「その時女神は仰られた。力を授かりし者よ、汝が力は汝がためにあらず。弱き者の前に立ち、来たる災いをその身にて受けよ」 ――『女神聖典・守護篇』第二章十七節
山へ入ってから、まだ一刻も経っていなかった。昨夜に比べれば視界はずっといい。雲は厚いが雪は降っておらず、木々の隙間から白っぽい昼の光が差し込んでいる。足元の雪も、陽の当たる場所では表面が少し緩み始めていた。
その代わり、一度踏み抜けば脛まで沈む場所と、凍って硬くなった場所が入り交じっている。歩きやすいとは到底言えない。
ブラムウェルは先頭から少し下がった位置を歩きながら、何度目か分からないほど後ろを確認した。全員いる。村から連れてきた者、ルーヴェルの護衛、神官。人数が多ければ安心というものでもないが、少なくとも勝手にいなくなっている者はいない。とくにアリア。いる。よし。
初期の頃なら何か興味を引くものを見つけた瞬間、こちらが振り返った時にはいなくなっている可能性を真面目に考えなければならなかった。最近はさすがにそんなこともなくなったが、最初に植えつけられた警戒心というものは簡単には抜けない。
アリア本人はそんなブラムウェルの視線に気づいたらしく、少し離れたところからこちらを見て、ちゃんといますよ、とでも言いたげに両手を上げた。隣のオスカーが少し考えて、自分も小さく両手を上げている。違う。そういう合図的なものでは無い。訂正するほどのことではないので、ブラムウェルは無言で前を向いた。
今朝見つけた岩角鹿の死骸があった場所までは、迷うような距離ではない。朝のうちに一度来ているし、その時につけた村人たちの足跡もまだ残っている。先頭を歩くバルトはときどき雪を蹴って下の地面を確かめながら、ほとんど立ち止まらず進んでいた。やがて木々の間に、雪の色が不自然に変わった場所が見えてくる。
「ここだ」
岩角鹿の死骸そのものは、もうない。血の匂いを残したまま放置すれば別の魔獣を呼ぶため、今朝山へ入った猟師たちが調べ終えたあとすぐに処理していた。血を吸った雪までできるだけ掻き出している。昨夜あれだけ赤く染まっていたはずの場所には、今は荒らされた雪と、ところどころ黒い土が覗いているだけだった。
それでも痕跡が完全に消えるわけではない。ブラムウェルはしゃがみ込み、手袋をした指で雪の表面を軽く払った。朝、自分たちがつけた靴跡。死骸を運ぶため何人も動き回ったせいで、昨夜の痕跡はかなり潰れている。本来なら、あとからまた調べる可能性を考えてもう少し現場を残しておきたかったが、死肉を捜索地点へ放置する方が危険だ。痕跡を守るために生きている人間を危険へ晒すのでは本末転倒である。
「ここから北ですね」
「おそらくは。ただ、断定はできません。昨夜の足跡はここへ来る前に途切れています。岩角鹿を殺したのが本当に彼なら、この場所まで来ていたことにはなりますが、そのあとどちらへ動いたかは──」
そこまで言ったところで、バルトが右手を上げた。全員が止まり、ブラムウェルも口を閉じる。
バルトは地面を見ていた。何か新しい足跡でも見つけたのかと思ったが、そうではないらしい。二歩ほど横へ動き、若い木の根元へしゃがみ込むと、雪の中へ手を伸ばした。
「なんだ、それ」
雪から出てきたのは、掌へ収まるくらいの小さな革の包みだった。濃い茶色の革、その端から金属が覗いている。半分ほど雪へ埋もれていたらしく全体が濡れていたが、革そのものはほとんど傷んでいなかった。バルトが包みを開くと、中には小さな金属筒と、乾いた火口綿が収められている。
「火口か?」
「ああ。だが、こりゃ……ずいぶん上等だな」
普通、山へ入る猟師が持つ火口などもっと単純なものだ。乾いた火口綿と火打石を、防水のため油布へ包む。それで十分である。
しかしバルトの掌にあるものは違った。金属筒の蓋には水が入りにくいよう細かな加工が施され、側面には小粒の魔石まで埋め込まれている。火打石を何度も打つ必要はなく、魔石へわずかに魔力を流せば内部へ火花が飛ぶ仕組みらしい。
山仕事に使うには上等すぎる。落とせば惜しい値段がするし、普通の火打石なら壊れようのない部分まで手入れが必要になる。貴族が葉巻に火をつけるためだけにあるような代物だ。こんなところに持ち運ぶようなものじゃない。
