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しおりとは、別れてから一度も連絡を取らなかった。
だから、そのとき会ったのは本当に偶然だったのだ。
友人の見舞いに訪れた、その帰り。克大くん、と声をかけられて振り返った。
「……しおりさん?」
驚きに一瞬まばたきを忘れた。外来の待合スペースに、白衣を着た彼女が立っていた。
「久しぶり」
いるはずのない彼女は、そこで少し首を傾けた。離婚からもう八年。だからもちろん前のままとはいかないけれど、それでも彼女に老けたという表現は似合わなかった。
「久しぶり……、ここで働いてんの?」
「そうよ。あなたは? 診察? お見舞い?」
「見舞いだよ。あの病院やめたんだね」
「さすがにね、直哉のためによくないかしらと思ったから」
直哉、という名前に、胸がじわっと熱くなった。こみあげてきたのはなつかしさだ。
「ナオ、どうしてる?」
しおりは微笑み、「行かない?」と外を指さした。そして、これから休憩だという彼女と一緒に、病院の側のカフェに入った。
「あなた、今、小夜子ちゃんと同じ会社にいるんですって?」
カフェラテを両手で包み込み、しおりは言った。店内は暖房であたたまっているのに、少し肌寒そうに肩を縮めて。
克大の眉尻は自然と下がる。小夜子というのはしおりの年下の友人で、結婚する少し前に紹介された女の子だ。当時彼女はまだ高校生で、何度か三人で食事をしたことがあったけれど、しおりと別れてからはまったく縁がなくなっていた。
「そうそう、びっくりしたなー、小夜子ちゃんが来たときは」
甥の秋人が興した会社は、すぐ駄目になるだろうという克大の予想に反して持ちこたえ、少し規模を広げるまでになった。事務所を大きくしよう、という話になったときに秋人が連れてきたのが小夜子だったのだ。彼女は秋人の大学の先輩で、けっこう長く一緒に暮らしていた相手でもあるらしい。
小夜子の顔を見たとき克大は驚いたが、彼女の方は驚きよりも嫌悪を強く表に出した。
「大変だったんじゃない? あの子わりと直情型だから」
「完全に嫌われてるよ。どういうことになってんのかな、おれ。小夜子ちゃんの中で」
「わたしがあまり説明しないから誤解してるのよ。あなたに若い女ができて、わたしが捨てられたんだと思ってるみたい」
コーヒーに砂糖を入れながら、克大は目をまるくした。
「そんなことになってんの?」
「そうは言わなかったんだけどね。ただ、わたしに関心がなくなっちゃったんだから仕方ないのって言っただけ」
「それは……うーん……」
正しいような、間違っているような。
「まあ、おれのせいだってことは確かだから、仔細はどうでもいいのかな」
「そうよ、どうでもいいのよ。子どもに負けたなんて絶対に言いたくないわ」
だから嫌われといてちょうだい、としおりは冗談めかした。年を経たせいか、昔より表情がやわらかい。
「それで嫌われてんのかー。小夜子ちゃんはしおりさん大好きだからなぁ……」
「あの子はいくつになっても潔癖なのよ。十代の頃よりはましになったけど、根本的なところは変わらないわね。直哉なんか、あれほど難しかった子が、今はずいぶん適当にやってるっていうのに」
「適当?」
「そ。親のわたしが言うのもなんだけど、あの子繊細なところがあったでしょ。でも、だいぶ大雑把になって、人当たりもよくなったみたい」
「へえ……。想像できないな」
「たぶんあなたみたいになりたいんじゃないかしら」
「え? おれ?」
「ええ」
思ってもいないことに戸惑った。
あんなふうになりたいなんて思ってもらえるようないい人間ではないし、こんなふうになった直哉を想像できない。克大の中で、直哉は中学生のまま時間を止めている。詰襟姿で、困ったような表情で、校門の前に立つ、あの写真の中の彼のまま。
