44.凪ぎ去る黒風
竜獣の間を走る影を見て、人間とはああも速く動けるものかと彼女は思った。
舞い上がる砂埃が目に入ろうとも構わず見開いていても、動き回るロイの動きを捉えることはできない。動体視力には自信があった彼女も思わず言葉を失うほどに驚いていた。
かろうじて見えるのは、ロイが移動する間に発生するぼやけた金色の線。ロイの目立つ髪色だけが、残像として確認できる。ロイ自身の姿など全くはっきりと見えない。そしてそれは周りの竜獣も同じ思いだった。
何かが自分たちの周りを高速で動いている。その気配だけは感じられるが、何が動いているのかどう動いているのか、それを把握することはかなわない。
ただ一人だけ、恐るべきスピードで動き回るロイ自身だけが、高速で回る景色を全て認識し行動していた。
拳を握りしめ、一匹の竜獣の背後から後頭部に一撃を見舞う。人間の腕力では思い切り殴ったとしてもダメージなど与えられないが、今のロイは人間の腕力を軽く超えている。指の間に握りこんでいた銃弾は鱗を陥没させ突き刺さり、あと少しで肉の部分まで食い込もうとしていた。
殴った衝撃で竜獣が麻痺しているあいだにロイは銃弾から手を離す。手首を振ると、ロイの服の袖口から新たに三発の銃弾が零れ落ち、それをまた指の間に挟み込んだ。
「……ふッ!!」
そして握りこんだ銃弾で杭を打つようにして、鱗に食い込んでいた銃弾の底を叩く。
雷管に衝撃が与えられ、内部で発生した僅かな火炎が装薬に火を着け、弾丸が放たれた。
既に鱗に食い込んでいた銃弾はそのままでたらめな方向に向かって、竜獣の頭の中を掻きまわして血と共に外へ出る。その光景を竜獣の真正面から見ていれば、突然竜獣の頭が炸裂したように見えただろう。
飛び散る脳漿や血を全身に浴びながらロイは次の標的に向かう。顔をしかめ歯を食いしばって、同じような手法で竜獣を殺していく。
疾風怒濤の攻撃。それを遠くから肩身越しに覗いていたフォウは、ひどく冷めた視線を送っていた。
ロイの圧倒的な力を見れば彼女も笑いそうなものだが、ロイの力の『限界』を一目見ただけで理解して、つまらなさそうな無表情を浮かべている。
(……通用する。たしかに十分通用はするが……あれでは四王は討てん。やはりエイジでないと駄目じゃな)
フォウは視線を戻し、隣のエイジを見た。
(そう……エイジはやはり違う)
「……何を見ている。協力すると言い出したのはお前だぞ」
「わかっておるわ。あやつは昔なじみじゃからの、ちょいと挨拶も兼ねてやる」
大剣を前方に構えたエイジより一歩前に出るフォウ。そして一歩ずつゆっくりと進み、カロスタフティに近づいていく。
フォウが歯を見せて微笑んでいたのは、カロスタフティの反応を楽しみにしているからだ。同じ上位五竜種の白竜が目の前に現れたとしたら、さぞ慌てふためくだろうと想像すると、どうしても笑わずにはいられなかった。
「好きなタイミングで仕掛けてこいエイジ、わしは少し奴をおちょくってくる。わしを巻き込んでも構わんぞ」
「ああ、そうさせてもらう」
仮にも仲間同士の会話とは思えないほど、両者は冷たい声色でそう交わした。フォウは絶対的な自信を持ち、エイジの攻撃に巻き込まれようが無傷でいられると思っていたからこそそんな台詞を吐き、そんな風に思われていた彼自身も、フォウなら万が一殺しても構わないと思っていた。
エイジは肩の力を抜いてゆらりと大剣を揺らす。タイミングを見計らって大技をカロスタフティにぶつけるための前準備と言ったところだ。
そしてフォウはカロスタフティが発生させた風の障壁の目の前まで近づいて、腰に手を当てて窘めるような目つきで黒竜の顔を眺めた。
「幼子よ、よもや我に刃向かう気ではなかろウな」
「おかしなことを言うなカロスタフティ。刃向かうとは言わんじゃろ、おぬしはわしより弱いんじゃからの」
