桂の香りの少女
平手政秀と青山与三右衛門が京都・大坂に行っている間に、尾張の那古野では小さな事件が起きていた。吉法師が、不慮の事故で落馬してしまったのである。
「天王坊まで馬を早駆けさせませんか。誰が一番に着くか、勝負するのです」
乳兄弟の池田恒興がそう言いだしたのが、きっかけだった。
天王坊とは、真言宗安養寺の僧房(僧の住居)の一つで、亀尾山の山上にある。山頂まで駆けて乗馬の技術を競おう、ということだ。
朝から晩まで吉法師に近侍している恒興は、吉法師がふとした瞬間に物悲しげな表情をする時があることを知っていた。そんな時は必ず、姉のくらがいる遥か西の彼方――津島の方角を見つめている。
五年前、くらは津島の有力豪族・大橋清兵衛に嫁いだ。まだ三歳の幼児に過ぎなかった恒興はくらという姫のことを覚えていないが、吉法師はその異母姉を心から慕っていたようである。
織田弾正忠家の跡継ぎとして厳しく育てられている吉法師は、信秀の教育方針で生母の春の方と滅多に会えない。鬼のように口やかましい母のお徳に辟易としている恒興だが、それでも母親と引き離されてしまったらきっと心細いに違いない……と思っていた。
寂しい思いをしている吉法師様が少しでも気晴らしできることをしよう。恒興は子供心にもそう考え、乗馬の競争を提案したのだった。風を切って山道を駆けあがったら、きっと気持ちいいに違いない。
「面白いな。ぜひやろう」
恒興の提案に真っ先に乗ったのは、乱暴なことが大好きな織田信清(信秀の弟・信康の子。信長の従兄弟)だ。
信清は、信長のもう一人の姉であるお里との間に縁談が持ち上がっており、父の信康は「お里殿に気に入ってもらえるように、なるべく那古野の城に顔を出せ」と息子に言いつけていた。お里は体が弱く、気が小さい少女だ。気性の荒い信清を少し避けている節があり、信康は息子の縁談が上手くまとまるか心配していたのである。
しかし、勝手気ままな信清は父の心配などどこ吹く風で、那古野城を訪れてもこうして従兄弟の吉法師とばかりつるんで、お里の機嫌取りに伺うことなど滅多になかった。幼い時分から変わらず、「ちょっとしたことで泣き出す女と遊んでいても、つまらないだけだ」と思っているようだ。
学友として吉法師に仕えている他の家臣の子息たちも、やんちゃな性格の者たちが多いため、次々と「おう、それは面白い」と同意する。しかし、一人だけ、
「足場の悪い山道を馬で走るのは馬術の訓練にはなるでしょうが……。大事なお世継ぎの吉法師様にもしものことがあったら、大変です。やめておいたほうがよろしいのではありませんか?」
と、慎重なことを言う少年があった。元服を間近に控えていた山口教吉である。
教吉の父の名は、山口左馬助教継という。尾張の笠寺(現在の名古屋南東部)付近に勢力を張っていた土豪で、先年の信秀の三河侵攻に従軍した。その時の戦功によって信秀に引き立てられ、教継は三河国との国境の要所・鳴海城の守備を任されていた。
信秀は文武に秀でた教継のことを信用しており、その息子の教吉を吉法師の学友としてそばに置いていたのである。ゆくゆくは、教継が信秀を支えているように、教吉に吉法師を支えてもらいたいと考えていたのだ。
信秀にそんな期待をされていることを聡明な教吉も薄々察しているらしく、「吉法師様に万一のことがあっては……」と心配したのであった。
「フン、山口の倅は慎重だな。武士ならば馬を体の一部のように乗りこなせて当然ではないか。山道を駆け上がる程度、危険の内に入らぬ」
他人を見下したような話し方しかできない信清がせせら笑う。
教吉は、相手が織田家の子息のため何も言い返さないが、内心は(こいつめ……)とムカッとしていた。
「吉法師様、いかがなさいますか?」
恒興が、さっきから馬上で草笛を吹いて話に入って来ない吉法師に問うた。
吉法師のいつもの癖で、恒興たちがめいめいに意見を言い合っている間は、いつもこうやってそっぽを向いて黙っているのである。家来たちの話を聞いていないのかと思えば、全てしっかりと耳に入れていて、意見を言う者がいなくなった頃合いを見計らって「では、こうしよう」とポツリと言うのがお約束だった。
吉法師のその決定に対して異を唱える者がいた場合、その意見が当を得たものであったら吉法師は機嫌よく「デアルカ」と頷き、割とあっさり自分の考えを改める。しかし、的外れな意見を言ってしまった時は、「それは理に合わぬ」と不機嫌そうに吐き捨ててしばらく口を利いてくれなくなるのが常だった。
