教会からの派遣
雪融月十九日。
連絡を送った結果、最初に来たのは教会だった。王立博物院でも、王宮魔術院でも、西方守護府でもない。氷嶺白虎の生態について一冊の研究書も出しておらず、大型魔獣との接触経験がある者さえほとんどいない、今回の件に関して言えば最も専門外で、現地へ来たところで祈ること以外に何ができるのか分からない組織が、どこよりも早く人員を送り込んできた。
教会は国内各地の女神像を通じて、転移の奇跡を行使できる。
平時には大神殿の許可、受入先となる教会、転移者本人の身元確認、相応の献金と大量の魔力を必要とするため滅多に使われないが、神獣の可能性という言葉は、その面倒な手続きのすべてを軽く踏み越えたらしい。要らない時ばかり身体が軽くなるらしい。考えうる限り、最も最悪な展開が来た。
セデ村の教会は、教会と名前がついている箱のようなものだった。壁と天井がある小さな石造りの建物で、中に女神像があるから礼拝所といえるような代物であり、常駐の神官はいない。なんなら地下の貯蔵庫の方が広く立派にできている。
壁際に置かれた女神像も王都の大神殿にあるものと比べれば随分素朴で、顔の彫りは浅く、右手の指先など長年祈りとともに触れられて丸くなっている。
その女神像が朝から青白く光り始めたと聞き、私と村長のエダン、念のため呼ばれたバルトが礼拝所へ向かうと、像の前に描かれた古い転移陣から、若い女が一人飛び出してきた。
現れた、と表現するより飛び出してきたと書く方が正確である。
光が収まるのを待たずに一歩踏み出し、床に置かれていた献花籠を蹴り、転びかけたところを女神像の台座へしがみついて耐えた。
背には革製の荷袋を負い、胸元には銀の聖印を下げ、山道へ入るには不安になるほど汚れのない白い外套を着ていた。
年齢は十代後半ほど。長い淡褐色の髪を後ろで束ねている。神官服の裾を整えた女は、まず女神像へ深く頭を下げ、それからこちらを振り返った。頬がすでに興奮で赤かった。酷く嫌な予感がした。知識がないくせに万能感ばかりある、学園を卒業したばかりの学者と同じ目だ。早めに鼻っ柱を叩き折らないと……という使命感が湧いてきたが、そもそも所属が違うのでその権利は私には無い。
「大神殿より参りました、アリアです! この地に神獣が生まれた可能性があると伺いました!」
声が大きい。礼拝所の天井が低いため、余計によく響いた。
私は挨拶を返し、所属と役職を尋ねた。アリアは大神殿の神獣典礼室に属する神官であり、神獣と認められる条件を現地で確認し、大神殿へ報告する役目を任されているという。
神獣典礼室という部署が実在することを、私はこの時初めて知った。最後に神獣が確認されたのは二百五十年前である。普段いったい何をしている部署なのか気になったが、尋ねると長くなりそうなのでやめた。
姓はないのかと確認すると、アリアは胸元の聖印へ手を添えた。
「教会へ入る際に、姓は国へお返ししました。神へ仕える者は一つの家ではなく、国に生きるすべての人のために働くものですから」
立派な言葉だった。立派な言葉と、現地で役に立つかどうかには何の関係もない。私はひとまず集会所へ案内し、これまでにまとめた記録を見せることにした。
移動の途中、アリアは村の背後にそびえる岩山を何度も振り返った。白い山肌のどこかに神獣が立っているのではないかと期待しているらしい。
実際には氷嶺白虎がこちらを見ていたとしても、私たちの目で見つけられる可能性は低い。
そう説明しても、彼女は楽しそうに目を凝らし続けた。
集会所へ着き、私が地図と記録板を机へ広げる間も、椅子へ座らず室内を歩き回り、窓から山を見ていた。
「本当に、もう人の言葉を話したのですよね?」
「私とバルトが同時に聞いています。状況に即した発言でした。単なる音声模倣とは考えられません」
「どんな声でしたか? やはり神々しい響きがあるのでしょうか」
「舌足らずな人間の幼児とほぼ同じです」
「まあ……!」
なぜか感動が増したようだった。私は幼獣の大きさ、両親と思われる成獣二頭の特徴、家族単位で行動する習性、血縁個体同士で縄張りを共有すること、幼獣へ危害を加えた場合には周辺の成獣が複数集まる可能性があることを順番に説明した。
アリアは熱心に頷きながら聞いていた。頷く回数だけを見れば、これほど聞き分けのよい人間もいない。
