と化していて、甲の一部分以外や、掌には何重にも鮮やかな緑色の葉が巻かれていいる。それは若葉のように瑞々しく、雨粒を受けて爽やかに光った。
しかし、少なくともこれは人の手ではない。リリー自身にも、はたして葉や蔦の下に、自分の左手と同じ『人間の手』があるのか、わからなかった。
蔦と葉で構成されたその右手で、長剣を握りなおす。
手の甲にあたる部分に埋まっている白くて丸い実が、微かに歪んだ。
指先から手首までが、リリーの目の前にいる獰猛な化け物を連想させる造形をしている。微かに甘いにおいがするのも、連想に拍車をかける要因となっていた。
ぐっ、とリリーが力を込める。すると、手の甲にある白い実が微かに膨らんだ。
更にリリーは力を込める。すると白い実には亀裂が走り、微かに開いた。それと当時に、リリーの白い髪にも変化が起きた。銀に近い白色は徐々に色づき、くすんだ黄に近づいていった。
「……へへっ」
リリーの口角が上がり、軽薄そうな笑顔を浮かべた。
その頃には、髪の色は完全な橙色となっていた。
ヴオォオオッ!
化け物が咆哮し、太い蔦をリリーに向けて振るった。彼女は左右どちらにも逃げず、まっすぐにそれに向かって走り出した。
「っとぉ!」
寸前で蔦を左にかわし、そのまま全力で前へ。橙の髪を雨で濡らし、リリーは剣を斜めに振り下ろした。
「よぉっとぉ!」
リリーが切りつけたのは右前足の、一度は切断したが再び接合した部分だった。
刀身がすっと食いこみ、滑らかに進んでいく。剣は心地良い手応えをリリーに伝えつつ、さらに仕事を進めた。
「ていっ!」
長剣を振りぬくと、断面には即座に水泡が現れた。そしてその中から蔦が生え、前足を再生にかかる。
「まだまだぁっ!」
リリーは快活に叫び、全力で同じ場所へ剣を振るった。何度も斬撃を受け、化け物の切断部は徐々に黒く染まっていった。
「切り刻んでやるッ!」
黒く染まった切断部から粘度の高い液体が漏れ出し、それが尽きると黒から紫へと色を変えた。
「これでっ最後っ!」
そう叫んで、彼女は剣を振り抜いた。即座に目の前の化け物から距離を取るべく後方に跳躍し、人の造形をした方の指で前髪をすいた。
ヴォォオオオオオッ!
化け物は咆哮を残し、ぬかるんだ地面に顔をつけた。見ると、リリーが切った部分は腐り落ち、切断部に新たな水泡は浮かんでこない。
前足の支えを無くして地面に腹や顔をつけている化け物を、リリーは口角を上げたまま見下ろした。
「へへ、生き物の治癒能力も万能じゃないってね」
彼女は肩に剣をのせ、化け物をじっと見つめた。
「惨めなもんだね……あんたも、別にこうなりたかったわけじゃないんだろ?」
そして剣を構え、ふっと一つ、息を吐いた。
「……お前も、運が悪かったな」
化け物が顔を上げ、リリーに向けて口を開く。茶褐色の液体が彼女の顔にまで飛び散った。
ヴォォオオオッ!
咆哮は雨に吸われ、森の木々を微かに揺らした。
しかし、リリーは動じることなく口を開いた。
「分かった。もう終わりだ」
そう言うと、彼女はぬかるんだ地面を強く蹴り、化け物の真上に跳躍した。地面には彼女が付けた足跡が深く刻まれた。
「動くなよ! 苦しいのは嫌だろう!」
彼女は剣を握り直し、切っ先を下に向けた。重力が彼女を捉え、空に向かう力と地面に引っ張る力が均衡した後、後者が権力を持ち始めた。
リリーは狙いを定め、落下に転じる。切っ先は化け物の背中の、ただ一点を向いていた。
「――ッ!」
抵抗を感じたのは最初だけで、あとは勢いに乗って深く刺し込んだ。
ヴォォオオオオオオッッ!
