西部山岳帯セデ村滞在中の覚え書き【2】
雪融月九日。
雪解けを祝う小さな祭りが行われた。
氷嶺白虎を直接祀る祭礼ではないが、最初に焼いたパンの端と乾燥肉を一片、村の北側にある平たい岩へ置く。
白虎への供物かと尋ねると、マレは「虎に食べてもらいたいんじゃない。山に、今年もここで暮らしますと知らせるんだ」と説明した。
実際、置かれたパンを白虎が食べることはなく、夕方にはタヌキか狐か鳥が持っていく。それでも毎年続けている。
西の国の王都では、氷嶺白虎は神殿の壁画に描かれ、王冠や剣と並ぶ守護の象徴となっている。
冬を封じる白き王、悪しき群れを退ける山の眼、王国の西を守る神の牙。呼び名はいくつもある。
ここでは「旦那は昨日もどでかい猪を運んでいた」「奥方は子どもが生まれると気が立つから気をつけろ、人間とおんなじだ」と話される。遠くでは神となり、近くでは隣人となるらしい。
祭りの間、奥方個体の話を聞いた。
半年前から姿を見せず、旦那個体の狩りが増え、夜には岩山の方角から高い鳴き声が聞こえる。
幼獣の声を聞いたと主張する者も複数いるが、一頭と言う者もいればもっといたと言う者もおり、鳥の声だったと笑う者もいる。
繁殖の可能性は高いが、巣穴へ近づくことはできない。出産直後の雌は、普段の無関心が嘘のように警戒心を強める。巣へ近づいた相手が敵意を見せるまで待つとは限らない。そして出産直後というのは、人間の感覚で測れない。五年程経ったとしても氷嶺白虎の感覚では出産直後だという危険性がある。子育て期間の長い長命魔獣の感覚は、基本的に人間とはズレている。
私は研究者として巣の位置を確認したい。
しかし、希少種の初産を妨げてまで記録を取る意味はない。博物院へ提出する報告書に「接近できなかった」と書くのは悔しいが、「接近した調査員が帰らなかった」と書かれるよりはよい。後者の場合、書くのは私ではないだろうが。
雪融月十日。
夜明け前、北西の岩山から低く長い鳴き声が聞こえた。
数秒後、別の方角から旦那個体と思われる声が返り、その後、さらに高く短い声が複数重なった。
風が強く、岩壁の反響もあったため、数までは判断できない。ただし、成獣二頭以外の声が存在する可能性は極めて高い。
午前中、バルトと鳴き声の方角を遠巻きに調べた。
雪上に旦那個体の足跡があり、北西の岩壁へ続いていた。岩場へ入ると痕跡は消えたが、周囲には青晶石が多く露出しており、洞窟内部の魔力濃度も高いと思われる。
氷属性の魔獣が巣穴として選ぶには適した場所である。そこから先へ進もうとしたところ、バルトが無言で私の外套をつかんだ。
前方の岩に、幅50cm近い爪痕が四本残っていた。新しい。岩の表面は白く凍り、爪痕の奥から冷気が漏れている。警告として意図的につけたものかは分からないが、少なくとも、この先が白虎の活動域であることは明確だった。
戻る途中、雪の上に小さな足跡らしき窪みを見つけた。
幅は15cmほど。輪郭が崩れ、狐や小型魔獣のものと区別できなかったため、証拠とはしない。ただ、バルトは見た瞬間に少し笑い、「四つくらいなら、旦那も大変だ」と言った。なぜ四頭だと思うのか尋ねたが、「勘だな」としか答えなかった。村人の勘は時に研究者の理論より正確なことがある。判断の材料にしてもいいだろう。
雪融月十一日。
旦那個体が村の近くまで来た。
午前五時頃、家畜小屋の犬が一斉に吠えたため外へ出ると、畑を囲む石壁の向こうに白い背中が見えた。
距離は約80m。白虎は立ち止まり、村の方を見ていた。口に獲物はなく、警戒や威嚇は見られない。犬が吠え続けても反応せず、しばらく風の匂いを嗅いだ後、地面へ鼻先を近づけた。
前日、村人が白虎の狩り残しから甲殻猪の肉を持ち帰り、その一部を畑の近くで解体していた。旦那個体は血の匂いを追ってきたのだろう。私は緊張したが、エダンは白虎へ背を向け、犬を小屋へ入れ始めた。