「見せてください」
ルドルフが近づき、受け取った火口を手袋越しに回して底の部分を見る。雪と泥が付着していたため親指で軽く擦ると、その下から小さな刻印が現れた。途端にルドルフの表情が変わる。
「ルーヴェル製です。この印は王都の魔導具工房のものです。安い店ではありません。この型も新しい。少なくとも数年前からこの山へ落ちていた品ではありません。それに……」
蓋を開き、中を確認する。火口綿は湿っていない。さらに側面の魔石へ目を凝らしたルドルフは、低く付け加えた。
「魔石がほとんど消耗していません」
ブラムウェルも横から覗き込んだ。小さな魔石にはまだ透明感が残っている。何年も放置されていたなら、一度も使用していなくても魔力は少しずつ抜けていく。まして雪や雨に晒されていたならなおさらだ。つまり最近落ちた。それもルーヴェルから来た人間が持っていた可能性が高い。この山へ昨日来たルーヴェル人は十数人。その中で、昨夜一人でここまで来た者は。
「レオンのです」
オスカーが言った。声が掠れている。ルドルフが顔を上げた。
「確認できますか?」
「旅の途中で見ました。あいつが火をつけるのを面白がって、何度か使っていた。革の色も同じです。たしか、出発前に兄と姉からプレゼントされたものだと……」
最後まで言わず、オスカーは火口を見つめた。ブラムウェルは周囲へ視線を巡らせる。
岩角鹿の傷だけなら推測だった。細い刃物の痕があり、レオンハルトが短剣を持っている。それでも十歳の子供が岩角鹿を殺したという話そのものが普通ではなく、別の誰かが殺した可能性も捨て切れなかった。
しかし、これは違う。ルーヴェル製の新しい火口が、岩角鹿の死骸があった場所のすぐ近くへ落ちている。偶然で片づけるには無理がある。
「ここまで来ていた」
ゲルハルトが呟いた。
「レオンハルトは、本当にここまで……」
「ええ。少なくとも、その可能性はかなり高いです」
ブラムウェルは地図を取り出し、死骸の位置と火口が落ちていた木の場所を見比べた。ほんの数歩ではあるが、位置関係にも意味がある。
「死骸のこちら側に落ちていたなら、岩角鹿と争った時に落とした可能性があります。そこから先の足跡は今朝の処理でかなり潰していますが、少なくとも昨夜ここまで来たと考えていいでしょう。捜索範囲を絞ります。この場所から北と北東を厚くする。川へ落ちた可能性は消せないので川沿いの班はそのまま動いてください。残りはここを起点に扇状へ広がる。互いの位置を見失わない距離で班を分けます」
「俺は北東を見る。狩人小屋がいくつかある。あいつがどこかで夜を越そうと考えたなら、入ってるかもしれん」
「私もそちらへ」
オスカーはそこまで言って口を閉じた。顔から、さっきまでほんのわずかに戻っていた血の気がまた引いていく。火口を見ていた。
「……つまり、レオンは火で暖を取ることが出来ないのか……」
誰もすぐには答えなかった。事実ではある。昨夜、レオンハルトは魔力を使い切っていた可能性が高い。火口までここへ落としていたなら、自力で火を起こす方法を失ったことになる。オスカーの顔が目に見えて青くなった。
「外套の祝福も、いつまで保つか分からない。それなのに火まで……あいつ、昨夜ずっと……」
「今は真冬じゃない」
バルトが遮った。慰めるような声音ではない。山で必要なことを説明する時と同じ、平坦な声だった。
「朝晩は冷えるが、この辺りは木に守られて風も柔らかい。吹きさらしの尾根とは違う。それに、使ってない狩人用の小屋が複数ある。古いが屋根と壁は残ってる。火口と薪を置いたままの小屋もあるし、火がなくても外で寝るよりずっとましだ」
「でも、レオンがその場所を知っているとは……」
「知らなくても見つけることはある。小屋は狩人が見つけやすいところに建てる。水が近いか、歩きやすい場所だ。迷った人間が偶然入ることだってよくあることだ」
「それに、レオンハルト様は岩角鹿と遭遇して生き残っています」
アリアも口を挟んだ。オスカーがそちらを見る。
「今朝見つけた時、岩角鹿のそばにレオンハルト様はいませんでした。それは少なくとも、その場所から自分で移動できたということです。
