下山
アリアはしょんぼりしたまま、襟首を掴む手とブラムウェルの顔を交互に見ていた。随分と気の毒な様子だが、二人の間に何があったのかはフィロンも知らない。下手に口を挟んでもよいことはなさそうなので、ひとまず見なかったことにした。
人間関係というのは、いつの時代も難しいものだ。フィロンもよく師やクラウディアから叱られていた。ひとつのことに集中しすぎるとか、話が長すぎるとか。
そうこうしているうちにレオンハルトを運ぶ準備が整ったらしく、護衛たちが担架の周りに集まり始めた。その様子を眺めていたフィロンは、ふと思いついた。
「そうだ。もし構わないのなら、私も一緒に行っていいかな。彼の脚はしばらく様子を見ておきたいし、今のところ他に用事もないんだ。村までの道のりも、それなりにあるのだろう?」
何気なく尋ねたつもりだったが、周囲の人間たちが一斉にこちらを向いた。ブラムウェルなどは一瞬ぽかんと口を開け、すぐに何か言おうとして失敗していた。アリアは両手を胸の前で組み、今にも祈り始めそうな顔になっている。おや、何かいけないことを言っただろうか。
「……フィロン殿も、我々と一緒に村へおいでになると?」
「うん。迷惑でなければね。添え木がずれるようなことがあれば困るし、せっかくここまで診たのだから、落ち着くところまで見届けたいんだよ。性分というものかな」
「迷惑など、とんでもない! こちらからお願いしたいくらいです。ですが、その……本当によろしいのでしょうか?」
「もちろん。私も久しぶりに人間の暮らしを見てみたいからね。人の様子も随分と変わったのだろうし、少し楽しみだよ」
フィロンは穏やかに答えた。
考えてみれば、こうして人間たちと落ち着いて話をするのは、蛇として生まれて初めてのことかもしれない。何も知らなかった頃に人間の前に姿を現したときは、鍋に入れられそうになって慌てて逃げた。
以来、人の様子を知りたい時は屋根裏や床下などに潜み、なるべく人間と顔を合わせずに隠れて暮らしてきた。人間そのものが嫌いになったわけではない。相手が怖がらないのであれば、もっと色々と話をしてみたいところだ。何しろフィロンという男は、元来好奇心が旺盛で、人との交流を好む性質なのだ。こう見えても。
その点、今度の人間たちはフィロンが医者であることを知っているし、何よりレオンハルトがいる。いきなり鍋へ入れられることもないだろう。
ブラムウェルは何やら考え込んでいたが、やがて深々と頭を下げた。
「それでは、ぜひともご同行をお願いいたします。村へは先に使いを出しましょう。フィロン殿をお迎えする準備も必要でしょうから」
「そこまでしてもらわなくてもいいのだがね。私はあまり人前へ出ない方がいいのかもしれないし、村の外れで待っていても構わないよ」
「いえ、そんな!」
何故かアリアが悲鳴のような声を上げた。ブラムウェルに襟首を掴まれたまま身を乗り出し、危うく法衣の首元を締められかけている。
「せっかくおいでくださるのですから、ぜひ大神殿の者としても……いえ、もちろんフィロン様のお気持ちが第一ですが、出来ることなら少しでもお話を……」
「アリア、落ち着きなさい。まずはレオンハルトを村へ連れ帰るのが先でしょう」
「わ、分かっています! それはもちろん分かっていますから、そろそろ手を離してください!」
どうやら話はまとまったらしい。フィロンは満足して頷いた。若干気になるところはあるものの、誰かに歓迎されるというのは嬉しいものだ。その時、ふとガウーワのことを思い出した。
「そういえば、私もレオンハルトもいなくなっていたら、あの子が心配するかもしれない。何か目印のようなものを残しておきたいのだが……」
せっかく約束した場所へ戻ってきて、誰もいなかったら驚くだろう。いないいないと探し回り、2人とも死んだんだ! 人に食べられた! と泣きそうだ。さすがに幼獣思考すぎるだろうか。
彼女はここへ来る途中で人間たちと顔を合わせているはずだから、レオンハルトが無事に保護されたことくらいは想像できるだろう。それでも、一言くらい残しておいた方が親切というものだ。
フィロンは少し考え込んだ。ガウーワがまたここへ来た時、自分たちが村へ向かったことをどう伝えればよいだろう。
