22.意志と鱗
皆が寝静まり、バンサス村は静寂に包まれていた。
耳をすませても聞こえてくるのは川のせせらぎだけ。家々の灯りは落ち、暗闇に君臨するは空に浮かぶ氷輪の月。その月が放つは朧気であり、冷ややかな光。
村の入り口に、冷たい月の光に照らされ立つエイジの姿があった。
彼は神妙な面持ちで、自らの武器である大剣を左手に持ち構えている。そのままエイジは目を閉じ、二つ深呼吸をした。
「……ッ」
薄く瞼を開き、瞳孔を収縮させる。全身に力を入れ、毛が逆立つほどの闘気を溢れさせていく。
エイジの左手に刻まれた召喚紋が青く煌々と光る。彼から発せられる闘気は徐々に鋭く尖っていき、怒りを孕んだ殺気へと変貌していった。
空気が弾けるように震え、寝静まっていた虫たちが飛び起き、エイジから逃げるように一斉に離れていく。
だがそんな彼の元に、近づいていく竜が一匹。
「そんなことをしても無駄じゃぞ、エイジ」
「っ……フォウ」
赤い眼を夜闇の中で光らせたフォウが、エイジに声をかける。
エイジは膨らんでいた殺気を落ち着かせて振り返る。フォウは腰に手を当てて、すました表情を浮かべていた。
「おぬし、この地に自身の殺気を残そうとしておったのじゃろう」
「……」
「水を差すようで悪いが、そんなことをしても無駄じゃ」
エイジの鋭い視線を受け、フォウは続ける。
「確かにおぬしの殺気は竜を寄せ付けん代物じゃ。明日からの旅も、道中を襲われることはないじゃろう。じゃがなエイジ、殺気や殺意をいつまでも残すなんてことは不可能なのじゃ」
「……決めつけるな。勝手に」
「そもそもそんなことが出来るなら、戦争中に騎士どもが実行しておる」
エイジは剣の柄を強く握りしめた。
グルーの言うように、強い殺気を放っていれば竜獣が近寄らないというのなら、それを利用してこの村を守ることが出来るのではないか。そうエイジは考えていた。
だがフォウはその理論を否定する。殺気というのは匂いと同じだ。いくら強い匂いでも、雨が流れ時が経てば薄れ消えていく。殺気もいずれは跡形もなく消えてしまうのだ。
「……無駄、か」
「諦めろ。……それよりもエイジ、ひとつ訊いておきたい」
「なんだ」
「……お前、どうしてそんなことをしようとしている?」
フォウの雰囲気が変わった。
海岸沿いの洞窟で初めて会った時の様な威圧感。フォウの眼光がエイジの身体を突き刺す。エイジのように大きく不定形を思わせる殺気とは違う、ぬめり気のある手のひらで身体を包まれるような殺気。
フォウが疑問を口にしたとき、彼女は憤りを感じていた。
「お前の目的は、わしと四王を討つことじゃろうが。それがなんだ? この村の住人に情けをかけるつもりか。お前がしようとしていることは、復讐とは関係がない」
フォウはエイジを戒める。彼の行為は、目的を見失う恐れがあったからだ。
エイジの目的は四王を討つこと。竜に復讐することだ。そのためには、己の意志以外の全てを捨て去る覚悟が必要になる。
感傷は足枷となり、温情は自らの首を絞める。この村を守ろうとする彼の行動に、フォウはひどく呆れ、そして怒った。
これからの旅にレンティアを同行させることについては、すでにフォウも聞いている。
その時点でフォウは違和感を覚えていた。理由が何であれ、圧倒的に戦力の劣る少女を旅に連れていくというのを、なぜエイジは許したのかと。
エイジ。お前は復讐のために心を殺したんじゃないのか?
なぜ自分の首を絞める? なぜ犠牲を厭う?
そんなことでは、いずれお前は取り返しのつかない状況に陥るぞ。
フォウの言葉に、エイジは少なからず胸を穿たれた。
指摘は正しい。エイジの行為は自身の意志を揺らがせる一因になりかねない。本来ならばエイジは人であることをやめるべきだ。心を捨て、復讐だけを胸に抱き、行動するべきだ。
そうでなくては復讐は遂げられない。そうでなければ最後の一手を見誤る可能性がある。それはエイジも薄々わかっていた。
彼の目的は『竜を全滅させること』であり、『人々を竜から守ること』ではない。
だが言わせてもらえば、今更目的を後者に変えたところで何が変わろうか? その二つは遠からずのものだ。『人々を竜から守るために、竜を全滅させる』ことでも、いいのではないか?
―――いや、よくない。
エイジもフォウもそう考えている。
「……復讐というものは、強い意志が無ければ果たせんぞ」
「そんなことは……わかっている」
腕っぷしの強さ、強靭な肉体、戦闘センス。大事なのはそれらではなく、意志の強さだ。
意志が弱ければ何事も果たすことは出来ない。復讐はなおさら。
エイジの意志の根源は『憎しみ』である。竜によって愛する者を殺されたときに深く感じた憎悪、それこそがエイジの意志の力。
話を少し戻すが、『憎悪の力で人を守ること』はできるだろうか?
