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「最初はあの女が追い掛けてくる。怖くて逃げ出して、途中で振り返ると、相手は留紺色の着物を着ているんだ。……あの女は、そんな色の着物を着ない」

 追い掛けてきているのは母だと気付く。

 恐怖のあまり、兄を求めて手を伸ばして、兄に手が届かないこと絶望する。それでも迫ってくるのが母であると気付いた時、その手が兄に届かないことを安堵する。

「母さんは兄さんを殺しに来るんだ。母さんが追い掛けてるのは俺じゃなくて………兄さんの方」

 母の興味の対象はいつも兄だったと思う。

 小さな子供はどんなに虐待されても母親が‘絶対’なのだという。母親の笑顔が欲しくて怯えながらも気を引く努力をするという。期待に応えようと努力するという。兄は確かにどこかそう言うところがあった。

 自分がどうなのか、を考えると良く分からなくなる。

 母親は自分を見ていない。

 何かがあれば修司が付いていくのが当たり前で、淳司は置いていかれるのが多かった。羨ましく思わなかった訳じゃない。兄ばかり何故と思った事もある。ただ、兄に対する行きすぎた「躾」を見れば、母に近づきたいとは思えなかった。無視されている方がずっといい。

 兄の顔を見ると、自分が代わりになれればと思った。でも、母を見れば怖くて竦んでしまい、結局自分は何も出来なかった。

「……母さん、自殺じゃないよな?」

 口にすると脳裏に赤い風車が浮かぶ。

 母親の象徴。

 そして、死の象徴。

「母さんは事故死だ」

「本当に?」

「……」

 修司は答えない。

 分かっている。彼もまた事故が自殺だったのではないかと疑っている。あの頃は、みんなが不安定だった。精神を病んでいた。だから、事故がわざとではないと言い切れない。

「俺、母さんに似てるんだ」

「……」

「俺は母さんの狂気を多分知ってる」

 何をやっても満たされない。

 だから少しでも満たされたという快感を覚えればそれに溺れる。あとで自己嫌悪に陥ることを知っていても止めることは出来ない。そうしなければ辛うじて繋がっている理性が切れて無くなってしまいそうだからだ。

 ケンカに明け暮れる時の自分と、修司を叱る母の姿は似ている。

 淳司は、自分の中にある「母と同じ部分」を嫌悪している。

 似ている部分を見つけると、風車を思い出す。

 母は赤い風車を庭飾りとして飾っていた。古くなれば取り替えて、いつもどこかで赤い風車が回っている。何故、母が赤い風車にこだわったのか淳司は知らない。ただ、母の死を知らせるように、あの日、淳司と修司の目の前で強風に舞い上がった風車は鈍色の空を見た後、庭の池に落ちた。

 二人が拾い上げようと、道具を探しに家の中に入った時、電話が鳴った。

 それは、母の事故と、母の死を知らせる電話だった。

 だから淳司にとって風車は母の象徴であると同時に死の象徴でもある。

「いつか、俺も母さんと同じ事をしそうで怖いんだ」

 いつか、自分で自分を殺したくなる。

 その日が来そうで怖い。

 いや、もう、既に自分で自分を殺したくなっている。

「……淳司」

「だから……兄さんに側にいてほしい」

 修司だけでいい。

 側にいてくれれば、それだけでギリギリの理性が保たれるから。

「……それじゃあ、駄目だ」

 溜息混じりの兄の声。

 優しい手のひらが淳司の上に降りてくる。優しく髪を撫でる手。この人が淳司のことだけを考えている時の仕草。

「それじゃあ、いつか駄目になる」

「いつか、じゃなくてもうそこまで迫っているんだっ!」

 淳司は身を固くして目を瞑った。

「今、兄さんが居なければ、俺、本当にあの人を殺しちゃう。さっきだって、本気で殺せると思ったんだ。飲み込もうとすれば、今度は自分を殺したくなる。だから……だからっ!」

「淳司なら大丈夫だ」

「………」

「俺は抵抗しなかった。それでも淳司は俺を殺さなかった。だから大丈夫だ」

「根拠がないよ」

「俺は信じてる」

 淳司は縋るように修司の服を掴んだ。腹部に頭を押しつけると、彼の熱を感じる。

「本当に駄目なら、俺の所に来ていい。だから、少しだけ、頑張ってみないか」

 言われて逆らえる訳がない。

 押し出すように、淳司は言う。

「ずるいよ……」

「ああ」

「兄さんは、ずるい」

「……すまない」

 兄の言い分の方が正しいことは十分解っている。自分がわがままを言っていることも、そのわがままの為に兄の夢を捨てさせる事が間違っている事も分かっている。

 それなのに、どうしても駄目なら、と淳司に逃げ道を用意した。

 そこまでされて、否と言える訳がない。

「……深夜でも電話するぞ」

「ああ」

「休みじゃなくたって会いたいと思ったら、会いに行くから」

「ああ」

「授業中でも構わず乗り込んでやる」

「……それは」

 少し困ったような兄の声。

 淳司は笑う。

「嘘、冗談。人に迷惑かけることはしないよ」

「ああ」

「……俺に何も言わずにいなくなったりしたら、殺すから」

 修司が守ろうとした全てを。

「そんなことは、俺がさせない」

「なら、ちゃんと俺を止めろよ」

「……ああ」

 修司ははっきりと頷いた。

「淳司」

「……なんだよ」

 修司が真っ直ぐ視線を向けてくる。

 真摯な瞳だった。

「俺はお前が人を傷つけたり迷惑かけたりしたら怒る。……でも、俺はお前を嫌ったりしないから」

「……」

「俺はお前の味方だ」

 淳司は声をたてて笑った。

 笑い出すと止まらなかった。けたけたと声を立てて笑う淳司に、修司は戸惑ったような視線を向ける。

 袖口でみっともなく涙を拭きながら、淳司は兄の腰をぎゅっと抱きしめる。

「ほんと兄さんって……」



 ずるいよ。


                                      了


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