何か目印を残しておけば気づいてくれるかもしれないが、あいにく今の自分には手がない。胴を使って雪の上へ文字を書こうにも、雪が降れば消えてしまうし、そもそも彼女が自分の知っている文字を読めるかどうかも分からなかった。さて、困ったものだ。
「フィロン、どうしたの?」
担架の上から、レオンハルトがこっそり声をかけてきた。フィロンが顔を近づけると、少年は周囲の大人たちを気にしながら、さらに声を潜める。
「何か考え事?」
「ああ、ガウーワに伝言を残したくてね。私たちがいなくなっていたら、きっと心配するだろう? 何か書いておければいいんだが、どうしたものかと思っていたんだよ」
「あ、それなら俺が書くよ。ちょっと待って」
レオンハルトは毛布の下へ手を入れ、コートの内ポケットを探りはじめた。やがて取り出したのは、短くなった炭筆だった。山を歩く時に目印を残そうと思って持ってきたものらしい。
「あー……俺、これ持ってたんだから、あちこちに印つければよかったんだよな……。帰る道が分からなくなった時も、目印があれば同じところをぐるぐる歩かずに済んだかもしれないのに。パニックになってると、こういうことも思いつかなくなるんだ……」
レオンハルトはしょんぼりと肩を落とした。確かに、遭難した時に目印を残すのは有効な手段である。とはいえ、怪我をして雪山を彷徨っていた子供に、そこまで冷静な判断を求めるのも酷というものだろう。精神は身体に引っ張られる。前世が何歳だとしても、今のレオンハルトは世間知らずの子供でしかない。
「無事だったのだから、それで十分だよ。次に同じようなことがあった時には、きっと思い出せるさ。まあ、次などない方がいいけれどね」
「うん……もう絶対に嫌だ」
レオンハルトは近くにあった平たい石へ目を向けた。フィロンが胴の先で雪を払い、少年の手元へ寄せてやると、彼は毛布の中から片手を出して文字を書き始めた。
石の上へ描かれていくのは、フィロンの知らない文字だ。ところどころに直線があり、曲線があり、ひとつの形の中に幾つもの線が組み合わされている。何かの絵かとも思ったが、それにしては形の並べ方に規則性があった。大きさも揃えてあるし、行を変えるところにも意味がありそうだ。
レオンハルトは時折首を傾げながら、慎重に筆を動かしていた。やがて書き終えると、少し離れて出来栄えを確かめ、最後に小さな字を付け足して満足そうに頷く。石には、こう記されていた。
『ガウーワへ
無事に助けられました。フィロンもいっしょにセデ村へ行きます。心配しないで。
レオンハルト』
最後に、丸い虎らしきものが添えられている。耳があり、髭があり、胴体らしい部分から四本の線が伸びていた。虎だと言われればそう見えなくもないが、本人が見たら少し不満に思うかもしれない。
「おや、君たちの文字かい?」
フィロンは声を潜めて尋ねた。
「うん、多分平成も令和とそんなに文字変わってないはず……たぶん、歴史あんまり覚えてないけど……」
レオンハルトも小声で答える。途中から自信がなくなってきたらしく、最後には少し首を傾げていた。
ヘイセイとレイワ。同じ国なのに呼び方が違うのは、王が代わったからだろうか。ガウーワの言うヘイセイの方が古いらしいので、ヘイセイの王をレイワの王が討ち取ったのかもしれない。
レオンハルトとガウーワは互いに知らない言葉を使うこともあるから、もしかすると祖は別の民族なのだろうか。かつてローマがアルバ・ロンガを滅ぼし、住民をローマへ移住させたように、征服した国の民を取り込んだのかもしれない。
そういえば、アルバ・ロンガの独裁官メッティウスはローマを裏切った罰として、二台の戦車に身体を結びつけられ、引き裂かれたのだった。ヘイセイの王もそのような最期を迎えたのだろうか。だとすれば、なかなか過酷な歴史を持つ国のようだ。
フィロンは少しばかり気の毒に思った。ガウーワもレオンハルトも、故郷についてはあまり多くを語りたがらない。戦乱の記憶があるのなら、無理に尋ねるのもよくないだろう。今度は彼らの好きだった食べ物についてでも聞いてみよう。食文化というものは、征服した側とされた側の習慣が混ざり合うことも多い。案外、二人の好物にも共通点があるかもしれない。
それにしても、なかなか面白い文字だった。縦にも横にも書けそうだし、形も独特である。今度機会があれば、どのように読むのか教えてもらうのもいいかもしれない。