ほかの村人も騒がない。旦那個体は石壁の外をゆっくり歩き、村を半周した後、森へ戻った。放棄した獲物を人間が利用したことに怒った様子はない。
「旦那も、こっちが残りを食うことくらい分かってる」とエダンは言った。白虎は人間に興味がないが、人間を見ていないわけではない。
必要なところだけを観察し、記憶している。無関心と無知は違うのだろう。
雪融月十二日。
吹雪で身動きが取れない。一応確認したが、春で間違いなかった。これが西部の春。北はこれより凄いらしいと聞いて、北部の神獣『玄嶺大亀』の調査に向かった友人に思いを馳せた。生きて再会出来るだろうか。彼は私よりも“春”に期待しすぎていた。西でこれなら北はもう……おしまいだ……。
雪融月十三日。
吹雪が止んだ。
村人が雪かきでドアの前の雪をどかしてくれるまで、助けを祈りながら天を仰ぐことしか出来なかった。村人は誰も気にしていない。脱出用に、上部にドアがついていたと救出後に説明された。無用芸術か、洒落てるなと思考停止していたが、実用性でつけられていた設備だったらしい。
今日も外へ出られないため、白虎の毛皮に関する記録を村長宅で見せてもらった。
セデ村には、約百五十年前に自然死した雄個体の毛が少量残されている。
毛皮ではなく、死体の周囲に落ちていた冬毛を集め、布袋へ入れたものだ。
一本一本が太く、白い毛は光を受けると薄青く輝く。室内の暖炉近くに置いても冷たさを保っていたが、霜が出るほどではない。
王都で売られている偽物より、見た目はむしろ地味である。本物はピカピカと過剰に光らない。
その個体は、村から離れた谷で横たわったまま死んでいたらしい。
傷はなく、歯の摩耗と毛の状態から老衰と判断された。村人は三日間死体へ近づかず、家族が来るかを待った。
二日目の夜、複数の白虎の声が聞こえ、翌朝には死体の周囲へ大きな足跡が残っていた。三日目以降、家族が戻った痕跡がなくなったため、村人は毛と牙の一部を採取し、残りはその場へ置いた。翌年、骨だけになった場所を白虎が通ったが、村へ報復はなかった。
自然死であれば許されるというより、家族が死を確認し、別れを終えた後の身体は、山へ返されたものとして扱われるのだろう。
人間がその一部を利用しても、彼らにとっては自然の循環から外れないのかもしれない。もちろん、これは人間側から見た解釈である。
白虎が「自然の摂理」という言葉を持っている保証はない。ただ、殺された死体と自然死した死体を区別していることは確かだ。
雪融月十四日。
午後には日が出た。明日か明後日には一度、北の斜面を広く観察するつもりで装備を確認した。
望遠鏡、記録板、防寒具、魔力測定器、非常用の発煙筒。発煙筒は白虎を驚かせる可能性があるため、使わない方がよい。持っていく意味は薄いが、持たずに出ると博物院の規則違反になる。規則というものは意味がなくても守る義務が発生する。厄介なものだ。
夕方、カノンが集会所へ来て、北の岩場で白い子どもを見たと言った。山犬ではなく、耳が丸く、尻尾が太かったという。
距離は遠く、すぐ岩陰へ消えたため確証はない。目撃地点は村から約4km。巣穴から幼獣が歩いて出られる距離として不自然ではない。
奥方個体がすでに幼獣を外へ連れ出しているなら、生後数か月は経過しているだろう。
明日は日の出後に現場へ向かう。接近はしない。風向きを確認し、少なくとも500m以上の距離を取る。
白虎に発見された場合は立ち止まり、武器を地面へ置き、視線を下げる。幼獣が近づいてきても触れない。走らない。遊びへ応じない。文章にすると簡単だが、体重数百kgの白い虎が嬉しそうに走ってきた場合、自分が冷静でいられる自信はない。
雪融月十五日。
本日、氷嶺白虎の繁殖を確認した。幼獣は四頭。奥方個体も健在であり、旦那個体と共に育児を行っている。まずは観察できた事実を、可能な限り順序立てて記す。
