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【番外編】初めての、名前

アルヴィス様が、朝からずっとおかしい。



それに気づいたのは、いつものようにお茶を運んだ時だった。


「おはようございます、アルヴィス様。今日は——」


「……エ」


「え?」


彼は何かを言いかけて、すぐに口を閉ざした。

銀色の瞳が、わずかに揺れる。



「……いや、何でもない。茶を置け」


普段なら、私が扉を開けた瞬間には次の指示が飛んでくる。

それが今日は、一拍の“間”があった。


たった一拍。

けれど、私の未来視がなくても分かるほど、それは“らしくない”変化だった。



昼過ぎ、書類の確認をしていた時も。


「アルヴィス様、この決裁印はこちらでよろしいですか?」


「……エレ」


「はい?」


「……確認した。問題ない」



まただ。


さらに、魔導書の整理中にも。


「君、そこの棚の——エ——」



「アルヴィス様。今日で三回目です。何か言いかけて止まっておられますよ?」



指摘すると、彼は静かに本を閉じ、珍しく、真正面から私を見つめてきた。


「……三回か。私としたことが、観測が甘かった」


「何を観測されているんですか?」


「君の名前だ」


「……私の?」


「エレン、という名を、私は今まで主従の呼称として使用していた。

だが昨夜、ふと思ったのだ。呼び方は、関係性によって変化してもよいのではないかと」



彼にしては珍しく、言葉が遠回りだった。


私はトレイを胸に抱えたまま、息を呑む。


「それって……私の呼び方を変えたい、ということですか?」


「そうだ。私は昨夜、三十七通りの案を検討した」


「さ、三十七……」


「うち十二通りは語感が非効率として除外した。八通りは君の名の音韻から逸脱していた。

残り十七通りをさらに絞り込み、最終的に候補は三つになった」



彼は立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。

午後の光が白銀の髪を淡く照らす。



「だが、いざ呼ぼうとすると——」


長い沈黙。


「……なぜか、声が出なくなる。これは、のどの疾患か?」


「違います」


思わず笑ってしまった。

あの完璧な大魔法使いが、名前を呼ぶだけで一晩悩んでいたなんて。



「笑うな。私は真剣だ」


「笑ってません。……あの、アルヴィス様」


私はそっと彼の背に近づいた。


「その三つの候補、聞かせていただけますか?」


彼は振り返らなかった。

けれど、耳の先がほんのり赤い。



「……一つ目は、名を縮めたもの。エル、だ」


「……」


「二つ目は、古語形のエレナ。語源的には『光』を意味する」


「……」


「そして三つ目は——」


ゆっくりと振り返る。

銀色の瞳が、まっすぐに私を射抜いた。



「昨夜、最も長く脳裏に残ったものだ」


「……なんですか?」


一拍。


「——私の、エレン」


世界が止まった気がした。


風の音すら遠くなる。



「……これは」

彼は淡々と続ける。


「呼称というより所有格の付加であり、名の変形としては非効率だ。

だが、最も排除しがたかった。理由は……不明だ」



(……三秒後)


未来視が閃く。

彼が眉をひそめ、「君の周囲の煙が今夜一番濃い」と言う未来。



けれど、その先が——どうしても見えない。


もしかしたら、この先は。

予知ではなく、私自身の選択で進む未来なのかもしれない。



「……アルヴィス様」


「何だ」


「三十七通り考えて、一番残ったなら……それが答えです」


彼は静かに瞬いた。


「根拠は?」


「理屈じゃありません。それが——感情ですから」


しばらく、彼は私を見つめた。


そして、ほんのわずかに。

本当にわずかに、口元が緩む。


「……では、そう呼ぶ。私の、エレン」


予知には映らなかった。


だから私は、自分の頬がこんなに熱くなることも、

彼の銀色の瞳がこんなに柔らかく細まることも、

何一つ——覚悟できていなかった。



後から聞いた話では、あの瞬間の私の周囲には。

今まで観測された中で、最も鮮やかな桃色の煙が、立ち込めていたらしい。




こんにちは。春乃ことりです。

『桃色の』の後日談を書いてみました。

短編小説で書いた小説ですが、私はこの二人がお気に入りです。


また気が向いたら、番外編として書いてみようと思います。


皆さんが、少しでも楽しんでくださっていたら嬉しいです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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