「おれみたいに素行が悪くなったんじゃ、お母さんは心配だね」
しおりはふふっと声を立てて笑った。
「そういうところは知らないもの、あの子。あなたいいお兄さんだったでしょ」
「そうかな……」
「そうよ。ま、なんにせよ明るくなってくれたのはいいことだわ」
克大はしおりに断ってから煙草をくわえた。
「じゃあ、元気でやってんだね」
「元気よ。あれからずーっといい子だしね。わたしは相変わらず忙しくって、やっと帰ってきたあの子を結局ほったらかしにしてたけど、夜遊びひとつしなかった」
「しなかった?」
「高校卒業してからは知らないの。一人暮らししてるから。学校に近いとこに住みたいって、あっさりしたものよ。バイトして、なんでも自分で決めちゃって。月々の仕送りはしてるけど、足りないってねだられたこともない」
直哉らしい、と思う。彼は母親をあてにしない子どもだった。何か欲しいとねだっているところを見たことがない。甘えるのが下手なのだ。
「今、大学? じき卒業だよね。……いや、医学部はあと二年あるのか?」
「卒業よ。医学部には行かなかったから」
「行かなかった?」
「わたしはどうしても医者になってほしかったけど、医者だけは嫌だって言うの。死んだってなりたくないって」
「めずらしいね、そんなに嫌がるって」
「ほんとにそう。まあ、言えるようになっただけいいのかもね。大げんかしたけど、結局好きなようにしなさいって言ったのよ。また家出されたらたまらないわ」
今度はきっと帰ってこないから、としおりは気だるげにつぶやいた。
「じゃあ、もう就職は決まってんだね」
煙を吐き、コーヒーに口をつける。
気楽な気持ちで言ったのだが、しおりの眉はゆっくりと寄せられた。
「なに、決まってないの?」
「たぶん」
「たぶんってどういうこと?」
しおりは困り顔で口ごもった。しかし、じっと黙って待っていると、うつむいた彼女は覚悟を決めたように言った。
「翔太くんて覚えてる?」
「翔太……? ああ! うん、わかる。あの、ゲームの下手な」
「そうなの?」
「そうなの。翔太がなに?」
「この間ね、家の近くで久しぶりに会ったのよ。それで、まだ直哉と会ったりしてるのって聞いたら、ときどき遊ぶよって言うから、あの子の様子訊いてみたの。そしたらね、就職とか全然考えてないみたいだって言うのよ。バイトかけもちして忙しそうなんですって。まさか学校に残るつもりなのかしら」
「なんで翔太にそんなこと訊いたの」
「だって、直哉は家に帰ってこないし、電話してくるでもないんだもの」
「自分から電話すればいいのに」
「なんだかこわくて」
「こわい?」
「干渉するのがね、こわいのよ。情けない話だけど」
うーん、と克大は小さくうめいた。このひとも相変わらず不器用だ。母親なんだから子どもに遠慮する必要はないのに。直哉が家出した頃にあったさまざまのことがまだ響いてるのだろう。
「ちゃんと訊いた方がいいよ。お母さんなんだからさ。子どもをこわがってどうすんの」
頬杖をついて、「ね」と笑う。すると、しおりはかすかに安堵したような表情になった。
「そうね……」
彼女を見つめ、なつかしいなあ、と、克大は胸のうちでつぶやいた。
こうしてまた誰かと直哉の話をする日がくるなんて思わなかった。ここ何年か、名前を口にしたこともない。「会いたい」と思うのが嫌で、たった一枚だけ手元にある写真は引き出しの奥に押し込めたまま。もう何年も前の話だ。いくらなつかしんでも会えないということはわかっていた。
だけど、こうやって直哉の母親であるしおりと再会し、彼のことを話していると、どうしようもなく顔が見たくなってくる。考えないようにしていた分、気持ちがどっと押し寄せてきて苦しいほど。
一体、どんなふうになったのだろう。
「久しぶりに顔見たいなー」
口に出したら、もう我慢できなくなった。会いたくて会いたくてたまらない。