「これならガウーワも分かると思う。……あ、でも、見つけてくれるかな」
「どうだろうね。彼女は鼻が利くようだから、またここへ来れば私たちの匂いに気づくかもしれない。何も残さないよりはいいだろう」
「そっか。じゃあ、見つけてくれるといいな」
レオンハルトはもう一度石を眺め、最後に描いた虎の絵を指先で少し擦ろうとして、慌てて手を引っ込めた。まだ墨が乾いていない。本人も出来栄えには納得がいかなかったらしいが、結局何も直さずに諦めたようだ。
フィロンはそんな少年をそっと担架へ寝かせ、毛布を咥えて掛け直してやった。周囲の大人たちは出発の準備に忙しく、二人が何をしていたのか気づいていないようだった。
さて、これでガウーワへの伝言も残せたし、あとは村へ向かうだけである。フィロンは少し考えてから、レオンハルトの腹の上に胴の一部を乗せ、くるりと丸くなった。もちろん怪我をした脚には触れないように、毛布の上へそっと身体を預ける。
「……フィロン、俺の上に乗っていくの……?」
「そうだよ。私が君たちの後ろからついていくよりは、この方がいいだろう?」
自分が人間にとって恐ろしい捕食種であると知った以上、巨大な蛇に追跡されながら雪山を下りるという状況は、彼らの精神衛生上よろしくないだろう。怪我人の腹の上で丸くなっている方が、まだ穏当な光景に見えるのではないだろうか。少なくとも、いきなり襲いかかってくるつもりのないことは伝わるはずである。
それに、フィロンは蛇なので雪があまり好きではない。丈夫な身体ではあるものの、変温動物であることに変わりはなく、冷たい雪に長く触れていると動きが鈍くなってしまう。何より、身体が冷えるというのは単純に不愉快だった。寒いなあ、動きにくいなあ、と思いながら雪の上を這うよりは、暖かい場所で大人しく運ばれている方がよい。
その点、レオンハルトは恒温動物だ。おまけに毛布まで掛けているので、なかなか居心地がいい。人間というのは、こういうところが便利な生き物だ。自分で熱を作れるのだから、冬でもこうして暖かくしていられる。
フィロンは満足してとぐろを整えた。
レオンハルトは何か言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。おそらく、もう何を言っても無駄だと思ったのだろう。
ブラムウェルは少し離れたところで、神官たちと何やら深刻そうに話し込んでいた。
「……本当に、我々と一緒に村へ来てくださるのですね。これは……いや、何と言えばよいのか。私も長く魔獣の研究に携わってきましたが、こんなことは初めてです」
「先ほどお会いした白虎の神獣様だけでも、歴史に残る出来事でしょう。それが同じ山で二柱とは……しかも、こちらの神獣様は人間の医術までご存じなのですから」
「まだ神獣と決まったわけではありませんよ。ですが、仮にそうでなかったとしても、人語を話し、医術を心得た白影大蛇が人間の集落へ自ら同行するというだけで、過去の記録をすべて調べ直す必要が出てきます。白影大蛇が人間へ友好的に接した例など、私の知る限り一つもありません」
ブラムウェルは興奮もあらわに早口で捲し立てた。そもそも、彼は神獣の担当者ではない。王立博物院第三魔獣研究室に所属する研究者で、専門は文字通り魔獣。今回も氷嶺白虎を調査するため、遠路はるばるこの雪山までやってきた結果、盛大に巻き込まれてこんなことになっている。
白影大蛇もまた、彼が長年研究してきた魔獣のひとつだった。
本来なら危険すぎて実地調査すらまともに行えない相手が、今こうして目の前にいる。それも人の言葉を話し、こちらの問いかけに答え、挙げ句の果てには怪我人の手当てまでしている。神獣か否かなど、もはやどうでもよかった。研究者として、これほど心躍る出来事がほかにあるだろうか。いや、ない。
ブラムウェルは大人なので、辛うじて平静を保っていた。あと十年ほど若ければ、雪の上を転がり回りながら踊り出していたかもしれない。それくらい嬉しかった。今すぐ研究室の同僚たちに自慢して回りたいし、何なら全員ここへ呼びつけたい。諸君、見たまえ! 白影大蛇が喋っているぞ! しかも話が通じる! 素晴らしい! 実に素晴らしい! 白影大蛇を目の前にして、情報を得て、生きて帰れるぞ!