彼女の剣は深々と化け物の背中に突き刺さり、確かな手応えで蔦や肉の下にある、何かを貫いた。雨ですべりやすくなっている蔦の上で、リリーは貫いたものが鼓動を止めるまで力を抜かずにいた。
化け物の太い蔦が、後方からリリーを襲う。それは彼女の身体に何度も触れたが、もう先刻までの力はほとんど残ってはいなかった。人混みで誰かの肩がぶつかったときのような、鈍い感覚だけだった。
「悪あがきはしないほうがいい。諦めも大切だ」
目を細め、そう呟く。
「……お互い、次はちゃんとした存在として産まれよう」
リリーがそう呟くと、化け物は身体をぶるっと大きく震わせた。
「おおっと!?」
思わず剣から手を離し、背中からすべり落ちるリリー。したたかに腰を打ち、痛みで顔をしかめていると、巨大だった化け物の体躯が縮んでいくのが見えた。
後に残ったのは、鋭い牙を持つ小型の肉食獣の死体だった。
「……苦しかっただろうな。自分だけ他の連中と違う姿になっちまってさ」
カーテンのような雨音に包まれながら、しばらく死体を眺めた。
「気持ちはわかるよ、なんて言わないけどさ」
頬に当たる冷たい雨粒に顔をしかめていると、橙色の髪が風に揺れた。
「ん? ようやく来たか……」
遠くから蹄の音が聞こえる。それは単体ではなく、集団でこちらに向かっているようだった。
「うわ、早く元の色に戻らないと……」
リリーは慌てて手袋を拾い、気を落ち着かせた。甲で微かに割れた白い実はゆっくりと閉じていき、きれいな球体に戻った。
「髪、大丈夫かな……」
そう呟くと、蹄の音が近くにきた。
十頭ほどの馬が隊列を組み、それを乱さないままリリーの前で止まった。先頭の馬に乗っているのは赤い髪をした背の高い女で、平べったく大きな剣を背中に携えている。
赤い髪の女は地面に横たわる獣の死体とリリーを交互に見て、視線をリリーに固定した。
「おねぇちゃん! 助けを呼んできたよ!」
あの少年が、後ろの方の馬から降りてきてリリーに駆け寄った。
「ありがとう。でも、私だけでもなんとかなったよ」
「本当? あの化け物、逃げていったの?」
少年はきょろきょろと辺りを見渡した。
(あの小さくて寂しそうな獣が、それだよ)
そう言おうとしたリリーだが、口には出さずにおいた。自分でもその理由はわからなかった。
赤い髪の女が馬から降り、ゆっくりと獣の死体に近寄った。その後しゃがみ込み、何かを調べるように死体に触れてた。
「下手に触ると、あんたも化け物になるかもよ」
リリーは赤髪に向けてそう言ったが、言われた背中に反応は無い。
(さすが討伐隊、慣れてんだなぁ)
赤髪の女は立ち上がり、リリーに目を向けて言った。
「君がやったのか?」
彼女の声は張りがあり、雨音を突き破るようだなとリリーは感じた。
「ま、そうだね」
すると赤髪は目を見開いた。そして歩き出し、リリーと今にでも触れようかという距離にまで近づいた。
リリーが首を曲げないと相手の顔が見えないくらい、二人には身長差がある。長身の赤髪は値踏みをするように、また睨み付けるようにしてリリーを見たが、すっかり白髪に戻った少女は一歩も引くことなくその視線を受けた。
「君は何者だ? どうしてビーターと戦える?」
その質問にリリーは頬をかき、どうしたものかと思案した。
「それが、仕事だからね」
「仕事だと?」
赤髪の女は顔をしかめ、自分よりも小柄な少女をじっと見つめた。
「そう。私はただの、食い詰めた旅人さ。命を懸けて化け物退治をして、どうにかして金を稼いでいるんだ」
「簡単に言ってくれるな」
「簡単じゃないさ。ほら」
そう言って、リリーは自分の左腕を見せた。袖が千切れ、細い腕は所々が赤黒く変色している。皮膚の下で出血しているようだ。
「大怪我だ。実際、死にかけたよ」
後天的に身に付けた笑顔を顔に張り付け、リリーはそう言った。
しかし赤髪の女は険しい表情のままだった。
「普通は死にかけない。確実に死ぬ」
「ま、私は運が良かったんだね」
それを聞いた赤髪は何か言いたげに唇を震わせたが、結局何も言わずにリリーに背を向けた。そして馬に乗ったまま待機していた男たちに向かって口を開いた。
「付近にビーターの残りがいないか捜索しろ。あたしはあの少年の村に行き、話を聞いてくる」
赤髪の女がそう言うと、見るからに屈強そうな男たちは威勢の良い返事を返し、それぞれ無駄の無い動きで二人組をつくり、森に入っていった。
「お、おい、危ないぞ」
