37.煙
憶えているかい、初めて会った日の事。
そう尋ねられて、少年は自信ありげにもちろんだよ、と答えた。
忘れられるはずがない出会いの記憶。初めて会ったのも、この薄暗い路地裏だった。
その時の少年の心はひどく荒んでいた。誰から見てもすぐそう感じさせた、子供のものとは思えない光りなく落ちくぼんだ目。
路地裏の子供たちはみんなそんな目をしていた。
少年は遠い昔とも、つい昨日とも思える過去を想起する。
出会いは劇的なものでは無かったけれど、今思い返せば十分に自分たちの運命を大きく左右した出会いだ。
毎日欠かさず手入れしているのだろうかと思う、光を透かすようなさらさらの金髪。
子供の癖に、やけに煙草が似合っていた。その姿に憧れて自分も煙草を吸おうとした時もあったけれど、むせかえるあの感覚は今思い出しても辛かった。
「ロイがいなけりゃ、僕たちは今ごろみんな死んじゃってるよ」
「……たぶんね」
出会ったときと同じ場所。見渡す景色はどこも似たような路地裏だが、その場所だけははっきりと違った。
あの時と同じようにハインリッヒはしゃがみ込み、その前にロイは立っている。
今は昔と違い、ハインリッヒの眼は光を映しこんで潤んでいる。
ロイは吐き出した煙草の煙の行方を目で追いながら、やがて狭い青空を仰いだ。
「聞いてよロイ、僕さ、飯屋で働かせてもらうことになったんだ。ほら、料理できるだろ、僕って」
「くじ運が悪くて、いつもハインリッヒが食事当番だったからね」
くすくすとロイが思い出し笑いし、ハインリッヒは恥ずかしくて耳を赤くした。
なにをするにも路地裏ではくじで決めていた。料理、掃除、盗取、盗品管理、見回り。
くじにしていた細い紙きれを引いて、いつもいつも赤い印が付けてあった。
あまりにも毎回あたりくじを引くので、イカサマでもしているんじゃないかと騒ぎ立てたこともあったが、今となっては真実がどうだったか誰にも知りえない。
「いつもいつも男なのに料理ばっかりさせられて嫌だったけど……役に立つとは思ってなかったよ」
「男の子でも料理は出来る。それどころか、料理が出来る男の子は尊敬されるよ」
「それ、ユーリにも散々言われたよ。あいつは女なのに料理下手だったけど」
「男の子も女の子も関係ないさ、技術っていうものはね」
どんな分野であろうが、技術力に男女の差は無い。あるのは才覚の差だけだろうね、とロイが付け足さずともハインリッヒは理解していた。
才能の差というのはよくロイが話していたからだ。ネガティブな意味ではなく、真実だと、文字の読み方を教えるように淡々と。
才能の差は妬んだり悲しんだりするものじゃない。その言葉は路地裏の子供たちを大きく成長させることに繋がっていた。
自分の得手不得手への理解、そして関心。
ハインリッヒは料理が上手だと気づき、いつしかくじを引かずとも率先して料理担当を引き受けていたし、他の子供たちもそうだった。
ロイが唇から煙草を指で引き抜く。少し乾いた唇の隙間から、薄白い煙がほうっと広がった。
息を強く吐くと、煙は口元を細く通ってやがて膨らんでいく。
ほんの少しだけ開いた唇に、何気なく目線がいってしまった。
―――やっぱり似合うなぁ。
未成年が禁止されている喫煙という行為に憧れているわけではない。
かっこつけたいとか、どんな味がするのかという好奇心でもない。
ハインリッヒは純粋に、煙草を吸うロイの姿に憧れていた。
ぼんやりとロイの顔をながめていると、顔が熱を帯び始める。いつもそうだ。
煙草をふかすロイを見ていると、決まってハインリッヒの胸の鼓動は気ぜわしく早まった。
ドキドキする、なんていう曖昧な表現しか彼には出来ない。
それがどういう感情なのか、まだ少年の知識では理解しがたいものだろう。
「最後なんだ、吸ってみるかい?」
「……どうせ、むせちゃうよ」
そう言いながらもハインリッヒは煙草を受け取った。
かなり短くなってしまっているため、受け渡す際に互いの指先が触れ合う。
吸い口は乾き、歯で噛んだ痕がうっすらと残っていた。
見よう見まねの拙い動作で、出来るだけ恰好がついていますようにと念じながらハインリッヒは息を吸い込んだ。