「沙汰の限りを尽くすか。愚か者が……ッ!」
見上げるほどに巨大なカロスタフティに対して、見下した物言いをするフォウ。
嘗めた態度と微笑みに、はらわたを煮えくり返し黒竜は吼えた。人間が竜に対して強気な態度を取るなど、竜にとっては我慢ならないものだ。人間の姿をしている今のフォウの言葉を同族に向けられた言葉と知らずに、カロスタフティは瞳を小さく縮めた。
手足を一切動かすことなく風を操り、暴風の槍をフォウに向けて三本放つ。
先ほどエイジに向けて放ったものよりも太く、大きく。そう見えるのは、フォウの身体が小さい事もあるだろうか。一本一本の先端はフォウの頭よりも大きいほどだ。
異質めいた轟音を上げながら風はフォウに向かって収束していく。
フォウは眉一つ動かすことなく、薄く開いた口から蝋燭の火を消すときのようにひゅう、と息を吐いた。
吐いた息はすぐさま紫黒色の炎へ変化していき、フォウの全身を覆うようにして広がり瞬く。悪意を体現した色合いの炎は全てを焼き尽くし、それが例え風、空気だとしても例外なく焼き消してしまう。
吸い込まれるようにあるいは呑み込まれるようにして、暴風の槍はフォウの身体に届くことなく消滅した。
エイジはその炎を初めて見る。旅の途中で火が必要だったときフォウが吐き出したのはただ赤い炎だった。しかし今、フォウに纏わりつくようにしている炎の色合いは禍々しいことこの上なく、紫黒色のその炎を見たエイジは首筋に冷たい何かを感じていた。
そしてカロスタフティもその炎を見て、ようやくフォウの正体に気付く。気づいたとき、その瞳は驚きと畏怖の感情に染まっていった。
「ま、さか……貴様、白竜なのか……!?」
「ようやく気付いたか? 何十年振りじゃのぉ、黒竜」
「……海辺の洞穴に閉じ籠ってばかりだった貴様が、なぜサウスガルムまで来ていルのだ!」
「そりゃこっちの台詞じゃ。四王に命ぜられでもしたか? いろいろ聞きたい事があるんじゃがの」
「……貴様に聞かせるコトなど何もなイ。人間に肩入れをするような奴にはなァッ!」
フォウの眼前の障壁が弾け、数えきれないほどの暴風の槍が飛散する。大小全ての矛先はフォウに向けられ踊るように襲い掛かるが、どれも全て紫黒色の炎の前では無意味だった。
炎に呑まれ掻き消えていく様は不気味としか言いようが無い。炎の中心にたたずむ少女の薄気味悪いほどの無垢な微笑みが、余計にそう感じさせる。
カロスタフティの咆哮はいまや、恐怖を振り払うための虚勢になってしまった。よほどフォウが恐ろしいのか、焦るように次々と攻撃を仕掛けていく。決して自分自身が襲い掛かろうとはせず、操った風をぶつけていく。
だがどれほど風の槍が鋭利だろうと脅威的であろうと、フォウの微笑みが崩れることは無い。それどころかフォウはカロスタフティの焦りを見て、『思い通りだ』と目を細めさらに妖美な笑みを浮かべた。
「そう怖気づくなカロスタフティ。お得意の風を操る力で、臆病風も抑え込めばよかろう、くくく……なぁ?」
「くッ……侮るなよ白竜ッ!! 我の力は主によって増幅されていルのだ!」
「吠えるな。増長の間違いじゃろうに」
「―――ゥルガァアアアアアアアアアアアアッッッ!!」
音を立てて吹きすさぶ暴風は形を持たぬまま、フォウを避けるようにして両側面に割れて通り抜けた。その凄まじき風の奔流は直接当たらずともフォウの小さな身体を押し出そうとする。
少し足に力を入れるだけでフォウは耐えたが、彼女の周りを漂っていた紫黒色の炎は見る見るうちに風に流され離れていく。カロスタフティの狙いは邪魔な炎を吹き飛ばすことにあった。
丸裸にされ無防備になったフォウに、カロスタフティは牙を剥いて吼える。風の奔流をそのままに、新たな風の槍を作り出し狙いを定めた。