「そうだ、もしまだ就職決まってないんだったらさ、うちに来なよ」
思いついてしまうと、とにかく一直線。悪い癖だ。展開のはやさについてこれないのか、しおりはいそがしく目をしばたたかせた。
「面接っていうか、見学っていうか、一回会社に来て、ナオが働きたいって思ったら入社ってことでさ」
「それは……そうなったら安心だけど、大丈夫なの?」
「平気。おれが人事任されてるもん」
「そうじゃなくて、あの子、役に立たないかもしれないわよ」
「大丈夫でしょ。ナオは賢いし、しっかりしてるから」
しおりは少し考えるように首を傾けた。
「そう……、そうねえ、ちょっと言ってみようかしら」
「ほんと? じゃあさ、おれのことはまだ話さないでよ」
「どうして?」
「だってその方がびっくりしておもしろいだろ」
しおりの目がまるくなる。そして彼女はあきれたように眉を下げ、息を漏らした。
「あなたって相変わらずなのねえ。少しは大人になったかと思ったけど」
その言葉に、克大は声を立てて笑った。
***
八年前の自分と今の自分と、そう変わっているとは思えない。
二十五が三十三になったところで、外見に明確な違いは見られないのだ。せいぜい徹夜が厳しくなるくらいで、背が伸びるでもなければ見てわかるほどしわくちゃになるわけでもない。頭の中だっておんなじだ。
自分があまり変わらないから、相手のことも同じように考えていた。
しかし、十四才から二十二才までの八年は、同じ八年でも意味が違う。
会議室の扉が開き、入ってきた直哉を見た瞬間、頭の中が取り散らかった。そして、八年という時間の長さを改めて思い知った。
そうか、こんなに大きくなったのか。
驚いている彼に「久しぶり」と告げながら、克大は深い感慨に浸った。変わると言うなら甥の秋人の方が大きく変わっていたのだが、彼と再会したときとはまったく違う、ある種の感動を覚えて胸がじんと熱くなった。
くるんとしたつり目はそのまま。背が少し伸び、体つきはあの頃よりずっとしっかりしている。スーツなんか着るようになったのか。二十二と言えば、自分が彼と出会った年だ。そう考えたら、年よりは幼く見える。大きな目のせいだろう。
「大人になったなあ。見違えたよ」
正直な気持ちを口にしたら、直哉はうんざりしたような表情になった。
「八年も経てばね。あんたはオッサンになった」
生意気な口をきくのがおかしかった。自分の子でもないのに、もう立派な大人になった男をこんなにかわいいと思うものだろうか。つまらなそうにつんとされても憎めない。
話し方に、表情に、昔の面影が見え隠れした。そのたびに、一緒に過ごした三年間が頭をよぎった。たった三年。離れていた期間よりずっと短い。だけどいろんな思い出がつまっている。遊園地に行ったし、海に行ったし、テニスをしたし、誕生日には馬鹿みたいに大きなプリンを作った。彼がそれを好きだと知っていたから。
「おれ、もう帰っていい? 入社って四月からでいいんでしょ」
面倒くさそうに話を切り上げ、出て行こうとする直哉を、引きとめてしまったのはどうしてだろう。彼は入社を決め、だから四月になれば嫌でも顔を合わせることになる。それなのに。
呼び止めてしまった。まだ行かせたくなかったのだ。
「ナオ」
ドアを開けようとしていた彼は、ノブを押す手を止めた。だけど振り返ることはしなかった。
「……なに」
無愛想な声だった。何を言おうという考えもなかった克大は、なんとなく問いかけた。
「プリン、今でも好きなのか?」
ついさっき、プリンのことを思い出したからだ。
口に出してみるとますますなつかしい。
塾の帰り、直哉がコンビニでプリンを買って帰るのを見て作ってみた。ほんの気まぐれ。
はじめて彼をいとしく思ったのは、それを食べるのを見たときだった。おいしい、でも言えない、という顔をしていた。不器用で、そのくせ正直で、とてもかわいかったのを覚えている。