火口を落としたことに気づいて、別の方法を探したかもしれません。木の洞や岩陰を見つけたかもしれませんし、バルトさんがおっしゃった小屋へ辿り着いているかもしれません。
怪我をしていたとしても、治癒術を使える人がこれだけいます。お腹が空いていても、村には温かい食事を用意してくださっている方がいます。寒くても、毛布を持ってきています。だから私たちが見つければ、そのあと出来ることはたくさんあります」
アリアはそこで少しだけ笑った。
「まだ、見つけていないだけです」
オスカーは何も言わなかった。バルトを見て、次にアリアを見る。二人の顔を交互に見たあと、力の抜けたような小さな笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
バルトは「ああ」とだけ返し、アリアは笑って頷いた。ブラムウェルはそれを見ながら、心の中で思った。ケッ。
いや、今はいい。今は非常時である。子供が山で行方不明になっていて、この男も身内同然に可愛がっているらしいのだから、弱っている時くらい周囲が支えてやればいい。
アリアだって謝罪を受け入れた。いつまでも横から何か言う話ではない。それは分かっている。分かっているが、昨日までのことが全部帳消しになったわけじゃねえからな。
ブラムウェルは別に温厚な人間ではない。慎重ではある。人前で感情のまま喧嘩を売るほど若くもないし、立場上、余計な揉め事を増やすべきでないことも理解している。しかし慎重であることと、人をすぐ信用することはまったく別だった。むしろ逆である。
研究者として長く生きてきた結果、相手が一度まともなことをした程度で「本当はいい奴だったんだな」と考えるような素直な精神はとうに失っている。
こいつは昨日アリアへとんでもない暴言を吐いた。謝った。アリアが許した。それはそれ。今こうして心配で真っ青になっているのも本物なのだろう。それもそれ。
だからって、素に戻った途端また小生意気なことを言い出さない保証がどこにある。許されたと思うなよ。ブラムウェルはその辺りを非常に細かく覚えている男だった。もちろん今それを口へ出すほど馬鹿ではないので、地図を畳みながら何食わぬ顔をしていた。
「では班を──」
言い終える前だった。バルトがものすごい勢いで振り返った。
「下がれ!」
同時に森の奥で何かが爆ぜた。枝が折れたのではない。雪だった。
積もっていた雪が、まるで地面の下から爆発したように高く吹き上がる。白い塊が木々の間からこちらへ押し寄せ、その中心で巨大な影が動いた。最初に見えたのは角だった。黒褐色。太く、根元から幾重にも枝分かれし、先端は雌特有の内巻きになり、ごつごつと岩のような節が浮いている。その下から長い頭部が現れ、牙を剥いた口が開いた。
「成獣だ!」
三メートルにはわずかに届かないだろう。それでも木々の間から姿を現した雌の岩角鹿は、人間の感覚ではほとんど巨大な壁だった。
肩の位置だけでも大人の頭を越え、厚い冬毛に覆われた胴は若い個体とは比較にならないほど太い。六本の脚は一本一本がたくましく、雪を踏み抜くのではなく蹴り砕きながら進んでくる。そして、こちらを見ていた。正確には、人間たちが立っている場所を。今朝まで、若い岩角鹿の死骸があった場所を。
ブラムウェルは遅れて気づいた。まずい。岩角鹿は、独り立ちしたばかりの若い個体を完全に放っておくわけではない。親、とくに母親はしばらくの間、一定の間隔を置いて子の様子を見に来る習性がある。今朝見つけたあの若鹿も、ちょうど親元を離れて間もない年頃だった。
ならば、この雌はたまたまここを通りかかったのではない。いつものように子の様子を見に来たのだ。いるはずの姿は見当たらない。それでも雪や木々にはまだ濃く子の匂いが残り、取り除ききれなかった血の臭いも地面に染みついている。
死骸はもうない。だが、それで分からなくなるほど野生の獣は鈍くない。岩角鹿の雌が喉の奥から低く長い声を出した。威嚇ではない。怒っている。子供が死んだのだと、もう確信している。そして、その場所には大勢の人間がいた。
「勘違いだ!」
言葉が通じるはずもなかった。岩角鹿が地面を蹴る。六本の脚が一斉に動き、雪が爆発した。
「散れ!」