「戦場が平野だけとは限らぬ。山を駆け上がって敵を攻めることもあるだろう。やってみよう」
吉法師は教吉に笑いかけ、彼の背中を軽く叩いた。
――武士が危険を恐れてはならないのは道理だが、家臣が主君の身を案じるのも道理だ。お前は間違ってはいない。
口にこそ出さないが、吉法師がそう伝えようとしてくれているのが分かり、教吉は「はい……」と頷いた。
吉法師は、父の信秀の前では年相応の子供らしさをさらけ出すが、同世代の少年たちの前ではずいぶんと落ち着いていて、大人びた雰囲気を見せることが多い。近頃はどんな銭がどこの国でどれだけ流通しているのかを調べるのが趣味らしく、銭のことを語る時は異様に饒舌になることもあるものの、普段はあまり口数も多くなく何を考えているのか察しにくいところがある。
しかし、教吉や恒興たち仲間が落ちこんでいると、さりげなく励ましの言葉をくれたり、無言でも気遣う素振りを見せてくれたりするのが吉法師という少年だった。教吉も初めは吉法師のそんな分かりにくい優しさに気づくことができなかったが、こうして日々接しているうちに、
(どことなく寂しげな陰があるものの、吉法師様は本質的に身内想いで愛情深い人なのだ)
と理解できるようになり、次第に魅了されていったのである。今では、たまに見せてくれる悪戯っぽい笑みを目に焼き付けることが教吉の何よりもの幸せだった。ただ……。
「では、亀尾山の山頂まで競争だ。だが、どんなに急いでいても、可哀想だから亀のしっぽを踏んでやるなよ。亀尾山なだけに」
時々、とても反応しづらい駄洒落を得意げに言うことがあるので、それには仲間のみんなが困っていた。笑おうにも、別に面白くも何ともないので引きつった笑いしか出ないのである。鈍感な信清だけが、
「亀なんて、こんな所にはいないぞ」
と、真顔で言うのであった。
* * *
不慮の事故が起きたのは、亀尾山の山頂近くでのことだった。
先頭の吉法師は、二番手の教吉を大きく引き離し、ぐねぐねと曲がる山道を巧みな馬術で疾風のごとく駆け上がっていた。
狭い山道で参拝客と鉢合わせしたら危ないため、寺の僧侶が護摩を焚くための木片を拾い集める時にたまに使う山の裏側の細道を走っているが、狸などの小動物は何度か飛び出して来た。そのたびに、吉法師は手綱を上手く操ってサッとよけるのであった。
「獣がいるぞ、気をつけろ!」
と怒鳴って、後ろから続く仲間に注意を促す余裕さえあった。
だが、予想外なことは不意に起きるものだ。こんな坊主と獣しか通らないような山道で、参拝客と遭遇してしまったのである。
草深い悪路を難儀そうに歩いていたのは、一人の少女とでっぷり太った中年の女だった。二人とも市女笠を被っているが、美しい辻が花染の小袖を着た少女のほうが主人のようである。
少女は慣れない山道なので何度もつまずきそうになっている。中年の女は運動不足らしく、ヒィヒィと喘ぎながら杖をつき、少女の少し後ろをうつむき加減に歩いていた。
(なぜ、こんな獣道に女子がいるのだ。さては、遠くから来て不案内な参拝客か)
人間一人が通るのがやっとの獣道である。さすがに、このままではよけられない。
もうこうなったら飛ぶしかない、と吉法師はとっさに決断した。
「しゃがめ! 危ないぞ!」
馬のいななき声に驚いて少女が振り向くのと、吉法師がそう喚いたのはほぼ同時だった。
その刹那、吉法師が乗る馬を後ろから押し出すような突風が吹き、少女が被っていた市女笠が宙を舞った。
少女は機転が利く性格らしく、吹き飛んだ笠に気を取られることもなく素早くしゃがみこみ、それと同時に、まだ危機的状況に気がついていない中年女の頭を押さえつけた。
「飛べ! 空を翔ろ!」
吉法師は愛馬を叱咤しながら、馬の体が前のめりになることを避けるため自分の上体をわずかに起こす。飛ぶ瞬間には、人間の上半身の重みが飛翔する馬の負担にならないように前傾姿勢になる必要があった。たしか、馬上での戦いが得意な叔父の信光がそう言っていた。
やがて、愛馬は、少女と中年女の目前に迫ると、飛び越えるために前脚を高々と上げた。この瞬間だ、と判断した吉法師はすかさず上体を前にかがめる。尻が鞍から浮いた。馬は、後ろ脚で力強く地面を蹴飛ばし、天高く飛翔して――。
「ぐわっ⁉」
吉法師は、馬が少女の頭上を飛び越えた直後に落馬していた。額に木の枝がピシリと直撃して、思わず手綱から手を放してしまったのである。
「だ、大丈夫ですか!」