以前はじめて煙草を吸わせてもらった時に教えてもらった、煙を肺の中に入れるというやり方。思い出さずとも覚えていた。
煙が喉を通って胸の中へ入っていく。喉の奥が少し熱い。
じりじりと赤くなる煙草の先端から立ち昇る煙が、鼻をくすぐって甘い香りを感じさせた。
「間接キス、だね」
「っ!? ごほっ! んっ、えほっ、こほっ! げほげほっ!」
突然そんなことを言われたもんだから、味わう暇も無く咳と共に煙を吐き出してしまった。
喉の奥と、顔の表面が熱い。
咳交じりに慌てた声をだすハインリッヒが面白くて、ロイは口元を押さえて笑う。
からかわれているとわかると、妙に恥ずかしさが大きくなっていき、ハインリッヒはそれを紛らわすためにもう一度唇をすぼめて煙草を吸った。
出来るだけロイの台詞を意識しないように努めて、目を伏せる。
ハインリッヒは気づいていなかったが、必要以上に唇をすぼめる彼の仕種はとても可愛らしくて、余計にロイを面白がらせていた。
「……ふぅー」
「どうだい?」
「うん……やっぱり、良さはわかんないや」
そっか。と分かっていたような口ぶりでロイは呟いた。
だけど、とハインリッヒは煙草の先端を見つめながら続ける。
「味、じゃない……気がする? うん」
なんとなく思ったことをそのまま口に出したため、自分でもよくわからなくて苦笑してしまった。
けれど彼が言いたかったことが何なのか、ロイには理解できた。
ロイは服の胸ポケットから煙草の箱を取り出す。少し潰れているけど、まだ開けたばかりのものだ。中にはぎっしりと煙草が詰まっている。
それを足元、ハインリッヒの前に置いて、ロイはくるりと背を向けた。
すぐにでも歩きだしてしまいそうな気がして、ハインリッヒは慌てて立ち上がる。
「ロイ! ……本当に、行っちゃうん、だね」
「うん、君たちはもう僕がいなくても大丈夫だから」
ロイの口調はいつもと変わらない。だけど、どこか違うんじゃないかと、ハインリッヒの脳は勝手に勘ぐる。
背を向けられて表情は見えない。ううん、きっといつもみたいに微笑んでるんだろう。
ロイが決めたことなんだから、別の誰かがそれを止めちゃいけない。そう分かっていても、ハインリッヒは今にも引き留める声をかけてしまいそうに、口を虚しく動かす。
今までのロイは、路地裏の子供たちにとって大人代わりの存在だった。
みんなをまとめあげて、みんなを守ってくれて、みんなを慈しんでくれる。
お母さんみたいな、お父さんみたいな。気のいい兄や姉のように感じている子らもいただろう。
ハインリッヒが思いを巡らせている内に、ロイは足を踏み出した。
言葉を無理に呑み込もうと、ぎゅっと目を閉じていたハインリッヒはその動作に気付けなかった。
だが、ロイが足を動かした直後に呟いた言葉はしっかりと耳に届いていた。
きっと少年は、この先ずっと、大人になってもその言葉を覚えている事だろう。
ずっと自分たちを守ってくれた、大人よりも大人びた、優しい人の言葉。
「いつか帰ったら、美味しいご飯、期待してるよ」
ロイの後ろ姿が遠くなっていく。
薄暗い路地裏から、空も広がる大通りへと去っていくロイ。
最後に呟かれた別れの言葉は、少年の心に言うべき台詞をたった一つだけ与えてくれた。
心の底から思ったこと。これしかない。送り出す言葉は他に無いと、ハインリッヒは大きく目を開き、ずっと憧れてきた背中に快活な声をぶつけた。
「いってらっしゃい! ロイ!!」
いつか帰ってきてくれる。それだけでよかった。
今生の別れは幼い少年にはつらいもの、それをわかった上でロイは最後の言葉を選び取った。
ロイは最後まで子供たちのことを考えていた。その想いは、子供たちの胸の中にずっと残り続けるだろう。
ハインリッヒも精一杯の感謝の気持ちだと、ロイには見えなくても大きく手を振って見送った。
悲しい気持ちは一切なく、彼の表情は明るく笑っている。
だけど自然に、目尻には涙が溜まっていた。
―――悲しくなんかない。ロイは帰ってきてくれる。
だからこの涙は、多分、きっと、煙草の煙が目に染みただけだ。