午前八時、カノンが前日に目撃した北斜面へ、バルトと向かった。天候は晴れ。風は南東から北西へ吹いており、我々の匂いが岩場へ流れる条件だったため、白虎に気づかれないことより、こちらの存在を早い段階で知らせる方が安全と判断した。岩陰へ身を隠し、斜面全体を見渡せる位置で待機した。
一時間近く何も現れなかった。雪解け水の音と鳥の声だけが続き、私は手袋の中で指が冷えてきたため、調査用の炭筆を何度も握り直していた。
待機中に限って鳥の種類が気になり、研究対象でもないのに羽の色を記録してしまった。後で読み返せば無駄だと思うだろうが、何も起きない時間には、何かを書いていないと自分が仕事をしていないような気分になる。
午前九時十二分、岩陰から小さな白い頭部が現れた。耳は丸く、吻は短い。
成獣より顔全体が丸く、額の縞も細い。幼獣で間違いない。一頭目が周囲を見回して外へ出ると、その後から二頭目、三頭目が続いた。四頭目は少し遅れて姿を見せ、岩を降りる際に前足を滑らせ、腹から雪の上へ落ちた。すぐ起き上がったため怪我はない。
四頭はいずれも生後半年程度と思われる。周囲の木と距離から計算すると、体長は個体差があるが尾を除いて1mから1.5mほど。最も大きな個体でも体重は50kg前後だろう。虎の幼獣をそのまま巨大にしたような印象がある。
毛は成獣より長く、身体の輪郭が丸く見える。一頭だけ額に縞が無く、一頭は左前脚の縞が途中で途切れている。残る二頭は遠目では似ているが、片方の方がやや大柄だった。
幼獣たちは雪の上で互いを追いかけ始めた。一頭が前足で雪を掻くと、小さな氷の塊が飛び出し、別の一頭がそれを追った。
氷を出した本人より先に三頭目が追いつき、横から前足で弾く。四頭目は少し離れた場所で見ていたが、転がってきた氷へ飛びつき、そのまま勢い余って二頭へぶつかった。三頭まとめて斜面を転がり、残った一頭が上から飛びかかった。
爪は出ておらず、牙も毛を浅くくわえるだけだった。組み合い、押し合い、上下を入れ替え、離れたかと思えばまた追いかける。幼獣同士の遊びである。
氷魔法はすでに使えるらしく、くしゃみをした個体の鼻先から白い粉が飛び、隣の個体の髭へ霜がついた。霜をつけられた個体は前足で相手の顔を押し、その拍子に二頭とも転んだ。
午前九時二十分、奥方個体が姿を現した。
旦那個体より明らかに大きい。肩高は2.3mから2.4m、体長は5mを超えると思われる。胸部と腹部の毛が厚く、身体全体に丸みがある。
授乳中であることはほぼ確実だ。奥方個体は岩の上へ伏せ、しばらく幼獣を眺めていた。一頭が駆け寄ると頭から背中を舐め、別の一頭が前脚へ噛みつくと、鼻先で軽く押し転がした。幼獣は怯えることなく、転がった姿勢のまま奥方個体の顎へ前足を伸ばしていた。
その後、奥方個体が立ち上がり、幼獣の間へ入った。
四頭は一斉に母親の脚の周囲へ集まり、腹の下へ潜ろうとした。授乳を求めたのかもしれないが、奥方個体は前足で一頭ずつ押し出し、斜面の下へ歩き始めた。
幼獣たちはすぐ後を追った。少し進んだところで、奥方個体は突然向きを変え、最後尾の一頭へ飛びかかるような姿勢を取った。幼獣は驚いて横へ跳び、ほかの三頭も一斉に散った。
奥方個体は追わず、その場で尾を揺らしていた。狩りや危険回避の練習を兼ねた遊びと考えられる。
午前九時三十一分、旦那個体が斜面上方から現れた。
獲物は持っておらず、巣の周囲を巡回していたものと思われる。幼獣たちは旦那個体を見ると、奥方個体を残して一斉に駆け寄った。
一頭は前足へ抱きつき、一頭は尾の先へ噛みつき、残る二頭は腹の下へ潜り込んだ。旦那個体は座ることも歩くこともできず、その場で脚を少しずつ動かしながら幼獣を踏まないようにしていた。
尾へ噛みついた個体が引っ張られると、旦那個体は尾をゆっくり持ち上げた。幼獣は前足を浮かせながらも離さず、最後には雪へ落ちた。旦那個体は尾を下ろし、もう一度幼獣の目の前で揺らした。完全に遊んでいる。