しかし途中で、幼獣はどれほどの大きさなのかと尋ねられたため、すでに二度説明した体長と推定体重をもう一度答えた。
「尾を除いて一メートルから一・五メートルほど、体重は最大の個体で五十キロ前後と推定しています」
「それなら、大きな犬くらいですね! 犬くらい大きな猫だと思えばよいのでしょうか」
「思わないでください」
ダメだこいつ。犬くらい大きな猫という認識のどこを訂正すればよいのか、一瞬では判断できなかった。
犬は人間のそばで暮らすよう長い年月をかけて性質を変えられてきた動物であり、温厚な性質の個体同士を長年掛け合わせて人に寄り添わせた生き物だ。少なくとも何かあったら群れになって、親族が集落を滅ぼす心配はない。
氷嶺白虎はまったく違う。猫という部分だけを取り出しても、家屋の中で膝へ乗る種類の猫ではなく、成獣になれば大型魔獣を一撃で殺し、重装騎兵百名でも討伐できる保証がない捕食者である。
その幼獣が小さいというのは、あくまで成獣と比較した場合の話だ。アリア一人より重くなる個体もいる。しかもすでに氷魔法を使う。
「可愛らしい姿をしていても、野生の大型魔獣です。人間に慣れてはいません。近づかない、触れない、呼びかけない。向こうから近づいてきた場合も手を出さず、走らず、視線を合わせないでください」
「神獣であってもですか?」
「神獣である以前に氷嶺白虎です」
「ですが、神獣は人の心を理解すると伝えられています。こちらに害意がないと誠実に示せば、きっと分かってくださるのでは」
「氷嶺白虎は人の行動をよく理解します。だからこそ、あなたが何をするつもりだったかまで理解した上で敵と判断し、殺す可能性があります」
アリアは少し困ったように眉を下げた。否定されたことに腹を立てた様子はない。むしろ、研究者は慎重なのだなと微笑ましく思っているような顔だった。
自分に慎重さを要求されているとは、まだ分かっていない。
私は椅子へ座るよう促し、自分も向かいへ腰を下ろした。バルトは壁際に立ったまま、腕を組んでこちらを見ている。
彼はアリアが礼拝所から出てきた時からほとんど話していない。けれど黙っているから賛成しているわけではない。私より早く、この女は危ないと判断している様子だった。
「現地へ同行するのであれば、先に決めておくことがあります。山では私とバルトの指示へ必ず従ってください。理由が分からなくても、その場では従う。質問は安全な場所へ戻ってからにしてください」
「もちろんです! 私たちはこれから同じ目的のために働く仲間ですもの。互いを尊重し、率直に意見を交わすことが大切ですね!」
「率直に申し上げても?」
「仲間ですから遠慮はいりません、率直に話し合いましょう!」
「言葉を選ばずに言うと、てめえ耳に綿でも詰めてんのか?死ぬならひとりで死ねって言ってんだよ聞こえねえかボケ女……ですね」
「すいません、言葉を選んでいただけたら幸いです」
「命の危険があるので、現地協力者やガイドの言うことを聞かない輩は見捨てますね……」
アリアの笑顔が少しだけ固まった。バルトが顔を横へ向けた。咳をしたようにも見えたが、おそらく笑ったのだと思う。
私自身、普段であればこのような言葉は使わない。王立博物院へ入って十年になる。学会で発言し、貴族から寄付を募り、研究費の配分を巡って他室の責任者と争ううちに、相手の鼻を物理で折らずとも、不快感だけを正確に伝える言葉遣いは身についた。
しかし私はもともと、王都から遠く離れた小さな漁村の生まれだ。父も祖父も漁師で、幼い頃には穏やかな会話より、潮風と波へ負けないための怒鳴り声を多く聞いて育った。
網を引く手を止めた者には罵声が飛び、嵐の前に舟を出そうとした馬鹿にはさらにひどい言葉が飛んだ。
人間は切迫すると、生まれた場所の言葉へ戻るらしい。ひとつ咳払いをし、可能な限り王立博物院第三魔獣研究室の研究員らしい口調へ戻した。ずっとこの口調のままで居させて欲しい。一度昔の言葉にもどると、なかなか取り戻しにくいので。
「命には優先順位があります。神学上の話ではなく、遭難や魔獣との接触時における救助の優先順位です。この場ではバルトの命が最優先になります」
「神の前では、すべての人の命は平等です」
「バルトが一番です」
異論は無視した。神の前で平等であることと、山中で全員を無事に帰せる人間が誰かという問題は別だ。