「すごい好きだよ。毎日食べてる」
やっと振り返った直哉は、打って変わって明るく笑った。
食べ物の好みは変わらないものなんだな、と克大は微笑ましく思った。彼の口調が少し子どもっぽかったせいもあり、気持ちがなごんだ。
名前を呼ばれたのはそのときだった。
「克大さん」
驚いて一瞬言葉が出ず、体はぎくっと固まった。ただ自分の名前を呼ばれただけなのに。
あまりにも久しぶりだったせいだ。そういうふうに呼ぶのは直哉しかいない。小さい頃の直哉にしか呼ばれたことがなかった。かすかな違和感があったのはそのせいだろう。当然のことだが、あの頃とは声が違う。
直哉はにこっと微笑んだ。その笑みが、克大の目にはひどく妖艶に映った。
(なにを……)
自分に戸惑った。そんなわけはないじゃないか、と。
「おれはもう、二十二なんだよ」
見慣れない笑みを浮かべたまま、直哉は言った。
克大はかすかに喉を鳴らした。声や言葉にどことなくなまめかしいものが含まれてるように感じたからだ。
だけど、そんなのは気のせいに決まっている。
強く自らに言い聞かせた。それなのに、一歩距離をつめた直哉を見つめたまま動けなかった。何かおそろしいものが近づいてきたときのように。ただじっと息をつめていた。
なぜそんなふうになったのかわからない。
触れるほど近くに直哉がいる。それを不思議に思った。同時に危ういものを感じてもいた。しかし避けることができず、気づいたら唇が重なっていた。
感触がどうだったかなんて覚えていない。頭の中が真っ白になった。たかがキスに。
なんで、と胸のうちで問うた。口に出さなかったのはどうしてだろう。出さなかったのではなく、出せなかったのかもしれない。
「オッサンをからかうなよ」
考えるよりもはやく口は適当な言葉を紡ぎ出した。たぶんとっさに逃げることを選んだのだ。
直哉はうんざりしたような顔をした。
「やるんじゃなかった」
吐き出されたのは深いため息。彼は軽く手を振った。小さな子どもがするように。
「じゃあね」
唇がぴくりと動いたけれど、声が出ない。一体、何を言うつもりだったのだろう。
直哉はかまわずに部屋を出た。反応の遅れた克大が追いかけたとき、彼はもうエレベーターに乗ろうとしているところだった。
「ナオ!」
呼びかけは届いただろうか。届かなかったかもしれない。もしも彼が振り向いたとして、一体何が言えただろう。何もわかっていないのに。
会議室の前でぼんやりと立ちつくした。
さっきのあれは、なんだったんだ。
ぺたんと壁に背をつけて、閉じたエレベーターの扉を見つめる。
からかったのか? もう大人なのだとわからせたかった? あんなやり方で? まさか、そんな馬鹿なこと。
「大島さん」
不意に名前を呼ばれ、克大は柄にもなくぎくっと肩を強ばらせた。振り返ったら、後ろに小夜子が立っていた。とっさに返事もできずにいると、彼女はいぶかしげな顔をした。
「直哉くん、どうでしたか?」
問われ、ふっと現実に引き戻された。
「ああ……。来るって言ってたよ」
「本当に?」
小夜子は形のいい眉を上げ、目をみはった。
「嘘ついてもしょうがないでしょ」
克大はやっと目元をゆるめた。彼女という第三者が来てくれたおかげで、乱れていた気持ちがゆっくりと落ちついてゆく。
小夜子は納得できていないようだ。小夜子の中でこの件はどういうことになっているのだろう。克大がそれを想像するよりはやく、彼女は言った。
「中学生のとき、直哉くんが家出したのはどうしてですか?」
不可解だ、という思いが剥き出しになっている。母親を捨てた男の誘いに直哉がなぜ応じるのか、理解しかねたということか。
「古い話だなあ」
克大は眉尻を下げた。
「あれはおれの……」
不徳の致すところで、と曖昧に答えようとしたが、途中で止まった。
(そういえば、あれは結局なんでだったんだっけ?)