奥方個体が旦那個体へ近づき、肩をぶつけた。
体重差もあり、旦那個体の身体がわずかに傾いた。旦那個体が顔を向けると、奥方個体は知らないふりをして二、三歩進み、後ろ足で旦那個体の前脚を軽く蹴った。
その後、振り返らずに斜面を駆け下りた。旦那個体はすぐに追った。
奥方個体は全力では走らず、旦那個体が追いつきそうになると速度を上げ、距離が開けば少し緩めた。岩を回り込み、姿を隠し、旦那個体が近づいたところで横から飛び出して肩へ前足をかける。
旦那個体はよろめきながら奥方個体の首へ顎を載せ、奥方個体は身体を沈めて外し、そのまま前足で旦那個体の頬を押した。叩くというより、巨大な肉球で顔ごと横へ向けるような動きだった。
旦那個体が奥方個体の前脚へ甘く噛みつくと、奥方個体はもう片方の前足で鼻面を押さえ、そのまま体重をかけた。
旦那個体は雪の上へ倒れ、奥方個体も一緒に転がった。爪は深く立てず、牙も皮膚へ届かない。耳は伏せ切らず、毛も逆立っていない。喧嘩ではなく、番同士の遊びである。
幼獣たちも周囲へ集まった。親の尾へ飛びつき、腹の下へ潜り、背中へ登ろうとする。
奥方個体は一頭を鼻先で押し転がし、旦那個体は別の一頭を前足の間へ抱え込んだ。残る二頭が走り出すと、大人二頭まで釣られるように後を追った。雪の消えかけた斜面を、六頭の白い虎が入り乱れて走った。
追い、追われ、隠れ、飛びかかり、転がっては起き上がる。足音と息遣い、喉の奥で弾むような短い鳴き声が谷へ響いた。
私は観察を続けながら、旦那個体が何度かこちらを見ていることに気づいた。
最初に視線を向けられたのは、旦那個体が現れて間もない頃だった。おそらく風で匂いを察知していた。旦那個体は我々を数秒見つめ、耳をわずかに前へ向けた。
バルトは槍を地面へ置き、身体を低くした。私も望遠鏡を下げ、視線を外した。
旦那個体は近づいてこなかった。威嚇もせず、奥方個体や幼獣へ警告を発する様子もない。
こちらに敵意がなく、巣へ踏み込む意図もないと判断したらしい。
それ以降は、時折位置を確認する程度で、ほぼ無視された。奥方個体も一度だけこちらを見たが、幼獣を自分の背後へ集めることすらしなかった。これまで村人と築かれてきた関係があるためか、我々の距離が十分だったためかは分からない。ただ、攻撃の意思がないことを理解し、観察を許したと考えてよいだろう。
午前十時頃、奥方個体が岩山の方角へ歩き始め、旦那個体と幼獣たちが続いた。
三頭の幼獣は親の近くを走り、ときどき互いへ飛びつきながら先へ進んだ。額の縞が無い一頭だけが少し遅れ、雪の窪みへ前足を取られて転んだ。すぐに起き上がったものの、家族はすでに岩陰へ差しかかっていた。
その幼獣は家族の方を見て、走り出した。
その時、声がした。
人間の幼子の声だった。
高く、まだ舌足らずで、けれど言葉として明瞭であり、それは「みんな、まってよ」と言っていた。
バルトも私と同時に固まった。私が聞き間違えたのではない。岩陰に人間はいない。村の子どもの声が約4km離れた場所から届くはずもない。
鳥の鳴き声でもない。音を偶然人語に聞き違えたのでもない。家族へ置いていかれた幼獣が、家族を追いながら、「みんな、まってよ」と状況に合った言葉を発した。
人の言葉を解する獣は、神の力を持つ。
神獣が生まれた。
私は今、何を見つけたんだ。
これは氷嶺白虎の繁殖記録ではない。もちろん繁殖記録ではあるが、それだけでは済まない。
四十七年ぶりの幼獣確認、初産で四頭、両親とも健在、育児行動良好、それだけでも博物院が待ち続けた記録であるはずなのに、今はすべてが前置きに見える。
人語を話す魔獣は、知性の高い魔獣という分類には収まらない。人の言葉を理解するように見える個体はいる。命令を覚える獣もいる。飼育下で音を真似る鳥もいる。しかし、あの幼獣は誰かの発音を繰り返したのではない。置いていかれた自分の状況を理解し、家族へ向けて、自分の意思として言葉を使った。