「バルトは善意で協力してくれる、現地の有能な猟師です。私たちが村へ戻るために必要な知識を持ち、天候を読み、獣の痕跡を見分け、この土地の氷嶺白虎がどのように行動するかを知っています。彼が動けなくなれば、私たちも帰れなくなる可能性が高い。したがって、危険が迫った場合には、まずバルトを逃がします」
「私は神官として、誰かを置き去りにはできません」
「あなたが勝手な行動を取り、その結果として救助が必要になった場合でも同じことを言うつもりですか」
「それは……もちろん、私も皆さんを助けます」
「あなたが助けられる側になるという話をしています」
アリアはまた頷いた。今度こそ理解したように見えたが、私はすでに頷きだけを信用しないことにしていた。
「いいですか?人の善意に寄生するような愚者は真っ先に死ぬべきです。我々学者には、フィールドワークにおける鉄則があります。死ぬ時はひとりで死ね、です」
「ずいぶん厳しい鉄則ですね……」
「事故を起こした本人を助けようとして、経験のある同行者まで死ぬ例があるからです。崖から滑った者へ手を伸ばして二人とも落ちる。毒のある魔獣に噛まれた者を背負い、逃げ遅れて全員が食われる。避難の指示を無視した者を迎えに戻り、救助者の方が死ぬ。美談になることもありますが、死体の数が増えた事実は変わりません」
「ですが、助け合うことは大切です」
「指示を守ることも助け合いの一部です。不慮の事故の際に助け合うことは前提です。が、浮かれてはしゃいだバカが勝手に被災した場合、必ず見捨てましょう。
もちろん私も、珍しい動物を見つけて我を忘れてご機嫌になる可能性があります。そのまま崖から落ちたら助けないでください。後日花でも供えていただければ充分です。私もそうしますね」
アリアが何かを言っていたが、聞く必要はないと判断し机上の地図へ指を置いた。村の北側に線を引く、明日からすぐ山へ入ることは許可しなかった。
まず村の周囲を歩かせ、雪上での歩き方、風向きの読み方、魔獣の痕跡を見つけた際に声を上げないことを覚えてもらう。
アリアは一日でも早く神獣へ会いたいと主張したが、認めなかった。転移の奇跡で距離を飛び越えられても、経験まで飛び越えることはできない。
翌日、アリアは新品の山靴で雪へ入り、最初の斜面で二度転んだ。
一度目は手をつき、二度目は尻から滑った。バルトが事前に足を置く場所を示していたにもかかわらず、景色へ気を取られたためである。
「大丈夫です! これも女神のお導きによる試練ですね!」
「足元を見ろというバルトのお導きに従ってください」
その後も、獣の足跡を見つけるたびに氷嶺白虎のものかと尋ね、木の枝から雪が落ちるたびに振り返り、遠くで白いものが動けば目を輝かせた。
白いものの大半は雪煙で、一度だけ山羊だった。アリアは説明を聞いていないわけではない。私が話した注意事項を尋ねれば、ほとんど正確に答えられた。幼獣へ近づかない。成獣を見つけても走らない。バルトが止まれと言えば止まる。伏せろと言えば伏せる。撤退と言われたら理由を聞かず戻る。すべて覚えている。
ただし、それらは彼女の中で、実際に守らなければ死ぬ規則ではなく、神獣へ会うまでに与えられた作法か何かとして収まっているようだった。
危険を知識として記憶しても、自分の身体へ結びつけて考えていない。
大型魔獣に殺されるという想像が、どこか物語の中の出来事なのだ。
二日目の訓練で、バルトは木の幹に残された爪痕を指した。氷爪熊の若い個体が残したもので、まだ半日も経っていないという。アリアは爪痕を間近で見ようとして足を進め、バルトに外套の襟をつかまれて止められた。
「近くにいるんですか?」
「いるかもしれねえから止めた」
「でも、姿は見えませんよ?」
「見えないものはいないって意味じゃないだろ」
バルトの言葉は簡潔だ。アリアは神妙に頷いたものの、村へ戻る頃には明日こそ白虎に会えるでしょうかと尋ねてきたので、曖昧に微笑んでおいた。勝手に意味を見出して貰いたい。
私としては、このまま出会わないで他の部署からの派遣を待ちたい。教会よりは確実に、話の通じる者が来てくれるはずだ。
雪融月二十四日。
北側の見回りへ出た村人から、村に近い雪解け地で大型の鹿が殺されていると報告があった。