本当の理由が、実のところ克大にもはっきりわかっていない。
いろんなことが重なりすぎて、何が一番直哉にとって重大だったのかがわからないままなのだ。
しおりの友だちだと嘘をついたから? 彼女と結婚したから? だけど直哉は一度家に戻ってきた。嘘も結婚も許されて、やり直せるのだろうと思った。でもやっぱり駄目だった。
(一体なにが駄目だったんだ?)
本当の父親が彼に会いたくないと思っているのを知ったから? 本当にそれが原因なのか?
違う気がする。だって、直哉は父親のことなど一度も口にしなかったのだ。会いたいとも、会えなくて辛いとも。克大があの家を訪れてから、出ていくその日まで。とうとう一度も言わなかった。
(だったら----)
彼は、最後に、なんと言った?
(克大さんのこと好きだよ)
(でも、家族にはなりたくなかったんだ、絶対に)
----それは、どうして?
頭の奥がくらっと揺れた。
「大島さん?」
小夜子の声が遠い。
思い出していたのはさっきの口づけ。
何かがつながり、一本の線になろうとしているのがわかった。だけど克大は目をそむけた。
「あれは……おれのせいだったんだ」
つぶやいた声は自分のものとも思えないほど重い。
そのせいだろう、小夜子は、それ以上問いかけるのをためらったようだった。話はそこでおしまいになり、胸の中になんとも言えない苦い味だけが残った。
***
ずっと知らずにいられたのなら楽だったのだろう。だけど、そんなことがかなうはずもなかった。そうやって曖昧にするつもりなら、直哉はあのときキスなんかしなかったのに違いない。
四月になり、言葉通り入社してきた直哉を、克大は意図的に避けていた。
自分らしくない行動だ。こういう、ぐずぐずしたのは向かない。いつもだったら何もかもさっさと明らかにして、さっぱり終わらせていただろう。だけど、今回だけはどうしてもそれができなかった。
しかし、いくら望んだって、狭い社内でいつまでもそんな状態を保てるはずがない。
そのときはとうとうやってきた。
取引先からの帰り道、直帰するつもりだったのに、会社に明日までの書類を残していることを思い出した。朝にしようかどうか迷って、結局戻ることを選択した。大げさかもしれないけれど、そこで運命が決まったと言っていい。
しんと静かな夜更けのフロア、電気のついたままになっていたそこをのぞくと、直哉がひとりパソコンに向かっていた。克大は彼の背中と、ふっと暗くなったモニターを見つめた。ちょうど電源を落とし終えた彼は、気配を察して振り返った。そしてにっこり微笑んだ。
「同じ会社にいるのに、久しぶりだね」
声をかけられ、克大はぎこちなく「ああ」と答えた。こんなことが、今までの人生で一度でもあっただろうか。おかしくなるくらい腰が引けていた。
相手は直哉じゃないか。何をこわがることがある。
言い聞かせ、克大は彼の側まで歩み寄った。そしてそれを後悔した。
こわいのは、直哉だから、だ。
「おれと会わないようにしてた?」
くるんとした目にじっと見つめられる。かわいいはずなのに、息苦しいような気分になった。
「まさか」
短い答えに、直哉は目を細めただけだ。笑ったように見えたけれど、もしかしたら違っていたかもしれない。
「克大さんをわかりやすいと思ったの、はじめてだよ、おれ。小さいときはさ、なに考えてんだろこのひとって、そう思ってばっかりだった」
そう言って、彼は一歩距離をつめる。克大は後ずさりたいのをぐっとこらえた。
「おれと話したくないでしょ」
ひとを試すような物言いをする。昔はこんなふうではなかった。
変わったのだ、と改めて克大は思う。
入社以来直哉を避け、声の届くところに行かないように気をつけながら、遠目にときどきその様子をうかがっていた。しおりの言ったとおり、彼は子どもの頃よりもずいぶん人当たりがよくなったように見えた。他人に対しての壁が薄くなったと言う方が近いだろうか。にこやかにポンポンと物を言う、若くてかわいい、そういう評判ですよと管理課の女の子が言っていた。