ならば神獣の条件を満たす。宗教上の尊称として氷嶺白虎全体を守護聖獣と呼ぶ話ではなく、王立博物院と大神殿の双方が同じ定義で記録している、あの神獣である。
最後に神獣が確認されたのは二百五十年前。白い鼠だった。
当時、国中で灰肺病が流行し、冬だけで十万人以上が死亡した。
白い鼠は王都下層の粉挽き小屋で見つかり、人語を話し、病人の身体から病の原因だけを取り除いたとされる。当時の記録は宗教的表現が多く、病そのものを吸い出したのか、病原となる微小な魔物を排除したのか、現代の医学では判断できない。
それでも、鼠が通った地域から灰肺病が収束したことは複数の行政記録で裏づけられている。鼠は後に王弟の娘のもとへ自ら向かい、彼女の肩に乗って三年間国を巡り、病が終息すると王宮の庭で眠るように死んだ。
その前の神獣は、四百八十年前の黒い鹿。さらに前には翼を持つ蛇。
いずれも人語を理解し、既存の種には見られない一つの力を持ち、後に王家へ連なる者のもとへ現れた。召喚と呼ばれているが、人間が魔術で呼び出すのではない。神獣の側が、誰かを選び、自ら会いに行く。
王位継承者とは限らず、白い鼠が選んだのは王位とほとんど縁のない九歳の少女だった。
神獣は、神が人間へ与えすぎた試練の辻褄を合わせるために生まれる。
それは神殿の言い伝えであり、私はこれまで、災厄が起きた後から珍しい獣の逸話を結びつけたものだと考えていた。
人間は不幸に意味を求める。疫病が終わったなら、白い鼠が救ったことにした方が納得しやすい。大洪水の後に黒い鹿がいたなら、鹿が水を鎮めたと語る。そういうものだと思っていた。
だが、私は今日、人語を話す氷嶺白虎を見た。
ならば、災厄も来るというのか。
王都を出る時点で、大規模な流行病の報告はなかった。
他国との関係も安定している。魔獣の異常発生、天候異変、魔力脈の乱れ、凶作の兆候も、少なくとも私が閲覧できる範囲では確認されていない。
では、これから起こるのか。それとも、まだ誰も災厄だと気づいていないだけなのか。
二百五十年前の灰肺病も、最初の数か月は冬風邪として扱われていた。死者が千人を越えてから、ようやく同じ病として記録された。
落ち着かなければならない。神獣と断定するには、人語以外の固有能力を確認する必要がある。
既存の氷嶺白虎が極めて高度な知性を持ち、幼獣が村人の声を偶然学んだ可能性も、理屈の上では完全に排除できない。
ただし、数百年分の観察記録に、人語を発した氷嶺白虎は一頭もいない。人間の行動を理解し、助けられた記憶を家族へ伝え、報復も恩返しも行う。それほど賢くても、彼らは人の言葉を使わなかった。今日の幼獣だけが使った。
神獣は報告しなければならない。
王立博物院長、大神殿、王宮魔術院、西方守護府。どこまで同時に知らせるべきか。情報が広がれば、王都から人が来る。学者、神官、王家の使者、護衛の騎士、神獣を一目見たい貴族、奇跡へすがる病人、血や毛を欲しがる錬金術師、値段をつけようとする商人、そして必ず密猟者が混ざる。
セデ村には宿も余分な食料もなく、大人数を受け入れる道もない。神獣がいると知れれば、それでも人は来る。森へ入り、巣穴を探し、幼獣へ近づく。
氷嶺白虎の大きさ、強さをその目に見ない限り、侮る者が必ず出る。侮った先にあるのは、氷嶺白虎からの報復による惨劇になる可能性が高い。
氷嶺白虎は賢いが、あくまで獣としての賢さだ。新参者がちょっかいを掛けてきた、そう認識したら、今後全ての新参者……村人以外の人間が敵として認識されるかもしれない。
幼獣の周囲には、少なくとも成獣の氷嶺白虎が二頭いる。
親の親、独立済みの親のきょうだい、その他の血縁個体がどこにいるかは分からない。
神獣である以前に、群れの幼獣である。子へ危害が及べば、長距離連絡によって親族が何頭集まるか予測できない。