旦那個体の通常の狩場より南であり、村から近すぎる。私たちは現場を確認することにした。本来ならアリアを残したかったが、神獣の行動域を確認することも彼女の任務に含まれると主張され、最終的には同行を認めた。出発前、もう何度目になるかも分からない同じ確認を繰り返した。
「私かバルトが戻れと言ったら、即座に戻ってください」
「はい!」
「白虎を見つけても声を上げない」
「はい!」
「幼獣がいても近づかない」
「はい!」
「触らない」
「もちろんです!」
最後の返事だけ、なぜか少し残念そうだった。数日前、「私猫ちゃんって好きなんですよねえ。もふもふしてて可愛い!」と言っていたのが、嫌な記憶として脳から離れてくれない。なんでその話題を出したのか、なんとなく分かってしまうからだ。その話を聞きながら、私の中でアリアの愛称がはしゃぎボケ女になった。こういう奴がフィールドワークでチーム全体を殺したりするからたまらない。頼むから、ひとりで死んで欲しい。私ももしもの時はちゃんとひとりで死ぬので。
村から北へ進むにつれて雪は薄くなり、地面から湿った草と黒い土が現れ始めた。
報告にあった鹿の死体はすぐ見つかった。岩角鹿より小型の種だったが、首の骨を一撃で折られ、腹部を食べられている。周囲には幼獣と思われる小さな足跡が複数あり、その上から若い成獣の足跡が重なっていた。
旦那個体のものではない。足跡の幅が狭く、歩幅も短い。奥方個体よりはるかに小さいが、幼獣ではあり得ない大きさだった。
膝をつかず、立ったまま痕跡を確認した。体高的には、立位の状態の方が氷嶺白虎の大きさに近い。視点を下げれば見えるものが変わるので、移動先を調べるには立ったままの方が都合がいい。
風は北から南へ流れている。まだ近くにいる場合、こちらの匂いはすでに向こうへ届いている可能性が高い。
バルトも同じ判断をしたらしく、槍を肩から外して地面へ置いた。戦うためではない。武器を持っていないと示すためである。
鹿の死体から離れ、足跡の続く方角へは進まず、迂回して村へ戻るつもりだった。
ところが細い林を抜けたところで、アリアが小さく息を呑んだ。雪の消えかけた平地に、白い幼獣がいた。
一頭は草の根元へ頭を突っ込み、顔を泥で汚している。もう一頭は細い木へ爪を立て、樹皮を削っていた。三頭目は見慣れない草を噛み、ひどく不味そうな顔をしている。それでも懲りずにまた噛んだ。
距離は百メートルもない。これまで観察した場所より、村に近すぎる。もう少し先にいると想定していたため、近付き過ぎてしまった。
幼獣だけでここまで来るとは考えにくい。しかも見えるのは三頭だ。確認されている幼獣は四頭である。一頭足りない。
その事実を認識した瞬間、背筋が冷えた。見えない一頭は、私たちから離れた場所へ迷い出ているのではない。幼獣が危険を感じた際に向かう場所は、巣穴か、成獣のそばだ。この平地には身を隠せる巣穴がない。ならば成獣がいる。見つけられないだけで、すぐそばにいる。
私は視線を動かさず、声を可能な限り低くした。
「戻ります。ゆっくり後退してください」
返事がなかった。
横を見ると、アリアがいない。彼女は私が言葉を発するより先に、平地の端へ伸びる茂みへ向かって歩き始めていた。三頭の幼獣だけでなく、その向こうにもう一頭を見つけたらしい。細い枝の隙間から、白い丸い耳が覗いている。アリアの歩幅が大きくなる。走ってはいない。本人は慎重に近づいているつもりなのだろう。しかし、近づくなという指示を無視している時点で、速度の問題ではない。
「アリア、止まれ」
聞こえていないはずはない。肩が一瞬だけ動いた。それでも足は止まらなかった。あれは人の忠告を聞かない人間の動きではない。聞いた上で、自分の場合だけは大丈夫だと勝手に判断した人間の動きだ。
アリアは茂みの前へ立ち、枝を両手で分けた。その向こうにいた幼獣と正面から目が合った。額に縞がない個体である。アリアの顔が一気に明るくなった。
「わあ!! これが氷嶺白虎なんですね!! 大きくてもふもふで可愛い!!!」
私は声を上げそうになり、歯を食いしばった。大声を出せば、こちらまで注意を引く。アリアは幼獣へ一歩近づいた。幼獣は逃げなかった。耳を少し伏せ、身体を固くしている。好意的に待っているのではない。恐怖で動けなくなっている。
アリアはそれを理解せず、腰をかがめた。右手を伸ばす。神へ仕える者が祝福を与える時のような、ゆっくりとした動作だった。幼獣の額へ触れようとしている。私は今度こそ止めようと身体を起こしかけた。その瞬間、人間の幼子と同じ高い声が平地へ響いた。