立ちつくす克大に、直哉はやさしく微笑んだ。
「でもおれは、もういいかげんはっきりしちゃおうと思うんだ」
待ってくれ、と本当は言いたかった。軽口を叩いて回避することも、やろうと思えばできただろう。だけど、直哉がほんの一瞬ひどく辛そうな顔をしたから、克大は微動だにもできなくなった。
「おれ、克大さんのこと好きだよ」
びくっ、と心臓がけいれんを起こしたような気がした。
なにも初めて言われたわけではない。覚えがあった。たぶん二度。
あのとき自分はどうしただろう。おれも好きだ、と言わなかったか。なんのためらいもなく、彼の体を抱いたのではなかったか。
「ねえ、聞いてる?」
首を傾げ、直哉は再び同じ言葉を繰り返した。好きだよ、と。
昔は当たり前に受け止められた。単純にうれしいと思っていた。それなのに、今は返事もできないでいる。
「どういう意味なのか、説明しなくたってわかるよね」
まるでいたぶられているようだった。
意味ならわかる。わかるから動けない。
いつからそうなんだ。ずっとそうだったのか。だったら、おれは----。
「無理だ」
頭はまだ混乱しているのに、口ははっきり答えを紡いだ。自分の中にある頑なな何かが、反射的にそれを言わせた。
「それは無理だ」
直哉は、肩の力を抜いたように見えた。気持ちをホッとゆるめたような。そしてなんだか複雑な顔をした。
「そうだろうね」
「ナオ」
とっさに呼んでしまったのは、何か危ういものを感じたからだ。だけど、彼は苦笑した。そして、そういう声出さないでよ、とため息まじりに言った。
「気にしないでいいよ。おれはもう大人だし、これくらいのことはなんでもないんだ」
本当に? 問いかけは胸の中でだけ。
「すっきりしたよ、これで」
直哉はこちらに目を向けず、机から鞄を取り出した。
「じゃあね」
少しも取り乱さずに言い、彼は部屋を出ていった。克大は、扉が閉ざされるのをぼんやり見つめた。しばらく立ちつくしていたが、何を考えていたというわけでもない。
体の機能が停止してしまったようだった。
ようやく指先を動かしたとき、胸の中を冷たいものが通り抜けていくのを感じた。立っているのが辛い。近くの椅子を引っぱり、どさりと掛けた。
(無理って……なんだ?)
ぎいっと椅子の背にもたれ、首をそらす。
なんだかかなしくてたまらなくなった。勝手に眉が寄ってゆく。
たぶん、無理ではなかったのだと思う。
無理ではなかった。
でも、いいよとはとても言えなかった。
(だって、あんなにかわいかったんだ)
自分の子どもか弟のように思っていた。本当にそれだけだった。かわいかったし、大事だった。そんな目ではとても見られなかった。
(なのにどうして今、あいつとどうにかなれるっていうんだ)
直哉のことを今もかわいいと思う。だからはっきりと気持ちを告げられるのがこわかった。
こんなに好きになった相手は、ひとりもいない。
自分の気持ちが傾いているのはわかっている。だけどやっぱり駄目なのだ。
欲望のまま足を踏み外すことはできない。それは許されないことだろう。ひどく悪いことであるような気がしてたまらない。
彼をいとしく思う分だけ苦しい。
ふ、と息を漏らし、克大は内ポケットから煙草を取り出した。静かな部屋に火のともる音が鮮やかに響く。深く吸い込み、吐き出したら、じんわりと気持ちが鎮まった。
いろんなことがつながって、曖昧だった過去が正しい形を作っている。
いつから、と言うなら、きっと中学生のときからだったのだろう。家族になりたくないといったあの頃から。
好きだから、家族にはなりたくなかった。
あれは言葉のまま、そのとおりの意味だったのだ。
「ひどいことしてたんだなー、おれ」
ひとりきりの部屋で、克大はぽつんとつぶやいた。
だけどもう取り返しがつかないし、ひとつも望みをかなえてやれない。
ごめん、と謝りかけてやめた。言ったって無駄なこと。
目の際が濡れたのは、煙が染みたせいだったのに違いない。