File 04
自身からも、ナイフに倒れた高校生からも、ドクドクと血が流れ続ける。失血死。尚子の頭にはその言葉がよぎる。
「ごめんなさい……」
尚子は血を失っていることもあるが、それ以上に青ざめていた。
「ごめん……なさい……」
知りたい。ただそれだけの軽い気持ちでこの裏の世界に入ってしまった。恐ろしいことが起こることはあるだろうとは思っていた。しかし目の前にいるのは、自分のしでかしたことのとばっちりで、今にも生命を手放そうとしている同じ年頃の男子だ。
これは殺人だ。尚子が、彼を殺したのだ。
人を殺めるような結末を迎えてまで、知ろうとしたのは間違いだったのではないか。これを亡き両親が知ったらどのように思うだろうか。
「……ごめんなさい」
尚子の意識は、次第に朦朧としてきた。背中側では、店員や野次馬の声が飛び交っている。
尚子には二つの選択肢があった。一つは、このまま死ぬ。もう一つは、禁忌を犯して生きる。
尚子はヒップバッグの中を痺れる手でまさぐった。握られたのは『幸せ』成分が入った容器。『幸せ』成分に直に触れると、触れたものには幸運が訪れると言われている。しかし、直に触れること、収集した『幸せ』成分を個人的に使用することは、この任務において禁止されている。
尚子は、息絶えだえになっている男子を見た。制服からして、自分と同じく高校の生徒だ。顔も見覚えが……あった。
尚子はもう迷うのをやめた。手の中の『幸せ』成分は、美しい桃色をしている。厳重に栓がされている容器は、簡単に開けることができない。時は一刻を争う。これでもどうにもならないかもしれないが、今はこれ以上の方法はありえない。尚子はなるたけ容器を高く振り上げると、勢いよく床へと叩きつけた。
***
「尚子。よくもやってくれたな」
尚子が気がつくと、自宅のベッドの上にいた。灰色の天井から視線をずらすと、尚子直属の上司、長瀬が腕を組んで見下ろしていた。
「……死んでない」
「そりゃぁアレを使えば死ねないだろう」
「あ!……彼は?!!」
長瀬が部屋の反対の端に向かって顎をしゃくる。壁沿いのソファには、先ほどの男子高校生が静かに寝息を立てていた。
「どれほど事後処理が大変だったと思ってるんだ?!!あれだけの人間に見られている中で、あろうことがアレを使うだと?!いい加減にしてくれ!……お前のことは、処分したくてもできないことになってるんだ。二度とするな。いいな?!!」
尚子は長瀬の怒りを受け流しながら、自身の身体をチェックしていた。服は何も着ていない。長瀬とはそういう仲だからだ。と言っても、そこに互いの恋愛感情はない。狭い空間に男女がいる。必然的にそういう欲が生まれる。なされる。それだけだ。
「傷、何も残ってない。これでまた、やり直せる」
尚子の目には、当初の目的に向けた決意の色が滲んでいた。
「聞け。今回の件、それ相応の報いは受けてもらうことになる」
「何をすればいいの?」
「あそこに転がってる奴を鍛えろ」
長瀬によると、男子高校生は鬼城優という名前で、尚子と同級生だった。持ち物から調べたらしい。
「そいつは知りすぎた。処分も考えたが、『お前が』わざわざ助けたんだから、『上』も今回は寛大な処置を下すに至ったらしい。口添えしてやったんだぞ。感謝しな」
確かに、瀕死の状態から無傷に戻るだなんて、狐以上のバケモノに包まれた気分になるだろう。誤魔化せるとは思えない。
「お前らが呑気に寝ている間いろいろと調べてみた。こいつはどうやら家から勘当されて、友達の家を渡り歩いてるらしいな。今夜からここへ泊めてやればいいだろう」
「なんでそんなことまで……」
「また死にかけたいのか?お前の探究心は生命を削る。もう今夜はそれぐらいにしておけ」
長瀬はふっと微笑むと、抱くのはまた今度にすると言って帰っていった。もう窓の外は明るくなりかけていた。
***
「鬼城くん? おはよう。学校行かなきゃ」
尚子は、優を揺さぶっていた。傷が治っていることは明らかなので、多少手荒な起こし方でも問題ない。すると、優はすっと目を開けて、じっと尚子を見つめた。
「前髪、切った方がいいよ。美人なのにもったいない」
優は寝起きとは思えない身のこなしで起き上がると、キッチンに向かい、水道に口をつけて水を飲んだ。
「まずっ。これ浄水器とかつけてないの?」
「今日から私が面倒みることになったみたいよ。文句は言わないで」
「いつも地味な格好なのに、けっこう部屋は可愛いんだね」
「朝ごはんは、食パンでも焼いて食べて。セルフでよろしく」
「いい身体してるね。何人と寝たの?」
優は、尚子がバスタオルのように身体に巻き付けていたシーツを引っ張って剥がした。
「……まだ1人よ。それが何か?」
「君は罪を犯したんだよね?」
「聞いてたの?!」
「罪は本当にそれだけだったのかな?」
「どういうこと?」
「あの男は完璧だと思う?」
「何が言いたいの?」
「僕が、君の敵だと言ったらどうする?」
「……?!」
「『幸せ』成分が本当は何に使われてるか、知ってる?」
「供物じゃ……ないの?」
優は馬鹿にしたように鼻で笑うと、尚子の左胸を鷲掴みした。
「話にならないね。とにかく君は、自らの不始末で国家安全保安隊の敵を身内に取り入れてしまったんだ。バラすのはいつがいいかな? 本当に刺激的だよね、こういうの。それとも、いつも苛められてるから、こんな扱いされるのも慣れてる?」
「……ごめんなさい」
「それ、便利だよね。魔法の言葉、みたいなもの? でもそれね、余計に相手を煽っちゃうんだよ。こんな風に」
尚子は胸を突かれて、広いソファの上に押し倒された。
「ねぇ、そろそろあのカード返してよ」
尚子の脳裏に、あの日の放課後の風景が蘇った。
「あなた、あの時の……わざと落としたの?」
「気づくの遅いよ。でも、ちゃんと拾ってくれてありがとう。あれ、大事なものなんだ」
「私が拾わなかったらどうするつもりだったの?」
優は、尚子の首元に顔を埋める。
「ねぇ、あの時けっこう痛かったんだけど?」
「……ごめんなさい」
「よくできました」
優は尚子の髪をそっと指で掬い、それに唇を寄せた。
「やっと見つけた」
「何を?」
「僕は敵だけど、君の味方だよ」
「意味が分からない」
「大丈夫。守ってあげる」
翌日から、尚子に対するイジメはぴたりと止んだ。