人
「君が一番怖いものは何?」
「俺が一番怖いもの……?」
彼女とつき合い始めたのは、今からちょうど一年前のことだった。
初めて出会ったのは、大学時代の友人の結婚式の二次会で、それより更に二年前のこと。
完全に一目ぼれだった。
これまで出会ったどんな女よりも、彼女は美しい。
容姿はもちろんだが、何より、俺は彼女の少し人とは違う、どこか遠くを見ているような色素の薄い瞳に惹かれた。
俺はその当時の恋人と式に参加していたが、彼女と出会った瞬間、恋人に対する愛情も性欲も全部が吹っ飛んだ。
とにかく衝動的に、彼女を自分のものにしなければならないと感じてしまった。
自分から女を口説いたのは、初めてだった。
俺だって容姿は悪くない。
大学のミスターコンテストでは優勝したし、実家が太いこともあって、女の方から寄って来る。
女を口説くのは初めてだとしても、これまで多くの女と付き合って来た。
同時に複数人なんてこともあったし、女の事なら誰よりもわかっているという自信があったのだが、彼女は一筋縄ではいかなかった。
何を考えているのかわからない。
けれど、そこがミステリアスで、妙に惹かれてしまって、俺は二年かけてやっと彼女の彼氏になれた。
オリンピック出場を目指し、学生時代から部活動に忙しく、卒業してからも、過去に誰とも交際したことがないという彼女は、結婚するまでキスもできない、敬虔なクリスチャンらしい。
結婚するまで、手を出すことができないというのも俺にと手は新鮮だった。
そんな彼女が、俺にそんな質問をしてきたのは、俺が会社で散々な目にあった翌日の事だった。
「そうだなぁ……一番か、それなら、人かも知れないな」
俺は今まで、何かを怖いと思ったことはない。
けれど、こんな目にあってしまって初めて、人を怖いと思ってしまった。
「それは、その傷のせい?」
「ああ、だって、いきなりだぜ? 俺は上司として、あいつを教育しようと可愛がってたのに……」
同期の誰よりも早く出世し、課長になった俺は、部長から新人社員の教育を任されていた。
それなのに、突然、手をカッターで刺され、目をボールペンで刺された。
「本当に、原因に心当たりがないの?」
「ない。……というか、あいつが言っている意味が理解できないというか――」
「その人は、何て言っていたの?」
「『先端恐怖症の理由を話したのに、理解してもらえなかったから』って……だからって、突然こんなことをするなんて、意味が分からないし、俺は先端より、あいつの方が怖いと思ったよ」
本当に意味が分からなかった。
理解してもらえなかったからって、あいつ、無表情で、何の前触れもなく突然俺を刺したんだ。
「爪楊枝にすらビビっている様子だったのがあまりにも大げさでさ、昔、中学の時にクラスの笑い者だったやつに似ているような気がして……」
その感覚が、最初は懐かしかった。
まるで、子供の頃にたくさん遊んだお気に入りのおもちゃを見つけた時のような――
「クラスの笑い者?」
「ああ、みんなから笑われていた。閉所恐怖症……?とか言っていたか。狭いところが怖いとか言って、いつも大げさなリアクションをするんだ。そうしないと、誰からも構ってもらえないとでも思ってたんだろうな」
思い出したら笑えて来た。
あいつ、名前はなんだっただろうか?
面白かったなぁ、追い込めば追い込むほど、慌ててる顔が面白かった。
迫真の演技。
役者にでもなれるんじゃないかって、みんなで腹を抱えて笑ってたっけ……
「どうして笑ってるの?」
「……え? いや、なんでもない」
無意識に口角が上がっていたようだ。
あんな昔の事、今はどうだっていいのに。
「それより、明。あの話、今日、答えてくれるんだろう?」
俺はこんな話をしに、彼女に会いに来たわけじゃない。
二週間前にしたプロポーズの返事を訊きに来た。
二週間前、俺の誕生日にこのホテルの11階のレストランでプロポーズをした。
今日はその返事を彼女がしてくれるという話で、目と手に怪我をして、無様な有様ではあるが、呼び出された同じホテルの一室まで来たんだ。
今日は、彼女の誕生日。
「俺の怖いものなんて、どうでもいいよ。そんなことより、俺は、早く返事が聞きたい」
まぁ、改まって聞かなくても、わかっている。
俺のプロポーズを断るはずがない。
俺は一刻も早く結婚して、彼女を抱きたかった。
結婚さえ決まってしまえば、もう俺のものだ。
こんなに夜景の綺麗なホテルの部屋で二人きりなんて、初めての事だったし、きっと、彼女も俺と同じことを望んでいるはずだ。
彼女の答えがイエスなら、このままここで、初夜を迎えても、罰は当たらないだろう。
「大輝くん、こっちに来て」
彼女は俺の手を引いて、バルコニーに出た。
夜風で彼女の長くて手触りの良い髪がなびく。
「直接顔を見ながらは恥ずかしいから、夜景を見ながらもう一度、訊いて?」
「きく……? 何を?」
「プロポーズ」
俺は彼女に言われた通り、バルコニーの手すりにもたれかかりながら、夜景を眺める。
窓越しに見るより、ずっと綺麗だ。
そして、二週間前と同じように訊いた。
「俺と、結婚してください」
今回は、すぐに返事をしてくれるのだと期待して。
「――嫌よ」
「へ……?」
予想外の返事に、俺は振り向こうとしたが、その前に体が浮いた感覚があった。
いつの間にか俺の両脚を掴んで、彼女は持ち上げた。
見た目からは想像できないが、彼女は元レスリングの選手だった。
予選で負けて、オリンピックの選手には選ばれなかったが……
「お、おい、ちょっと待て! 何で、こんな――」
明らかに、俺をここから落とそうとしている。
どういうことだ。
意味が分からない。
「だって、君が一番怖いもの。君はこれまで、自分の言動がどれだけの人を傷つけてきたのか、わからないのね。本当に、人間なの? 人の心なんて、持ってないんじゃないの?」
「は……?」
その瞬間、俺の目に映ったのは、あいつの顔だった。
「ひ……ろ、せ……?」
もうずっと前に死んだあいつの顔が、真下の道路からこちらを見上げていた。
怖い。
「幽霊の方が、まだましね」
彼女はそう言って、俺の脚から手を離した。
俺は頭から下に落ちる。
風が吹いた。
あいつの顔が近づいてくる。
どうして気づかなかったのだろう。
彼女の顔が、あいつに少し似ていたことに。
怖い。
彼女は俺を騙していたんだ。
なんて酷い女だ。
意味が分からない。
俺は何もしていないのに、何で、こんな目に――
怖い。
俺は、人が一番怖い。
そう気づいた時には、もう手遅れだった。




