第2話 王子様は、僕のパーカーを狙っていた
母さんが家を空けて、二日目。
家には、僕と、学校で『王子様』と呼ばれている女の子の、二人だけだった。
その王子様が、さっきから、僕の部屋着の周りをうろうろしている。
朝もそうだった。洗面所で僕がパーカーを脱いで洗濯カゴに入れたら、もあの視線が、一瞬だけそれを追った。追って、すぐ逸らした。
逸らし方が、不自然だった。
気のせいだと思う。たぶん。
「お兄さん」
夕方、リビングで本を読んでいたら、もあが声をかけてきた。家での、低くも高くもない、素の声だ。
「洗濯、私がまとめて回すよ。ついでだから。お兄さんの分も、いっしょに」
ついで、にしては、もあは何も持っていなかった。
「ありがとう。でも、自分のは自分でやるよ」
「……そう。うん。そうだよね」
もあは頷いて、キッチンの方へ戻っていった。戻りながら、ほんの少し、肩が落ちた。
昨日、僕の部屋で枕を抱いていたのが見つかったあとと、同じ落とし方だった。
桃愛(第一作戦、失敗。
洗濯のどさくさで、お兄さんのパーカーを確保する作戦。
……「ついで」って言い方、わざとらしかったかな。
いや、自然だった。完璧だった。たぶん...
なんでお兄さん、自分でやるとか言うの。
今日くらい、私に甘えてくれてもいいのに)
三十分後、リビングが、やけに寒くなっていた。
エアコンのリモコンを見たら、設定温度が、いつのまにか十八度になっている。僕は、いじっていない...
もあが、ソファの端で、わざとらしく腕をさすっていた。
「……寒いね、お兄さん。今日は冷えるなあ~」
外は、五月の、暖かい夜だった。
「何か、羽織るものがあると、いいんだけど。その辺の、適当なもので」
その辺の、適当なもの。僕のパーカーは、さっき僕が、椅子の背にかけてある。もあの視線が、また一瞬、そこを通った。
僕は立ち上がって、二階に上がった。もあの部屋の椅子にかかっていたカーディガンを取って、降りてくる。
「これ。寒いなら」
もあの動きが、止まった。
「……私の、カーディガン」
「うん。寒そうだったから」
桃愛(なんで。
なんで私のを持ってくるの。
そこに、お兄さんのパーカーがあったでしょ。目の前に。手の届くところに!
……気が利く。気が利きすぎるよ。
私が寒がりなの、ちゃんと見てくれてた。
うれしい。うれしいんだけど、今は、違う。今じゃないよ)
もあは、自分のカーディガンを受け取って、小さく「ありがとう」と言った。言いながら、ちょっとだけ、唇を尖らせていた。
第二作戦も、たぶん、何かが、失敗したらしい。何の作戦かは、分からないけど。
夜、僕がお茶を入れてリビングに戻ったら、もあがいなかった。
二階で、かすかに音がした。僕の部屋の方だ。
ドアを開けたら、もあがいた。
僕のパーカーを、両手で持っていた。今まさに、頭からかぶろうとしていた。袖に、片腕が、半分通っていた。
昨日と、同じだった。顔を、僕の服に、埋めようとしていた。
目が、合った。
もあの腕が、袖の途中で、止まった。
「あ、」
もあは、王子様の顔を、必死で作ろうとした。作りながら、袖から腕を抜こうとして、抜けなくて、余計に深く通してしまった。
「これは……君の、いや、お兄さんの、パーカーの、生地の、耐久性を……確認、していて、ですね……」
咳払い。声が、震えている。
「洗濯表示が、合っているか、確認しようと、思いまして……」
桃愛(終わった。
二日連続。二日連続で、私、終わった。
昨日は枕。今日はパーカー。
明日は何を抱いてるの、私。
……袖、抜けない。腕、抜けない。なんで。神様、せめて腕だけは抜いてください)
「ち、違うんです、ほんとは私、ちょっと寒くて、いや、さっきカーディガン借りたから寒くなくて、えっと、これはお兄さんのじゃなくて、いや、お兄さんのなんですけど、っ、忘れてください、いま私、何も着てない、袖、通してない……!」
通っていた。がっつり、通っていた。
もあは、最後に、パーカーをかぶったまま、その場にしゃがみこんだ。布の中から、「うー……」と、くぐもった声がした。
僕は、息を吐いた。
気のせいだ。新しい家の、新しい兄の、においとか、そういうものに、まだ慣れていないだけだ。家族って、そういうものなんだろう。たぶん。たぶん…
「……もあ」
布の中の、もあが、猫みたいにびくっとした。
「それ、明日洗おうと思ってたやつだから。ちょっと借りるね」
僕は、もあの頭から、そっとパーカーを抜いた。
もあの髪が、少し乱れていた。顔が、真っ赤だった。
「洗っとくよ。ありがとうな、気にしてくれて」
僕は、パーカーを持って、部屋を出た。そのまま、洗濯機に入れて、スイッチを押した。
水の音がした。
もあ(洗われた。
私の、丸一日かけた作戦が、今、洗われている。
乾いてた。いいにおいだった。あと一歩だったのに。ああ...)
リビングに戻って、お茶を飲んだ。もう、ぬるくなっていた。
今日、もあは、三回、僕のものの周りをうろついた。洗濯カゴと、椅子の背と、僕の部屋と。
まるで、僕のものを、欲しがっているみたいに。
昨日の、枕みたいに。
いや。
学校で、誰の告白も受け取らない、あの王子様が。地味な僕の、着古したパーカーを。
そんなわけが、ない。
(空耳だ。たぶん)
二階から、もあが、洗濯機の前にしゃがみこんでいる気配がした。回り終わるのを、待っているみたいだった。