「全てを焼き尽くす貴様の炎も、所詮は根を持たん! 押し流そうとする水は溶かせようとも、荒ぶり吹き付け続ける風にはどうしようもなかろう!!」
「……確かにそうじゃな。こうも次から次へとなれば、焼き尽くす暇も無い」
「土台、風を操る我と貴様の炎では比べるまでもない! 上位五竜種の序列はここで覆るのだ!!」
「息巻いて風を起こすのは良いがな、わしはそもそも序列なぞに興味は無い。それに……増長も過ぎれば簡単に足元をすくわれるぞ黒竜」
「……ほう。それはまさか、我の背後に回り込んできている、竜殺しのことか……?」
やはり気づかれていたか。と、エイジは特に驚いた様子を見せなかった。
カロスタフティがフォウに集中している間に、彼は大きく遠回りしながらカロスタフティの背後を狙っていた。隙をつこうとした訳ではなく、翼の付け根に一撃を見舞うための位置取りだ。
気づかれていようがいまいが、背後に回り込めればそれでよかった。
「気付かぬとでも思ったか人間ッ! 貴様の気は手に取るようにわかるわァッ!!」
「……っ」
フォウに向けられていた風の槍が放たれる。だが花が開くようにして撃ち出された槍たちはカロスタフティの後方に回り込み、そのまま難解な軌道を描きエイジに迫っていく。
先ほどは打つ手も無く避けるしかなかったエイジだったが、今は力を使う準備が完了している。彼は向かいくる風の槍を中央に据え、青き刻印が刻まれた左手を掲げた。
「……アヴィス」
途端、エイジの手のひらから闇が生じた。
光など一切含まない純粋な闇が、薄い円状になり彼の前に広がる。その盾のような形をした闇は平坦に見えても底知れぬ深淵が広がっており、あまりに黒く、目に見えて不気味な様から、カロスタフティの背骨に冷たい何かが這った。
エイジを射抜こうとしていた風の槍はことごとくがその闇に呑み込まれていく。
音も無く、衝撃も無く、初めからそこに風など起こっていなかったかのように、闇は何もかもを呑み込んでしまった。
「なッ……馬鹿、な……!?」
「余所見をする余裕があるとはのぉ。よし、その眼、余所見など出来んようにしてやろう」
「ッ……!!」
「熾光焦潰、一个!」
フォウが言葉と共に腕を払うと、紫黒色の炎がカロスタフティの眼球に着火する。両目の眼球内の水分は瞬く間に蒸発し、煙と音を立てながら絶句するほどの激痛が眼孔の奥を襲った。
だが痛みに喘ぐ暇も与えられず、カロスタフティの背に鋭く大きく、冷ややかなモノが突き立てられる。今度は悪寒というような形ないものではなく、エイジが繰る確かな凶器。
エイジは右翼の付け根に大剣を突き刺し、振り上げるように竜の肉を斬り裂いた。引き裂かれた筋肉はもうその役目を果たせず、カロスタフティの右翼は頼りなくしな垂れ、飛ぶことはおろか動かすことすら叶わなくなってしまった。
溢れ零れ、噴出する赤黒い血が、砂の一粒一粒を染上げていく。血の噴き出しは水道管が破裂した時のように激しい音を立て、飛沫がエイジの片目に吹きかかる。だが彼は意に介せず、カロスタフティの肩に飛び乗って再び大剣を構えた。
声にならないほどの絶叫を上げるカロスタフティにはもう何も見えていない。それどころか眼孔の奥と背中に感じる痛みが全身を麻痺させ、五感全てが曖昧になっている。
身をよじり苦しむ黒竜と、その肩に乗り血走った眼で大剣を構える竜殺し。下でそれを見ていたフォウは、この上なく無邪気で嬉しそうな笑みを浮かべていた。
たかが人間一人が、上位五竜種とまで謳われた黒竜にとどめを刺そうとする光景。
フォウにはそれが、たまらなく面白く、たまらなく美しく、たまらなく滑稽に見えた。
―――ああ、然許り愉快じゃ。腹の底が熱くなるくらいに、愉快じゃ。
「黒竜カロスタフティ……貴様の魂、俺が隷属させる」
己が身の丈以上の大剣を振りかぶり、堅牢な鱗をもろともせずに、エイジは黒竜の首を斬り落とした。