そんな興奮が、どうやら少しばかり身体に漏れ出していたらしい。本人は至って真面目な顔をしているつもりだったが、先ほどから膝が小刻みに弾み、肩まで楽しげに上下している。ついでに、アリアの襟首を掴んだ手も一緒に動いていた。
「ブラムウェルさん? 締まります、締まっています! あの、首が!」
アリアが悲鳴を上げた。しかし、ブラムウェルは聞いていなかった。今、彼の頭の中では白影大蛇に関する既存の研究が次々とひっくり返り、新たな論文の構想が恐ろしい勢いで組み上がっているところだった。お前に構っている暇はないので、もう少し静かにしていてほしい。
そうこうしているうちに、アリアは身体をくねらせ、エビのような動きで何とか抜け出す。そのまま素早く後退し、オスカーの背後へ逃げ込むことに成功した。当のオスカーはといえば、こちらも神官の一人にベルトをしっかり掴まれており、どうやら先ほどの一件以来、自由に動くことを許されていないらしい。
結果として、この場における「何かやらかしそうな二人」が一か所にまとまった。監視する側としては、なかなか都合のよい配置になったようである。
「村へ戻ったら、まずは丁重にお迎えする準備を整えなければなりませんね。大神殿にも報告を……いえ、どこまでお伝えするべきなのでしょう。神獣様ご自身が、神獣かどうか分からないと仰っていたのですし」
ゲルハルトは難しい顔をしていた。神獣を迎えるとなれば、大神殿への報告はもちろん、滞在場所や世話をする者についても考えなければならない。何しろ相手は白影大蛇である。普通の客人と同じように扱ってよいものかどうか、判断に困ることが多すぎた。
「そうですね。少なくともフィロン殿のご意向を伺わずに、あちこちへ知らせるのは避けた方がよいでしょう。……しかし、ゲルハルト殿。ひとつ気になることがあります」
そう答えたブラムウェルは、先ほどから何かが引っかかっていたらしい。白い大蛇へちらりと視線を向け、しばらく黙り込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「フィロン殿は、レオンハルトへ添え木を当てたのは本人だと仰っていましたね。その時、確か『今は手がないから』と……」
「ええ。そう仰っていましたが、それが何か?」
「考えてみてください。蛇にはそもそも手がありません。人間の医術をご存じであっても、添え木を当てるのが難しいことくらい、本人も分かっているはずです。それなのに、わざわざ『今は』と仰った。これは、以前は手があったという意味ではないでしょうか?」
ゲルハルトの眉がぴくりと動いた。周囲で話を聞いていた神官たちも、思わず顔を見合わせる。誰かが小さく息を呑んだ。
当の白い大蛇はといえば、何が楽しいのか、レオンハルトと一緒になって岩に描かれた落書きを眺めていた。どうやら話が長引いているうちに退屈し、二人で遊び始めたらしい。レオンハルトもあれだけの目に遭ったというのに、もう落書きをして遊ぶ余裕があるとは。なんだかんだいって、まだ子供なのだ。
「……ブラムウェル殿。つまり、あの方はかつて人間だった可能性があると?」
「分かりません。ですが、あの方は人間の身体について随分と詳しい。骨折の手当てもご存じでしたし、昔は患者を診ていたというような話し方をなさっていたでしょう。もし本当に、かつて人間として暮らしていたのだとしたら……」
ブラムウェルはそこで言葉を止めた。人間が魔獣へ変わるなど、聞いたこともない。少なくとも彼の知る限りでは、そんな現象を裏づける記録も見つかっていない。研究者として、根拠のない推測を事実のように語るわけにはいかなかった。