レモ村は一頭の若虎を殺し、五頭に襲われて消滅した。相手が一つの村ではなく、王国から派遣された調査隊だった場合、白虎はどこまでを敵と認識する。調査隊だけか。命令した者か。王都そのものか。
神獣はいずれ必ず王家に連なる者のもとへ召喚される。
そう記録されている。
ならば人間側から捕らえる必要はない。時が来れば、自ら選んだ相手へ会いに行く。
だが、あの幼獣はまだ親の後ろを走り、雪へ足を取られ、家族に待ってほしいと叫ぶ年齢だ。親から離れて王都へ向かえるはずがない。
召喚は成長後に起こるのか。それとも、王家に連なる誰かがこの土地へ来るのか。現在の王には三人の子がいる。王弟家、王妹家、数代前に王族から分かれた家門まで含めれば、王家に連なる者は数十人いる。まだ生まれていない者が選ばれる可能性すらある。
神獣の出現から災厄までの期間は一定ではない。黒い鹿が確認されたのは大洪水の七年前。
翼蛇は戦争が始まる二十二年前。ならば明日、何かが起きるとは限らない。そもそも寿命の長い生き物だ、二十年後かもしれないし、五十年後かもしれない。
それでも、何かが来る。神獣という存在が伝承どおりなら、人間だけでは耐えられない試練が来るからこそ、あの幼獣は生まれた。
何の力を持っている。
氷嶺白虎としての冷気とは別に、神獣固有の力があるはずだ。白い鼠は病を退け、黒い鹿は水を鎮め、翼蛇は戦場を覆った毒霧を空へ運んだ。あの幼獣は何をする。
家族と遊ぶ様子だけでは分からない。氷の塊を作っていたのは、ほかのきょうだいも同じだった。人語を話した幼獣がどれかは、額の縞無い個体で間違いない。
あの個体だけ、少し動きが遅かった。魔法を使った場面は見ていない。単にほかの三頭より慎重なのか、身体が弱いのか。
確認するには観察を続ける必要がある。しかし、人間が近くにいること自体が幼獣の行動へ影響する。
人語を話せるなら、こちらの会話を聞いている可能性もある。今日の一言が、村人の言葉を真似た結果ではないと考えたが、どこで共通語を覚えた。村の近くへ来たことがあるのか。家族の誰かが人語を理解し、意味だけを共有したのか。
報告書には事実だけを書くべきだ。「氷嶺白虎の繁殖を確認。幼獣四頭。うち一頭が共通語を、状況に即して発した」。これだけで重要性は伝わる。
神獣の可能性を明記し、追加調査隊の派遣中止を求める。巣穴の正確な位置は記載しない。私は正確な位置を知らないし、知らなくてよかった。観察地点からおおよその範囲は絞れるが、別紙にも書かない。
公的記録から情報を意図的に欠落させることになるが、希少種の繁殖地を保護するためなら認められる範囲だろう。神獣であるか否かに関係なく、あれは二頭の氷嶺白虎に守られた幼獣である。人間の都合で巣を暴いてよい存在ではない。
村をどうする。
情報が漏れれば巡礼者が来る。
神獣の誕生地として神殿が土地を管理しようとする可能性もある。西方守護府が兵を置けば、その兵そのものを白虎が脅威と判断するかもしれない。
立入禁止区域へ指定すれば、何かがあると知らせることになる。通常の氷嶺白虎繁殖保護を理由に、山域全体を閉鎖する方がよいだろう。
初産確認、幼獣四頭、母獣の警戒による危険性増大。これだけでも閉鎖の理由として十分だ。神獣については、博物院長と大神殿上層部のみに知らせ、情報を制限する。
だが、王家へ隠してよいのか。
神獣はいずれ王家に連なる者を選ぶ。誰が選ばれるか分からない以上、王族全員へ知らせれば混乱が起こる。
自分こそ選ばれると考える者、子どもを連れてセデ村へ来る者、神獣を王位継承の正統性に利用しようとする者が出る。
白い鼠の時代にも、王弟の娘が選ばれた後、王位争いへ利用しようとした貴族がいた。鼠はその者の顔へ糞を落とし鼻に噛み付いたと記録されている。重要な史料であるが、神殿の写本では削除されている。