バルトが叫び、肩から銃を外した。構える。速い。普段から何度繰り返している動作なのか、銃床が肩へ収まるまでほとんど迷いがない。しかし構えた瞬間、バルト自身が顔を歪めた。
「近すぎる!」
撃てない。岩角鹿の向こうにも人間がいる。何より、もう距離がない。
あの巨体が六本脚で走る速さをブラムウェルは知っている。大型だから遅いなどということはなく、六つの蹄が雪を掴み、数歩で最高速まで身体を押し上げる。避けるしかない。そう判断した時には、鹿の角が目の前まで迫っていた。
横から影が飛んだ。
「はあっ!」
オスカーだった。雪を蹴り、ほとんど跳ぶようにして身体を浮かせ、そのまま岩角鹿の頭より高い位置まで上がる。空中で腰をひねり、片脚を畳み、もう片方を真横へ伸ばした。
踵が岩角鹿の首へ突き刺さる。鈍い音がした。蹴った、という言葉では軽すぎる。巨大な槌を横から叩きつけたような一撃だった。
岩角鹿の頭が強制的に横を向き、突進の軌道が逸れる。六本の脚のうち前側二本が雪の上を滑り、巨体が大きく傾いた。
「うおっ!?」
ブラムウェルは思わず声を出した。すげえ。いや、今そんなことを言っている場合ではない。
オスカーは蹴った反動で身体を回し、そのまま雪へ着地した。片膝をつきながらもすぐ顔を上げる。倒したか。そう思ったが、倒れていない。
岩角鹿は二歩、三歩と横へよろめき、太い首を大きく振った。口から唾液が飛ぶ。首の毛が蹴られた場所だけ潰れている。それでも立っている。
「硬っ……!」
怒り狂った岩角鹿が、今度は明確にオスカーへ顔を向けた。
「オスカー、離れろ!」
角が振り上がり、オスカーが後ろへ飛ぼうとした、その背後を別の男が通り過ぎた。
ブラムウェルは一瞬、誰だか分からなかった。ルーヴェルの神官だった。使節団にいた三十代か四十代くらいの男。昨日の会談ではほとんど喋らず、今朝も班分けの時に名前を呼ばれた覚えがない。たしか結界術を専門にしているとか、そんな話だった気がする。
顔は見覚えがある。名前は聞きそびれた。その、名前も知らない地味な神官が、オスカーの横を普通に歩くような動きで抜けた。
一歩。雪へ足が沈む。しかし上半身はまったく揺れない。二歩目で急に加速した。岩角鹿が角を振る。神官は避けない。身体をわずかに沈めるだけで角の下へ入り込み、ほとんど同時に右脚を上げた。
オスカーの蹴りが大きく身体を回転させ、全身の勢いを乗せたものだったのに対し、その神官の動きは小さかった。
膝が上がる。足が伸びる。それだけだった。踵が、岩角鹿の胸の下へ入る。音が違った。ゴッ、と低い音が響いた次の瞬間、岩角鹿の脚が地面から離れた。
「は?」
三メートル近い巨体が後ろへずれた。本当に、ほんの一瞬だけ六本の脚がすべて雪から浮いた。そのまま支えを失ったように横倒しになり、盛大に雪を吹き上げて地面へ叩きつけられる。
頭が不自然な角度で傾き、六本の脚が二度ほど痙攣して、それきり動かなくなった。
あたりが急に静かになった。ブラムウェルは口を開けたまま、雪の上へ横倒しになった岩角鹿と、その傍らに立つ神官を交互に見た。え。なに今の。そう思いながら、遅れて周囲へ目を向けた時だった。そこで初めて、鹿が突っ込んできた直後から今まで、自分たちの周りの景色が少し変わっていたことに気づいた。
ルーヴェルの神官たちが、前に出ている。
別に誰かが号令をかけた様子はなかった。岩角鹿が現れた時にはブラムウェルやアリア、土地の者たちと入り交じって立っていたはずなのに、気がつけば全員がこちらと森の間へ身体を入れる位置へ移動している。
ゲルハルトは拳へ鈍い銀色の護拳をはめ、さっきまで青い顔でレオンハルトを心配していた男と同一人物とは思えないほど隙のない姿勢を取っていた。
ルドルフまで、書類を抱えている姿しか見せなかった細い手で護身用の長杖を握っている。いかにも戦い慣れていなさそうな見た目なのに、杖の先はぶれず森へ向けられていた。そして山へ入ったもう一人の神官も、アリアたちの斜め前へ立って杖を構えている。
さっき岩角鹿を蹴り倒した男だけが強いのではない。あれが現れた瞬間、彼らは考えるより先に、戦えない者や土地の案内役を自分たちの後ろへ入れていたのだ。
ブラムウェルはそこで、ルーヴェルの教義についてアリアから聞いた話を思い出した。