不可能だ。人を守る意志は憎悪ではない。人を守る意志は慈悲である。
つまりエイジの意志は、復讐のための意志。彼が選んだ道はそういう道なのだ。もとより竜を殺すことしかできない。人を守る力(意志)は、エイジには無い。
「これは……俺の復讐のためのものだ」
「なに?」
エイジは精神的に弱い部分がある。いや、エイジだけでなく人間というものが持つ弱さと言えよう。
人は人を慈しむ、人ゆえに。
だが決してエイジの意志は揺らいではいない。彼にとっては『ついで』くらいの事。
「俺はこの村の住人に情けをかけるつもりは無い。竜が二度とこの村に現れないなら、俺も都合がいいと思っただけだ」
「それはどういう意味じゃ?」
「この村には他に用があって来た。ならついでで事を繋ぐのに問題があるのか」
「……つまり、こんなことをするのはついでの時くらいと言いたいのか」
「そうだ。……まぁ、お前が言ったように無駄なことだったらしいがな」
エイジは意識して殺気を放つのをやめ、大剣を背中に戻す。彼の言葉にフォウは少しだけ感心して、同じように殺気を収めていく。
(……もしも復讐の意志を曲げるようなことでも言えば、少しばかり痛めつけてやろうと思っておったが……まぁ、ぎりぎり許容範囲じゃの)
エイジの言葉に偽りがない事はフォウも感じている。言葉を濁しているわけでもなく、かといって本心を隠しているわけでもない。
復讐のついでだと言うなら、まだ許せる範囲。フォウは殺意の矛先を収めて、いつものように薄笑いを浮かべ始めた。
「努々忘れるなよエイジ。わしはおぬしを気に入っておるのじゃ、失望させんでくれ」
「お前に言われるまでも無い。俺の復讐だ、意志は変えない」
「そうそう、それでよい。……それじゃあ、ご褒美をやろうかの」
フォウはおもむろに腕をエイジに差し出した。握手というわけではないようで、手のひらは地面に向いている。それが何を意味するのかとエイジが疑問に思っていると、フォウの腕の表面に白い鱗が現れ始めた。
「……」
「変姿を腕の表面だけ解いた。ほれ、鱗の一つを剥げ」
「なんだと?」
「二度も言わせるな。わしは力を抜いておるから、簡単に取れるぞ」
意味がわからなかったが、エイジは近づきフォウの腕に触れた。
細い腕を覆う、白く輝く鱗。硬く鋭いが、その色合いと輝きはなにか高級な装飾品のようであった。
「なにしとる、はようせんか。あまり撫でられるとくすぐったいぞ」
「鱗に感覚があるのか?」
「おいエイジ、わしの身体を使って竜を研究するでない。いいから一枚取れと言うのに!」
フォウが腕を引っ込めてしまいそうだったので、エイジは鱗の一枚を掴みゆっくりと剥いでいく。思ったより抵抗はなく、皮をむくようにゆっくりと剥がれていく。
「ん……えぇい、もっとパっと取らんか……んぅ……」
「痛みはあるのか? そもそも鱗はこうも簡単に取れるのか」
珍しくエイジは興味深そうな素振りを見せ、剥がれていく鱗を見つめる。フォウは少しむず痒そうに喘ぐだけで答えないが、鱗をはがされるというのは何かしら感覚があるらしい。
エイジは掴んだ鱗を完全に剥がし、手のひら程度の大きさのそれを指で挟んでくるくると裏表を見ていく。
「……これが一体なんだ?」
「竜の鱗はいろいろと使い道があるが……その鱗にはわしの『気配』のようなものが宿っておる。それをこの村に置いておけば、他の竜どもは近づかんじゃろう」
「……フォウ」
フォウは腕をまた変姿させ、薄く笑った。
いたずらっぽく笑うその姿は、見た目の年相応の無垢さを感じさせる。
「ついで、じゃろう? おぬしもさっさと横になって、明日のために英気を養っておけ」
そうしてフォウは村の中へと戻っていく。残された一枚の鱗は、それ自体が光を帯びていてエイジの手元を照らす。
エイジはそのとき、フォウとの距離感が一気にわからなくなる感覚に陥った。
(……フォウ、お前は本当に竜なのか? ……人間を襲い、喰らい、脅かす……あの憎き竜たちと同じなのか?)
フォウの言葉の節々からは、たしかに竜らしいものを感じることが多い。自分より弱い者を見下したり、あざ笑うような。だが、フォウは人を襲ったりしない。この村に来てからもそうだ。村人とは仲良く接している。
さらに彼女はエイジに協力し、同胞である竜を平気で殺す。竜と竜は憎しみ合うことがないはずなのに。
(……わからん竜だ)
鱗をもらったことに礼を言うつもりはなかった。フォウはエイジにとって憎き竜、その竜に礼儀を尽くす必要などない。
だが間違いなくフォウは―――気まぐれであったとしても、人を守る手助けをしてくれた。それがますます、エイジの心に波紋を生じさせる。
―――いずれ俺とお前は、決別することになる。もとより人と竜、相容れぬ存在だ。
―――それまでの縁、利用するだけの関係だ。……だが何故だ。
―――何故お前は、俺の様な人間に加担するんだ?
その日の夜も、エイジは眠ることが無かった。
やがて夜は西側へ沈んでいく。朝が東の地平線からやってくる。
その頃には、エイジの疑問は心の底に沈んでいっていた。




