12.紫黒色の劫火
幻竜イルシオンによって創られた、天鏡の幻湖。
エイジと同じく、フォウもその空間にいざなわれていた。
「……ふむ、幻想空間か。エイジの姿が見えんとなると、どうやら位相をずらされたようじゃの」
エイジとフォウはどちらも天鏡の幻湖に囚われているが、二人は別々の箱に入れられたに過ぎない。
エイジはイルシオンと共に、そしてフォウは無数の竜獣と共に。それぞれは別々の幻想空間に存在している。
小さなフォウを取り囲む大きな竜獣たちは、みな鼻息を荒くし今にも襲い掛かってこようとしている。だがフォウはいたって冷静に、身構えることなくぽつぽつと呟く。
「あの幻竜がエイジを選んだ……か。……くくく、エイジの力が上と見たという事か?」
「グルル……」
イルシオンは幻想空間を広げる前にも、エイジのことをこう言っていた。
『人間にしては力がある方だ』と。
ならばなぜ、イルシオンは竜であるフォウのことに気付かなかったのか?
フォウ程の力のある竜はそう多くない。実際にイルシオンとフォウが戦えば、勝敗は火を見るより明らかだろう。
イルシオンが恐れをなしてフォウとの戦いを避けたのか。しかしフォウは思う。イルシオンは間違いなく竜の中では上位種、周りの竜獣などとは比べ物にならないほどの力を持っている。
「あれほどの実力がある竜ならば、竜獣なぞわしにとっては取るに足らんことだと理解できるはずじゃ……つまり」
「ルォォオオオオオオオオオオオ!!!」
目の前の肉に我慢できなくなったのか、一匹の竜獣がフォウ目掛けて襲い掛かる。
竜獣は竜の中では力も無ければ、知能と呼べるものも無い。本能にのみ従う獣だ。
目の前の少女の姿をしたそれが、どれだけの力を持っているかも理解できない。
「……ふっ」
フォウは薄く笑みを浮かべ、自分の何倍もの大きさの竜獣をいとも簡単に片手だけで止め切った。
竜獣の頭を掴み、向かってきた勢いをそれだけで殺し切る。フォウは力をいれている様子も無く、全く身体もぶれていない。
「くく……く、くっくっく……」
「ルォ、ゴォォォ……ッ!?」
フォウの手に力が籠められていく。と言っても、フォウにとってそれはほんの少し拳を握るだけの動作に過ぎない。紙をくしゃりと丸める程度の気持ちで握られたフォウの手に、竜獣の頭はいとも簡単に音を立てて潰された。
頭を潰された竜獣は声もあげられず、そのまま水面に力なく倒れていく。無残にひしゃげた頭部から赤黒い血を噴き出させながら。
フォウはその血を足元に浴びながら、大きく破顔させて笑い始めた。
「っはははははははは!! はぁーっはははははは!!」
鋭く瞳を収縮させて、人間の顔とは程遠い歪んだ表情を浮かべるフォウ。
「わしは人間よりも弱いと見られたのか! このわしを! 人間以下だと扱ったかあの幻竜め!」
フォウは笑いながら言う。当然怒りも覚えていたが、むしろあきれ返って笑うしかないといった風だった。
フォウをエイジより弱いと見たイルシオンに対して、なんと無知なのかと。
しかしフォウはわかっていた。
変姿を行った竜は、その力の気配を殆ど隠してしまうのだ。そうでないと、姿を変える意味も無い。
イルシオンにフォウの本来の力などわからなくて当然だ。だがしかし、それでも、フォウは遺憾でたまらなかった。
「この姿でも、それなりに力の気配は滲み出ると思っておったが……くはは! そうかそうか、彼奴の眼にはただの人間の少女にしか見えなんだか。」
「ルル”ル”ゥ……ルグォオオオオオオオオオオオオ!!!」
同胞を殺された怒りか、他の竜獣たちが一斉に吼える。何重にも重なった竜獣たちの叫声は大気を揺らし、フォウの肌をびりびりと震えさせる。
竜獣たちは口元から唾液をだらだらと垂らし、目を見開き、翼を大きく広げて一斉にフォウへと飛び掛かった。
鋭い爪、鋭い牙。無数の殺意がフォウに向かう。
「……そう囀るでない、耳障りじゃ」
フォウは軽く膝を曲げ、跳躍する。
人間には不可能なほどの高さまで軽やかに跳びあがったフォウ。眼下に捉えた竜獣たちは先ほどまでフォウが立っていた場所に集まり、おぞましいほどに蠢いている。
ふわりと宙に浮くフォウは、まるで重力を感じさせないように身体をひねり、体勢を変える。
「八つ当たらせてもらうぞ我が同胞ども。紫黒の劫火で屍もろとも消し炭すら残らず焼却してやる」
フォウは薄く開いた口から炎を漏れ出させる。吐息に合わせて刺々しい形に溢れ出る炎。
その炎はとても禍々しく、悪意というものを体現したような紫黒色をしている。
フォウが炎混じりの吐息を自らの左腕に吹きかけると、紫黒色の炎はまとわりつくように腕を覆い、急激にその大きさを増していく。
凶々しい形のその炎はやがてフォウの体の何倍もの大きさになり、発せられる熱に空気すらも焼かれ、蜃気楼のようにフォウの姿が歪んでいく。
「尸勹・葬炎獄」
フォウの腕が振るわれる。天鏡の幻湖に紫黒色の炎が這い広がり、竜獣たちを一瞬にして呑み込み、地平線の彼方まで焼き尽くしていく。
水面は悲鳴を上げて蒸発し、炎に呑まれた竜獣たちは逃げる間もなく全身を溶かされ、断末魔を上げる間もなく喉を焦がされていった。
血液も体液も、全身の水分を根こそぎ奪われ、竜獣の体は焼き乾き砕かれて朽ち果てていく。炭となり、その炭すらも焼かれ、跡形も無く塵となって消えていく。
幾つもの命を呑み込み、紫黒色の劫火は踊り狂うように形を変え蠢いている。
千切れ飛んだ火の粉が、まるで蛍火のように光り、消えていく。
「……ふぅ」
吹奏楽団の指揮者のようにフォウが手を動かすと、燃え盛っていた炎は徐々に小さくなっていき、やがて完全に鎮火した。
枯れ果てた水底にフォウが着地する。先ほどまで無数に蠢いていた竜獣たちは文字通り影も形も残っていない。
「この技を使うのも久しい。外界で使えば、地形変化どころでは済まんからな……」
腰に手を当てて、フォウは澄んだ青い空を見上げる。
「ふぅぅ……これで気は晴れた。あとはエイジがあの幻竜を殺すのをのんびり待つとしようかの」
その場に仰向けになって寝転がり、フォウは目を閉じる。
エイジが幻竜を殺すまで一休みだ。相手が幻竜と言えども、フォウはエイジが勝つと信じている。
(……人間を信用するなど、いつ以来じゃろうなぁ)
フォウはしばし思い出に浸る。
何百年と生きてきた自らの、すでに薄れてきてしまっている過去を思い返す。
フォウがそうして回想に耽りだした頃、エイジとイルシオンの戦いは決着を迎えようとしていた。