全力の生 全力の死
吉法師が落馬した、と聞いて、天王坊には大雲永瑞、林秀貞、乳母のお徳が大急ぎで駆けつけた。
父の信秀は極秘の用件のため、那古野城を留守にしている。
また、生母の春の方は息子の一大事を知らされていなかった。気が弱い彼女は夫の信秀が危篤と聞いて倒れてしまったことがあるので、吉法師の容態がハッキリ分かるまで知らせないほうがいいと家臣たちが判断したのだ。
「吉法師様! 吉法師様! ああ……何ということでしょう! しっかりしてくださいませ、吉法師様!」
お徳が半狂乱になって、眠っている吉法師の肩を揺すると、大雲が「こら、乱暴に頭を揺らすでない。少し落ち着け」と叱った。
「心配いりません。吉法師様は一度意識を失いましたが、しばらくして目をお覚ましになって拙僧と二、三の会話もしました。ご自分が危険な目に遭わせてしまった娘御のことも気にかけられて、『俺はもう大丈夫だから、丁重に親元に帰してやるように』と拙僧におっしゃられてましてな。まだお若いのに実にご立派な心遣いができる若様ですなぁ。今はただ疲れて眠っているだけですので、ご安心ください」
天王坊の僧侶がなだめるようにそう言うと、お徳は「眠っているだけ……。よ、よかった……」と呟き、へなへなとその場で尻もちをついた。
「いや、しかし、油断はできませんぞ。源頼朝公は落馬して十七日後に亡くなったと聞いたことがあります。半月か一か月は様子を見なくては……」
「こら、新五郎(林秀貞の若い頃の通り名)。ようやくお徳が落ち着いたのに余計なことを言うな。また、泣き喚きながら吉法師の頭を揺さぶったらどうする」
大雲にわき腹をつねられ、秀貞は「も、申し訳ありませぬ……」と謝る。
しかし、案の定、お徳はまたヒステリックに騒ぎ出した。
「ええ⁉ あの源頼朝公も落馬して亡くなったのですか⁉ そ……そんな! 私の息子がついていながら、こんなことになるなんて!」
お徳は、さっきからしょんぼりと肩を落としている息子の恒興を睨み、「あなたが山頂まで早駆けをしようと言い出したそうですね!」と怒鳴った。絶対に叱られると思っていた恒興はビクッと身を震わせ、小さく頷く。
「お……俺はただ……吉法師様の気晴らしになればいいなと思って……」
「愚か者! 家臣は主人の身の安全を守るのが第一の役目だというのに、危険な遊びに誘うとは何事ですか!」
「お、お許しください、母上」
「いいえ、許しません。吉法師様に詫びるため、今この場で母子共々腹を切りましょう。死んで罪を償うのです」
お徳はポロポロと涙を流しながら護身用の短刀を抜き、息子ににじり寄った。目が血走っていて、どうやら本気のようである。驚いた恒興は「ひっ……」と小さく悲鳴を上げて後ずさった。
「……お徳。そいつは俺の大事な弟分だ。いくら自分の子供でも、俺の許可なく命を奪うことは許さないぞ」
眠っていたはずの吉法師がうめくような声でそう言い、お徳はハッと我に返った。
「き、吉法師様! 起きていらっしゃったのですか⁉」
「お徳がぎゃあぎゃあ騒いだから目が覚めたのだ。……あと、そなたも死ぬな。いちおう、俺の乳母なのだからな。死なれたら困る」
吉法師はまだズキズキ痛む頭をおさえて上半身を起こした。
お徳は「吉法師様ぁ、吉法師様ぁ! よくぞご無事で……!」と泣きながら、吉法師に抱きつく。
「お、お徳、苦しいから離れろ。……俺が馬から落ちたのは、俺が不覚を取ったからだ。誰のせいでもない。俺を責めてもいいが、他の者を責めるのはやめろ」
「しかし……」
「吉法師の言う通りじゃぞ、お徳。戦場で油断をして討ち死にするのは、その武将一人の責任じゃ。他者におのれの失敗を押しつけるような癖をつくったら、吉法師が一人前の大将になれぬ」
「されど、大雲和尚様。家臣である我が子が吉法師様をわざわざ危険な遊びに誘ったせいで、吉法師様が危うくお命を落とすところだったのです。我ら親子が責任を取らなければ……」
お徳がなおも食い下がると、大雲は「武家の母親が生きるだの死ぬだので執拗に騒ぎ立てるのはよさぬか」とたしなめた。
「人の生き死にの運命は、人があがいて決められるものではない。運命に身を任せて雄々しく生きるたくましさがなくては、この乱世を戦い抜くことはできぬ。
鵯越の逆落としで平家を奇襲した源義経公が、馬で崖を駆け下りる時に『失敗して死んだらどうしよう……』などと躊躇したと思うか? 山を駆け上るぐらいで『危ない』と言っていたら、吉法師たちは命がけの戦ができぬ軟弱な武将になってしまうぞ」
「で、ですが……」
「吉法師たちはまだ子供だが、馬鹿にしてはならぬ。この子たちは一見すると乱暴な遊びをしているようだが、懸命に強き武士になるための修行をしているのだ。
『生は全機現なり、死は全機現なり』という言葉がある。全機現とは、簡単に言ったら、おのれの全能力を発揮するという意味じゃ。生ある内は、おのれの全力をもって必死に生き抜く。天運も力も尽き果てて死ぬ時は、その運命を粛々と受け入れて全力で死ぬ。それこそが、武士の道ぞ。危ないことはよせ、などと大人が止めるのは武士の子の成長を妨げるだけじゃ。全力で成長しようとしているこの子らを信じて見守ってやりなさい」
大雲は、吉法師、信清、恒興、教吉らを眩しそうに順々に見つめ、そう語るのであった。
若い頃に出家して禅の修行に打ち込んできた大雲には妻も子もいない。だから、次の世代を担うべき少年たちが我が子のように思え、愛おしいのであろう。彼らには武将として全力で生き、戦死であれ、自然死であれ、悔いのない終わりを迎えて欲しいと願っていた。
織田弾正忠家の最長老である大雲にそこまで言われては、さすがのお徳もそれ以上は何も言い返せない。「し……承知いたしました……」と力なく返事をするのであった。
「『生は全機現なり、死は全機現なり』か……。まるで働き者の父上の生き様を言い表しているようだ。俺もそのように生き、死んでいきたいものだ」
吉法師は大雲の言葉を胸に深く刻み、そう呟いていた。
それにしても、まだ何だか眠たい。生は全機現なり、死は全機現なり……と心の中で何度か反芻すると、吉法師はパタンと仰向けに倒れ、再び眠りにつくのであった。
気絶したと勘違いしたお徳が「き、吉法師様ぁー!」とまた騒いでいたが、今度はもう放っておくことにした。
夢の中で、あの甘い香りの少女が出てきた。
桂の木の下に立つ彼女は吉法師に微笑みかけ、吉法師も笑顔を返した。ただそれだけの夢だったが、吉法師は少女と再会する数年後までその他愛もない夢をずっと繰り返し見ることになる。
そのたびに、夢だというのに彼女のいい匂いがして、吉法師は朝目覚めると城主館の庭にある桂の樹木を眺めて物思いにふけるのであった。