「おじちゃんたすけて!! 人間がわたしのこといじめるよお!!!!」
やはり、あの個体が神獣だった。その確認に感動している余裕はなかった。少し高く積もった雪が、内側から破裂したように弾けた。何もいないと思っていた場所から、巨大な白い影が飛び出した。姿を現すまで、そこに成獣が伏せていたことへまったく気づかなかった。
雪と毛の境目が消え、薄い縞は解け残った木の影へ紛れていたのだ。
影は地面すれすれを滑り、ひと息でアリアと幼獣の間へ入った。前足が振られた。爪は出ていない。アリアの身体へ直接触れてもいない。それでも踏み込みで地面が砕け、巻き上がった雪と空気に押し飛ばされ、アリアは背中から茂みへ突っ込んだ。
枝がまとめて折れ、帽子だけが高く舞った。身体は雪の上を二度、三度と転がり、岩の手前で止まった。バルトが前へ出ようとして、反射的に腕を伸ばし、胸の前を遮った。
「行くな」
「だが」
「今出れば、私たちまで幼獣へ近づくことになる」
成獣はアリアを追わなかった。幼獣の前へ立ち、四本の脚で地面を踏みしめている。毛は逆立ち、耳は後ろへ伏せられ、唇の下から長い牙が覗いていた。
近くで見れば、旦那個体より明らかに小さい。体長は四メートルに届かないだろう。肩や胸の筋肉もまだ完成しておらず、脚は成長期特有の細長さを残している。
雄と思われる。黒い縞の配置には奥方個体と共通する特徴があった。左肩から胸へ落ちる二本の縞が途中で交わり、目尻の模様が片側だけ短い。
奥方個体そのものの子ではない。年齢が合わない。おそらく奥方個体と同腹だった個体、その子にあたる若虎だ。
血縁の若い個体が親族の幼獣を見守る例は、過去の記録にもわずかながら残っている。
両親が狩りへ出る間、独立したばかりの子や近縁個体が幼獣のそばへ残る。
人間で言えば、年長の従兄弟が子守を任されるようなものだろう。この役割を担うのは、独り立ちして間もない若虎である場合が多い。
人間の年齢へ無理に置き換えるなら十代後半。身体はすでに人間を簡単に殺せるほど大きく、狩りもでき、自分が強いことを覚え始めた一方で、経験と抑制はまだ成獣に及ばない。
最も血気盛んで、人類にとって最も危険な年代の虎だった。
若虎が息を吸い込む。胸が膨らみ、周囲の雪が風もないのに後ろへ退いた。
バルトが低く身を伏せる。私も従い、彼の外套をつかんだまま地面へ身体を寄せた。助けに出てはいけない。アリアが生きているなら、自分で敵意がないことを示すしかない。
若虎は直接当てなかった。あれほどの速度と力を持ちながら、幼獣だけを避け、アリアにも前足を触れさせていない。殺すつもりなら、すでに終わっている。今はまだ警告だ。ここで新たな人間が飛び出せば、警告で済ませる理由を失わせる。
若虎が吠えた。音より先に地面が震え、腹の奥を握り潰されるような衝撃が走った。
雪が薄い板のようにめくれ、土と折れた枝がアリアの方角へ吹き飛ぶ。平地にいた三頭の幼獣が一斉に若虎の背後へ集まり、左右から神獣の個体を挟んだ。
若虎は四頭がそろったことを確認するように一度だけ顔を動かし、再び倒れたアリアへ牙を向けた。アリアは動かないが、死んではいない。外套の背がわずかに上下している。意識を失ったのか、動けば殺されるとようやく理解したのかは分からない。
バルトの身体へ力が入るたび、私は腕へ体重をかけて制した。
幼獣が単独でいるわけないだろ、このはしゃぎボケ女!!
叫びたい言葉を喉の奥で噛み殺す。声を出せば、若虎にこちらの位置を知らせる。今はただ隠れ、見ているしかない。神獣を見定めるために来た女は、神獣へ触れるより先に、その一族から人間の脆さを教えられていた。一応その女は教会からの借り物だから、命だけは許して欲しいが……難しいだろうか…………。
叔父虎×
従兄弟虎〇
がうーわくんちゃんは虎語が分からず、とりあえずおじさんだと思っていますが、実際は人間年齢17歳くらいの最も年下にええかっこうしたい年齢の雄虎です。
Xより参照
人間にとっての最悪情報
子育てつがいに顔を見せに来た親族の白虎は幼獣の面倒をよく見るが、慣れていない若い虎は幼獣に良いところ見せようとして人里に近づくことがある。珍しいものが沢山あり、なんかおもしろいから。