男たちの背中にリリーが声をかけると、赤髪の女は颯爽と馬に跨って言った。
「大丈夫だ。我々は対ビーター用の訓練をつんでいるし、いざとなればこれで逃げることもできる」
そう言って、彼女は馬の首を撫でた。
「へぇ……さすが討伐隊、ってとこか」
そう言って鼻を鳴らすリリー。
赤髪が尋ねる。
「君、名前は?」
「こういうときはさ、まず自分からじゃない?」
馬の上から見下ろす恰好の女は、眉をぴくりと跳ねさせた。
「お、おねぇちゃん。この人は助けに来てくれたんだから、そんな言い方は……」
少年が背後からリリーの服を引っ張り、不安そうな声を上げる。
「いや、良いんだ。確かにあたしの方が悪い」
女は馬の首をもう一度撫でて、改めてリリーの方を向いた。
「あたしはピーニー。ビーター討伐隊の隊長だ」
「私はリリー。ええっと……貧乏な旅人だ」
「……少し話を聞いてもいいかな?」
「あぁ、金が無いけど宿に泊まる方法のことなら任せてくれ。身体を売らずに済むやり方も知ってるぞ」
「おねぇちゃん!」
少年がぐいぐいと服を引っ張る。リリーは笑って、少年の頭に手を乗せた。
「冗談だよ。本音としては、あまりお喋りは好きじゃない。さっさと報酬を貰って、貧乏旅の続きに勤しみたいね」
ピーニーは何も言わず、黙ってリリーを見つめている。
「あと、この子を連れて村に戻るんなら私も連れてってほしいな。今回はけっこう危なかった。報酬を上げてもらわないと」
少年がついにリリーの服から手を離し、地面を強く踏んだ。
「もう! どうしてそんな言い方しかできないの!」
「……良いだろう。話なんてものは、したい者同士がいて成り立つものだからな。しかし……」
ピーニーは少年に手招きし、駆け寄った彼をさっと馬に乗せた。
「君は歩け。馬は二人が限界だ」
歩いていると、徐々に雨が弱くなり、空には灰色の中に青い切れ目が見えるようになってきた。
リリーはチラチラと横目でピーニーを観察していたが、特に変わった様子も無く、一言も口をきかずに前を見据えている。
(良かった。見られたわけじゃなさそうだ)
リリーは内心ほっとして、長閑な景色に目を向けた。
「なぁ、この辺じゃビーターはけっこう出るのか?」
その問いかけは少年に向けたものでも、ピーニーに向けたものでも無かった。どちらかが答えてくれれば良いし、無視ならそれでもいい。そう思ってのものだった。
少年が口を開こうとした瞬間、ピーニーが良く通る声を発した。
「あたし達が見回りをしだしてからは、そう見ないな。今日もこの辺を見た時には、特に変わったものはなかった」
「ふうん……」
リリーは自分の頭の後ろに手を回して、今の話にはさして興味がない風を装った。
しかし、胸の中ではひとつの疑惑が渦を巻いていた。
(やっぱり、奴らは私に集まっているのかもしれない……)
リリーは旅の途中、何度も化け物に遭遇した。その時が晴れであれば白い髪のままで、雨であれば髪の色を変えて応戦した。
立ち寄った村や町でビーターの被害を聞くと、報酬交渉をして退治に出かけた。報酬の額はまちまちだったが、リリーは旅ができる最低限の金があればそれでよかった。
しかし、そうした暮らしを続けていたある日、彼女の中には一つの疑問が浮かんだ。
――私が立ち寄った先にビーターが出るんじゃない、私が立ち寄るからビーターが出るんじゃないのか……?
その疑問は徐々に大きくなり、疑問から疑惑へと変貌した。
(まぁ、色々とばれないうちは商売の種が尽きなくて良いか)
「どうしてビーターを倒す?」
「……へ?」
ピーニーからの唐突な質問に、リリーは腑抜けた声を出した。
馬の方へ視線を向けると、彼女は前を向いたままでいる。少年は疲れたのか、器用にも馬の背中で眠っていた。
「どうしてって……言っただろ、これが商売なんだよ」
「こんな危険なことをしなくても、もっと安全な仕事もあるだろう」
「まぁ……旅を続けていると、一つの場所には留まることはないからね。私に合ってるのが、旅をしながらの化け物退治だってことさ」
「どうして旅をする? 一つの街で落ち着けばいいだろう」
「……好きなのさ、旅が」
――それと同時に、嫌いだから。
「……そうか」
そう言うと、ピーニーは黙った。
(隊長らしく、気の強い女だ)
リリーはピーニーのことをそう評価し、そして、
(それに、とても真っ直ぐだ。友達にはなれそうにないな)
と締めくくった。
「……ま、友達なんていないけど」
リリーの独り言は、蹄の音に紛れてピーニーの耳には届かなかった。