しかし、目の前にいる白影大蛇は人間の言葉を話し、医術を心得ている。それだけでも十分に常識外れなのだから、今さら一つや二つ、さらに不可解な事情が増えたところで驚くには値しないのかもしれない。いや、驚くには値する。十分すぎるほど値する。
「……もしそうなら、神獣という存在の成り立ちそのものを考え直す必要があるのではありませんか」
ゲルハルトが低い声で呟いた。
ブラムウェルはすぐには答えず、懐から手帳を取り出した。先ほどから書き留めたいことが山ほどあるのに、どうにも落ち着いて筆を取る暇がない。いっそ白影大蛇について尋ねたいことを片端から質問してしまおうかとも思ったが、ここは雪山の真ん中で、怪我人までいる。さすがに今は自重すべきだろう。大人というのは、こういう時につまらないものである。
「……ひとまず村へ戻りましょう。フィロン殿には、落ち着いてから改めてお話を伺えればと思います」
「そうですね。レオンハルトをいつまでも雪の中へ置いておくわけにはいきません。皆さん、準備はよろしいですか」
ゲルハルトが護衛たちへ声をかけると、それぞれが担架の前後へ回った。少年の身体を揺らさないよう、慎重に持ち上げようとする。ところが、そこでレオンハルトが困ったような声を上げた。
「フィロン、待って。だいぶ重い! さっきから我慢してたけど、やっぱり重いよ! 地面に重さ分散されないと無理! 潰れる!」
「おや、そうかい? 私は同族の中では細身だと思うよ」
「そういう問題じゃなくて……! 俺、足も折れてるんだから、俺の上じゃないところに乗ってくれないかな……たぶん、俺と同じくらいの体重だよ……」
フィロンは自分の胴を見下ろした。確かに、長く生きているうちに随分と身体は大きくなったが、太っているつもりはない。むしろ、これまで見かけた同族の中には、もっとずんぐりとした体型のものもいた。彼らと比べれば、なかなか均整の取れた身体ではないだろうか。
とはいえ、レオンハルトが重いというのなら仕方がない。フィロンとしても、怪我をした子供へ無理をさせるつもりはなかった。さて、どこへ移動したものか。地面へ降りるのは寒いので避けたいところだが、担架の端にでも乗せてもらおうか。長く伸びれば引き摺られずに済むだろうか。そんなことを考えていると、そばにいたオスカーがおずおずと声をかけてきた。
「あの、フィロン様。よろしければ、私がお運びいたしましょうか? レオンハルトの身体にも負担がかかりますし、私でしたら少々の重さは問題ありませんので。お身体が冷えないよう、外套の中へお入りいただいても構いません」
「おや、それはありがたいね。では、お言葉に甘えようかな」
フィロンはそのまま肩へ這い上がり、首の後ろを通って反対側へ胴を垂らした。残りの身体は胸と背中へゆったり回し、頭を肩口へ乗せて落ち着く。もちろん、首へ重さがかからないよう気をつけている。蛇としてはごく自然な姿勢だし、こうしておけばオスカーも両手を自由に使えるだろう。なかなかよい乗り心地である。
「おお……」
周囲から、何ともいえない声が上がった。
褐色の肌をした逞しい神官の首に、純白の大蛇が幾重にも巻きついている。赤い瞳をした頭が肩口から覗き、時折ちろりと舌を出すものだから、実に迫力があった。先ほどまで白影大蛇を恐れていた護衛たちはもちろん、神官たちまで揃って言葉を失っている。
オスカーも一瞬だけ身体を強張らせたものの、すぐに姿勢を正した。さすがはルーヴェルの神官、肝も据わっているらしい。
「これはなかなか具合がいいね。まるで捕食みたいだ」
フィロンが満足そうに言った。
全員が思った。
それをお前が言うな、と。
しかし、相手は神獣かもしれない白影大蛇であり、今まさに人間の首へ巻きついている最中でもある。下手に刺激して、冗談では済まない事態になったらどうするのか。誰もが口を開くのを躊躇った。ただ一人、アリアを除いて。