害する力を持つものから、持たないものを守る。祈っているだけで誰かが食われるのを眺めているのは信仰ではない。なるほど。言葉で聞いた時には、ずいぶん物騒な宗派だな、くらいにしか思わなかった。実際に見ると意味がまるで違う。
岩角鹿へ最初に飛び込んだオスカーも、とどめを刺した神官も、後ろで杖や拳を構えた者たちも、自分が格好よく戦ってやろうという動きではない。あいつを倒せ。ではなく、こっちへ行かせるな。その一点だけで全員が同じ方向を向いていた。
しかも、誰一人として大騒ぎしていない。三メートル近い魔獣が雪を吹き飛ばして突っ込んできた直後だというのに、倒れたことを確認してもすぐには構えを解かず、二頭目がいないか、別の獣が血の匂いに寄ってきていないかを確かめている。
ブラムウェル自身、危険な野生動物を相手にすることには慣れているつもりだった。だが、こういう集団での動きは専門外である。
言われてみれば当然のことなのに、鹿ばかり見ていて、自分がいつの間にか守られる側へ押し込まれていたことにさえ今まで気づかなかった。
オスカーの補助に入った神官は倒れた岩角鹿を一度見下ろし、念のためなのか首元へ手を当て、完全に息がないことを確認した。それから振り返る。
「オスカー」
「……はい」
「踏み込みが甘い。蹴る直前に軸足が滑っていました。上体だけで威力を補おうとしたでしょう」
「……はい」
「若いうちは身体も軽いし、バネもある。だから跳びたくなるのは分かります。勢いもつけやすいし、見た目以上に威力も出る。しかし、足が地面から離れれば、その瞬間から修正は利かなくなる。雪の中ならなおさらです」
そうなんだ……。ブラムウェルは心の中だけで頷いた。さっきの飛び蹴りなど、素人目には文句なしに格好よかったし、実際あの巨体の突進を逸らしたのだから大成功にしか見えなかった。それでも、見る人が見ればちゃんと未熟なところがあるらしい。
「雪の中でも足の裏に意識を持てば出来るはずです。地面が見えないからといって、踏み込みまで曖昧にしてはいけません。相手がもう少し重ければ、今ので体勢を崩したのはあなたの方です」
「はい。申し訳ありません」
オスカーは、さっきまであれほど格好よく飛び蹴りを決めた男とは思えないほど小さくなっていた。反論もしない。悔しそうではあるが、自分でも分かっているのだろう。雪を見下ろし、一度右足を踏み直す。踵からではなく足裏全体で雪を押すようにして、その感触を確かめていた。
「次は出来ます」
「次がない方が良いのです。捜索中ですから」
「……はい」
もっともだった。バルトはしばらく銃を構えたまま呆然としていたが、やがてゆっくり銃口を下げる。
「お前ら……神官だよな?」
「はい。神官です」
「そうか……」
バルトはそれ以上何も言わなかった。たぶん何を言えばいいのか分からなかったのだと思う。ブラムウェルにも分からなかった。
ルーヴェルという国ではこれが普通なのか。いや、普通じゃないだろ。普通じゃないよな? オスカーもかなり強いと聞いている。ゲルハルトに至っては昨夜、大人四人に押さえつけられたまま全員まとめて山へ向かおうとした。
神官ってなんだ。ブラムウェルの知っている神官は祈る。説法する。治癒をする。祭りの日に祝詞を読む。たまにアリアみたいなのがやらかす。鹿を蹴り殺せるような職業ではない。
その間に、ゲルハルトたちは倒れた岩角鹿のそばへ集まっていた。
突然襲ってきた魔獣とはいえ、そのまま放って先へ進むつもりはないらしい。一人が雪の上へ膝をつき、もう一人が胸元の聖印へ手を添える。オスカーを叱っていた神官も、さっきまでの指導を切り上げてその輪へ加わった。
低い祈りの言葉が聞こえる。命が女神のもとへ正しく還るように。怒りと痛みがここへ残らぬように。そして、人の都合によってではなく、ただ生きるものとして生まれ、生きたものの死を悼む言葉だった。
さっきまで巨大な鹿を吹っ飛ばしていた男たちが、揃って静かに頭を垂れている。雪の上には倒れた巨体。その周りへ立つ、白と青の法衣。武器はない。素手である。
ブラムウェルは黙って見ていた。
…………かっけえええええ! いや、だって。格好いいだろ、これは。仕方ないだろ。男の子ってこういうの好きなんだから。