あの幼獣は、自分が神獣だと知っているのだろうか。知るはずがない。親も知らないだろう。白虎に神獣という概念があるかも分からない。
家族にとっては、四頭のうち少し変わった声を出す一頭にすぎないのかもしれない。あの声を両親がどう受け取っているかも分からない。人語と白虎の鳴き声を区別しているのか、家族間では同じ意味として伝わっているのか。
過去の神獣の記録には、親やきょうだいについてほとんど書かれていない。白い鼠は一匹だけで見つかり、黒い鹿はすでに成獣、翼蛇は卵から孵った時点で同族がいなかった。家族を持つ幼い神獣が確認された例は、少なくとも現存する記録にはない。
つまり、参考にできる前例がない。一人で判断するには分からないことが多すぎるし、分からないまま動けば、神獣だけでなく、その家族や村まで危険に晒しかねない。
私は本来、氷嶺白虎の繁殖を確認し、親子の行動を遠くから観察して、無事に王都へ戻るために来ただけの学者だ。
神獣の扱いを決めるためでも、王家と大神殿へどの順番で知らせるか悩むためでも、下手をすれば国の行く末に関わる秘密を一人で抱えるためでもない。
ただ観察したい。四頭の幼獣がどのように遊び、両親がどう育て、いつ初めて狩りへついていくのかを、邪魔せず記録したい。それだけだったはずなのに、たった一言を聞いたせいで、報告義務だの機密保持だの保護措置だの、研究とは少し違う仕事が一度に増えてしまった。
これだから、珍しいものを見つけるのは困る。見つけた瞬間までは嬉しいのに、その後は決まって書類と責任が追いかけてくる。助けてくれ…………管轄外なんだ…………私一人の手には負えない……。
そう思いながら額を押さえ、せめて今後の連絡先だけでも整理しようと記録板へ目を落としかけた時、ふと、視線を感じた。
額の縞が無い幼獣が、岩陰へ消えずにこちらを見ていた。
先ほどまで懸命に家族を追いかけていたはずなのに、いつの間に足を止めたのだろう。白い胸元をゆっくり上下させながら、丸い耳をこちらへ向け、青白い目でまっすぐ私たちを見ている。
旦那個体が見せた、周囲に敵がいないかを確かめるための視線とは違った。もっと素直で、もっと明確な興味があった。
幼獣は少しだけ首を傾げ、確かめるように鼻を動かしてから口を開く。
「人間だ」
見られている。認識されている。
しかも向こうは私たちが“人間”という生き物であると知っている。先に接触者がいたのか、それとも親から聞いたのか? 同種同士の言語的コミュニケーションを正確に人と同じ単語で再生出来る能力がある?
私は隣のバルトを見た。バルトも私を見ていた。
どちらが先に合図を出したわけでもないが、次の瞬間には二人そろって、人体の関節構造では本来不可能と思われる速度と滑らかさで後退を始めていた。
背中を見せて走れば追いかけられるかもしれない。かといってその場へ残れば話しかけられ続けるかもしれない。
ならば視線を外さず、刺激せず、できるだけ静かに距離を取るほかないという判断だけが奇跡的に一致し、我々は雪と岩の混じる斜面を、ほぼ足音も立てずに全力で後ろ向きに下った。
途中、かかとのすぐ後ろに崖がある可能性や、岩へ躓いて後頭部を打つ可能性、そのまま斜面を転がって死亡し、後日「神獣の第一発見者、怪死」と博物院の記録へ残される可能性がうっすら頭をよぎった。
しかし、それでも振り返ることはできなかった。転落死は怖い。頭蓋骨が割れるのも嫌だ。だが、人間の言葉を話す白虎の幼獣に個を認識される方が1000倍嫌だ。
どうしようもなく怖い。怖かった……!! 本当に、怖い……。無事に村まで帰還した私は、布団にくるまって震えながら咽び泣いた。良い大人が、今年で二十八になる大の男が。
人の言葉を喋る動物、本当に、本当に、怖すぎる…………。恐怖と嫌悪が、本当にすごい……。
辛い……関わりたくない………………。発見者報告義務……イヤ……たすけて………………………。