「それをご本人が仰らないでください」
ズム、と小さく鈍い音がする。
「痛っ!?」
アリアが横腹を押さえて飛び上がる。隣に来ていたブラムウェルが、実に素早い動作で彼女の横腹を叩いたのだ。諌める為のものとしては少々重い音だった。
先ほどまで研究者としての知的興奮に浸っていた男とは思えない、見事な反射速度であった。
「えっ、なんでですか!? 私、今のは普通の感想だと思うんですけど!?」
ブラムウェルは答えなかった。ただ、アリアをじっと見ている。その目には、余計なことを言うなという強い意思が込められていたが、あいにく彼女には伝わらなかったらしい。
アリアはしばらく不満そうにしていたものの、やがて何か思いついたように顔を上げた。
「あ、でも、色彩的にはとてもいいと思います! オスカーさんの褐色の肌にフィロン様の白い鱗がよく映えていますし、赤い瞳も素敵なアクセントになっていて、まるで絵画のようです! 特に、肌の色との対比がとても美しくて……」
ズム。
「痛い! 今度は褒めたじゃないですか!」
「少し黙ってくれ」
「な、なんでですか……?!」
アリアとしては純粋な賛辞のつもりだったのだが、ブラムウェルにしてみれば、今この状況で神獣を首に巻いた人間の色合いを褒めるという発想そのものが理解できなかったらしい。そもそも、首に蛇を巻きつけているオスカー本人の心情について、少しくらい配慮してもよいのではないだろうか。
そのオスカーはといえば、褒められたことに礼を言うべきか、それとも自分の首が絞まっていないことを報告するべきか迷っているようだった。結局、どちらも口にしないまま、肩に乗ったフィロンの頭へ視線を向ける。
「……あの、フィロン様。苦しくはありませんか? 少々窮屈でしたら、抱え直しますが」
「私は大丈夫だよ。君こそ、重くはないかい? レオンハルトには随分と重いと言われてしまったからね」
「はい。これくらいでしたら問題ありません。どうぞ、そのままお寛ぎください」
「ありがとう。君は親切な人だね」
フィロンはすっかり機嫌をよくし、首の周りでとぐろを整えた。オスカーの身体は温かく、肩も広いので安定している。しかも自分で歩かずとも村まで運んでもらえるというのだから、これ以上望むこともない。
レオンハルトは担架の上からその様子を見つめ、何か言いたそうに口を開いたが、結局そのまま毛布の中へ顔を埋めてしまった。
ゲルハルトは甥の首に巻きついた白影大蛇をしばらく眺めていたものの、本人が平然としているのを確かめると、護衛たちへ出発を命じた。
こうして一行は、ようやく雪山を下り始めることになった。
担架に乗せられた怪我人と、その傍らを歩く神官たち。そして、褐色の肌をした青年の首に巻きつき、満足そうに運ばれていく白影大蛇。
なかなか人に説明しづらい一団となってしまったが、当のフィロンは至って上機嫌である。久しぶりに人間たちと話ができるうえ、温かな乗り物まで手に入ったのだ。村へ着いたら何をしようかと考えるだけでも楽しい。
一方、首に神獣を巻きつけたまま雪道を歩くオスカーは、途中で何度か護衛たちから心配そうな視線を向けられたものの、そのたびに大丈夫だと頷いてみせた。
実際、重さについては何の問題もない。鍛えあげた身体には、この程度の負担などどうということもなかった。
ただ、白影大蛇が時折ちろりと舌を出すたび、頬のあたりを何か冷たいものが掠める。どうやら舌が当たっているらしい。
それだけはどうしても慣れず、オスカーは前だけを向いて何も言わず歩をすすめた。
オスカー・ライネルト、24歳。苦手なものは、ひんやりした生き物。もちろん、蛇も苦手だった。