少女は悲鳴に近い声を上げて吉法師に駆け寄った。少女の目には、頭から落下したように見えたからである。
しかし、吉法師は意外にもすぐにムクリと起き上がって、「大事ない。どこも怪我はしていないから心配するな」としっかりとした口調で答えた。年が近い女の子に心配されるのが、何だか恥ずかしいし、かっこ悪いと思ったから、慌てて飛び起きたのだ。
幸い、奇跡的にどこも骨折していないようだ。頭はズキズキと痛むが、これぐらいは何とかなるだろう。吉法師はそう軽く考えていた。
「おーい! ここに人がいる! 危ないから、ゆっくり来い!」
吉法師は、わずかにふらふらしている自分の体を支えようとする少女を手で押しのけ、後方の信清、恒興、教吉たちにそう教えた。そして、自分の足元に落ちていた市女笠を拾い、ぶっきらぼうに腕をつき出して少女に手渡してやった。城内の侍女たちにも優しく接する少年がこんなにも荒っぽい態度を取るのは、落馬する瞬間を見られてしまって心の底から恥ずかしいからである。
(ちゃんと飛び越えられるはずだったのに、最後でしくじってしまった。飛ぶ瞬間、この娘の顔がチラリと見えてしまったのがいけないのだ)
吉法師は心の中で妙な言いわけをしていた。
一陣の風によって巻き上がった彼女の清らかな黒髪の輝きが、まず目に焼き付いた。
そして、馬が飛んだ瞬間、必死にうつむいていた彼女はわずかに顔を上げ、驚いた表情で吉法師を見上げた。目と目が合ったのは瞬きをたった一度する程度の時間だったが、吉法師は少女の清純な美しさに、春の穏やかな青空のような懐かしさと、轟く春雷のごとき衝撃を同時に感じていた。
魂をわしづかみにされたような不思議な感覚に襲われた吉法師は、目前に迫る木の枝をよけることもできず、天翔る馬から落下したのである。
「あ……あの……。本当にお怪我は……」
「平気だ、平気。余計な心配をするな」
吉法師は少女の顔をまともに見ることができず、明後日の方向を向きながら話す。この娘の顔を見ただけで心に小波が立ち、自分でもどうしたらいいのか分からないのだ。それに、少女の華奢な体からは不思議と甘い香りが漂ってきて、頭がくらくらしそうだった。この菓子よりも甘ったるい匂いは何だろうかと思ったが、桂の樹木が秋に落葉した時にふわりと香り立つあの鼻孔をくすぐるようないい匂いに似ていることに気がついた。
同年代の子供でも、恒興ら男友達とはぜんぜん違う。吉法師はどう接したらいいのか分からず、戸惑うしかなかった。
ちょうどそんな時、無事に着地していた愛馬が心配そうにこちらへ駆け寄って来たため、少女からそっぽを向きつつ、鼻のあたりを優しく撫でてやった。落馬したのはお前のせいではないぞ、と言い聞かせてやっているのである。
少女は、天高く飛んだ馬から落下した吉法師がピンピンしているのがよほど不思議らしく、本当にどこにも怪我がないか目を皿のようにして吉法師の体を見つめている。大人しそうな見た目なのに、ずいぶんと好奇心は旺盛らしい。
「あっ、よく見たら腕をすりむいているではありませんか。お勝、いつまでも腰を抜かしていないで、薬を出してちょうだい。傷の手当をしなければ」
「これぐらい、何ともない。それよりも、そなたたち。ここは寺の参拝客が通る道ではないぞ。滅多に人が通らないから獣が出てあぶな……い……。だ……だか……ら、その……」
どうしたことだろう。さっきまでは頭痛がするぐらいだったのに、だんだん吐き気がしてきた。これはまずい、と思った時には片膝をついていた。
「し、しっかりしてください! お気をたしかに……!」
ぐったりとなった吉法師を少女が抱きしめるように支え、泣き喚く。お勝と呼ばれた中年女はあわあわと慌てて右往左往しているだけだった。
「吉法師様ぁーーーっ‼」
馬蹄の音とともに、二番手で走っていた教吉の叫び声が吉法師の耳に飛びこんで来た。
(……あいつは冷静な男だから、何とかしてくれるだろう)
ぼんやりとなりつつある意識の中で、吉法師は教吉の声を聞いて安堵していた。
その後の記憶は、ハッキリとしない。
吉法師は駆けつけた教吉や恒興の肩を借りて何とか頂上の天王坊まで歩いたらしい。父の信秀は城に今いないから大雲和尚と林秀貞、それからお徳を呼べ、と自ら指示もしたという。その指示を実行したのは、仲間の中で一番の年長者である教吉だった。
意識を失い、しばらくして覚醒した後、吉法師は恒興からその話を聞いたが、全く覚えてはいなかった。




